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2020.8.9主日礼拝説教「さばきについての三つの誤解」(ルカ13:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 実際の説教では割愛しましたが。今回の原稿の中で、17世紀の清教徒革命のエピソードが出て来ます。
清教徒革命と言えば革命軍の指導者クロムウェルが有名ですが、彼は軍事的天才でした。
それに対し革命を裏方として支えたジョン・ミルトンは思想的天才であったと言えるでしょう。
高校の世界史の授業で聞いた話ですが、チャールズ一世の処刑の際にミルトンはこう呟いたそうです。
「It's cruel, but necessary」(残酷だ、しかし必要だ)



 しかし革命はその後、内部分裂により瓦解。国外逃亡していた王の息子チャールズ二世が帰国し、王政が復活します。
革命の担い手であった清教徒(ピューリタン)に対する迫害は激化し、彼らの一部は新天地を求めてアメリカへ脱出。
ここからピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれる、アメリカ建国物語が始まっていきます。
イギリス本国では、結局チャールズ二世も時代を見極められず国外に追放、名誉革命が成立しました。

 教会の中にも、時として「Cruel」(ひどい)と言われるような、悲しいことが起こります。
牧師は傷つき、会衆はつまずき、信仰から離れてしまう。そういう例を牧会の事例のなかでいくつも見てきました。
しかしそれも、いつか必ず「necessary」(必要だった)と振り返ることができる時がやってきます。
悪を益と変える聖霊の働きを妨げるのは、見ても学ばず、経験に蓋をする、人間の事なかれ主義にあります。
牧師は祭司であると同時に預言者であり続けなければなりません。そしてさばきは神の家から始まります。
いまキリスト教会の中に世俗化の風潮はないでしょうか。牧師自身が自己批判の視線を失ってはならないと思わされます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章1-9節



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posted by 近 at 13:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.8.2主日礼拝説教「手遅れになる前に」(ルカ12:54-59)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 本日(8/8)のyahoo!ニュースで、「北海道→鹿児島3泊4日」乗り換え駆使した弾丸ツアー、今なぜ爆誕?というのがありました。
たまたまリンク先で読んでみたら、この記者さん(withnews 北林慎也氏)が書かれた、たいへん興味深い記事がありました。

キリスト看板、貼られる瞬間を見た 聖書配布協力会の伝道活動に密着(2019/11/19)
「死後さばきにあう」は廃版だった キリスト看板、制作の裏側に迫る(2019/11/20)
「キリスト看板」聖書配布協力会の今 コロナの中、看板設置に変化(2020/5/7)
bibleoutreach.jpgbibleoutreach2.jpg
そう、田舎の農具小屋から都心のビルディングまで。日本全国の外壁から時代を見つめる、例の黒看板のルポルタージュです。
決してイロモノ的な扱いではなく、好意的な視点で書かれています。非常に励まされました。
ぜひリンク先の記事からご覧ください。放送伝道同様、途絶えさせてはならない働きだと思います。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章54-59節



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posted by 近 at 15:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.7.26主日礼拝説教「真の平和は分裂の後に」(ルカ12:49-53)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 毎週、牧師は説教準備という苦行の連続ですが、そこで不可欠なものに「原語釈義」というプロセスがあります。
旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で記されていることはよく知られていますが、
それを各国の言葉に翻訳したものが、たとえば日本であれば新改訳や新共同訳にあたります。
そして、いずれの翻訳であれ、わずかながらも翻訳者独自の解釈が含まれることは免れません
たとえば「救う」を意味する、ソーゾーという新約ギリシャ語があります。これは「(病を)直す」という意味もあります。
12年間長血で苦しんでいた女性(マルコ5:34)にイエス様が語られたのは「あなたを救った」か、「あなたを直した」か。
口語訳、新共同訳では「救った」ですが、新改訳第三版では「直訳:救った」という小さな注をつけたうえで「直した」と訳していました。
新改訳2017では「救った」になっています。
 実際に説教を語るとき、その教会が公に用いている聖書の言葉に立って語らないと、会衆が混乱してしまいます。
(神学生の頃は説教の中に「ここは原語では・・・」と頻繁に使いましたが、逆効果であったことを牧師になってから気づきました)
翻訳に依存せず、また翻訳を無視せず、原語が本来語ろうとしていたことを結晶化してゆく営み、それが原語釈義です。

 今回の聖書箇所で登場する「分裂」と訳されたギリシャ語「ディアメリスモス」は、聖書の中でここにしか出てきません。
すべての聖書翻訳で「分裂(division)」と訳されていますが、ここにしか言及がないということは、
それが「分裂」という言葉で正しいのか、比較する対象がないということです。その場合、それが語られている文脈で判断します。
51節で「ディアメリスモス」を語られたあと、52、53節で動詞形「ディアメリゾー」をイエス様は語られます。
この言葉は「分ける」という意味で聖書に11回登場します。それで「分裂」と確定的に訳されているのでしょう。
しかしこのディアメリゾーが新約聖書に登場するのは、福音書と使徒の働きだけです。
「分裂」についてあれほど語られているパウロ書簡で、「ディアメリゾー」は一切使われていません。
つまりこの「分裂」は、私たちが想像するような内部分裂とは少し違うものを意味しているようです。
 さらに言えば、11回のうち4回は「分裂」(ルカ11:17・18、12:52・53)ですが、
残りの4回はイエスの着物を兵士たちが「分けた」こと(マタイ27:35、マルコ15:24、ルカ23:34、ヨハネ19:24)、
残りの3つはそれぞれ、聖餐のときに「分けて」飲みなさいと主が命じたこと(ルカ22:17)、
聖霊が「分かれた」舌のように下ってこられたこと(使徒2:3)、
初期の信者たちが財産を「分けて」生活していたこと(ルカ2:45)と、二つは明らかに積極的な意味で使われています。

 その意味で、ディアメリゾーやディアメリスモスは、単に「分裂」という消極的な意味ではないと解釈されます。
「分裂」と訳されたこの言葉は、言語的には「共有」と紙一重であり、キリスト者や教会にとって、恐れるものではありません。
逆に分裂を恐れて、家庭・職場・教会(教団)のなかで何も言えなくなってしまうとしたら、その方がはるかに問題と言えるでしょう。
「真の平和は分裂の後で」と説教題につけましたが、もしかしたら分裂のように見える事柄そのものが、実際には分裂ではなく、
そこに気づくとき、何ものにも揺るがされることのない平和がすでに生まれているのかもしれません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章49-53節



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posted by 近 at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.7.19主日礼拝説教「きよくなるために打たれる」(ルカ12:41-48)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 福音書にあるイエス様の言葉を学ぶとき、多くの読者は「その言葉が人々に語られた時代状況」を想定して聞くことでしょう。
たとえば山上の説教で言えば、紀元30年前後、イエス様の宣教活動の初期、群衆に語られたメッセージとして聞きます。
ただ共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にちょくちょく出てくる、並行記事の相違点に着目するとき、
それ以外にも「その福音書が書かれた時代」についても考慮するとさらに理解が深まります。

 イエス様が実際に語られた時代と、それが福音書としてまとめられた時代には約30年、一世代に相当する時間差があります。
たとえば今日の箇所は、マタイ福音書24:45〜51にほとんど同じ記事が掲載されていますが、
ルカのほうには「ペテロの質問」(41節)と「主人の心を知っていた悪いしもべと、知らなかったしもべ」(47-48節)が加筆されています。
どちらも同じイエス様のメッセージなのに、なぜその違いが生まれているのか。
それを読み解く鍵が、十二弟子のひとりとしてリアルタイムで聞いていたマタイと、
改めてイエスの語られた言葉を収集し、それを一世代またいだ時代の中で再構成しているルカとの違いです。

 すなわちルカが加筆した「この話はみんなに語っているのか、それとも私たちに語っているのか」というペテロの質問は、
イエス様の時代から少し下って教会の中に生まれていた、執事や監督などの管理職に対する特別な心構えを提供しています。
また同じ不忠実なしもべなのに、「主人の心を知っているか、知らないか」というたとえ話も、
イエスを直接見たことがないが信じている、第二・第三世代のクリスチャンに対する、特別な励ましとして見ることができます。
 うがちすぎと言われるかもしれませんが、そんな違いに着目してみるのも、また楽しいものです。
ウチの妻はいま同じ説教を四回聞いていますが、「何度聞いても、なぜ再臨なのに役員会が出てくるのかワカランふらふら」と言っていました。
楽しいのは私だけでした。ムズカシイ説教を繰り返して申し訳ありません。スマン、妻よ。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章41-48節



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posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.7.12主日礼拝説教「喜びと忍耐をもって待ち望む」(ルカ12:35-40)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 新型コロナウイルスの流行によるテレワークの普及により、迷惑メールが激増しているそうです。
ヒトゴトみたいに書いてますが、うちの教会にも、今日一日だけで9件もメールが届いています。
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なに、このアマゾン祭り。しかし教会としてはアマゾンに加入しておりませんので、だまされません。

 ここで注意喚起を兼ねて分析すると、偽のアマゾンメールは次の二つに分類されます五つに増えましたので、追記します(7/21)
(1)「お支払い方法の情報を更新
(2)「セキュリティ警告:サインインが検出されました
(3)「Amazon.co.jpにご登録のアカウント(名前、パスワード、その他個人情報)の確認
(4)「Amazonプライムの自動更新設定を解除いたしました!番号:○○(12けたの無作為の数字)
(5)「Amazon.co.jp ご注文の確認「最新モデルApple MacBook Pro・・・(以下略)
実際の文面は、青字をクリックしてください高額請求されるようなことはありません

最後のメールがとくに狡猾です。赤ペンで消したところは調べたところ、実際に存在する住所でした。
Amazonのほうで電子メールを暗号化することはできないのでしょうか。
それが不可能であれば、電子メールに対する法整備を急いで進めるべきだと考えます。
たとえば今ホームページは「https://」というセキュリティ認証が普及し、見分けることが容易になっています。
今は野放し状態になっているメールにも、これと似た仕組みを導入してほしいと思います。

 なお、このブログはhttpに「s」がつけられないので、グーグルの検索ロボットからしょっちゅうはじかれるようです。
ブログの運営会社であるさくらインターネットの仕様なので仕方がありません。
現在、各社のブログシステムの中で「s」に対応しているのは、はてなブログPro(有料)だけのようです。
乗り換えを検討しているのですが、記事の引っ越しが大変、また編集方法も一から学び直しなので、保留しています。
とにかく、あやしいメールが来たら、スマホではなくてパソコンのほうで確認してください。
そうすれば、見分けやすくなります。一手間増えますが、だまされたら一手間どころではすみません。

 現在、キリスト教会でも「見破る」ということが大事になっています。
かつては異端の御三家と呼ばれる「T協会」「Eの証人」「MM教」だけ気をつけていればよかったのですが、
いまは正統派の教団・教派に属しているにもかかわらず、カルト的な傾向の教師もおり、教師試験の質的改革が追いつきません。
「私(牧師)に反対すると天国に行けない」「○○をしない(できない)信徒は救われていない」
まさかそんなことが教会で語られるはずがないと思いつつも、宣教区長時代にもそういう事例の相談を受けていました。

 講壇で牧師を通して語られることが、聖書に根拠を置いているかどうか、信徒自身が見極める目が必要です。
オンライン礼拝の普及で、説教を動画で公開する教会は増えましたが、原稿まで公開しているところは少ないようです。
当教会はその少数派のひとつですが、炎上のリスクを冒してもそれをする理由は、
教会の健全度を量るモノサシのひとつが説教であり、それを文字として公開することで、安心して通っていただくためです。
「この程度の説教しか語れない牧師なのか」と批判されるんじゃないか、といつもドキドキです。
それでも公開することで、間違いを指摘されたときは反省し、聖書に基づく神学を堅持していくことができます。
その意味で、同盟教団のすべての教会は、説教を文字ベースで公開すべきだと思っています。
なにしろ前理事長の十八番の説教がワ●ピースネタなので。やべ、また言ってしまった。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章35-40節



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posted by 近 at 00:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.7.5主日礼拝説教「何はともあれ求めるものは」(ルカ12:22-34)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今回、説教原稿には含んでいませんが、第二礼拝の説教(アップロードしているもの)でだけ話したことがありました。
戦後の日本の、福音宣教が「25年周期」で区切られるのではないか、という私の分析です。(20:10〜)
1.欧米の宣教師による揺籃期(1945〜1970)
2.日本人牧師による成長期(1970〜1995)
3.オウム真理教の影響から、信徒伝道に対する啓発期(1995〜2020)
4.家庭伝道に対する再認識(2020〜)
 なんといっても一番のターニングポイントは、「地下鉄サリン事件」(1995年3月)です。
ひとつの宗教結社がこれを計画・実行したということが判明するにつれて、世間が震撼したのは、
毒ガスによる無差別テロということだけでなく、その宗教の中核が、大学や企業のエリートであったということです。
オウム事件の結果、それまで比較的、宗教に寛容であった日本人の中に、宗教に対する忌避と恐怖感を作り出しました。
 ざっくりとした俯瞰ですが、それからの四半世紀、教会はそれまでの伝道姿勢を顧みながら「信徒による伝道」を改めて目指してきました。
その中で、今回の新型コロナウイルスの世界的流行が起こりました。
会堂での集会が自粛され、家庭でのオンライン礼拝が定着し始めています。
この新型ウイルスは、確かに社会にとっても大きな脅威です。しかしそれだけで終わるものでもないと考えています。

 信徒伝道を目指してきたとはいえ、「礼拝に出席していればよい」という教会依存はいまなお健在です。
しかし礼拝を通して神が求めておられるのは、出席しているという事実ではなく、ひとり一人の心です。
求道者に対しても関心を持たず、まるで指定席のようにいつも決まった場所に座り、おざなりに一時間を過ごすなら、何のための礼拝か。
礼拝の自粛は、不幸な出来事であると同時に、「霊とまことによる礼拝」とは何かを問いかけています。
これからの25年はどうなるか、と大上段に構えて論じられるほど勉強していませんが、
教会でも家庭でも表裏がないクリスチャンの姿が、これからの宣教の鍵になるのだろうと漠然と考えています。
「25年周期」の最初の二つについては、次回以降に改めて書きたいと思います。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章22-34節



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posted by 近 at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.6.28主日礼拝説教「みことばはその日のうちに」(マルコ4:35-41)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 さて、初版が2010年と今から10年前に上梓されたものでありながら、今年とくに注目されている本があります。

以下は、出版社の紹介文からの引用です。
先生がねえ、死ねって、ぼくに言いよった……ある日突然「殺人教師」にされたーー 恐怖の実話ドキュメント!
「早く死ね、自分で死ね。」2003年、全国で初めて「教師による児童へのいじめ」と認定される体罰事件が福岡市で起きた。地元の新聞報道をきっかけに、週刊誌やワイドショーが大々的に報じ、担当教諭は「史上最悪の殺人教師」と称され、停職処分に。児童側はさらに民事裁判を起こし、舞台は法廷へ映り、正義の鉄槌が下るはずだったが、待ち受けていたのは予想だにしない展開と、驚愕の事実であった……。第六回新潮ドキュメント賞受賞。累計13万部突破、恐怖のロングセラー。
今年に入ってからブレイクしている理由は、コミカライズ(漫画化)の影響でしょうか。

コミックのほうはまだ第一巻が出たばかりのようで私は読んでいませんが、原作のほうを知人に勧められました。
牧師にとって最も大事な日とも言える土曜日にもかかわらず、約250ページを一気読み。(先週の話)
やつはとんでもないものを盗んでいきました。私の3時間です。

「予想だにしない展開と、驚愕の事実であった」が何なのかは、「でっちあげ 福田ますみ」で検索してください。
一言で言うと「えん罪」ですが、そのえん罪の過程が「えっ、こんな簡単に人を罪に定めていいの?」と驚かされます。
モンスターペアレントの恐ろしさだけでなく、体面を重んじて検証もせずに謝罪させる学校関係者。
「安易な罪の告白」がどれほどの結果を生んでいくのかを考えない教師本人(クリスチャンは良く読み取るように!)
被害児童をいい加減な所見でPTSDと判断する大学病院の医師。
地元住民の証言も取らないまま、一方的に教師を追い込んでゆくマスコミや人権派弁護士たちの思い込み・・・・
ノンフィクションですので一部を除き、登場人物は実名で掲載されています。

決して教会にとって他人事ではありません。教会で罪が明らかになったとき、聖書に基づいて「教会戒規」を行います。
しかし実際のところ、その解釈や運用は各教会にゆだねられているため、それが原因で裁判沙汰になった事例が散見されています。
私も以前、ある教会の戒規事例に関わりましたが、宗教法人法が規定する教団−教会の関係や、牧師の守秘義務について、
あまりにも牧師自身が不勉強であるということを痛感しました。
センセーショナルなタイトルですが、このような本をクリスチャンが読んでおくべきだと思います。新潮文庫です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』4章35-41節



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2020.6.21主日礼拝説教「貪欲に気をつけよ」(ルカ12:13-21)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 現在、当教会では主日礼拝が一日3回、さらに水曜午前に礼拝形式そのままの事前録画を行っていますので、同じ説教を4回語ります。
同じ説教と言っても、原稿はあってもアドリブ聖霊様のお導きで、語るたびに内容が変わっていきます。
今回の原稿の中に入っている「引っ越し大名(松平直矩公)」ですが、そんなわけで、以下の録画には出てきません。
語らなかった理由は、そこに向かう前に時間と体力が尽きた聖霊様のお導きですが、せっかくなので画像を挙げておきます。

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 以下はウィキペディアからの引用。
 当時越前国大野藩主であった松平直基の長男として誕生。直基は出羽国山形藩、さらに播磨国姫路藩に国替を命じられるが、姫路の封地に赴く途上で死去した。直矩は慶安元年(1648年)8月17日、5歳で家督を相続したが、姫路は幕府にとって西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後国村上藩に国替となる。成人後の寛文7年(1667年)8月19日、転封により姫路に復帰した。
 親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲国広瀬藩主・松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で天和2年(1682年)2月7日に豊後国日田藩に国替を命じられた。
 4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥国白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた。元禄8年(1695年)死去、享年54。
 相当の苦労人だったようで、新潟とも縁の深いお殿様です。地元の村上では、知名度はいまいちのようですが。
この小説(映画)ももう少し村上時代に触れていただけると、地域おこしになったのですが、残念です。
いっそのこと、転々とした自治体の首長同士で協力して「引っ越し大名を大河ドラマにする会」とか立ち上げたらよいかもしれません。

 それはさておき、牧師の場合も、頻繁に異動するよりも、一つの所に長くいたほうが好まれる傾向があるようです。
ただややもするとキリスト教会ならぬ「○○先生の教会」になってしまうこともあり、短い・長いのどちらがよいとは一概には言えません。
いずれにしても、数の要素を自己評価に含めてはならない職業です。それはまさに貪欲への誘惑となります。
授洗した数、礼拝出席者数、教会予算の規模、牧師以外の名誉職の個数、そして何よりも在職年数。
ブログのアクセス数も気にしてはいけませんし、8年継続してコメントはたった28かよ、とかにこだわるのもダメです。
ええ、全然気にしてませんとも。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章13-21節



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posted by 近 at 19:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.6.14主日礼拝説教「人を恐れず、神を恐れよ」(ルカ12:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章1-12節



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2020.6.7主日礼拝説教「日曜日は別腹」(ルカ11:37-54)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今回の礼拝説教は、終盤にて原稿にはない、ヘンリー・H・ハーレイ『新聖書ハンドブック』の中の言葉を読み上げています。
 多くのキリスト者にとって、教会は霊的な燃料の補給所になってしまっている。
一週間で燃料を使い果たし、平日にはやらなかったことを埋め合わせるようにして行う。
神のことばを読み、思い巡らすことは、本来なら平日に時間をとってやっておかなければならないのである。
 聖書を読む習慣をないがしろにすると、霊的に枯渇した状態で教会に行くことになる。
教会をからっぽになったたましいを満たす手段と考えるなら、それは失望に終わる。
神のことばを無視することによって生じた霊的な枯渇が、教会に一時間や二時間いただけで癒されるはずがないからである。
 教会へは十分な備えをして行くこと。聖書をしっかり読んでおくこと。
そうすれば祝福を受けることができ、キリストがあがめられることになるのである。
(p.21『礼拝の行為として教会に通う』より)
 いま多くの教会で、さまざまな問題が起こっています。いな、隠れていたものが表れるようになった、ということかもしれません。
それは自戒も含めつつ、牧師の牧会力(=人間力)の衰退であると同時に、聖書(を読むこと)の軽視にも大きな原因があります。
2011年の震災復興活動、2012年からの子ども食堂の流行以降、多くの教会が地域奉仕活動に積極的になりました。
しかしその一方で、そういった活動に対するモチベーションが信仰のバロメーターのように誤解され、
信徒ひとり一人が聖書や説教によって育まれているとは言えない状況が生まれています。
 とくに福音派の教会でそれが顕著です。
かつて福音派は、日本基督教団をはじめとする主流派をリベラルと揶揄し、批判していました。
それらの教派教団では、すでに半世紀前に福音と社会的責任の関係について、まさに教団の存続をかけて戦われていました。
しかし当時の福音派はそれを証しにならないと言って冷笑していました。

 いま福音派ではかつての教会成長の勢いが停滞し、聖書回帰よりも地域や行政に喜ばれる活動に軸足が置かれています。
教会がなし得るどのような活動も、みことばに対して信仰をもって応答した結果であるはずです。
しかし多くの社会活動が聖書から吟味されずに、一方的に導入されている傾向を確かに感じます。
ただそれを声高に言えば「愛がない」と言われ、よきサマリヤ人のたとえを引き合いに批判される空気が漂っています。
そのほうが、日本の教会の中で強くなってきて怖いなあと感じる部分です。
 その意味では、このハーレイや、フォーサイスのように、今から百年以上のものでありながら、
まるで今日の霊的窒息への預言のような良書が、教派問わず、もっと読まれるべきでしょう。
とくにこのハーレイの書籍は、100年以上温められ続けている本であり、非常にわかりやすいものです。
興味のある方はどうぞご購入ください。ことば社の本にしては比較的高価ですが、一生使えます。週報はこちらです。


聖書箇所 『ルカの福音書』11章37-54節



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