こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
記念日としてはちょっと過ぎてしまいましたが、1702年12月14日は何の日か、ご存じでしょうか。おそらく即答は無理でしょう。
しかしこれを元禄15年12月14日、と言い換えると、「忠臣蔵!」となるのですから、元号というのは便利です。
元禄時代と言えば、平和な江戸の象徴のような言葉。吉良邸に討ち入りを果たした赤穂浪士47人のうち、刀は持っていても実際に戦った経験のある者はほとんどいなかったそうです。しかしその中で唯一、堀部安兵衛だけは若い頃に武者修行でならした人であり、彼はここ豊栄の隣、新発田市の出身でした(新発田藩主・溝口家の流れをくむらしい)。12月になると商店街には待ってましたとばかりに「堀部安兵衛まつり」というのぼりが立ちます。ちょうどアドベントの時期と重なっているので、そのうちにイエス・キリストと堀部安兵衛の共通点(どちらも33歳で亡くなりました。イエス様は推定ですが)を書いたトラクトを作ろうかなと思っています。ただ、堀部安兵衛はどちらかというとイエス様より直情型のペテロに似ているような気がしますが。
この吉良邸の討ち入りは、もともとは赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介を切りつけて、藩が取りつぶしになったことに起因しています。しかしなぜ浅野内匠頭が、我々同盟教団で言えば指導教師にあたる吉良先生を切りつけたのかはいまだに論争が続いているようです。執拗なパワハラを受けたとか、もともとメンタルが弱かったとか、幕府の陰謀とか色々な説があるようですが、私が小学生の頃に読んだ、学研の学習雑誌では「吉良が赤穂にスパイを送り込んで塩の製法を盗み出し、それを浅野が恨んだ末の行動である」という短い児童小説が載っていました。結構、大胆な仮説ですが、作者がわかりません。昭和40年代生まれの方で、覚えている人がいたら、情報求む。
いま、中国でこの「忠臣蔵」を扱った本がベストセラーになっているようです。あまり良い噂を聞かない日中の関係ですが、これを通して少しでも雪解けに向かえばよいと思います。
「忠臣蔵」が中国で人気のなぜ 発行部数が日本の8倍に著者が驚き
続きを読む
最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
2021.12.19主日礼拝説教「神さまからのプレゼント」(ルカ2:1-20)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
2008年に行われた総務省の調査では、1年以上継続するブログは全体の3割、3年以上ともなるとわずか3%ということです。この調査自体が十数年も前なので信憑性はどうなの?という感じですが、そんな弱肉強食のブログ界に駆け抜けるそよ風のような存在、わが『豊栄の風』はなんともうすぐ開設十周年を迎えます。ところがどうにもいただけないのがコメント数。記事数はコツコツと580記事を数えるのに、コメントはたった30あまり。しかもその半数は私のお返事。やる気出ぬこと、このうえなし。しかしクリスマスが近づく中、動かざること山のごとしのコメント欄に大きな変化が。なんとわずか二日間のあいだに、5人ものコメントが来ているではないですか。しかも私が寝ている間にも、次々と増えています。
どうやら、中○あたりの悪い人たちから、サイトへの誘導のためのコメント爆撃が始まったようです。一つ一つ削除するのも大変なので、とりあえず放置しておきますが、決してリンク先をクリックしないように気をつけてください。ウイルスにやられることはありませんが、彼らのアフィリエイト(特定のサイトに誘導することで得る収益)に協力することになります。このような迷惑行為を助長することは気分が悪いですしね。
ただ不思議なのは、当ブログ記事の中でほとんどアクセスのない「異端者ペラギウス」ばかりに集中してコメントを投下してくること。もっとよく見られそうなトップ記事にコメントすればよいのに、と思いますが、そこらへんは彼ら独特のセオリーがあるのかもしれません。個人的には、礼拝説教だけではなく、もっとさまざまな分野からの記事を書いていきたいなあと思い、わざわざ『牧師の雑談部屋』という別ブログを作ってバナーまで貼り付けたのですが、結局めんどくさくて、ほとんどいじっていません。それでも十年続けることができたのは、神様と、読者の皆様のおかげです。これからも応援してください。あと、まっとうなコメントを募集中です。週報はこちらです。
続きを読む
2008年に行われた総務省の調査では、1年以上継続するブログは全体の3割、3年以上ともなるとわずか3%ということです。この調査自体が十数年も前なので信憑性はどうなの?という感じですが、そんな弱肉強食のブログ界に駆け抜けるそよ風のような存在、わが『豊栄の風』はなんともうすぐ開設十周年を迎えます。ところがどうにもいただけないのがコメント数。記事数はコツコツと580記事を数えるのに、コメントはたった30あまり。しかもその半数は私のお返事。やる気出ぬこと、このうえなし。しかしクリスマスが近づく中、動かざること山のごとしのコメント欄に大きな変化が。なんとわずか二日間のあいだに、5人ものコメントが来ているではないですか。しかも私が寝ている間にも、次々と増えています。
どうやら、中○あたりの悪い人たちから、サイトへの誘導のためのコメント爆撃が始まったようです。一つ一つ削除するのも大変なので、とりあえず放置しておきますが、決してリンク先をクリックしないように気をつけてください。ウイルスにやられることはありませんが、彼らのアフィリエイト(特定のサイトに誘導することで得る収益)に協力することになります。このような迷惑行為を助長することは気分が悪いですしね。
ただ不思議なのは、当ブログ記事の中でほとんどアクセスのない「異端者ペラギウス」ばかりに集中してコメントを投下してくること。もっとよく見られそうなトップ記事にコメントすればよいのに、と思いますが、そこらへんは彼ら独特のセオリーがあるのかもしれません。個人的には、礼拝説教だけではなく、もっとさまざまな分野からの記事を書いていきたいなあと思い、わざわざ『牧師の雑談部屋』という別ブログを作ってバナーまで貼り付けたのですが、結局めんどくさくて、ほとんどいじっていません。それでも十年続けることができたのは、神様と、読者の皆様のおかげです。これからも応援してください。あと、まっとうなコメントを募集中です。週報はこちらです。
続きを読む
2021.12.5主日礼拝説教「選ばれたマリアが捨てたもの」(ルカ1:26-38)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いよいよ2021年も最後の月となりました。昨年の今頃、「今年は新型コロナウイルスを言い訳にして、トラクト配布もほとんどしなかった。悔い改めて、来年はガンガン、オリジナルチラシを作っていきますぞ!」と総会資料の原稿にも書いたのですが、この一年も結局、つくりませんでした。
昨年は新型コロナウイルスが言い訳でしたが、今年は会堂用地の取得を言い訳にしてしまったのではないか、と前年同様、悔い改めております。驚くばかりの恵みによって、用地を無事取得できたのは感謝でしたが、事務処理がこんなに大変だとは思いませんでした。もちろん教会員の方々は「先生、大変だったら手伝いますよ」と言ってくださるのですが、手伝えるたぐいの仕事もけっこう限られているので、やはり自分で動いたり、回ったりしなければなりません。まあ、当たり前ですが。
しかもそれで十分かというと、どうにも心許ない限りです。新しい用地の周辺の方々にも、できる限りで回りお菓子を配ったりしましたが、この場所に教会ができるということをどう受け止めてくださっているのでしょうか....会堂が建つのは数年後としても、我々はすでにどういう団体なのか、注視されている状況にあります。これからが会堂建設準備委員会の正念場です。そしてそのために教会員ひとり一人が、この神から始まったプロジェクトに対して信仰によって応答していくことも、来年度の重要な課題です。
そんなわけで、当教会はいまだに分散体制が続いております。今年は一堂に会してクリスマス集会がしたいと思っていましたが、やはり20人以下の集会に限定です。それでも、せめてものクリスマスチラシを作りました。いつものように「ラクスル」のロゴが入っております。


メッセージもなんとなく昔どこかで聞いたような話ですが、あまり気にしないでください。
今回のセールスポイントをあえて挙げるならば、真ん中の見出し「本当のこわれものは私たち人間なんだ」のフォント。なんとアニメ版「鬼滅の刃」で使っているのと同じものです。某年賀状ソフトを購入したら、おまけでついてきました。
12/12(日)に近隣住宅の新聞に約2000枚ほど折り込みます。たとえ一人でも二人でもだれかの目にとまり、イエス・キリストが生まれたという良い知らせを知っていただきたいと願います。週報はこちらです。
続きを読む
いよいよ2021年も最後の月となりました。昨年の今頃、「今年は新型コロナウイルスを言い訳にして、トラクト配布もほとんどしなかった。悔い改めて、来年はガンガン、オリジナルチラシを作っていきますぞ!」と総会資料の原稿にも書いたのですが、この一年も結局、つくりませんでした。
昨年は新型コロナウイルスが言い訳でしたが、今年は会堂用地の取得を言い訳にしてしまったのではないか、と前年同様、悔い改めております。驚くばかりの恵みによって、用地を無事取得できたのは感謝でしたが、事務処理がこんなに大変だとは思いませんでした。もちろん教会員の方々は「先生、大変だったら手伝いますよ」と言ってくださるのですが、手伝えるたぐいの仕事もけっこう限られているので、やはり自分で動いたり、回ったりしなければなりません。まあ、当たり前ですが。
しかもそれで十分かというと、どうにも心許ない限りです。新しい用地の周辺の方々にも、できる限りで回りお菓子を配ったりしましたが、この場所に教会ができるということをどう受け止めてくださっているのでしょうか....会堂が建つのは数年後としても、我々はすでにどういう団体なのか、注視されている状況にあります。これからが会堂建設準備委員会の正念場です。そしてそのために教会員ひとり一人が、この神から始まったプロジェクトに対して信仰によって応答していくことも、来年度の重要な課題です。
そんなわけで、当教会はいまだに分散体制が続いております。今年は一堂に会してクリスマス集会がしたいと思っていましたが、やはり20人以下の集会に限定です。それでも、せめてものクリスマスチラシを作りました。いつものように「ラクスル」のロゴが入っております。


メッセージもなんとなく昔どこかで聞いたような話ですが、あまり気にしないでください。
今回のセールスポイントをあえて挙げるならば、真ん中の見出し「本当のこわれものは私たち人間なんだ」のフォント。なんとアニメ版「鬼滅の刃」で使っているのと同じものです。某年賀状ソフトを購入したら、おまけでついてきました。
12/12(日)に近隣住宅の新聞に約2000枚ほど折り込みます。たとえ一人でも二人でもだれかの目にとまり、イエス・キリストが生まれたという良い知らせを知っていただきたいと願います。週報はこちらです。
続きを読む
2021.11.28主日礼拝説教「恐れるな、ザカリヤ」(ルカ1:5-25)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
新会堂用地の所有権移転登記が、11/30付けで完了しました。長かった・・・。実際には、9月上旬にこの不動産物件を初めてネットで見てから、3ヶ月のあいだの出来事なのですが、教会の中に新会堂建設へのヴィジョンが示されたのが2009年の修養会のときからですので、12年ということになります。そのあいだ、議論が煮詰まってしまってこれはもう無理ではないかと正直思ったこともありましたが、まったく予想もしていなかったところから、神さまは手を差し伸べてくださいました。今日は建設準備委員会の有志と、元教会員の建築士さんといっしょに、残されている民家の修繕箇所をチェックに行きましたが、結局チェックはほとんどしないままに、二時間あまり話し込んでしまいました。古い建物なのですが、縁側とか茶室風の入り口とか、前所有者がこだわりをもって作られたところもあって、なんか落ち着くのです。いずれは壊さなければならないのかなとも思いますが、それまで何か地域の憩いの場として生かすような方法はないのかなということも考えさせられています。そのうちに、許されるならば写真もアップします。
明日は、新発田友の会でのクリスマスメッセージです。忙しいけれども、主から託されている働きは楽しいものです。週報はこちらです。
続きを読む
新会堂用地の所有権移転登記が、11/30付けで完了しました。長かった・・・。実際には、9月上旬にこの不動産物件を初めてネットで見てから、3ヶ月のあいだの出来事なのですが、教会の中に新会堂建設へのヴィジョンが示されたのが2009年の修養会のときからですので、12年ということになります。そのあいだ、議論が煮詰まってしまってこれはもう無理ではないかと正直思ったこともありましたが、まったく予想もしていなかったところから、神さまは手を差し伸べてくださいました。今日は建設準備委員会の有志と、元教会員の建築士さんといっしょに、残されている民家の修繕箇所をチェックに行きましたが、結局チェックはほとんどしないままに、二時間あまり話し込んでしまいました。古い建物なのですが、縁側とか茶室風の入り口とか、前所有者がこだわりをもって作られたところもあって、なんか落ち着くのです。いずれは壊さなければならないのかなとも思いますが、それまで何か地域の憩いの場として生かすような方法はないのかなということも考えさせられています。そのうちに、許されるならば写真もアップします。
明日は、新発田友の会でのクリスマスメッセージです。忙しいけれども、主から託されている働きは楽しいものです。週報はこちらです。
続きを読む
2021.11.21主日礼拝説教「この方以外には救いはない」(ヨハネ4:46-54)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いよいよ、新会堂用地(と築50年の民家)の引き渡し時期が近づいてきました。残金の支払いと所有権移転登記は来週なので、ここではまだ物件を明らかにすることはできませんが、今後はブログに会堂建設のコーナーを作り、情報公開(そして献金とお祈り)を行っていきたいと思います。すでに、ブログやオンライン礼拝を通して、外部の方から献金をいただいております。この場を借りて、心から感謝いたします。
築50年の民家は、当初、取り壊して更地にするというのが売主様の意向でした。しかし取り壊さないで現状有姿で引き渡してほしいとお願いしたところ、承諾と共に、取り壊し費用の百数十万円を減額してくださいました。これが高いか安いかは置いておくとして、この減額分がなければ、実際は手持ち資金がぎりぎりだったことは確かです。この民家をリフォームするか、いずれやはり更地にするのかは、これからの話し合いになるのですが、もし何らかの原因で火災が起きてしまったら大変です。建物本体の補償は最低限でよいが、隣家に延焼した場合の補償はしっかりしなければ、と思って、火災保険について調べてみました。
すると、日本には「失火責任法」という独特の法律があることがわかりました。以下はソニー損保のホームページからの引用です。
続きを読む
いよいよ、新会堂用地(と築50年の民家)の引き渡し時期が近づいてきました。残金の支払いと所有権移転登記は来週なので、ここではまだ物件を明らかにすることはできませんが、今後はブログに会堂建設のコーナーを作り、情報公開(そして献金とお祈り)を行っていきたいと思います。すでに、ブログやオンライン礼拝を通して、外部の方から献金をいただいております。この場を借りて、心から感謝いたします。
築50年の民家は、当初、取り壊して更地にするというのが売主様の意向でした。しかし取り壊さないで現状有姿で引き渡してほしいとお願いしたところ、承諾と共に、取り壊し費用の百数十万円を減額してくださいました。これが高いか安いかは置いておくとして、この減額分がなければ、実際は手持ち資金がぎりぎりだったことは確かです。この民家をリフォームするか、いずれやはり更地にするのかは、これからの話し合いになるのですが、もし何らかの原因で火災が起きてしまったら大変です。建物本体の補償は最低限でよいが、隣家に延焼した場合の補償はしっかりしなければ、と思って、火災保険について調べてみました。
すると、日本には「失火責任法」という独特の法律があることがわかりました。以下はソニー損保のホームページからの引用です。
失火責任法は、正式には「失火ノ責任ニ関スル法律」といい、明治32年に定められた法律です。この法律では、「失火(過失による火災)の場合は、損害賠償はしなくて良い。ただし重大な過失の場合を除く」といった内容が定められています。つまり、自宅の火災で隣家に火が燃え移ってしまったとしても、「重大な過失」がなければ隣家への賠償はしなくて良いことになります。しかし逆に言えば、隣家の火災で自宅が損害を受けても、火元の家主からは賠償してもらえない場合がある、ということです。自動車保険とは違うのですね。しかし実際に火災が起きて隣家に延焼した場合、もし隣家が火災保険に入っていなかったら、まったく補償がないわけで、それからのお付き合いに甚大な影響があります。そこで各保険会社では、特約として「類焼損害補償」や「失火見舞費用」などをつけているそうですが、それをつける人は全体の二割に満たない、ということでした。個人的にはリフォームすればまだまだ住める建物と思っていますが、もしかしたら取り壊すことになる可能性もあります。その建物にあえて保険をかけて特約をつけるかどうかは、これから委員会や役員会での話し合いになりますが、宗教施設が地域にできるというだけで反対運動が起こることもある昨今、私たちもあらゆる事態を想定していかなければなりません。ひとつひとつの問題に、信仰と誠実をもって歩んでいくことができるように。週報はこちらです。
続きを読む
2021.11.14主日礼拝説教「最初の奇跡」(ヨハネ2:1-11)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎年この時期になりますと、世では七五三のシーズン。当教会では代わりに「子ども祝福式」を行っています。とはいえ、以前は大勢の教会員が祝福してくださるなかで、子どもたちのお祝いをしていたのですが、今は礼拝も分散形式を余儀なくされていますので、少し寂しい感じがします。今回、メッセージも同じ聖書箇所から、大人向けと子ども向けに2パターンを用意して、それぞれの礼拝で語りました。子ども向けの方は、説教原稿も一応作ってはいますが、ここでは割愛します。大人向けと子ども向け、それぞれのメッセージ録画へのリンクを張りましたので、暇な方興味のある方はご覧ください。
来年は、みんなが集まることができたらいいですね。コロナ禍の中で、戦っておられる方々がいやされ、励まされるようにお祈りしております。週報はこちらです。
(第二礼拝)
(第三礼拝)
続きを読む
毎年この時期になりますと、世では七五三のシーズン。当教会では代わりに「子ども祝福式」を行っています。とはいえ、以前は大勢の教会員が祝福してくださるなかで、子どもたちのお祝いをしていたのですが、今は礼拝も分散形式を余儀なくされていますので、少し寂しい感じがします。今回、メッセージも同じ聖書箇所から、大人向けと子ども向けに2パターンを用意して、それぞれの礼拝で語りました。子ども向けの方は、説教原稿も一応作ってはいますが、ここでは割愛します。大人向けと子ども向け、それぞれのメッセージ録画へのリンクを張りましたので、
来年は、みんなが集まることができたらいいですね。コロナ禍の中で、戦っておられる方々がいやされ、励まされるようにお祈りしております。週報はこちらです。
(第二礼拝)
(第三礼拝)
続きを読む
2021.11.7主日礼拝説教「代わることのできない身代わり」(創22:6-14)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この一ヶ月間、会堂建設(用地取得)に向けての奨励が多かったため、「十字架を語っていない!」というお叱りの声があったかどうかはわかりませんが、ひと月ぶりの伝道的説教です。逆に創世記の箇所から、ほとんどの話が十字架のイエスについてなので、逆に「釈義がおかしい!」というお叱りの声もあるかもしれませんが。
今回のメッセージの中ではイエスが「神にのろわれた者となられた」ということについて強調しています。福音は「神が私のために死なれた」ということですが、イエスにとって死よりも過酷なものは、「三位一体の神として、永遠に父と一つであられた方が、一時的とはいえ神にのろわれ、切り離されるものとなった」、それが十字架でした。その意味で、私たち説教者は、キリストの痛みや犠牲について語ることは多くあっても、「のろわれた者となった」ことは薄めてしまっているのではないかと自戒させられる説教でした。
もちろん、そののろいは、キリストが十字架に至るまで父のみこころに従ったことによって取り去られ、キリストはよみがえられ神の右の座につかれた、ということなのですが、愛である神が私たち罪人への愛のあかしとして御子を十字架に差し出し、かつそれは御子がのろわれる者となることであったというのは、人間の感情や知識では理解し得ないことだと思っています。それを自らのものとなし得るのは、やはり信仰によるとしか言えません。私たち教会は、今日、伝道説教でさえ人間の知恵をこらした例話や、わかりやすい組み立てといったものを用いて語ろうとしていないか、改めて問われます。週報はこちらです。
続きを読む
この一ヶ月間、会堂建設(用地取得)に向けての奨励が多かったため、「十字架を語っていない!」というお叱りの声があったかどうかはわかりませんが、ひと月ぶりの伝道的説教です。逆に創世記の箇所から、ほとんどの話が十字架のイエスについてなので、逆に「釈義がおかしい!」というお叱りの声もあるかもしれませんが。
今回のメッセージの中ではイエスが「神にのろわれた者となられた」ということについて強調しています。福音は「神が私のために死なれた」ということですが、イエスにとって死よりも過酷なものは、「三位一体の神として、永遠に父と一つであられた方が、一時的とはいえ神にのろわれ、切り離されるものとなった」、それが十字架でした。その意味で、私たち説教者は、キリストの痛みや犠牲について語ることは多くあっても、「のろわれた者となった」ことは薄めてしまっているのではないかと自戒させられる説教でした。
もちろん、そののろいは、キリストが十字架に至るまで父のみこころに従ったことによって取り去られ、キリストはよみがえられ神の右の座につかれた、ということなのですが、愛である神が私たち罪人への愛のあかしとして御子を十字架に差し出し、かつそれは御子がのろわれる者となることであったというのは、人間の感情や知識では理解し得ないことだと思っています。それを自らのものとなし得るのは、やはり信仰によるとしか言えません。私たち教会は、今日、伝道説教でさえ人間の知恵をこらした例話や、わかりやすい組み立てといったものを用いて語ろうとしていないか、改めて問われます。週報はこちらです。
続きを読む
2021.10.24主日礼拝説教「弟子づくりから町づくり」(使徒5:12-16)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この日の臨時教会総会にて、教会の新しい用地取得が正式に承認されました。来月初めの理事会と、法人責任役員会を経て、ようやく契約することができます。私たち豊栄キリスト教会は、法律的には「被包括宗教法人」であり、責任役員である牧師が、財産の処分を伴う契約を行ったりすることはできません。ですから不動産購入に関しても、手付け金を払って、教団理事会の承認が下りるまで物件を確保するということはできません。(売主や仲介業者によっては認めるところもありますが、教団に所属する教会が契約の主体となるためにはあくまでも教団の認可が必要になりますので、グレーゾーンと言えるでしょう)
しかし総会は最低でも公示から二週間、理事会は月一回、という限界がありますから、総会や理事会で承認される間に物件が他の方へ売れてしまう可能性もあります。今回の私たちに関しては、良心的な仲介業者を通して、売主様に「◯月◯日まで待ってください」という承認をいただいていますが、しかしそれも契約書面や手付け金を介してではありませんので、あくまでも信頼関係の中でのやりとりになります。
牧師として約二十年、教会に来会者を収容できる駐車場がないことに心を痛めてきました。いや、駐車場がないことに心を痛めたのではなく、たとえ公共施設の駐車場であっても、許可をとっていなければ、それは違法駐車であるという認識が薄いことに心を痛めていたのです。
これは、時代の移り変わりにクリスチャン自身がついていっていないこともあるのでしょう。確かに一昔前までは、公民館長や職員にお願いしてちょっと停めさせてもらうという鷹揚な時代もあったのです。しかしそのような属人的運営が批判されるようになり、どこも厳しくなっています。しかし私たちに限らず、いかに多くの教会が、駐車場不足に対して自分本位なのかということも思わされます。A教会に行ったとき、「そこのスーパーの端の方に停めてください」と言われ、B教会では、「ここらへんは警察も来ないから、路駐しても大丈夫」と言われました。コンビニでトイレを借りるのとは違うのです。「駐車場がないから仕方ない」というのは、教会の都合でしかありません。もしそこから後ろめたささえ感じなくなったら、どれだけ「世の人々が救われますように」と叫んでも、それはあまりにもむなしく響きます。
もちろん、新潟のようなクルマ社会において、それは現実的には難しい要請でしょう。しかし公共であれ民間であれ、無許可で他施設に駐車することはいけないことなのだという認識は失ってはなりません。不便ではありますが、駐車場がなければ教会員は電車で通い、駅と教会の間を送迎したり、あるいは何人かで乗り合わせて、運転者以外は教会の前で降ろし、車は駅前のコインパーキングに停める、といったふうにしている教会もあります。「そんなことは大変だ、人手がない」とため息をつく前に、その大変さを、証にならない方法で回避しようとすることを恥じなければなりません。
最初は私も無知であり、無頓着でした。しかしやがて近隣の医院・薬局と親しくなり、日曜日だけ貸していただけるようになりました。無料で貸していただける代わりに、冬季の除雪を有志がお手伝いしています。さらに今は分散礼拝となり、各礼拝の参加人数を絞っているので、日曜日に駐車スペースがない、ということはありません。しかし駐車場がないので、活動はほぼ日曜日だけに制限されてしまいます。ですから、たとえ土地購入費用がかさんだとしても、「来会者の車が敷地内にすべて駐車できて、証しを立てる(というか、不証しを立てない)ことができる、広い土地を与えてください」と祈り続けてきました。
しかしそのような広い土地を、決して経済的には潤沢でない教会が得るためには、豊栄のような地方都市であっても、市街化調整区域に絞るしかありません。市街化調整区域は、新規建築を抑制する地域ですので、教会は原則建てられませんが、農地転用や既存住宅の建て替えを駆使して、例外的に認められる場合もあります。しかし仮にそれができたとしても、人々の生活圏からは遠のき、逆にクルマを持っていない方には不便になります。かといって市街化区域に広い土地が出るかと言えば、二百坪以上の土地が出る確率は低く、出たとしても市街化区域ぎりぎりの不便なところだったりします。
そのジレンマの中で数年間祈り続けました。砂を噛むような祈りでしたが、このたびまったく予想もしていなかった時期、そして場所に、私たちの積立でなんとか届く価格で、広い敷地が示されました。契約が完了するまでは、(悪い意味で)どんでん返しがあるのではないかという不安さえありますが、しかしそれでも神は、私たちにとっては困難さえも益として、教会が地域に必要とされるものとしてくださると思っています。土地や建物だけではなく、そこで礼拝を含めて、これから何をしてゆくのか、丁寧に話し合っていかなければなりません。しかしそれは重荷ではなく、期待もあります。どうか当教会のためにお祈りいただけたら幸いです。週報はこちらです。
続きを読む
この日の臨時教会総会にて、教会の新しい用地取得が正式に承認されました。来月初めの理事会と、法人責任役員会を経て、ようやく契約することができます。私たち豊栄キリスト教会は、法律的には「被包括宗教法人」であり、責任役員である牧師が、財産の処分を伴う契約を行ったりすることはできません。ですから不動産購入に関しても、手付け金を払って、教団理事会の承認が下りるまで物件を確保するということはできません。(売主や仲介業者によっては認めるところもありますが、教団に所属する教会が契約の主体となるためにはあくまでも教団の認可が必要になりますので、グレーゾーンと言えるでしょう)
しかし総会は最低でも公示から二週間、理事会は月一回、という限界がありますから、総会や理事会で承認される間に物件が他の方へ売れてしまう可能性もあります。今回の私たちに関しては、良心的な仲介業者を通して、売主様に「◯月◯日まで待ってください」という承認をいただいていますが、しかしそれも契約書面や手付け金を介してではありませんので、あくまでも信頼関係の中でのやりとりになります。
牧師として約二十年、教会に来会者を収容できる駐車場がないことに心を痛めてきました。いや、駐車場がないことに心を痛めたのではなく、たとえ公共施設の駐車場であっても、許可をとっていなければ、それは違法駐車であるという認識が薄いことに心を痛めていたのです。
これは、時代の移り変わりにクリスチャン自身がついていっていないこともあるのでしょう。確かに一昔前までは、公民館長や職員にお願いしてちょっと停めさせてもらうという鷹揚な時代もあったのです。しかしそのような属人的運営が批判されるようになり、どこも厳しくなっています。しかし私たちに限らず、いかに多くの教会が、駐車場不足に対して自分本位なのかということも思わされます。A教会に行ったとき、「そこのスーパーの端の方に停めてください」と言われ、B教会では、「ここらへんは警察も来ないから、路駐しても大丈夫」と言われました。コンビニでトイレを借りるのとは違うのです。「駐車場がないから仕方ない」というのは、教会の都合でしかありません。もしそこから後ろめたささえ感じなくなったら、どれだけ「世の人々が救われますように」と叫んでも、それはあまりにもむなしく響きます。
もちろん、新潟のようなクルマ社会において、それは現実的には難しい要請でしょう。しかし公共であれ民間であれ、無許可で他施設に駐車することはいけないことなのだという認識は失ってはなりません。不便ではありますが、駐車場がなければ教会員は電車で通い、駅と教会の間を送迎したり、あるいは何人かで乗り合わせて、運転者以外は教会の前で降ろし、車は駅前のコインパーキングに停める、といったふうにしている教会もあります。「そんなことは大変だ、人手がない」とため息をつく前に、その大変さを、証にならない方法で回避しようとすることを恥じなければなりません。
最初は私も無知であり、無頓着でした。しかしやがて近隣の医院・薬局と親しくなり、日曜日だけ貸していただけるようになりました。無料で貸していただける代わりに、冬季の除雪を有志がお手伝いしています。さらに今は分散礼拝となり、各礼拝の参加人数を絞っているので、日曜日に駐車スペースがない、ということはありません。しかし駐車場がないので、活動はほぼ日曜日だけに制限されてしまいます。ですから、たとえ土地購入費用がかさんだとしても、「来会者の車が敷地内にすべて駐車できて、証しを立てる(というか、不証しを立てない)ことができる、広い土地を与えてください」と祈り続けてきました。
しかしそのような広い土地を、決して経済的には潤沢でない教会が得るためには、豊栄のような地方都市であっても、市街化調整区域に絞るしかありません。市街化調整区域は、新規建築を抑制する地域ですので、教会は原則建てられませんが、農地転用や既存住宅の建て替えを駆使して、例外的に認められる場合もあります。しかし仮にそれができたとしても、人々の生活圏からは遠のき、逆にクルマを持っていない方には不便になります。かといって市街化区域に広い土地が出るかと言えば、二百坪以上の土地が出る確率は低く、出たとしても市街化区域ぎりぎりの不便なところだったりします。
そのジレンマの中で数年間祈り続けました。砂を噛むような祈りでしたが、このたびまったく予想もしていなかった時期、そして場所に、私たちの積立でなんとか届く価格で、広い敷地が示されました。契約が完了するまでは、(悪い意味で)どんでん返しがあるのではないかという不安さえありますが、しかしそれでも神は、私たちにとっては困難さえも益として、教会が地域に必要とされるものとしてくださると思っています。土地や建物だけではなく、そこで礼拝を含めて、これから何をしてゆくのか、丁寧に話し合っていかなければなりません。しかしそれは重荷ではなく、期待もあります。どうか当教会のためにお祈りいただけたら幸いです。週報はこちらです。
続きを読む