前 奏8イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。9この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。10ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。11次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。12耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。13私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」2017 新日本聖書刊行会
1.小羊をば ほめたたうる 妙なるものの音 天(あめ)に聞こゆ いざみ民よ 恵みの主に 栄えの冠(かむり)を ささげまつれ
2.み使いらも うち伏すまで わが主の御傷は照り輝く いざみ民よ 救いの主に 栄えの冠を ささげまつれ
3.戦いやみ 矢叫び絶え 祈りと歌との声は響く いざみ民よ 平和の主に 栄えの冠を ささげまつれ
4.空の極み 地の果てまで みいつの光は照り渡りぬ 父と共に しらす君に 栄えの冠を ささげまつれ アーメン役員就任式(第二礼拝)・教会学校教師就任式(第三礼拝)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)53人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。54ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。55さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。56多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。57すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。58「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」59しかし、この点でも、証言は一致しなかった。60そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」61しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」62そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」63すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。64あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。65そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。2017 新日本聖書刊行会
1.
四旬節第四週に入りました。十字架の苦しみをおぼえる四旬節は全体で6週間続き、今日はその4週目にあたります。今週の礼拝説教は、イエスが十字架にかかる前に待ち受けていた、ユダヤの最高法院による不正な裁判と、その中で神の子として信仰を貫かれるイエスの御姿を見ていきましょう。
裏切った弟子、イスカリオテのユダの手引きによって群衆に捕らえられたイエスは、大祭司のもとへと連れてこられました。夜明けまで数時間、まさに真夜中でありましたが、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集められてきた、と聖書は記録しています。しかしその「みな」の中には正しい裁判を行おうという者は一人もいませんでした。あるいは、わずかにいたとしても、その言葉はまったく記録されていません。それも仕方のないことかもしれません。何しろ、弟子のペテロでさえ、イエスを捕らえた下役たちと一緒になって火にあたっていたほどです。ペテロとしては、チャンスを伺ってイエスを取り戻すためと考えていたかもしれませんが、あまりにも緊張感が欠けています。
すべての常識、すべての正義が狂っていました。無実の人をさばくことに対する恐れも、ためらいも、そして真実も、何一つこの裁判からは香りません。代わりにあったものは偽りであり、殺意であり、狂気でした。偽りの証言が次から次へと現れ、議員たちはイエスのあら探しに夢中になっています。暗やみにともされた庭のかがり火が、彼らのよこしまな笑顔を照らし出す。彼らは無実な人を有罪にすることに対し、何の恥も感じない。ためらいも感じない。良心の痛みも感じない。
2.
私たちは、こんな人々と自分は違うと思いたい。しかし私たちは、聖書の前でしばし立ち止まるべきです。彼らの姿は、もしかしたら自分自身とよく似た姿を表してはいないでしょうか。どこが。どうして私が。それは、みことばを聞いているし、知っている。しかしそれを正しく用いることができない者たちの姿です。58節をご覧ください。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」もったいない、と思います。イエス様が実際にこれを語ったとき、「人の手で造られた」とか、「人の手で造られたのではない」とは、一切、語っていません。それは弟子たちでさえも、イエスが復活されたあとで悟ったことでした。つまり、この偽りの証言者たちは、弟子たちでさえまだ悟っていなかった、「人の手で造られたのではない別の神殿」こそ、イエスが建てようとしておられたものだということに気づいていたのです。彼らはここまで真理に近づいていながら、イエス様の言葉を使ってこの方をおとしめることしか考えていない。あえて私たち自身の姿と照らし合わせてみましょう。あなたは聖書のことばを知っているかもしれません。知っているだけではなく、理解もしているかもしれません。しかしその聖書のことばに従っていますか。むしろ聖書を、自分自身の行動を正当化させるために利用していませんか。私たちが罪から離れる決意を持ってみことばを聞くならば、みことばは私たちを変えてくれる神の力となります。しかし今の生活を変えたくないという肉の思いを捨てることなく、みことばを聞くならばどうでしょうか。現状維持を神が認めてくださっているかのようにみことばが聞こえてくるのです。聞くだけでオーケー、行動を変えることまでも求めない、そんなメッセージを聞いて、恵まれました。私は皆さんにそんなえせクリスチャンになってほしくない。
3.
みことばを使って、逆にみことばから離れさせる。それはサタンの常套手段です。エデンの園で、エバに話しかけた言葉、荒野でイエス様に語りかけた言葉、現代の異端が人々を誘う言葉、どれもサタンはみことばを使って惑わします。より正確に言うと、悪魔に都合良いところを切り貼りした、みことばの適用によって惑わします。しかしそれは、聖書を知らない、あるいは知っていてもよく学んでいないと、違いが見抜けません。ひとり一人の信者が、みことばをしっかりと自分のものにしなければなりません。ヨーロッパにある、石造りの伝統的な教会の写真を見ると、なぜか教会の門扉とか屋根の上といった目立つ場所に翼を生やした悪鬼の像が飾られているのを不思議に思ったことはありませんか。それは、闇の眷属は隙あらば教会に入り込もうとしており、それに対してみことば、祈り、賛美、交わり、礼拝、あらゆる霊的武装をもたなければならないという信仰告白を建築物を通して表しているのです。
罪とは、常にみことばに対する反抗、反逆です。私たち人間は、人生という荒海に乗り出していくひとつの小船のような存在です。その中で「みことばに生きる」とはどういうことか。それは、私の小船を私が動かしていく舵として、神の言葉を用いていくことではない。この荒海よりもはるかに大きな造り主が、必ず私を陸地へと導いてくださると信じ、舵から手を離し、進路を神の視線に合わせていくこと、それが「みことばに生きる」という生活です。聖霊なる神は、聖書を通して私たちの罪を教えます。聖書が私たちの心の中の罪をえぐり出すとき、たとえそれが不快な経験であったとしても、私たちをそれを受け止めなければなりません。そこを通らなければ、私たちの信仰生活は自己満足にすぎず、みことばに導かれたものとは言えないのです。
結.
どんなに偽りの証言を積み重ねてもイエスに罪を見いだせなった大祭司は、業を煮やしてイエスに直接尋ねました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」。これは質問ではなく、罠です。自分がキリストであるとさえ言えば、この男を十字架にかけることができる。神に最も近づくことができるはずの大祭司でさえ、悪意と偽りの虜になっていました。しかしイエス・キリストは重く閉ざしていた唇を開きました。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」。ここで沈黙を貫けば、罪に定められなかったのに、どうして口を開いてしまったのか、と考えたこともありました。しかし、ここで口を開いたからこそ、イエスはまごうことなき神なのです。別のところにあるみことばにこうあります。「私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである」。全能の神にも、自分自身を否むことだけはできません。ひとりの悪しき大祭司が神ご自身に尋ねた。「あなたはキリストですか」。その問いに隠れた悪意にむせかえりそうになりながらも、主は答えられた。「わたしが、それです」と。だとしたら、もしあなたが真実な求めをもってイエスにこう尋ねるとき、彼が答えてくださらないことがあるでしょうか。「イエス様、あなたは本当に救い主ですか。本当に私を罪と滅びから救うことのできるお方なのですか。私がどんな人間であっても、あなたは救ってくださるのですか」。イエスは、数え切れないくらい殴られ、打たれ、腫れ上がった頬を緩ませて、こう答えてくださるでしょう。「わたしこそ、それです」と。「疲れた者よ、苦しんでいる者よ、永遠のいのちを求める者よ、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と。罪を赦し、十字架ですべての罪を贖ってくださったイエス・キリストを心に受け入れましょう。報 告1.イエスよ十字架に われを引きて 絶えずみもとに保ちたまえ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
2.十字架によりて われ世に死し 十字架によりて 世われに死す 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
3.君の御跡を 踏みて進まん 十字架の悩み 日々覚えつ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
4.憂き悲しみも 御名のために 忍ぶわが身は楽しきかな 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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2022.3.20主日礼拝説教「目を覚まして祈り続けよ」(マルコ14:32-42)
私が小学生の頃に読んだマンガ、故・石ノ森(当時は石森)章太郎先生の代表作『サイボーグ009』3巻(ベトナム戦争編)に、作者のコラム(読者からのお便り紹介)として、不思議な詩が紹介されていました。今回のウクライナとロシアの戦いを連想させるもので、40年ぶりにもう一度読み直そうとヤフオクにて送料込みで480円で入手しました。もともとの定価は220円でした。時代を感じます。


そこに書かれていた「読者からのお便り」にはこのようにあります。
そこに書かれていた「読者からのお便り」にはこのようにあります。
これは今、サイゴンで流行している童話です。(注:昭和40年当時)私は、この童話が大変気に入りましたが、おかしなことに、いったい何をいっているのかわかりません。ベトナム戦争について語っていることくらいしか。先生には、わかりますか。この童話をベトナム戦記から見つけ出しました。・・・(中略)・・・先生に、お願いがあります。「(サイボーグ)009」たちがベトナムにいった時のようなマンガを、もう一度かいてほしいのです。ベトナム人民の苦しみを、よくあらわしたすばらしいマンガを、できればカエルとサソリの童話の意味も書き入れてください。(新潟市 H.M)ロシアという大国がもつサソリの尾は、かつて同じ祖国の一部であったウクライナの人々の命を幾千も奪っています。しかし同時に、ロシアの普通の兵士たちの中にも、一生癒えることのない傷をもたらすのでしょう。もし石ノ森章太郎先生がご存命なら、このウクライナでの悲劇をどのようにかいたでしょうか。
前 奏8身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。2017 新日本聖書刊行会
1.天地(あめつち)の御神をば ほめまつれ人の子よ われらが主の御殿(みとの)こそ 照り輝け いや栄(は)えて
2.光をば衣(ころも)とし 黒雲を車とし 雷(いかずち)してさきおわせ よろず治(し)らす かしこさよ
3.いとくすし主の律法(おきて) 雪と敷き雨と降り 谷を走り野に流れ 風とそよぎ花と咲く
4.塵(ちり)ひじに生(な)りし身は 主に頼るほかぞなき 代々(よよ)変わらぬ御恵みや わが御神よ、わが父よ アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」39イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」2017 新日本聖書刊行会
1.
「お祈りください」「祈っています」。クリスチャンの間では当たり前のように使われているやりとりです。私たちは「祈り」が現実を変えることのできる神の力であることを本気で信じています。たとえ世の人々にとっては愚かに見えても、私たちにとってはそうではありません。どんな小さな者の祈りも、神の国の石垣の中に組み込まれています。そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに命じられた言葉からも、その真理を学ぶことができるのです。
十字架が刻一刻と迫る夜、イエスは、オリーブの木が生い茂るゲツセマネの園に向かわれました。そして弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を特別に選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。なぜ主はこの三人を選ばれたのでしょうか。それは、この三人をまことの弟子とするためには、彼らが自分自身の姿を知らなければならないことを教えるためであったのかもしれません。ペテロは、イエス様のためなら命を捨てると言いました。ヨハネとヤコブは、イエス様から「わたしが飲もうとしている杯をあなたがたは飲めますか」と聞かれたとき、「飲めます」と答えました。しかし彼らは自分たちの弱さを知らない。ペテロは土壇場でイエスを知らないと言って逃げ出します。ヨハネとヤコブも、十字架の杯に口をつけることもなく、やはり逃げ出します。
私たちは、自分の本当の姿を知らないままでは、神に本気になって頼ろうとはしません。口先では神を信じていると言っても、心の中では自分で何とかできると考えます。本当の自分は、自分が思っているような人間ではないと打ちのめされて、初めてそこからまことの弟子としての一歩が始まるのです。だからこそ主はこの三人を選ばれました。イエスのためなら命を捨てると言いながら、わずかな時間さえも祈り続けることができない、屈辱にまみれた姿を体験させました。
2.
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」。イエス様は自分の弱さを見せることも恥となさいませんでした。それは自分が強いと過信する者に対して、本当の強さは自らの弱さを認め、父なる神にゆだねきった者の中にあることを教えるためでした。「恐れ」「もだえ」「悲しみ」「死」・・・およそ王の王、主の主にはふさわしくない言葉が園に響きました。その叫びの主は、それまで三人が知っていたイエスとはまるで違います。あの凛とした神の御子が、弟子たちの前に弱さをさらけ出しています。恐れが顔に浮かび、その震える指先は、彼の苦悩を示します。その唇からは「悲しみ」、あまつさえ「死」という言葉さえ飛び出した。そして主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ」。「目をさましていてくれ」。わたしと一緒に、目をさまして祈っていてください。
十字架は、まことの神であり、まことの人であるイエスにしか背負うことのできないものです。人は、自分が罪人であることを受け入れようとしません。そして受け入れたとしても、その罪の事実を小さく扱い、罪意識を薄めます。「みながやっているんだから」「仕方がなかったんだ」という具合にです。しかしイエスは、人間がみな罪の奴隷となっている現実から決して目をそむけません。だからこそ、イエスは弟子たちの前に、人としての弱さをさらけ出します。「私は悲しみのあまり死にそうです」と。全人類の罪のために、今自分が身代わりとなる時がやってきた。この地上の誰も、その苦悩を理解できるものはいない。全人類の身代わりとして父なる神から引き離されてしまうという悲しみ。十字架の上で愛する父からのろわれた者となる悲しみ。弟子たちは、その苦しみの深さはまったくわからない。しかしキリストは、それでも弟子たちに懇願するのです。どうか目を覚ましていてくれ。私をひとりにしないでくれ。一緒に祈っていてくれ。あなたがたの祈りが、今の私には必要なのだ。
3.
イエス・キリストは弟子たちから目を上げて、高く目を天に向ける。闇空を春の月が煌々と照らし、穏やかな風が吹いている。しかしこの瞬間、キリストには聞こえていたでしょう。この穏やかそのものに見える世界の裏側で、今よみの門が重い扉を開き始めた音を。罪も死も一切関わりのないはずのお方が、いま全人類の罪を背負い、死というさばきを受けるために、十字架に向かおうとしている。その戦いは、神の子イエスでさえ、この杯を取りのけてくださいと願わずにはいられないほどの恐怖との戦いでした。イエスはすべての人間の身代わりとなられましたが、イエスの身代わりになれる人はだれもいません。たった一人の孤独な戦いです。そして誘惑者であるサタンは、イエスが最も祈りの支援を必要としておられるその時、弟子たちを見事に眠りこけさせることに成功しました。サタンは勝ち誇ってこうささやいたかもしれません。「キリストよ、あなたはひとりぼっちだ。あなたのために命を捨てると言った弟子たちもあなたを見捨て、そして十字架の上で神もあなたを見捨てるだろう」。
しかしイエスは、決して祈ることをやめることはありません。十字架への道から逃げることはありません。ひたすら父なる神に祈り、叫び、何度も弟子たちのもとにやってきて、こう語られました。誘惑に陥らないように目をさまして、祈っていなさい。私の祈りの姿を目に焼き付け、私の祈りの言葉から学びなさい。そしてイエスの祈りの言葉は、私たちがどんな状況にあっても忘れてはならない言葉です。「しかし、わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と。
結.
私たちの祈りは、小さな祈りです。しかしそんな私たちの祈りを、今も主は必要としておられる。私たちの願いが叶えられるために祈るのではなく、みこころが実現するために私たちは祈ります。弟子たちは眠りこけているばかりでしたが、しかし最後に彼らの目には祈りがもたらす姿が映し出されました。イエスが祈りの後、たてがみを震わせて大声で叫ぶ獅子のように立ち上がり、十字架に向かっていく姿を彼らは目にしたのです。42節、「立ちなさい。さあ、行くのです」。罪を繰り返し己の弱さを嘆く者は、主の祈りの姿に学びましょう。現実の戦いの中で疲れ果てた者は、主の祈りの言葉を口ずさみましょう。そしてあらゆるクリスチャンは、どんなに小さな者の祈りをも必要としておられる主をほめたたえましょう。主は勝利されました。ゲツセマネでの祈りを通して、十字架を確かに選び取ったとき、イエス様はすでに悪魔に対して圧倒的な勝利をされたのです。私たちも、祈りを通して勝ちゆく者たちです。目を覚まして、みこころが実現するために祈り続けましょう。報 告1.御国をも御座(みくら)をも 後に捨てまして 降りにしイエス君を 受くる家あらず 住み給え君よ ここにこの胸に
2.御使いは声高く 御名をほむれども 神の子はうまぶねに 生まれ給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
3.狐にも穴はあり 鳥に巣はあれど 人の子は地の上に 眠り給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
4.つながれし罪人を 放ちます君を カルバリに苦しめし 人のつれなさよ 住み給え君よ ここにこの胸に アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.13主日礼拝説教「礼拝を奪われた怒り」(ルカ19:41-47)
アーノルド・シュワルツェネッガー氏が反戦を呼びかけた動画が話題です。
本来の動画は9分を超える長さで、ここでは前半が省略されていますが、そこでは14歳のときにロシア人の重量挙げ選手ユーリ・ウラソフに憧れて身体を鍛えるようになり、俳優、そして政治家に至った人生について語られています。(映像の0:17部分でちらっと映る青色のコーヒーカップは、ずっと後になってウラソフからもらったものだそうです)全文の翻訳は、毎日新聞社のニュース記事シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画から読むことができますので、ご覧ください。ウクライナとロシアとの戦争が始まって以来聞いた多くのメッセージの中で、これほど簡潔でわかりやすく、さらにウクライナ人だけでなくロシア人に対しても温かさを失なわないメッセージを私は知りません。戦いが一日も早く終わり、ロシアとウクライナが心の底から和解できる日が訪れるように祈りましょう。
本来の動画は9分を超える長さで、ここでは前半が省略されていますが、そこでは14歳のときにロシア人の重量挙げ選手ユーリ・ウラソフに憧れて身体を鍛えるようになり、俳優、そして政治家に至った人生について語られています。(映像の0:17部分でちらっと映る青色のコーヒーカップは、ずっと後になってウラソフからもらったものだそうです)全文の翻訳は、毎日新聞社のニュース記事シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画から読むことができますので、ご覧ください。ウクライナとロシアとの戦争が始まって以来聞いた多くのメッセージの中で、これほど簡潔でわかりやすく、さらにウクライナ人だけでなくロシア人に対しても温かさを失なわないメッセージを私は知りません。戦いが一日も早く終わり、ロシアとウクライナが心の底から和解できる日が訪れるように祈りましょう。
前 奏3【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4なぜなら、【主】がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6また、【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。2017 新日本聖書刊行会
1.たたえよ救い主イエスを くすしき愛をば宣べ 崇めよ御使いと共に 尊きイエスの御名をば
か弱き我ら羊を 飼い主イエスはいだく たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く
2.たたえよ人の罪ゆえに 十字架につきし君を 君こそとこしえの岩よ 変わらぬ我が望みよ
心の病ことごと 癒やされ安き受けぬ たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く
3.たたえよ栄えあるイエスを 御国の門(かど)揺るがせ ときわに統べたもうイエスに 冠(かむり)をささげまつり
まもなくイエスは来たりて あまねく地をば治めん たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)41エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。43やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、44そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
45それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、46彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」47イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、48何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。2017 新日本聖書刊行会
序.
四旬節の二週目に入りました。四旬節の「四旬」とは、40日を指します。聖書では40日は苦しみを象徴する期間とされていますが、イエス様が十字架で私たちのために死んでくださった苦しみを、私たちは実際の40日間、約6週にわたる礼拝の中でとくにおぼえつつ、そして今年は4月17日にあたる復活の日、イースターを迎えるのです。礼拝説教においては、イエス様が十字架へと一歩一歩向かっていく姿を何週間かにわたって一緒に見ていくことを考えています。
1.
さて、過越の祭が一週間後に迫った中、イエス・キリストは、人々の大歓声を受けながら、エルサレムへと近づいておられました。イエス様は救い主の象徴である、ろばの子にまたがり、人々は棕櫚の枝や、自分たちの上着を赤絨毯のように敷いて、エルサレムの城門まで花道を整えました。人々の歓声や、喜ぶ表情を見ながら、イエスの弟子たちは誇らしい気持ちで一杯だったでしょう。しかしイエス様の思いはどうだったでしょうか。聖書はこう記しています。「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いた」と。ここで「泣いた」と訳されている言葉は、声をあげて激しく泣き叫んだという意味です。エルサレム、それは過去も、現在も、未来も、どこを切り取っても、神を悲しませるもので満ちていました。
過去。数千年のあいだ、神は預言者たちを通して、エルサレムに罪の悔い改めを語ってきました。しかしこの町の人々は悔い改めるどころか、預言者たちを捕らえて殺してきたのです。
現在。神はイエス・キリストという人として地上にお下りになり、みことばと奇跡を用いてエルサレムを再び悔い改めに導こうとされました。しかしエルサレムは、救い主を受け入れようとしません。イエスを歓迎しているのは、エルサレムの人々ではなく、ガリラヤや、外国から過越の祭のために集まってきた人々です。そして彼らもやがてイエスを見捨て、十字架につけろと叫ぶようになります。ましてやエルサレムの人々は、イエスを歓迎するどころか、むしろイエスを捕らえて殺そうとしている者たちさえいました。
そして未来。悔い改めを拒み続けたエルサレムは、紀元70年、ローマ皇帝の軍隊に包囲され、美しかった神殿は焼かれて崩されて廃墟となり、エルサレムの人々は老人から赤子に至るまで、数万、数十万人の犠牲者を生み出します。
2.
イエス様は、かたくなな心から決して離れようとしないエルサレムのために、声をあげて激しく泣き叫びました。「それは、神の訪れの時をお前が知らなかったからだ」と。イエス様の叫びは、私たちひとり一人に対する慟哭でもあります。自分自身を見つめることなく、心をかたくなにしていたのは私たち自身でした。神を悲しませてきた自分の生き方に気づくことなく、自分は正しいと信じ込んで、かえって神も人も傷つけて生きてきたのは私たちでした。イエス様がエルサレムに対して流された涙は、私たちに対するあわれみの涙でもあります。二千年前にエルサレムの町の外に立てられた十字架は、私たちの心に立てられるべき十字架でした。そしてエルサレムの人々がイエスを信じることができなかったのに、私たちが信じることができたのは、ただ神さまのあわれみです。あわれみによって救われた私たちひとり一人だからこそ、改めて今日、みことばによって心を砕かれて、イエス様を愛する者とさせていただきたいと願います。
イエス様はエルサレムに入ると、真っ先に宮に向かわれました。そしてここから、「宮きよめ」と呼ばれる、有名な出来事が始まります。ここに描かれているイエス様の姿は、私たちが知っている柔和な救い主のイメージからはかけ離れているかもしれません。しかし、神の怒りは、神の愛と表裏一体です。イエス様が商売人を追い出し、いすを打ち倒しているその怒りの激しさは、神が涙を流しながら失われた人々を探し回り、救おうとしておられる愛の激しさの裏返しです。なぜイエス様は、ここまでお怒りになったのでしょうか。それは、これらの商売人や両替人、そして彼らと結託していた祭司階級、彼らの欲望のために、神を心から求める人々の礼拝が奪われていたからです。
3.
いけにえを売る者たちや、両替人たちは、神殿の中に陣取っていたのではなく、前庭にあたる「異邦人の庭」で売り買いをしていました。その異邦人の庭は、イスラエルのまことの神を信じるようになった改宗者たちが、みことばを聞くことのできる唯一の場所でした。外国人は、たとえ改宗したとしても、神殿の中に入ることはできなかったのです。彼らにとって、その異邦人の庭こそが、神を礼拝することができる神殿そのものでした。しかし「私の父の家を強盗の巣にした」とイエス様に言われた人々は、外国人にとって、神を礼拝することができる唯一の場所である、異邦人の庭を奪ってしまったのです。
現代の教会は、社会が求める現実的なニーズに答えていく責任があります。給食事業や学習支援など、それはこれから私たちの教会も協力することができるでしょうし、そのために新しく広い場所が与えられたとも感じています。しかし同時に、教会というところはいつでも祈り、礼拝をささげ、聖書を開くことができる場所であるべきです。イエス様が神殿の現実に激しく憤られたのは、神に出会うべき異邦人の庭で売り買いや両替の場となっており、異邦人たちの礼拝が妨げられていることでした。では金儲けでなければよいのでしょうか。否、たとえどんなに人々に喜ばれる働きであっても、礼拝が妨げられるようであれば同じです。私たちは礼拝と聞くと日曜日を連想しますが、それは主日礼拝という一つの形だけを指しています。教会は礼拝をささげるところという定義がまことであれば、それはだれでも、どんなときでも、教会に来て礼拝や祈祷をささげることができるということです。教会が地域の方々のニーズに応えるものであると同時に、それとはまた違う、神の前で祈りたい、整えられた場所で礼拝をささげたい、と求める人々もまた、いつでもお迎えできるような、そのようなビジョンを求めていきたいと願っています。
結.
異邦人の庭から商売人たちを追い出した翌日から、イエス様は十字架までの一週間、毎日、神殿でみことばを教えました。ユダヤ人に対しては神殿の中で、異邦人に対しては神殿の庭で語られたのかもしれません。イエス様にとって、地上での最後の一週間、まさにライフワークは、みことばを語ることであったことがわかります。みことばが語られるとき、私たちの心の中に救いの喜びが沸き起こります。しかしそのために必要なことは、私たち自身の心の中が、神を礼拝するための異邦人の庭のように、整えられているということです。あなたの心の中は、イエス様が宮をきよめる前のような、家畜の鳴き声や、貨幣をじゃらじゃらという雑音に覆われてはいないでしょうか。イエス様は、あなたの心の中から雑音や雑念を放り投げてくださるお方です。祈りの家でささげられる礼拝にふさわしく、私たちもまた最後にそれぞれで祈りましょう。この豊栄キリスト教会が、町の人々にとって必要な場所となると同時に、いつでも祈ることができる場所として整えられていくように。そのために今取り組んでいる新会堂建設においても、神が豊かに導いてくださるように。そして私たちひとり一人の心が、求道者もクリスチャンも、神のことばがよく聞こえるまっさらな場所として、イエス様が整えてくださるように。報 告1.馬槽の中に産声(うぶごえ)あげ 木工(たくみ)の家に人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ
2.食する暇もうち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きし この人を見よ
3.すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現れたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.6主日礼拝説教「祈りはすべての人のために」(第一テモテ2:1-7)
11回目の3.11の日がやって来ました。今も故郷に帰ることのできない方々や、ご家族を震災で亡くされた方をはじめとして、ひとり一人の上に主の慰めがありますようにと祈ります。地震やウイルスは人間の力を超えたものですが、戦争は人が始め、人が止めることのできる、いや止めなければならないものです。ウクライナ戦争が始まって二週間が過ぎました。ともに祈りをあわせていきたいと願います。
日本同盟基督教団・理事会からウクライナのための祈りの呼びかけ
日本同盟基督教団・理事会からウクライナのための祈りの呼びかけ
前 奏23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)1そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。2それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。3そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。7その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。2017 新日本聖書刊行会
1.
かつてイエス・キリストはこう語りました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と。パウロもまた同じです。実際にクリスチャンを苦しめていた王や為政者を含めて、すべての人のために祈りなさい。祈りは神が教会に与えたもうた、唯一の武器である。そしてあらゆる困難は、この祈りの力によって最善へと変えられていく。パウロはこの手紙を書いた数年後、ローマ皇帝ネロによって拷問の末に殺されたと言われています。この皇帝ネロは、たびたび映画にもなりましたが、ローマの町に自ら火をつけて、宮殿の上から、眼下の燃えさかる人々を見つめながら狂喜乱舞し、その放火の罪をクリスチャンになすりつけたという伝説が残るほどの悪名高き王でした。
しかしパウロはそのような人々のためにさえも祈りなさい、というのです。それは、パウロが心の底から祈りの力を信じていたからです。かつて教会を迫害する者であったパウロさえも抵抗できなかった、神の大いなる力、それが私たちの祈りの中に確かに込められている。祈りは私たちを救いへと導く神の力です。祈りは、地上に生きるどのような人々をも神のもとへ誘う力を持っている。王であろうが奴隷であろうが関係ない。男も女も関係ない。ユダヤ人だろうがギリシャ人だろうが関係ない。パウロはテモテに対して命じます。すべての人のために、願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。これは最近の新しい訳ですが、以前の翻訳では「ささげられるようにしなさい」となっていました。そしてそちらのほうが正しい訳だと思います。テモテだけが祈りをささげるのではなく、牧会者であるテモテは、教会員に対して「ささげられるようにしなさい」と、祈りの力を整えていく責任がある。教会が、教会全体の使命として、すべての人のためにとりなしの祈りをささげること、それは時代や状況が変わろうとも、私たちがまずはじめにしなければならないことです。
2.
どんなに祈っても、政治家たちは変わらないように思えます。どんなに祈っても、救われる人は数少ないように思えます。しかし目に見える現実は厳しくても、神のみこころは明らかです。4節、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」。この言葉は、それ以前の文脈に照らしてみるならば、神がすべての人が救われて真理を知るようになるために用いられる手段は、私たちの祈りなのだ、ということです。
ある日本人牧師が、スコットランドを旅行した折、彼の地の教会の祈祷会に出席しました。そこでは人々が、宣教師からの手紙を片手に、日本の教会のために祈っていたそうです。「シャイラトリダーイ」という教会の、「キュドー」さんといった言葉が聞こえました。きっとどこかの「しらとり台」の「工藤」さんのことなのだろう。行ったこともない外国の、読み方も正確ではない教会や個人のために一生懸命祈っている姿に、「日本人がこのようにはるか遠くの町の名前を挙げ、見知らぬ外国人の名前をひとり一人おぼえて、心と涙を注ぎ出して祈る日が来ますように」とその牧師もまた祈らずにいられなかったそうです。
今から40年前に発行された本の中にあるエピソードです。インターネットや電子メールがない時代です。今、私たちはどんなに遠く離れた地の情報も知り得る時代に生きていますが、むしろ多くの教会で聞かれるのは、祈祷会の衰退です。時代が変わり、生活が変わったと理由をつけることはできるかもしれませんが、結局の所は、祈りの力に全幅の信頼を寄せることができていない、私たちの信仰の衰えに行き着くのです。私たちのどんな小さな集会でのどんな小さな祈りさえ、神があらゆる人々を救うために用いられるのだという霊的真理に、絶大なる信頼を寄せていきたい。祈りは、神が私たちに与えてくださった特権であり、責任でもあるのです。
3.
神はすべての人が救われることを望んでおられます。それを表すしるしが、キリストがすべての人の身代わりとして、十字架で死んでくださったことでした。父なる神のみこころ、イエス・キリストのみこころ、そして私たちの願いが一つになるところ、それが十字架であり、すべての人が救われるようにという祈りです。このたびのウクライナ戦争を見るにつけ、今から約20年前の出来事を思い出します。当時、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器、つまり核ミサイルを隠し持っているという情報から、戦争への秒読みが始まっていました。結局、それは最後まで見つかりませんでしたが、追い詰められたフセイン大統領が核のボタンを押すかもしれないという不安もありました。
そのときに日本の教会は祈ること以外には、何もできませんでした。しかし同じ時期に開かれていた同盟教団の総会の中で、ある牧師がこう語りました。世界中の人々が行動を起こしている。ある者たちは義勇兵に志願し、ある者たちはデモに参加している。しかし私たちには祈ることしかできない。だとすれば、心から祈り切った、もうこれ以上は祈れない、と言えるほどの、決然とした祈りをささげようではないか、と。私はロシア軍がウクライナに攻め込んだとき、たとえロシア軍が数日でウクライナを占領しても、かの国の子どもたちはやがて大人になり、ロシアに復讐するだろうと思いました。しかしこの数日の状況を見ると、それに加えて、ロシアの子どもたちも、世界への復讐心を持つようになるのだろうと思っています。戦争には勝者も敗者もなく、関わったすべての者に、耐えがたい傷を残します。そのような世界で、私たちは何ができるのでしょうか。祈ることしかできません。しかし祈ることだけはできます。それならば祈り続けましょう。すべての人々が救われるように。キリストの平和がこの世界を覆い尽くすように、祈り続ける者となりましょう。報 告1.緑も深き 若葉の里 ナザレの村よ 汝(な)がちまたを
心清らに 行き交(か)いつつ 育ち給いし 人を知るや
2.その頭(こうべ)には 冠(かむり)もなく その衣には 飾りもなく
人の住まいを ととのえつつ 主は若き日を 過(す)ぎ給えり
3.人の子イエスよ 君の御名を み使いたちの ほむる時に
恵みに匂い 愛に香る 御足の跡を われはたどらん アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.27主日礼拝説教「何かを得るとは何かを失うこと」(マタイ4:18-22)
ウクライナ戦争がますます泥沼化しています。お祈りください。
「今回の戦争の背後には、東部の親ロシア派住民に対する虐殺行為があった」「プーチンが望んでいることは、ロシアとNATO加盟国との間に緩衝地帯を作ること」といった一部論調があります。私は大学時代に近代ドイツ史が専門でしたが、このような論調は、まさにヒトラーがチェコスロバキアを攻撃したときとまったく同じでした。当時、チェコは「ドイツの下腹にささった短剣」と言われる地理的条件にあり、またドイツとの国境地帯、ズデーテンラント地方には親ドイツ人が住んでいました。ヒトラーはオーストリアを併合した後、ズデーテンラントを割譲すればこれ以上の領土拡大は必要ないと主張して、結局はその後、チェコ全体を併合、さらにポーランドに攻め込み、第二次世界大戦を引き起こしたのです。
プーチンは「昭和の人」です。(私も昭和生まれです)ソ連崩壊のきっかけとも言えるベルリンの壁崩壊は1989年、日本ではちょうど平成に入った年でした。プーチンの理想とする国家は、昭和時代の強いソ連です。ですから彼の夢はウクライナ東部住民を守るとか、緩衝地帯を設けるといったもので終わるはずがありません。彼はこれからも、核ミサイルのボタンを常に握りしめながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。それは彼以外の80億人にとっては悪夢でしかありませんが、彼にとっては正義なのです。
彼は80億人の命を人質に、これからも要求を出していくことでしょう。しかし地上での人の悪にも関わらず、神のみこころは地上でもその栄光を現されます。私たちは今は祈ることしかできませんが、祈りが教会に与えられた唯一の武器であることを認めなければなりません。
「今回の戦争の背後には、東部の親ロシア派住民に対する虐殺行為があった」「プーチンが望んでいることは、ロシアとNATO加盟国との間に緩衝地帯を作ること」といった一部論調があります。私は大学時代に近代ドイツ史が専門でしたが、このような論調は、まさにヒトラーがチェコスロバキアを攻撃したときとまったく同じでした。当時、チェコは「ドイツの下腹にささった短剣」と言われる地理的条件にあり、またドイツとの国境地帯、ズデーテンラント地方には親ドイツ人が住んでいました。ヒトラーはオーストリアを併合した後、ズデーテンラントを割譲すればこれ以上の領土拡大は必要ないと主張して、結局はその後、チェコ全体を併合、さらにポーランドに攻め込み、第二次世界大戦を引き起こしたのです。
プーチンは「昭和の人」です。(私も昭和生まれです)ソ連崩壊のきっかけとも言えるベルリンの壁崩壊は1989年、日本ではちょうど平成に入った年でした。プーチンの理想とする国家は、昭和時代の強いソ連です。ですから彼の夢はウクライナ東部住民を守るとか、緩衝地帯を設けるといったもので終わるはずがありません。彼はこれからも、核ミサイルのボタンを常に握りしめながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。それは彼以外の80億人にとっては悪夢でしかありませんが、彼にとっては正義なのです。
彼は80億人の命を人質に、これからも要求を出していくことでしょう。しかし地上での人の悪にも関わらず、神のみこころは地上でもその栄光を現されます。私たちは今は祈ることしかできませんが、祈りが教会に与えられた唯一の武器であることを認めなければなりません。
前 奏44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。47また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。48網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。2017 新日本聖書刊行会
1.父の神よ 夜は去りて 新たなる 朝となりぬ われらは今 御前に出でて 御名を崇む
2.万有の主よ 御顔仰ぐ しもべらを 強くなして 天つ国の 尽きぬ恵みを 得させ給え
3.三つにまして ひとりの神 御救いは 尊きかな 御名の光 照り輝きて 世にあまねし アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)18イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」20彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。21イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。22彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。2017 新日本聖書刊行会
序.
北京で開かれていた冬季オリンピックが閉幕しました。日本人選手は18個のメダルを獲得し、これは歴代最多の快挙であったそうです。この冬季オリンピックで行われた競技のひとつに、ノルディックスキー複合というものがあります。欧米では「キング・オブ・スキー」、スキー競技の王様という面白い名前がついています。どこらへんが王様かというと、この競技はクロスカントリースキーとスキージャンプの二つの競技が組み合わされているのですが、一方は持久力が必要、もう一方は瞬発力が必要とされており、この二つはあたかも綱引きのような関係にあります。つまり、持久力をつけようとすれば瞬発力が下がり、逆に瞬発力を上げようとすれば、持久力が落ちる。今回、この競技で日本に銅メダルをもたらした渡部暁斗(わたべ・あきと)選手が、こんなコメントを残しています。ジャンプだと、体重が軽ければその分、滞空時間は伸びますので、有利に働きます。でも、一方のクロスカントリーに置き換えると、パワー不足。スピードが出せない。なので、一方を求めるとなれば一方を諦めなきゃいけない。あれもこれもは無理なんです。足し算のスポーツではないんですよ。精神的にも、日々何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返しです。1.
「何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返し」。この言葉は、信仰生活にも当てはまります。私たちがイエス・キリストを信じたということは、渡邉選手の言葉を借りるならば、足し算ではなくて、引き算です。それまで自分が大切にしていたものを失い、新しくイエス・キリストというものを受けたのです。別の言葉で言い換えるならば、「あれもこれも」ではなくて「あれかこれか」です。
しかしもう少し説明を加えるならば、それはヘビースモーカーのお父さんが禁煙という二文字を大きく書いて、歯を食いしばってタバコを我慢する、といったものとは違っています。イエス・キリストの十字架の贖いが、頭ではなくて魂の中に聖霊によって注ぎ込まれるとき、私たちは自分が心地よさを感じる居場所を変えられていくのです。つまり、それまでは生活の中でこれがなければ人生楽しくない、と思っていたものよりも、はるかに心が安らぎ、喜びが沸き起こってくるものを与えられたとき、それまで大切にしていたものにさえ興味を失い、このイエス・キリストが自分自身の居場所となっていく。それが私たちが救いを得たことによって、何かを失う、ということです。
逆に、もし私たちがイエス・キリストを信じるということを、何も失うことなく、ただ今まで自分が持っていたものの上にイエスを追加する、上乗せすることだという考えにとどまっているならば、ある程度までは信仰とそれまでの楽しみを両立できても、時間・仕事・人間関係、こういったものが切羽詰まってきたときに、キリストを捨てるか、それともそれらのものを捨てるか、に直面したとき、信仰が激しく揺れ動く、ということが起こります。しかしそれが起こること自体が罪ではありません。自分の信仰がそこで試されていくということです。そしてそこで初めて自分にとって何が一番大切なのか、内なる御霊が示し、心の中に改めて喜びが沸き起こってくる、ということも起こるでしょう。
2.
聖書の中には、何かを得るために、何かを捨てた人々の話が数え切れないくらい出て来ます。畑に隠された宝を見つけた人は、全財産を売り払ってその地所を手に入れました。極上の真珠を見つけた商人もまた、全財産を売り払い、その真珠を手に入れました。惜しいと思わないのです。すべてを売り払っても手に入れたいもの、それがイエス・キリストにある永遠のいのちです。ペテロやヨハネといった人々も、まさに同じ思いで、自分の人生を差し出したのです。
イエスに出会い、イエスを信じた者たちは、何かを捨てなければなりません。信じる前は、誰もがそれにおびえるのです。捨てることはできない、と。しかし自分のために命を捨ててくださった方、イエス・キリストが、私たちの心の中に入ってきてくださったときに、それまで盲目的に、あるいは機械的に、これこれが人生に必要なものなのだ、何よりも大切なものなのだとすり込まれてきた心が、内側から生まれ変わります。そのすりこまれたこれこれは、人によって異なるでしょう。お金であったり、生きがいであったり、家族であったり、仕事であったり、ゲームソフトであったりします。しかしイエス・キリストはそれらのどれよりも価値があるものです。いや、むしろこの方が確かに生きておられるからこそ、私たちの中に価値が生まれると言うべきでしょう。
もしこのイエスに出会うことがなかったならば、そしてこの方を信じることがなかったならば、私たちの人生も、私たち自身も、むなしいものです。しかし神は、私たちがむなしいままでいることを決して望んでおられません。ましてや私たちが永遠の滅びに向かっていることに耐えられない、それが神の愛です。私たちがこの愛に応えるとき、神は私たちの中から何かをそぎ落とされます。しかしそれはなくても困らないものです。むしろそれに執着し続けているがゆえに、平安がないまま、生きている人々があまりにも多いのです。
3.
マタイは、今日の聖書の中で、あくまでもイエス様の目線を中心に書いています。つまり、ペテロとアンデレが網を打っていた、という書き方ではなく、ペテロとアンデレが網を打っているのをイエスはご覧になった、と書いています。ヤコブとヨハネの兄弟に対しても同じです。彼らが網を繕っているのを見ると、彼らをお呼びになった、と書かれています。イエスのまなざしが、この物語の真ん中にあります。これは何を意味しているのでしょうか。
キリストはご自分に従う者を知っておられます。そして彼らを見つめておられます。彼らは自分自身をよく知っています。自分は漁師しかできない、家族の面倒を見なければならない、生活の糧を得るために網を繕わなければならない・・・しかし主はすべてご存じです。そしてその上で、私に従いなさいと言われます。あなたの心配は、あなた以上にわたしが知っている。わたしがあなたをつくり、あなたを選んだのだから。だがあなたは網を捨てよ、舟を捨てよ、あなたの力だけで人生を支えていこうとする努力をやめよ、あなたの重荷を私にゆだねよ、あなたをずっと見つめてきた私が、あなたの人生を導いていくのだから、と。
「何かを手に入れるためには、何かを捨てなければならない」。それは私たちすべての人間にあてはまる真理です。もし救いを手に入れたいのであれば、今まで偶像に縛られていた生き方を捨てなければなりません。もし動かない平安を手に入れたいのであれば、不安を呼び起こしている、生活の中のさまざまなカスを捨てていかなければなりません。しかしそれは、私たちの力で変えていくのではない。私を生かす御霊なる神よ、私の中に満ちてください、そして私を導いてくださいと呼び求めていくのです。変えるのではなく、変えられなければならない。ひとり一人が、捨てることにおびえないように。変えられていく勇気と決断をもつことができるように。報 告1.われらは来たりぬ はるけき国より 星に導かれ 野山越えて
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
2.わが持ち来たれる 貴き黄金(こがね)を メシアの冠(かむり)の 飾りとなさん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
3.わが持ち来たれる 乳香ささげて いと高き御神 共にたたえん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
4.わが持ち来たれる 没薬ささげて 御苦しみの日に 備えまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
5.よろずを統べます メシアは生まれぬ ハレルヤ ハレルヤ たたえまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.20主日礼拝説教「引き継ぎ、引き継がれ」(マタイ4:12-17)
イギリスの古いことわざに「一番ひどいのは負けいくさ、次にひどいのは勝ちいくさ」というものがあるそうです。戦争は何も生み出しません。勝者も敗者もおらず、すべてが敗者であり、加害者である国の中にも多くの被害(者)をもたらします。ましてや一方的に被害者とさせられた国の中には復讐と怨嗟が生まれ、やがて次の世代の者たちは加害者の側に回ります。「神がいるならどうしてこのような蛮行を許すのか」と天に向かって叫ぶより先に、この地上で罪の中をうごめき、まったく変わらない、否、変われない、人類の愚かさを悔悛しなければなりません。
どうかこれ以上の犠牲がとどめられ、愚かな行為から立ち返ることができるように。犠牲となった人々の上に、主の慰めがありますように。憎悪の連鎖を断ち切ることができるように。
どうかこれ以上の犠牲がとどめられ、愚かな行為から立ち返ることができるように。犠牲となった人々の上に、主の慰めがありますように。憎悪の連鎖を断ち切ることができるように。
前 奏19人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。
1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。2闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。2017 新日本聖書刊行会
1.輝く日を仰ぐとき 月星 眺むる時 雷(いかずち)鳴り渡る時 まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
2.森にて鳥の音(ね)を聞き そびゆる山に登り 谷間の流れの声に まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
3.御神は世人(よびと)を愛し ひとりの御子を降(くだ)し 世人の救いのために 十字架にかからせたり
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
4.天地(あめつち)造りし神は 人をも造り変えて 正しくきよき魂(たましい) 持つ身とならしめ給う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
5.まもなく主イエスは来たり われらを迎え給わん いかなる喜びの日ぞ いかなる栄えの日ぞ
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。13そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。14これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。16暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」17この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」2017 新日本聖書刊行会
1.
12節をお読みします。「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」。荒野でサタンの誘惑を受けたイエスは、その後にエルサレム地方でみことばを語っておられました。しかしそこで、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられたということを聞いたのです。そのときイエス様は何を思ったでしょうか。ヨハネが捕らえられたとすれば、次はわたしだ。敵がひしめいているエルサレムにとどまっていたら危ない。急いで実家のあるガリラヤへ帰ろう。いいえ、そんなことをイエス様が恐れたはずがありません。神の子が死ぬところは十字架の上しかなく、そして十字架の時はまだ来ていない。イエス様はすでにそのような確信を持っていたからです。イエス様がヨハネが捕らえられたことを聞いて、ガリラヤへ立ちのかれたのは、ヨハネが始めた宣教の働きを引き継ぐためでした。イエス様はカペナウムでこう叫ばれました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。
このイエス様の宣言は、もともとヨハネが語っていた言葉とまったく同じものです。ここに私たちは、イエス・キリストにあって、私たち人間の働きというものは必ず引き継がれていくということを見るのです。イエス様は私たちの働きの先駆者でもあります。みことばを宣べ伝えたい、人々に神の愛を体験していただきたい。罪許されて救いをその心の中に受け取っていただきたい。あらゆる宣教の働きは、イエス様から始まっており、私たち信じる者たちに引き継がれたものです。しかし同時に、私たちがこの人生の中で、神のために働いたわざもまた、天で報われるだけではなく、この地上においてイエスはそのバトンを受け取ってくださって次の世代へと必ず引き継いでくださいます。
今から約150年前、明治維新が起こると、文明開化の波とともに、欧米から次々と宣教師が来日し、日本にキリスト教の大きなうねりが訪れました。この新潟に最初にやってきた宣教師が、パーム夫妻という一組の宣教師でした。明治維新から7年後、1875年に現在の中央区にある日本基督教団の東中通教会、これがパーム夫妻によって生み出された、新潟県初のプロテスタント教会と言われています。東中通教会を生み出した後、パーム宣教師は新発田、長岡、水原、(当時、水原は新潟でも最も人口が多い場所でした)などの都市部だけではなく、佐渡、亀田、そして葛塚と、新潟県内の13の地域を巡回して伝道に励みました。ちなみに東中通教会の次に生まれたのが村上教会、その次が中条教会です。新潟教会や長岡教会はその数年後でした。いかに当時の阿賀北地方が伝道有望地として見られていたかがわかると思います。
私たち豊栄キリスト教会は、パームバンドと呼ばれるその流れとは別のものですが、それでも150年も前に葛塚にも宣教の手は広げられていたのです。教会の新会堂用地を得た常盤町はちょうどその150年前頃に開かれた町です。今の言葉で言えばニュータウンにあたるあそこにも、パーム宣教師による福音は宣べ伝えられていたのでしょう。それから150年経って、豊栄キリスト教会がそこに土地を得たというのも不思議な思いがするのです。パーム宣教師の働きは、直接教会を生み出すことはなく、70年を待たなければなりませんでした。1945年、終戦と同時に、アメリカから宣教師チームが来日し、いまの新潟福音教会が形成され、そこのクリスチャンたちがジープやトラックに乗せられてこの葛塚で福音を伝え、そこから家庭集会が生まれ、そしてやはり当時のニュータウンであったこの嘉山にまず幼稚園、そして教会になったのです。
私たちの教会はパーム宣教師の働きとは直接関わってはいないとはしても、そのその祈りと働きが引き継がれていると言えるのではないでしょうか。どんなに人が熱心に働いたとしても、その働きが自分の死と共に引き継がれずに終わってしまうならば、どんな結果もむなしいものです。しかしヨハネの働きを評価し、それを引き継ぎ、同じ言葉をもってカペナウムで叫ばれたイエス・キリストを、聖書がそこから宣教が始まった、と記していること、それは今の私たちの労苦も、決してこの時代で終わってしまうのではなく、必ず引き継がれていくということです。人が引き継ぐのではなく、神が引き継ぎ、そしてそのために主は人を用いてくださるのです。
2.
さて、聖書にはこの出来事が旧約聖書のイザヤ預言が成就するためであった、と記しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
「異邦人のガリラヤ」、「暗やみ、死の地と死の陰にすわっていた人々」。おそらく、暗いものを想像するでしょう。しかし実際は、ガリラヤ地方はイスラエルの中でも最も豊かで、人口が集中していた地域であったのです。イスラエルは南にいくと石ころばかりの荒野ですが、北にあるこのガリラヤ地方はたいへん土壌が豊かな土地であり、作物が育てやすい場所でした。農業が潤うと、それを扱う商業も発展し、人が集まります。有数の農業地帯ガリラヤの、さらにその中心であるカペナウムは、イスラエル随一の商業都市でした。
またこのガリラヤ地方は、ツロ・フェニキア・シリア・ペリシテといった、イスラエルと敵対関係にある国々と接しており、歴史上、異邦人に奪われたり、取り返したりが繰り返された場所でもありました。異邦人に支配されて混血が進んだことで、イスラエル人からは異邦人として差別される苦しみを経験する一方で、外国の文化に触れ続けることで新しいものを積極的に取り入れていく空気が生まれていました。イエス様が、ご自分の出身地であるナザレを出て、カペナウムに拠点を定めたのは、この町に多くの人々が集まり、また保守的な考えに囚われない柔軟さを持っていたからでもありました。
しかし、そのような町の発展と、伝統に縛られない空気にもかかわらず、イザヤのみことばは語っています。彼らは暗やみの中にすわっていた、死の地と死の陰にすわっていた、と。どんなに生活が潤い、新しい文化や考え方にも積極的であったとしても、ガリラヤ人の心は、まことの神から離れていました。イザヤの時代から連綿と続く、外国から入ってきた偶像の神を拝みながら、それでも自分たちは真の神を信じているユダヤ人の一人だと主張していました。物が溢れていても、それを手に入れることのできる経済力も持っていても、決して心は満足せず、幸せを受け取ることができない、それがガリラヤ人を囲んでいた暗やみであり、その先には死が待ち受けていたのです。
イエス様がこのカペナウムを選ばれたのは、人口が集中しているからでもありましたが、それは同時に、神を忘れ、神から離れている人々がひしめいていたからでもありました。そのすべての人に、みことばを伝えなければならない。ヨハネが語った、罪を悔い改めよ、天の御国が近づいたから。イエス様はそのメッセージをもって、ご自分の宣教の始まりとされました。
私たちも、この豊栄に生きる人々に対して語るべき言葉の本質は、ここにあります。悔い改めなさい、天の御国が近づいたから。それは、時代が変わっても、変えてはいけないメッセージではないでしょうか。もちろん悔い改めよと言われて素直にうなずく人はいないでしょう。しかしまず悔い改め、つまり、人生の方向転換を決断し、なくなるものからなくならないものへ、滅ぶべき偶像からまことの神イエス・キリストへ、それは決して変わることのない、たましいを救うための唯一の処方箋です。イエス様を一人でも多くの人々に宣べ伝えること、それは人生を賭けるにふさわしい、神が必ず後代へと引き継いでくださる、すばらしい働きです。すぐに報いが目に見える形で現れることはありません。しかし私たちが地上を去った後、必ず実を結び、むなしく地面で朽ち果てることのない働きです。それは、私たちひとり一人に神さまがゆだねてくださったものなのです。主から引き継ぎ、また主が引き継いでくださって世界に命を取り戻していく、福音宣教を私たちにとってのライフワークとしていきましょう。報 告1.いとも尊き 主はくだりて 血の値(あたい)もて 民を救い きよき住居(すまい)を 造り立てて その礎と なり給えり
2.四方(よも)の国より 選ばるれど 望みも一つ 業(わざ)も一つ 一つの御糧(みかて) 共に受けて ひとりの神を 拝み頼む
3.数多(さわ)の争い み民を裂き 世人(よびと)そしりて 悩むれども 神は絶えざる 祈りを聞き 涙に代えて 歌を賜わん
4.世に残る民 去りし民と 共に交わり 神を仰ぎ 永遠(とわ)の安きを 待ち望みて 君の来ますを 切に祈る アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.13主日礼拝説教「ただ一つのことに向かって走る」(ピリピ3:12-16)
前 奏1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。2017 新日本聖書刊行会
1.主の真実(まこと)はくしきかな 迷い悩むこの身を とこしなえに変わらざる 父のもとに導く
大いなるは主のまことぞ 朝に夕に絶えせず 御恵みもて支え給う たたえまつらんわが主を
2.春も秋も夏冬も 月も星もすべては 主のまことと憐れみと 尽きぬ愛を表す
大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を
3.罪人らを憐れみて 救い給う御恵み 喜び満ち望みもて 仕えまつるうれしさ
大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。15ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。16ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。2017 新日本聖書刊行会
1.
13、14節をお読みします。「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」
このみことばは、今年度の教会目標聖句として示されたものでもありますが、パウロがここで語っているのはマラソンではなく、戦車競走であったと言われます。戦車と言っても、自衛隊が乗っているような戦車ではもちろんありません。古代の戦車は、人一人が立つのがやっとの車輪付き荷台をを四頭がけの馬に引かせるというものでした。それはただ突っ立っていれば馬が勝手に走ってくれるというものではありません。バランスを保ち、馬を制御するために上体を前方に曲げ、全神経と筋肉を緊張させていなければなりません。パウロが「前のものに向かって身を伸ばし」という言葉は、四頭の馬の手綱を握りながら、バランスを保っていく競技者の姿を表しているものです。この戦車競技は古代オリンピックの花形競技の一つでしたが、スポーツとはいえ、しょっちゅう転倒事故が起こる、命がけのものでした。パウロが信仰人生をこのような危険な競技にたとえたのは、私たちが緊張感を失わないためです。
しかしパウロが言おうとしていることは、信仰生活は緊張感を失ってしまったら転げ落ちてしまう、ということではありません。キリストによって捕らえられたからこそ、緊張感を失うことなく、走り抜くことができるのです。神にすべてをゆだねることができる安心があるからこそ、そこにあぐらをかいて立ち止まることがありません。キリストによって捕らえられた者は、少しでもキリストに近づかずにはいられません。命令されたから走るのではなく、キリストに近づきたいがゆえに、走らずにはいられないのです。
2.
信仰生活の喜びは、このイエス・キリストだけを見つめ、この方のようになりたいと願い続けるところから生まれます。後ろでも隣でもなく、前を見つめ続けるのです。今までこれだけのことをやってきた、と後ろの実績で判断しない。あの人はあれだけやっているけど、自分は足りない、と隣を見て比べない。キリストに一歩でも、一センチでも近づきたい、と前を見つめ続ける。クリスチャンが自分をはかるための唯一の基準は、イエス・キリストです。そしてイエス・キリストがどういうお方はこの聖書の中にすべて記されており、私たちは聖書を日々食べることにより、イエスにますます近づいていくことができます。御霊の人は自分とキリストを比べますが、肉のままの人は自分と他人を比べます。自分とキリストを比べれば、私たちのだれもが、他人をさばく資格などないことに気づかされるでしょう。パウロが見つめていたのは、後ろや隣から追い迫る人や出来事ではなく、ゴールの先におられるイエス・キリストでした。
走らなかったらさばかれる、ということはありません。救いは、私たちの努力ではなく、キリストの犠牲によるものだからです。しかし救いへの感謝がこみ上げるとき、自分の力を尽くしてキリストの元へ走らずにはいられないのです。この世の競技では金メダルは一人分しか用意されていませんが、天国では全員の分が用意されています。しかし用意されていても受け取ることができるのは、神に任せられた賜物を存分に生かして走り通した者だけです。メダルを得るために必要なものは、選択と集中の二つです。最も大切なことは何かを選び取り、そのたった一つの大切なことのために、自分の時間、体力、知識、あらゆるものをつぎ込んでその日のために練習を繰り返す。オリンピック選手の姿は、それをわかりやすく教えてくれます。目標に向かってひたすら走る人は、結果がどうあろうとも後悔することは決してないのです。
3.
昨年、私たちは臨時教会総会を経て、葛塚の朝市通に面する場所に260坪余りの土地を購入しました。それは信仰がなければたどり着けなかった決断でした。そして今までここで宣教に励んできた教会が、新しい場所で宣教をさらに豊栄全体に拡大していく決意でもあります。教会は今までの働きを継続、あるいは再開しながら、それに加えて新しい働きも生み出されていくことでしょう。しかし会堂が生まれなければ、土地の広さも、立地も生かすことはできません。二つの拠点を同時に管理しながら何年も続けていくことは時間、人材、経済、あらゆる点で力を消耗します。選択と集中、それが私たちに必要なことです。委員会、役員会、教会全体での話し合いをまんべんなく行いつつ、しかし与えられている時間は多くないことをおぼえるべきでしょう。
このたびの教会総会で、準備委員会が提案した目的宣言文を、これからの教会が目指していくものとして正式に承認を図ります。会堂建設とは、その目的宣言文を絵に描いた餅に終わらせず、現実化していくための拠点となるものです。これからの一年は、この会堂建設を討議する十分な時間を確保するために、主日礼拝のかたちを変えていくことになります。具体的には、牧師が週代わりで二つの会堂を巡回、一方はこうして生で、他方はその中継動画を共有するというかたちで、同時に礼拝をささげます。奇抜な方法のように聞こえるかもしれませんが、今までも多くの教会でこれに似たことがされていました。会堂で密になる状況を避けるために、会堂に入りきれない方はホールや食堂など別室で礼拝を守ることをしていました。豊栄はそのスペースもないので、三回に分けて礼拝をせざるを得なかったのです。しかしこれからも朝から夕方まで礼拝をささげ、その後から会議という形を続けていくならば、会堂建設はますます長引いていくことになるでしょう。
今まで午後に行ってきた教会学校と第三礼拝を、朝市通での仮会堂で午前中に行うことで、この一年間の日曜午後を会堂建設の計画を作り上げていくために用いていきます。しかし第三礼拝に出席している方々だけに、毎週、向こうの場所でリモートで礼拝に出てくださいということはよくありません。ですから牧師が、第二礼拝の時間帯を週代わりで嘉山と朝市通それぞれで説教をすることになります。コロナ禍でなければそこまで行う必要はないでしょう。しかしコロナが終わるまで会堂建設は待ちましょうという余裕もないのです。一年を計画に費やし、次の一年を工事に費やし、あと残り二年が適切な時間です。その中心になるのは会堂建設準備委員会ですが、「ただ一つのことに向かって走る」のは委員会だけではなく、教会全体もそうです。選択と集中こそ、神から与えられたレースを勝利する秘訣であることをおぼえましょう。確かに払うべき犠牲はありますが、それをまさる祝福があると信じます。どうか客員・求道者の方を含めて、ひとり一人が心に刻みつけて、これからの一年間を歩んでいきましょう。報 告1.神は独り子を 賜うほどに 世人を愛し給う 神は愛なり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
2.罪をば犯して 神に背き 敵とう我さえ なお愛し給う ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
3.罪赦さんために 我に代わり イエス君十字架に 死に給えり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
4.いざとく来たりて 神の愛に 汝が身を委ねよ 救わるべし ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.6主日礼拝説教「援助と救いのはざまにて」(マタイ4:1-11)
前 奏23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)1それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」5すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」7イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」8悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」10そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」11すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。2017 新日本聖書刊行会
序.
先日、埼玉県で立てこもり事件が起こり、一人の医師が犠牲となりました。犯人は自分が介護していた母親が死んでしまったのは、医師や福祉関係者のせいだと考えて、この凶行に及んだと報道されています。これを聞いたとき、私は自分自身が経験したことを思い出さずにはいられませんでした。
私は大学卒業後、市役所の老人福祉課に勤め始めました。働き始めてまだ一週間も経っていない日、ある初老の男性が、福祉課のカウンターに近づいてくるのが見えました。私の席は来庁者の動きが一目で見えるところにあり、また新人だったので、自分から立ち上がってその方を迎えました。しかしその方はにこりともせずに、こう切り出しました。「うちの母親、死にましたわ」。
えっ、何?何の話をしてるのか。するとその方が突然金切り声をあげて、受付台の椅子を激しく蹴り出したのです。警備員が来て、その方を連れ出していきました。後で知ったことですが、その方は今まで何度も市役所に来られては、お母さんを特養に入れてほしいと頼み込んでいたそうです。しかし当時、新潟県の特養入所は常時800人待ち、最低二年かかるのが常識でした。おそらくお母さんが亡くなったとき、強い怒りが市役所に向かったのでしょう。これは極端な例ですが、老人福祉課での三年間は、やりがいよりも無力感のほうがはるかに多かったと思います。そして誤解を恐れずに言いますが、その職場の中で私は、「福祉では人を救えない」と思いました。援助を必要としている人々を一時的に助けることはできても、完全に救うことはできない。苦しみを緩めることはできても、苦しみの原因を取り除くことはできない。私はその経験を通して、牧師への道を踏み出すことを決めました。
1.
牧師になって二十年のあいだに語ってきた説教は、祈祷会をあわせると、二千以上になります。ほとんどすべての原稿はパソコンに保存してありますが、ときどき読み直してみると、見事なほどにワンパターンです。みことばをひたすら語りましょう、これからの一週間でイエス・キリストをはっきりと伝えましょう。おそらく教会員の方はみなさん、飽き飽きしているのではないかとも思います。しかしなぜそこまでみことばをはっきりと語る、ということを強調しているかというと、「福祉では人を救えない」という経験が、私が献身を決めた出発点であったからです。福祉を否定しているのではありません。医療、福祉、行政、教育、あるいは民間企業も、あらゆる仕事は尊いものです。しかし永遠のいのちを与えることはできません。それを与えることができるのは、福音だけです。
福音を伝えても喜ばれることはありません。パンを与え、生きがいを与え、居場所を提供し、安心感を与える、それは喜ばれるでしょう。しかしそれは福音そのものではありません。福音は十字架へと向かう道です。十字架は世に喜ばれるものではありません。私のために神が死んでくださったというだけでなく、私も神のために命よりも大切な何かを捨てることを求める道です。
そのような厳しい道を誰が喜ぶでしょうか。しかし神はその道の先にある喜びと希望を、確かに私たちに与えてくださったのです。経験した者だけが、確信をもって語ることができます。そしてそれは、あらゆるクリスチャンがそうなのです。ですから福音を伝えるのは、牧師だけではありません。信徒もまた同じ務めを担っています。ですから、私の説教はいつも最後はひとり一人が福音を伝えていこうという勧めで終わります。説教は少しずつ、肩の力が抜けてこなれていくかもしれませんが、最後の勧めは変わることはないでしょう。
2.
イエスが、荒野で悪魔から誘惑を受けられたこの出来事には、福音とは何かという本質が余すことなく記されています。悪魔が何を求め、イエスはどのようにして戦われたのかをしっかりと見つめていくとき、この混乱の時代の中で福音を語るとはどういうことなのかが示されていくことでしょう。
最初にサタンは、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と言いました。教会がこの世から愛されたいと願うならば、彼らにパンを与えることです。物を供給することです。実際に、衣食住を提供することが伝道のきっかけとなると、多くの人々が考えています。しかしパンを与えることによって人々が手に入れるものは、平安ではなくむしろ不安です。今日糧が与えられたことへの感謝ではなく、明日にはこの糧は手に入らないかもしれないという不安です。実際に、イエスについてきた群衆は、明日のパンを失いたくないからこそイエスに従ったのであり、イエスがそれをはっきりと指摘したときに、彼らは悔い改めるどころか怒りを燃やし離れていきました。
パンを与えることは、一時的な助けにはなるかもしれませんが、根本的な救いにはなりません。なぜなら問題の根本は、パンでは満たされることのない、魂の飢えにこそあるからです。聖霊がそれを示してくださることを祈りつつ、自らの唇と経験を通して福音を語っていくとき、人は本当の意味で救われるのです。サタンに対するイエスの答えは、すでに旧約聖書に記されていたことでした。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」。パンは、生活のために人々が必要だと言っているあらゆるものを象徴します。しかし本当に必要なものはひとつだけです。それは、神のことばを聞くこと。まことの満足を得る唯一の道は、この神のことばを聞き、神にすべてを任せることです。
3.
悪魔は次にイエスを神殿の頂に立たせて、下に身を投げよと勧めました。それは飛び降りて死ね、ということではなく、神殿の下に集まる人々の注目を集めよ、ということでした。神は御使いによってお前を支える、と聖書に書いてあるではないか。神の子よ、そのような奇跡によって、あなたの名を挙げるならば、人々は容易にお前を神の子と認めるであろう。
聖書に書かれているような奇跡が起これば、人々はもっとキリストを信じるだろうと言う人もいます。しかし逆です。奇跡に惹かれ続ける人は、常により大きな奇跡を求め続け、やがて霊的に肥え太って自滅します。しかし真の信仰は、人々の興味を引くような事柄の中にではなく、私たちが静かに、そして忠実に、神のことばをひもといていく姿の中にこそ育っていきます。
現代でも、神が望まれる奇跡は起きることもありましょう。神に不可能はないからです。しかしいま、私たちはいかなる奇跡よりもはっきりと救いを証言する神のことばを持っています。それをしっかりとバランスをもって学び続けることで、みことばを寄せ集めて利用するというあやまちから守られていきます。教会が間違った聖書解釈から守られる唯一の道は、「木を見て森を見ず」にならないように、信徒ひとり一人が毎日聖書を学び続け、一刻も早く聖書全体を理解できるようになることです。そしてそれは、牧師が教えてくれるとかではなく、自分で読んで、自分で学ばなければ、しょせんは人の借り物のままです。みことばを利用して誘惑を仕掛ける悪魔に対して、イエス様もみことばを用い、「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある」と答えました。神の助けは、人間がもてあそび実験したりするものではありません。神は毎日の生活の中で、静かに信頼していくお方です。
結.
最後に悪魔は、この世のすべての国々の繁栄を見せて、イエス様にこう語りかけました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」それは、一言で言えば、十字架を通らずに、この世界とそこに生きる人々を私の手から取り返すがよい、という、文字通り悪魔的な誘惑でした。なぜわざわざ十字架という苦しみの道を選ぶのか。神の子よ、私を拝め。そうすれば、今すぐにでもあなたにこれらの国々、人々、すべてを与えよう」。
この悪魔の呼びかけは、十字架の上で、別の言葉でもう一度繰り返されることになります。人々はイエスにこう呼びかけました。「十字架から降りてこい。そうすれば、私たちは信じるから」。この世は、救い主に対して、力を求めます。しかし荒野でイエスが見つめていたものは、力によって世を救うことではなく、神にのろわれ、捨てられ、それでも十字架から逃げることなく、すべての罪人のために身代わりになられるという道でした。
現代の教会は、援助と救いの狭間で揺れています。救いは福音を語ることでしかなし得ないことを知っていても、福音を聞いて救われる人があまりにも少ない現実の中で、教会の立ち位置に動揺が生まれています。しかし優先順位を忘れてはならないのです。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。目に見える栄光をちらつかせる悪魔に、イエスは決して妥協されませんでした。十字架という苦しみを通らなければ、本当の栄光はないことを知っておられたからです。その毅然とした信仰は、礼拝から生まれます。教会の営みのすべては礼拝から始まります。私たちはさまざまな働きを求められていますが、礼拝を優先することが、すべての問いへの答えとなるでしょう。主日礼拝、家庭礼拝、また祈祷会も、私は礼拝のひとつだと考えています。イエス様の姿を通して、神のみこころを探し求めていきましょう。報 告1.独りの御子を 賜いしほどに 神は世人を 慈しみ給う かかる恵みの 父をも知らで 長く闇路に われは迷えり
2.罪多きところ 恵みも勝る 主はさ迷える わがあと訪ね 「帰れわが子よ 帰れわが子」と 愛の御手もて 招き給えり
3.悔ゆる心を 父は憐れみ 走り迎えて われをばいだき 御子の血潮に 罪のけがれを 洗いきよめて 救い給えり アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.1.30主日礼拝説教「心砕かれて生まれ変わる」(マタイ3:17-26)
前 奏3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」2017 新日本聖書刊行会
1.おお御神をほめまつれ 尽きぬ命与えんと 独り子をも惜しみなく 世人のためくだしたもう
ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを
2.主は贖いなしとげて 御名に頼る人々の 罪はいかに深くとも 赦し与え助けたもう
ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを
3.げに尊き御救いよ いとくすしき御教えよ たぐいもなき喜びは 再び主にまみゆる日
ほめよ ほめよ 神の愛を 歌え 歌え 主のみわざを そのみわざに現れし 父なる神の恵みを アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)13そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。14しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」2017 新日本聖書刊行会
1.
「洗礼」という言葉は、クリスチャンに限らず、多くの人々に知られています。たとえば、ドラフト一位で入団したプロ野球投手が、初試合で、相手のバッターたちから次々に打たれたとき、「プロの世界から洗礼を受けた」という言い方をします。どうしてコテンパンにやられることが洗礼なのかと思うのですが、おそらく世の人々の想像する洗礼というのは、苦しみが伴うようなイメージがあるのでしょう。ところで、意外に思われるかもしれませんが、じつはこの新改訳2017の翻訳では、「洗礼」という言葉は一切使われず、すべて「バプテスマ」という言葉に置き換わっています。なぜよく知られている「洗礼」という言葉を使わず、世間一般にとって聞き慣れない「バプテスマ」という言葉にしているのでしょうか。じつは明治時代に聖書が入ってきた頃から、「バプテスマ」を洗礼と訳したのは適切な訳ではなかったのではないか、いう議論があるのです。
「洗礼」という日本語には、洗いきよめるというイメージがつきまといます。しかし聖書は、バプテスマは洗い清めるものではなく、生まれ変わるものとして教えています。ヨハネの福音書には、イエス様がユダヤ人教師ニコデモに対し、「人は御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と語る場面があります。イエス様が語られる、聖霊によるバプテスマは、心洗われてきよくされるものではなく、完全に新しいものとして作り変えられることを意味していました。救いとは、古い着物を洗って新品同様にするのではなく、どんなにきれいに見えてもすべて取り替えて、新しいものへと作り変えられること、それが、私たちが経験した、聖霊によるバプテスマです。
ですから、私たちが何気なく使っている「洗礼式」という言葉は、「バプテスマ式」と呼ぶべきなのかもしれません。あるいは「新しく生まれる式」と書いて、「新生式」と呼ぶべきではないか、という提案も生まれます。それはあくまでも言葉の言い換えにすぎませんが、実際に皆様の心の中にしっかりと覚えていただきたいことは、私たちは聖霊のバプテスマをいただいて、完全に新しく生まれ変わった者なのだ、ということです。何も変わっていないように見えても、確かに新しく変えられているのです。それを保証するのは、私たちがどれだけ真人間になったかということではありません。イエス様が確かに語られたみことばを信じることです。イエス様は約束されました。人が聖霊を受けるとき、新しく生まれ変わることができる。そしてこの聖霊こそ、私たちの中に生きておられる助け主であり、この方が入ってきてくださったからこそ、私たちはイエスを救い主として告白することができたのです。そして今も、この聖霊によって新しく変えられ続けているのです。
2.
今日の聖書箇所の中で、解釈が難しいのは、なぜ罪のないイエス様が、ヨハネからバプテスマを受けることをよしとされたのか、ということでしょう。ヨハネのバプテスマは、罪人が悔い改めるためのものでした。イエスこそ、ヨハネにバプテスマを授けるはずのお方なのに、どうしてあなたのほうからバプテスマを受けに来られたのですか、とヨハネはイエス様に問いました。そこでイエス様はこう答えられました。15節、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」。そこでヨハネは言われたとおりにした。
「このようにして正しいことをすべて実現することがわたしたちにはふさわしい」。この言葉を説明するにあたり、知っておくべきことがあります。じつはヨハネが現れるまで、バプテスマを受けたユダヤ人は一人もいませんでした。バプテスマという罪の悔い改めの儀式はあっても、それは外国人がユダヤ教に改宗する際に受けるものでした。ユダヤ人は、パリサイ人・サドカイ人だけでなく、みなが、アブラハムの子孫である自分たちは、先祖伝来、救いが約束されているからバプテスマは必要ない、と考えていたのです。しかしバプテスマのヨハネの言葉が、彼らの常識を揺るがせ、彼らの高ぶりを砕きました。罪の悔い改めのバプテスマを必要としているのは、外国人ではなく、我々ユダヤ人なのだ。アブラハムの子孫だから、すでに救いは保証されているというプライドに固まった者たちよ。そんなものは、石ころからでもアブラハムの子孫を作り出すことのできる、私たちの神の前では、何の意味もないのだ、と。
これが意味していること、バプテスマとは、心が徹底的に打ち砕かれることです。ユダヤ人は、自分たちは外国人よりはるかに優れているのだ、神に選ばれた民なのだ、という誇りによって何千年と生きていました。しかしその高ぶりを砕かれ、一人の罪人としてあわれみをひたすら求める、それがバプテスマです。ある教会で、バプテスマを受けたいと言ってきた求道者に、それではバプテスマの前に半年間の準備コースを受けましょうと牧師が言ったところ、そんなに時間がかかるのはいやだと言って教会に来なくなったそうです。私はそれをある人のブログで読みましたが、ブログ主は、どうして日本の教会は、バプテスマを受けたいと言っている人に、準備だとか学びだとか、長く時間がかかるものを背負わせるのかと批判していました。しかしバプテスマを受けたいが学びはいやだ、というような人には、私もバプテスマを授けないでしょう。バプテスマは、聖霊によって心砕かれた、しるしそのものです。心が徹底的に砕かれて、神のみこころに従っていくということを学びつつ確認するときです。
3.
イエス様がバプテスマを受けられたのは、まさにこのイエスこそ、神のみこころに従い、徹底的に砕かれて、誰よりも低いところまで下ってこられたお方であったからです。神としてのあり方を捨てて、まことの人として地上にくだり、人々と同じ苦しみを背負い、十字架へ向かっていかれました。その先に待っているものは、身代わりの死でした。それは、ヨハネのバプテスマが意味していた、心砕かれて謙遜とされていく、究極の姿でありました。ですからイエスは、私たちの模範として、バプテスマを自ら受けられたのです。
イエス・キリストがバプテスマを受けて岸に上がられると、天が開け、御霊が鳩のように下られました。そして天から父なる神の言葉が響きます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。このような三位一体の神のやりとりは、まさに一つの家族が愛し合う姿そのものです。しかしその先に待ち受けていたものは、十字架の苦しみでした。このヨルダン川での美しい交わりは切り離され、イエスは十字架の上で、神にのろわれた者としてひたすらもがき苦しまれました。それはだれのためでしょうか。罪人である私たちのためでした。ヨハネからバプテスマを受けられたとき、すでにイエス様は、その苦しみを見つめておられました。自分のいのちを捨ててまで、罪人である私たちを救おうとされた神のあわれみに、私たちはどのように答えることができるでしょうか。
その答えは、やはりバプテスマの中にあります。イエスが死なれたのは私のためであることを信じ、罪の中に歩み続ける生活と決別したいとはっきり願い、聖霊によって新しく生まれ変わること。それが真のバプテスマです。儀式としてバプテスマを受けることよりも大切なのは、私たちが心を徹底的に砕かれて、ひたすら神のあわれみを求めること、そして救い主であるイエスを受け入れることです。ひとり一人が、その恵みにあずかりましょう。報 告1.み使いのたたえ歌うは誰(たれ)ぞ 羊飼いたちの 拝むは誰ぞ
ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり
2.むさき馬小屋に 生(あ)れしは誰ぞ 匠(たくみ)の子として 生れしは誰ぞ
ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり
3.黄金(こがね)に乳香 没薬持ちて 博士が拝みに 行(ゆ)きしは誰ぞ
ああそは神の御子 イエス君なり ああそは主の主 君の君なり アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。 アーメン
2022.1.23主日礼拝説教「聖霊と共に生きるバプテスマ」(マタイ3:7-12)
こんにちは、豊栄キリスト教会の近 伸之です。
今回のメッセージの冒頭で、「越後屋、おぬしもワルよの〜」という、しょうもないネタを仕込みましたが、出席していた小学生たちから「あれってどういう意味なのか」と親御さんに質問が飛び、説明に窮したということでした。昭和の頃は、小学校でもネタに使ってたんですけどね・・・そうだ、YOUTUBEにないかしらんと思って検索してみたら、面白いのが見つかりました。30秒あたりから、なぜかラップになります。
時代劇ミュージカル短編映画「サムライオペラ」
超定番な時代劇を全編英語のミュージカルにした20分のショートフィルム。浪人が歌う、町娘が回る、悪代官がほくそ笑む。
公式から20分まるごと公開という太っ腹仕様。どうぞご覧ください。https://youtu.be/yei4XoNHMx0
以下は今回の説教。説教原稿は、「プログラムはこちら」>「説教」をクリックしてください。
今回のメッセージの冒頭で、「越後屋、おぬしもワルよの〜」という、しょうもないネタを仕込みましたが、出席していた小学生たちから「あれってどういう意味なのか」と親御さんに質問が飛び、説明に窮したということでした。昭和の頃は、小学校でもネタに使ってたんですけどね・・・そうだ、YOUTUBEにないかしらんと思って検索してみたら、面白いのが見つかりました。30秒あたりから、なぜかラップになります。
時代劇ミュージカル短編映画「サムライオペラ」
超定番な時代劇を全編英語のミュージカルにした20分のショートフィルム。浪人が歌う、町娘が回る、悪代官がほくそ笑む。
公式から20分まるごと公開という太っ腹仕様。どうぞご覧ください。https://youtu.be/yei4XoNHMx0
以下は今回の説教。説教原稿は、「プログラムはこちら」>「説教」をクリックしてください。
前 奏1さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。2ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。3ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。2017 新日本聖書刊行会
1.天地(あめつち)にまさる 神の御名を ほむるに足るべき 心もがな
2.おごらずてらわず へりくだりて わが主の御座(みくら)と ならせたまえ
3.生くるも死ぬるも ただ主を思う ゆるがぬ心を 与えたまえ
4.心をきよめて 愛を満たし わが主のみすがた ならせたまえ
5.み恵み豊けき 主よ来たりて 心に御名をば しるしたまえ アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)7ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。10斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。11私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。12また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」2017 新日本聖書刊行会
1.
「越後屋、おぬしも悪よのう」「いえいえ、お代官様こそ」。
時代劇ではおなじみの場面ですが、悪徳商人の代名詞がいつも「越後屋」になっていることに、新潟県人として悲しく思うことがあります。パリサイ人とサドカイ人は、この越後屋と悪代官に匹敵する悪いイメージで見られている人々ですが、驚くべきことに、彼らの大勢が罪を悔い改めて、ヨハネのバプテスマを受けに荒野へやってきたというのです。しかしバプテスマのヨハネは彼らに厳しい言葉を向けました。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。
「アブラハムの子孫」を自負している彼らに対して、ヨハネが放った言葉は、「マムシの子孫たち」でした。ヨハネには、彼らの姿は、文字どおりまむしに見えたのです。あたかも茂みの中のまむしが、回りに火がついたからあわてて外に這い出してきたように、彼らは悔い改めるためにやってきたのではありませんでした。バプテスマを受けようとはしましたが、それは悔い改めの結果としてのバプテスマではなく、人々の前で体裁を整えるためだけのものでした。自分の罪を見つめたわけでもない、ただ周りの人々が我先にとバプテスマを受けに行く姿を見て、ただ同じふりをしているだけだったのです。
私たち現代の読者は、パリサイ人やサドカイ人について、あたかも民から嫌われていた人々とイメージするかもしれません。しかし実際は彼らは民から尊敬されていた人々でした。イエス様が誕生するより約150年前、ユダヤ独立戦争の中で命を捨てて戦った祭司や教師たちの末裔、それが彼らパリサイ人やサドカイ人でした。しかし表向きは謙遜な宗教者に見えていた彼らの心の奥には、高慢がありました。自分たちこそ、選ばれた者たちなのだ。民に悔い改めを勧めることはあっても、自分たちが悔い改める必要などない、と。
2.
しかし神が最も嫌われるのは、高慢なのです。創られたものに過ぎず、束の間の存在に過ぎない人間が、あたかも自分たちの考え、生き方が絶対であるかのように振る舞うならば、その心から神への感謝は薄れ、自分自身が神に成り代わる。ヨハネは、あわれみつつ、しかし厳しく語ります。勘違いしてはならない。神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を創ることができるのだ。
その言葉を私たちは自分自身が高ぶりに陥らないために心に刻みつけるべきです。私たちがどれほどの苦しみを経て信仰にたどり着いたとしても、救われたのは、あくまでも神様のあわれみです。自分の努力で救われたわけではない。それを忘れるとき、自分と異なる考えを持っている人をさばきます。私という人間は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる、大いなるお方のあわれみによって生かされているものに過ぎません。
旧約聖書のエレミヤ書の中に、神を陶器師に、人を陶器にたとえている箇所があります。陶器師から見たら失敗作でしかない、欠けた器を、なぜか陶器師は壊すことなく、自分の代表作として製作目録の中に加えてくださいました。どうしてなのかは、陶器師以外には誰もわかりません。創られた私たち自身も、首をかしげるしかありません。しかし確実なのは、それでも私たちは神の子どもとして、神の作品として、救われて永遠の御国に入る資格を与えられたということです。
パリサイ人、サドカイ人は、表向きは謙遜を振る舞っていましたが、実際には高ぶりの極みの中にありました。その姿を反面教師として、私たちは自分たちがただあわれみの中に生かされていることをおぼえましょう。お互いに、相手を自分よりも優れた者として受け入れていきましょう。
3.
ヨハネは、自分が授けている水のバプテスマは「悔い改めるためのバプテスマ」と呼んでいます。それははっきり言えば、不完全なバプテスマです。悔い改めという、救いへの入り口までは提供しますが、そこから先の扉を開く力はありません。どんなにからだを水で洗っても、罪そのものを洗い流すことはできない。どんなに人が罪をあらいざらい告白したとしても、その罪を赦すことのできるお方がいなければ、罪の問題は解決しない。しかし喜べ、目を上げろ。私のすぐ後に、本物のバプテスマを授けるお方がやってくるのだから。それが、いま私たちが受け取っている、聖霊と火によるバプテスマです。それを与えてくださった方こそ、イエス・キリストです。この方が私のために罪の身代わりとなってくださったことを、私が信じることができたのは、私が神の御霊をいただいたからです。私だけではなく、すべてのクリスチャンがそうです。使徒パウロははっきりと手紙に書いています。「聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主であると告白することはできない」。
そしてクリスチャンの歩みは、日々この聖霊を新しく注がれて、新しく生まれ変わり続けることを求めていくことに他なりません。去年の灯油のままでは、不完全燃焼を起こします。私たちが聖霊によって燃やされ、人々にともしびを照らす。冷め切った心を暖める。古い罪を焼き捨てられて、いつも新しくされ続ける。聖霊と火のバプテスマは、私たちを救ったあの日以降も、絶えることなく、私たちを変え続けます。しかしそれが与えられたのもあわれみであり、そしてそのあわれみの背後には、神のひとり子であられるイエスが、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださった、永遠の愛がありました。私たちに与えられた完全なるバプテスマをかみしめるとともに、十字架の恵みを改めて心の中に刻みつけて、歩みましょう。
結.
最後に、まだイエス・キリストを信じ、受け入れていない人々に懇願します。どうかイエス様を救い主として受け入れてください。すでに斧は根元に置かれています。キリストを信じて人生の方向転換をなした者は麦として倉に収められますが、そうでない者はもみ殻として集められた後、消えない炎の中に投げ込まれてしまいます。これは、すべての人間に明日、いや、今日起こるかもしれないことなのです。二千年前に救い主として来られたイエスは、次に来られる時にはさばき主としておいでになられます。その日が来る前に、イエスを救い主として受け入れて、永遠のいのちをいただいてください。たしかに、聖霊が働いてくださらなければ、私たちはイエスを主として告白することはできません。しかし聖霊の声に耳を傾けて、イエスを信じるか、それとも聖霊の声に耳を閉じて、その話はまた今度、とするかは、私たち人間の決断も関わっています。どうかひとり一人が、聖霊の呼びかけに心を開き、イエスが十字架で私の罪を贖ってくださったと信じることができるように。報 告1.まきびと羊を 守れるその宵 妙なるみ歌は 天(あめ)より響きぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
2.仰げばみ空に きらめく明星(あかぼし) 夜昼さやかに 輝きわたれり 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
3.その星しるべに 三人(みたり)の博士ら メシアを尋ねて はるばる旅しぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
4.奇(くす)しき光の 導くまにまに 博士はまぶねの 主イエスに見(まみ)えぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。 アーメン