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2021.5.30主日礼拝説教「あなたがたが十字架につけたのです」(使徒2:22-24、32-39節)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
先日、もと一部上場のIT企業に勤めていたO川牧師の証しを聞く機会がありました。マルカワでなくオーガワです。
あ、名前出しちゃった、ごめん。勤務先のイメージはたぶんこんな感じです。行ったことないけど。
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O川先生はサーバーの保守管理が担当だったのですが、サーバーの調子が悪いと決まって後輩がやってきて、
O川さん、いつものアレ、頼みますよ」と言われたそうです。
アレというのは「お祈り」です。そこでサーバーに手を置き、イエス様のお名前によって祈ります、アーメン。
すると必ずサーバーの調子が良くなり、「O川さん、イエスさんってすごいっすね!」と言われたそうです。
技術の粋を集めたIT企業とお祈りというミスマッチに、それを聞いた私たち(アナログ牧師)はみな爆笑。
ところが、じつはIT企業のサーバールームでは、まさに霊の戦いが起こっていることが、あるマンガに掲載されていました。
サーバーに魔よけのお札を!? 神頼みのIT企業描くギャグ漫画に「案外ウソでもない」と業界から証言
著作権の都合で、画像を紹介することはできませんが、こういう業界だったんですね。
IT業界で働いているクリスチャンの方々のために祈りたいと思います。がんばれ〜
ところで明日(土曜日)は新潟の下越を聖火ランナーが走ります。現場には行けませんが、応援しています。週報はこちらです。





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2021.5.23主日礼拝説教「一人ひとりが、変えられる」(使徒2:1-13)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
ペンテコステに入りました。イースターが「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」というややこしい移動祝日?なので、ペンテコステもそのように見られる場合がありますが、ペンテコステはイースターの七週間後の日曜日とはっきり決まっていますので、迷うことはありません。正確に言えば、過越の祭りの七週間後(当日を含めて50日目)にある五旬節の直後の日曜日ということになるでしょうか。
説教の中でも触れましたが、五旬節は単純な収穫感謝(初穂の祭り)ではなく、出エジプトから二ヶ月後、シナイ山での律法の授与を記念する日という意味づけが与えられています。以前、祈祷会で詩篇の講解を行ったことがありましたが、五旬節の会堂礼拝においては、天地万象を神の声(ことば)として賛美する、詩篇29篇が朗読されるそうです。
4 【主】の声は力強く【主】の声は威厳がある。
5 【主】の声は杉の木を引き裂き【主】はレバノンの杉を打ち砕く。
6 それらの木々を子牛のようにレバノンとシルヨンを若い野牛のように跳ねさせる。
7 【主】の声は炎の穂先をひらめかせる。
8 【主】の声は荒野を揺さぶり【主】はカデシュの荒野を揺さぶる。
9 【主】の声は雌鹿をもだえさせ大森林を裸にする。主の宮ではすべてのものが「栄光」と言う。
 今日、聖霊の奇跡が、聖書そのものと切り離され、死者の復活や病気のいやしといった文脈のみで語られる傾向がありますが、あくまでも聖霊の諸々の奇跡は、みことばこそ神の主権と栄光の顕現であることを伝えるためにあるという理解にとどまらなければならないでしょう。ですから聖霊の働きを強調していながら、聖書通読も暗唱聖句も実践していないということがあれば猛省が必要です。
 ペンテコステについて毎年語ってきたなかで、弟子たちはこの五旬節こそ宣教(証言)の主である聖霊が降臨される日だと確信して祈るようになっていった、というのが私の考えです。それは「いつとか知らなくても良い」というイエスの忠言を否定するものではありません。私たちが毎日、聖書をいのちのことばとしてかみしめていくなかで、神はそのみことばを通して足元を照らし、いま何をすべきかを示してくださいます。いま、出口の見えない戦いの中におられる方は、期待して聖書を開いていただきたいと思います。
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posted by 近 at 19:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.5.16主日礼拝説教「いたくない場所にこそ」(使徒1:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
俳優・田村正和さんの逝去、続けて星野源さんと新垣結衣さんの結婚、さらに私もファンの一人であった「ベルセルク」の作者・三浦建太郎先生の急逝、とまるでジェットコースターのように悲喜交々のニュースが続きました。
「ベルセルク」作者の三浦建太郎さん死去、54歳 世界中から悲しみの声
このブログの読者の方(主にクリスチャンの方)で「ベルセルク」を知っておられる方というのはあまりいないかもしれませんし、牧師としてもちょっと勧めにくい(残酷なシーンが多いので)のですが、その圧倒的ともいうべき画力(表現力)はやはり一度は見ていただけたらうれしいなと思います。ただ第一巻の最初から刺激が強すぎるので(お子様厳禁)覚悟が必要です。
30年以上にわたる長期連載のなかでも一向に終わりが見えず(ここらへんはONE PIECEに通じるものがあります)、この数年間は休載が続いていたので、完結を心配する声もありましたが、大動脈解離という病気で、54歳の若さで筆を置かれました。私の知人もこの病気で亡くなられましたが、たいへん危険なものです。
「ベルセルク」(三浦先生)の魅力は、そのストーリーや絵の書き込みもさることながら、まさに一コマ一コマを心血注ぎ出して描いていることが伝わってくるということです。それは私たち説教者にとっても、いつも心がけていなければならないことです。私はこのブログで説教を録画と原稿の両方を挙げていますが、やはり原稿や録画では伝え切れないものが、実際の礼拝出席にあるのではないかと思います。大げさかもしれませんが、講壇に立ち、聖霊の助けを求めながら語り始めると、命を削り出しながら語らざるを得ません。語る方がそうであれば聞く方もまたそうならざるを得ないと思うのですが、どうでしょうか・・・・?
みことばを本気で伝えようとする説教は気楽に聞けるようなものではありません。「ベルセルク」も気楽に読める作品ではありませんでした。数え切れない人々に感動を与えてきた三浦先生のご労苦に心から感謝し、冥福を祈ります。
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posted by 近 at 18:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.5.9主日礼拝説教「無力感を乗り越えて」(ハガイ2:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
本日の礼拝説教では、神殿再建工事が再開して一ヶ月のあいだに、民の心がしぼんでいった中での再チャレンジという文脈で、この第二のハガイのメッセージを語りました。説教の中では触れることができませんでしたが、この「第七の月の21日」には、工事が始まって約一ヶ月ということ以外に、神のタイミングとしてふさわしい重要な要素が二つありますので、追記しておきます。
1.この日は、第七の月の15日から一週間続く「仮庵の祭り」の最終日であったこと。(レビ記23:34-43)
2.この日は、ソロモンが第一神殿の奉献式を行ったのとちょうど同じ時期であったこと。(第二歴代誌7:1-10)
 仮庵の祭りは、イスラエルの民がエジプトを脱出したもののその不信仰により、荒野での40年間の放浪生活を余儀なくされたという、人の目には負の歴史を、逆に荒野で神が養い続けてくださったという神の目には正の歴史という転換を与えています。そしてこの逆転の発想というべき神の視点は、ソロモンの第一神殿に比べるとあまりにも貧弱なこの第二神殿(ハガイ2:3)が、「その栄光は先のものにまさる」(同9節)と言われていることに通じるものがあります。
 この工事再開の一ヶ月の中で行われた仮庵の祭りは、逆に工事の進行を遅らせるものになっていたかもしれません。またその中でソロモンの第一神殿の奉献が想起されたことも、民の心をくじいたに違いありません。しかしすべてのことが神のご計画の中にあり、そして人の失望のただ中にこそ、神のみこころは起こるのです。ですから私たちは勇気を失うことがありません。私たちの教会はいま、会堂建設に向かっていますが、工程表や財政計画など、どこから手をつけてよいかもわからないほどに未体験な事柄です。しかしそれでもなお、神のみこころだけがなる。そのような信仰をもって進んでいきたいと願っています。 週報はこちらです。





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2021.5.2主日礼拝説教「現状をよく考え、主にゆだねる」(ハガイ1:1-15)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
本日の礼拝説教は、遅ればせながら、今年度の教会目標からのメッセージです。会堂建設が具体的に始まる年度の目標聖句は、このみことばしかあり得ないと数年前から考えていましたが、いよいよ今年の総会で建設準備委員会が発足しました。ただ会堂建設そのものが目標ではありません。教会の普遍的な目標は「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)という大宣教命令にあります。主イエスから付託されたこの使命をこれからも続けていくための通過点としての会堂建設です。ですからこの目標聖句は、目に見えるものだけを含んでいるのではありません。困難はこれからも予想されますが、困難があるほどに報いも多くあります。期待して歩んでいきたいと思います。
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2021.4.25主日礼拝説教「みことばが新しくする」(ルカ24:44-53)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
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2021.4.18主日礼拝説教「みことばなるイエス」(ルカ24:28-43)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今回の説教の中で、「棚からぼたもち」について、とても怒っているくだりがあります。コロナ禍のなかで情緒不安定と思われてしまうのもアレなので、誤解がないように説明しておきたいと思います。
たなからぼたもち【棚から牡丹餅 (ぼたもち)】
 労せずして思いがけない幸運に巡り合うことのたとえ。たなぼた。(大辞林)
 今から15年以上前の話ですが、わが同盟教団の聖会にて関西のある牧師が大声でこんなことを言ってました。
「たまたま公募をネットで見て、この前(2005年9月)衆議院議員に当選した杉村太蔵氏は『棚からぼたもち』と言ってました。私たちクリスチャンにとっても、救いの恵みはまさに「棚からぼたもち」ですよね。みなさん、そうは思いませんか?」
 思いません。しかし少なくない牧師たちが、喜んで拍手をしていた姿をおぼえています。
「棚からぼたもち」は、何の努力もしていないのに、たまたま良いものを手に入れることのたとえです。確かに聖書は「救いは恵みである」と教えています。しかしそれは「努力もしていないのに救われた」ではなく、「救いは努力の結果ではない」ということです。それはまったく似て非なるものと言えるでしょう。私たちはどれだけ努力をしても、それ自体で救いを獲得することはできません。しかしそれは努力という行為そのものを否定することではありません。「努力」を「信仰」の反対語のようにとらえるクリスチャンもいますが、信仰は神からの賜物であるという受動性と同時に、私たちの意思と行動による能動性を持っています。イエスから肉体的・社会的・霊的回復をいただいた多くの人たちが、主から「あなたの信仰があなたを救った」と言われていることはそれを表しています。信仰は人間が何もしないということではありません。信仰を働かせながら知性と心を働かせ、全力で祈りつつ全力で働きます。むしろ「努力」という言葉自体が、信仰生活の切磋琢磨として語られており(ピリ2:16、Uペテ3:14)、「求め続けなさい、そうすれば見つかります」というイエスによる山上の垂訓の一節も同様です。
 私たちは努力によって救われたのではありません。しかしその努力の過程における、自分自身のありのままの姿に対する疑い、失望、その葛藤の先に、自分自身を捜し求めていた神のあわれみを見いだし、救われた者たちも多いはずです。神の前に、これだけ努力をした、と誇ってはなりません。そんなことをしなくても、表面には現れることのない努力を神は見つめていてくださり、私たちに想像もできない賜物をもって報いてくださるのですから。ちなみに杉村太蔵氏も、口では「棚からぼたもち」と冗談めかしていましたが、彼の経歴を調べてみると、議員になる前も後も相当の努力をしていることがわかります。ただ存命の人をあまりほめるといけませんので、この辺にしておきましょう。

 先の体験は、とりあえずオモロイことを言っておけばOK」という関西のノリ(関西の方ごめんなさい)かもしれませんが、まだ教師になって4年目だった私はなんだか軽い教団だなあと思いました。あれから15年、まあ軽いところもありますが、幅があって、いい教団ですよ。右はハイパーカルヴィニストから左はカリスマスタイリストまでいますからね。週報はこちらです。





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2021.4.11主日礼拝説教「世界一聞きたい説教」(ルカ24:13-27)


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1.
 今日の週報の表紙には、17世紀のオランダの画家ヤン・ワイルデンスが描いたものを印刷しました。
1487px-Jan_Wildens_Landscape_with_Christ_and_his_Disciples_on_the_Road_to_Emmaus.jpg
ほかにも多くの画家が「エマオへの道」と題した作品を残していますが、共通するのは、極めて人間を小さく描いているということです。
それは、まさにちっぽけな人間の、まさにそのちっぽけさの最たるものである不信仰、そこにイエスは寄り添ってくださるということなのでしょう。
13節にはこうあります。「ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから60スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた」。
60スタディオンは、現在の距離に直すと約11キロメートル。エルサレムからふたりで歩きながらちょうど二時間くらいでしょうか。
夕暮れが迫る中で、互いにああでもない、こうでもないと言い合いながらエマオへと向かうふたりの姿が目に浮かびます。

 彼らの目に映る空は、すでに夕日が傾きかけていました。それはまるでこのふたりの心を象徴しているかのようです。
彼らはその日の朝、墓で御使いに出会った女たちから、イエス様がよみがえられた、というすばらしい報告を受け取っていたのです。
しかし喜びに満たされるはずの報告なのに、一日が終わろうとしている今も、彼らの心には喜びがまったくありません。
イエス様がよみがえった?それが本当だったら、どんなにすばらしいだろう。だが死んだ者がよみがえるなどということがあるわけがない。
彼らもまた、あの真っ先に墓に向かった女性たちのはじめの姿と同じです。みことばが心の中にとどまっていませんでした。
彼らはイエスが十字架にかかられる何ヶ月も前、ガリラヤにいた頃からイエスが語っていた、復活の約束をまったくおぼえていません。
わたしはエルサレムで人々に引き渡され、十字架にかけられ、殺される。しかし必ずよみがえり、再びあなたがたの前に現れる。
みことばを忘れてしまっているからこそ、彼らの議論はいつまでも堂々巡り。不毛な話し合いになっていました。

 しかし感謝すべきは、たとえ私たち弟子がそうであっても、キリストは私たちを見捨てることはない、ということです。
みことば不在のまま、終わりのない議論を続けている二人に、イエス・キリストはにいつのまにか近づいて、一緒に歩いていてくださいました。
よみがえられたキリストは、よみがえりを信じることができない弟子を後ろから追いかけて、一緒に歩んでくださるお方なのです。
彼ら二人には、この不思議な旅人がイエスだとはわかりませんでした。しかしイエスのほうは、私たちのすべてを知っておられます。
その心のすべて、みことばを忘れてしまっているという不信仰さえ知りながら、イエス様は私たち弟子とともに一緒に歩んでくださいます。
それは私たちにもすばらしい励ましを与えます。弟子としてふさわしくないと思うような自分であっても、主は決して見放さないお方なのだ、と。

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2021.4.4主日礼拝説教「みことばを取り戻した日」(ルカ24:1-12)


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1.
 名探偵・明智小五郎と少年探偵団。今の小学生にも読まれているのかわかりませんが、昭和生まれの人たちには懐かしい名前です。
彼らの生みの親である小説家・江戸川乱歩が、そのペンネームをアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーにちなんでつけたのは有名な話です。
このエドガー・アラン・ポーの作品に「盗まれた手紙」という短い小説があります。舞台はポーの生きた時代と同じ、19世紀のフランスです。
ある日、国の政治を左右するほどの重要な、ひとつの手紙が盗まれてしまいました。
犯人はひとりの大臣、隠し場所は彼の執務室であるということもわかっています。ところが警察がその部屋をどんなに捜索しても見つかりません。
それこそ壁紙の裏を剥がし、机の引き出しが二重になっていないか、何ヶ月も、何十人の警官を動員して徹底的に捜索しました。
しかしまるで見つからない。困った警察が、名探偵デュパンに助けを求めてきます。さあ、消えてしまった手紙はどこにあるのでしょうか。

 この小説は約200年前に書かれたものですが、この二千年間、消えてしまったイエスの遺体の謎は人類史上最大のミステリーでした。
十字架にかけられたイエスの亡骸は、ゴルゴタの丘のすぐそばにある、洞窟を掘り抜いて作られた新しい墓に収められました。
ガリラヤから付き従ってきた女たちは、その墓の場所を確かに心に刻みつけて、安息日が空けた日曜日の朝に、墓にやってきたのです。
しかし墓のふたは開いており、中にはイエスの遺体はありませんでした。遺体が横たわっていた場所には、遺体を包んでいた亜麻布がありました。
その亜麻布は、よみがえったイエスがぺりぺりと剥がしたような形では置かれていなかった、と別の福音書では記されています。
まるで中身の遺体が一瞬で蒸発してしまったので、くるんでいた亜麻布がそのままぺしゃ、となったように、人の形を残して巻かれていた、と。
 この二千年間、イエスがよみがえったという、この最大のミステリーを信じたくない人々が、じつにさまざまな説明を考えだしてきました。
たとえば、ある人はこう言いました。「女たちは、となりの墓と間違えたのだ」。(だとしたら、亜麻布はどのように説明すべきでしょうか?)
別の人は、「イエスはじつは死んでいなかったので、自分で墓から出てきた」。(墓のふたは堅く閉じられ、番兵が見張りに付いていた)
また当時のユダヤ人たちは、弟子たちが墓からイエスの遺体を盗んだのだ、という噂を流しました。(見張りと封印をかいくぐることは不可能)

 Amazon商品紹介ページより引用(1059円)
江戸川乱歩が編んだ世紀の必読アンソロジーが全面リニューアル!
欧米では、世界の短編推理小説の傑作集を編纂する試みが、しばしば行われている。本書はそれらの傑作集の中から、編者江戸川乱歩の愛読する珠玉の名作を厳選して全5巻に収録し、併せて19世紀半ばから1950年代に至るまでの短編推理小説の歴史的展望を読者に提供する。第一巻は巻頭に編者の「序」を配し、推理小説の祖といわれるポオ「盗まれた手紙」に始まり、コリンズ「人を呪わば」、ドイル「赤毛組合」、フットレル「十三号独房の問題」など8編を収録し、最初期の半世紀を俯瞰する。新解説=「短編推理小説の流れ1」(戸川安宣)

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2021.3.28主日礼拝説教「きょう、始まるパラダイス」(ルカ23:38-49)


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1.
 今からおよそ140年ほど前、日本では明治時代の中頃にあたりますが、アメリカのある監獄で、ひとりの死刑囚が号泣していました。
看守が驚いて理由(わけ)を訪ねると、囚人はその朝配達されたばかりの新聞の号外を指さしながら、大声をあげて泣き続けました。
そこにはこう書いてありました。「グローバー・クリーブランド、第24代合衆国大統領に選出される!」そして死刑囚は看守に話し始めました。
「このクリーブランドは、若い頃、俺としょっちゅうつるんでいたチンピラだったんだ。だがあいつがある日、教会の前で立ち止まった。
「どうした」と聞いたら、「賛美歌が聞こえてきた。おれは今日この教会に入ってみたい」。「おいおい、今更おまえが教会とかいうくちかよ」。
やがて俺たちはけんかをはじめ、それっきりになった。だがそれから30年の間、おれは何度も罪を犯して死刑囚、あいつは大統領だ。
あの日、おれも教会に行っていたら人生が変わっていたんだろうか」。

 このクリーブランド大統領に関するエピソードが実話かどうか、定かではありません。
ただ、このエピソードは、私たちにこの二人の犯罪人の姿を思い起こさせるものであることは確かです。
この犯罪人は、別の福音書では「強盗」と書かれています。
もともとイエス・キリストがかけられる十字架はバラバがつくはずであったことを考えると、この二人はそのバラバの仲間であったのかもしれません。
だとしたら、彼らは両方とも、バラバと同じように殺人にも手を染めた、まさに十字架にかけられても不思議ではない者たちだったのでしょう。
彼らはイエス・キリストを真ん中に挟むように、一人は右に、もう一人は左に十字架にかけられました。右と左という違いはあります。
しかし彼らはクリーブランドとこの死刑囚のように、同じところに立っています。ともに十字架にかけられるほど重い罪を犯した者たちでした。
そして、右からも左からも、イエス・キリストの頭上に掲げられている文字も同じように読むことができました。「これはユダヤ人の王」と。

 この二人の強盗の出発点は、同じでした。事実、別の福音書では、最初ふたりは一緒になってイエスを嘲っていたとさえ書いてあります。
しかし教会の前でクリーブランドと友人の人生が分かれていったように、イエスの前でこの二人の強盗の道も見事に分かれていきました。
片方の強盗は、「あなたはキリストではないか」と言いながらも、神への恐れもなく、十字架にかけられている自分の罪を見つめようとしません。
しかしもう一方の強盗はキリストを罪を犯したことのない方として恐れ、そして十字架に至った自分の罪を自覚していました。
そのふたりの行き先を変えていった力は、彼ら自身ではありません。ひとりはキリストを嘲り続け、ひとりはキリストを王として受け入れた。
それはただ神の恵みとしか言いようがありません。しかし神の恵みを求める者、そして神の恵みを受け入れる者は生きるのです。
キリストは、自分の罪を自覚していた強盗に対してこう言われました。「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいます」と。

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posted by 近 at 20:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ