聖書箇所 『創世記』19章1-8、30〜38節
1その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。2そして言った。「ご主人がた。どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、私たちは広場に泊まろう。」3しかし、ロトがしきりに勧めたので、彼らは彼のところに立ち寄り、家の中に入った。ロトは種なしパンを焼き、彼らのためにごちそうを作った。こうして彼らは食事をした。4彼らが床につかないうちに、その町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで、その家を取り囲んだ。すべての人が町の隅々からやって来た。5そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」6ロトは戸口にいる彼らのところへ出て行き、自分の背後の戸を閉めた。7そして言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。8お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
30ロトはツォアルから上って、二人の娘と一緒に、山の上に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼と二人の娘は洞穴の中に住んだ。31姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。32さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう。」33その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。34その翌日、姉は妹に言った。「ご覧なさい。私は昨夜、父と寝ました。今夜も父にお酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、一緒に寝なさい。そうして、私たちは父によって子孫を残しましょう。」35その夜も、娘たちは父親に酒を飲ませ、妹が行って、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。36こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。37姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。38妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。2017 新日本聖書刊行会
「家族を顧みない信仰者」。自分でつけておきながら、ドキッとするタイトルです。誤解を防ぐために念のために言いますが、信仰者はみな家族を顧みない者だという意味ではありません。神を愛する、まことの信仰は、自分を大切にするように隣人を愛します。そして最も基本的な隣人関係は、家族関係です。私たちが家族を大切にするとき、信仰はまさに目に見える形をもって現されていくものです。その反面教師、アンバランスな信仰者、それがロトでした。
現代の日本社会は、「一億総孤独時代」と言ってもよいでしょう。家族をはじめとして、人間関係が至るところで壊れており、そのために人々は交わりを必要としています。神は、その仲介者として私たちを救いだしてくださいました。今日の招きの言葉および暗唱聖句では、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」を選びました。それは、信じれば自動的に家族も救われるという意味ではありません。信じた者は、聖霊が常に心の内側を照らし続けてくださることを通して、家族との関係が少しずつ変わっていきます。そして時間はかかるかもしれませんが、やがて家族もキリストの光に照らされ、そこに家庭が回復するという恵みの約束です。
1節をご覧ください。「その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ」。御使い、つまり天使ですが、おそらく羽根を生やして光輝く姿でソドムに舞い降りたわけではないでしょう。二人の御使いは、一見、ただの旅人のように見える姿で、ここに正しい者たちが十人いるかどうかを見極めにやってきました。
しかし、ここで注目したいのは、ロトの振る舞いです。彼はまるで神を礼拝するかのごとく、顔を地につけて伏し拝みながら、この旅人たちに近づいています。ロトが、彼らが御使いであることにはじめから気づいていたのか、それとも旅人に対してまるで神に接するようにもてなすことが彼の流儀であったのかわかりません。しかしはっきりしているのは、彼はここだけ見れば、まさに信仰者と呼ぶにふさわしい、霊的な目を持ち、整えられた品格を併せ持っていたということです。しかしふたりの御使いは、ロトの歓迎にこう答えました。「いや、私たちは広場に泊まろう」。そのわけは、もう少し後で明らかになりますが、それでもロトはしきりに勧めたので、御使いたちは彼の招きに応じました。そしてロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼きました。
しかし一見、信仰者として申し分の無いようなロトの家に、明らかに欠けているものがあります。それは、家族の匂いです。ロトはごちそうを作りました。ロトはパンを焼きました。ロト個人は、神の前にかいがいしく動き回り、もてなしています。しかしまるで家族の気配が感じられません。神に向き合うように旅人をもてなす心を持っているのに、家族に向き合おうとする心がありません。ごちそうの香りはしても家族の気配がしません。暖かな湯気は立ち上っても、家族の笑い声は聞こえません。
私たちは次のことに驚愕します。ロトの言葉の中で、はじめて家族が出てくるのは8節であることを。ソドムの全住民が、旅人を性的にもてあそぶためにロトの家を取り囲んだとき、あろうことか、彼は自分の娘たちを好きなようにしていいから、この旅人に手を出すことはやめてくれ、と言い出すのです。じつに、これがロトにとっての家族の存在でした。御使いたちが最初にロトに誘われたとき、「いや、私たちは広場に泊まろう」と断った理由が、ここで想像できます。家族を犠牲にするロトの家には、たとえごちそうを並べられたとしても御使いも泊まりたくなかったのです。
ロトの妻が塩の柱になったことは有名な話ですが、ロトが二人の娘を犠牲として差し出す場でも、妻であり母である彼女は出てきません。ロトが神に熱心であったことは認めるべきでしょう。しかし彼は明らかに家庭を育むことに失敗していました。その原因はどこにあったのでしょうか。聖書は、ロトの家庭がなぜここまで薄っぺらいのか、その原因についてははっきりと記してはいません。しかし事実としてのみ、ロトの家庭のアンバランスさを告発しています。ロトの信仰は、家族みんなで神をほめたたえる家庭を作り出せませんでした。不愉快なことかもしれませんが、クリスチャンの家庭の中にも、そのような姿を見いだすことがあります。本人は、熱心に教会生活を送っているのですが、それが家族を幸せにはしていない姿を見るのです。信仰を持つとはそういうことなんだと割り切ることはできません。日曜日は朝から夕方まで礼拝、会議、奉仕に取り囲まれて、家族と一緒に過ごしたくても過ごせない、そういう見方もできるでしょう。しかし問われているのは、日曜日には教会づくしで、平日はどうだ、土曜日はどうだ、というような時間的なことではなく、もっと基本的なことのように思います。私たち自身が、家族をどのように見ているのか。どのような家庭を作りたいと願い、祈っているのかということです。
私の知人が牧師をしている教会に一人の婦人信徒がおりました。当時60代くらいでしたが、今は結婚して県外に嫁いでおられる娘さんが小さいときから教会学校の教師をしておりましたので、教師歴は30年以上というベテランでした。しかし彼女がある時期から「教師をやめたい」と牧師に相談をするようになりました。熱心に教えているつもりだが、子どもたちの心に響いていないことが自分でもよくわかる。しかし牧師は、貴重な奉仕者なので、そこを何とか続けてほしい、僕もサポートするから、と言って引き留めていました。
そんなある日、娘さんが帰省して、教会学校に出席しました。その娘さんはかつては教会学校や礼拝に出席していましたが、思春期に入って教会に行かなくなり、そのまま、という方でした。その娘さんが家に帰った後、こう言ったそうです。「お母さんは、私の育て直しをしている」。「え、どういうこと?」「私がクリスチャンにならなかったから、この子どもたちはそれを繰り返さないように私が教えなければ、という悲壮感しか伝わってこなかった。それは子どもたちもかわいそうだし、私もつらい」。娘のこの言葉で、彼女の心は完全に折れてしまいました。牧師のところにかけこみ、もうできない、やめさせてほしい。そのあまりの剣幕に、牧師も「わかりました」と言うしかありませんでした。
しかしこの話には、まだ続きがあります。わが子に信仰継承できなかったやり残し感を、教会学校の子どもたちに向けていたということを、やがてその姉妹が素直な心で受け入れることができる日が来ました。そのとき、かえって、心から重荷がとれたそうです。娘さんが結婚してから、信仰のことや、昔のことについて話すことを避けていた彼女は、その後、娘さんと自然な雰囲気の中で色々と話すことができるようになりました。そして県外にいる娘さんの方も、地元の教会へ通うようになったそうです。
神の恵みは、どれだけ時間がかかったとしても、家族を自由にし、お互いが喜び合うことのできる関係へと変えていきます。神はロトをあわれみ、彼らを救い出しました。近親相姦まで犯して子孫を残そうとしたロトの娘たちの姿は悲しみでしたが、数百年後、その子孫のモアブ人から、ルツという女性が生まれ、そのルツからダビデ王、そしてイエス・キリストに繋がる人々が起こされていきます。信仰者ロトでさえ家庭を築くことに失敗したとしても、それでも神のあわれみは尽きることがありません。ただ主にすがり、信頼しましょう。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/17)2023.9.17主日礼拝のライブ中継
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
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2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
聖書箇所 『マルコの福音書』2章23〜3章6節
23ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。24すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」25イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。26大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」27そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。28ですから、人の子は安息日にも主です。」
1イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。2人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」4それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。5イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。6パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。2017 新日本聖書刊行会
牧師になるための養成機関を、神の学校と書いて神学校と言います。私は千葉県にある神学校で三年間学び、この豊栄に赴任してきましたが、その神学校は、同じ敷地にある系列校を含めると、年齢も国籍も異なる、約二百名の学生が集っていました。そしてその全員が、日曜日になると、神学生としてそれぞれの教会で奉仕していました。一人の後輩女子が、当時、私が奉仕していた教会の週報がほしいと言うので、あげました。週報を集めると何かもらえるキャンペーンでも学校が始めたのかと聞くと、さにあらず、趣味で集めているとのこと。約四百教会の週報を集めたという彼女が言うには、週報にも個性があるそうです。たとえば週報に必ずショートメッセージが入っている、トラクト型。集会予定や牧師の一週間の予定まで丹念に書かれている掲示板型。そして結構多いのが、表紙に「礼拝厳守」と毎回必ず書かれている看板型。今の豊栄教会の週報を彼女が見たら、何型と言うでしょうか。
当教会では週報に「礼拝厳守」と書くことはしていませんが、礼拝が信仰生活の基本であることは意識しています。しかし礼拝は「守らなければならない」という義務ではなく、恵みと献身の証しとして、自発的なものであってほしいと願います。神さまは、「安息日を聖とせよ」と命じられました。旧約時代は、安息日は土曜日でしたが、キリスト教会では安息日をイエス様がよみがえられた日曜日としています。神が安息日を聖とせよと命じられたのは、天地創造の一週間の最後の七日目に、神に造られたすべてのものが、自分たちを作ってくださった神のみわざに感謝し、その栄光をほめたたえる日だからです。クリスチャンは一週間の最後の日ではなく最初の日を安息日としていますが、喜びをもって礼拝をささげることに関しては、決して違いはありません。
安息日は、神が用意された、恵みの日です。それは、神に作られた、あらゆる被造物がこの日、感謝をもって神に礼拝をささげる日です。神は、この礼拝を通して私たちのたましいを休ませ、喜びにあずからせるために「安息日に仕事をしてはならない」と定め、特別の日とされました。しかしパリサイ人や律法学者たち、イエスの時代の宗教指導者たちは、この安息日の決まりを自分たちの宗教的権威を高めるために利用しました。具体的に言うと、安息日にしてはならないことを勝手に作り出し、人々を縛りました。貧しい人々が、他人の麦畑で落ちている穂を拾うことは認められていましたが、安息日にそれを行えば罪であるとされました。安息日に瀕死の病人を助けることは認められましたが、急を要しない病人をいやすことは禁じられました。そしてこのときも、パリサイ人たちはイエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べようとしていたことを見て、批判しました。しかしイエス様はそこではダビデが行ったことを引用し、「安息日は人間のために作られたのだ」と宣言されたのです。
安息日は、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと人を縛るための日ではない。安息日は、神を喜び、神を礼拝し、感謝をささげるための日である。それを教えるために、イエス様は会堂に入りました。しかしそこで起こったことを通して、礼拝とは何かがもう一度明らかにされます。礼拝は喜びをもって神をほめたたえ、神のことばに聞きます。しかしそれだけではありません。聞いた神のことばは、私たちの実際の行動を通して実を結んでいくのです。イエス様の前に、片手のなえた人がいました。パリサイ人たちは彼を無視しました。しかし真の礼拝は、苦しむ人々に寄り添うことへと進ませます。もしイエス様が彼をいやせば、批判されます。しかし主は彼の苦しみ、痛みを無視することなどできませんでした。その手をとり、いやされたのです。
パリサイ人たちはイエスを訴えるために、この有様をじっと見ていました。彼らは礼拝に出席してはいましたが、その心の中はイエス様を批判し、訴えることで支配されていました。そんな礼拝は、喜びなど一切ない、ただの苦痛でしかありません。しかし彼らはそのことにさえ気づかなかったのです。もちろん私たちは、そんな礼拝をささげてはいないでしょう。しかしあえて申しましょう。私たちもまた礼拝を、神に感謝する場所から、人をさばく場所へと変えてしまう可能性はゼロではないのです。自分の心の中にあるわだかまりを下におろし、ただ主のみことばに聞く。そこに聖霊が働き、私たちの心を砕いてくださるのです。自分が赦されていることを実感し、人々から受けた悪を私たちも赦し、和解を与えてくださる神をほめたたえる、それが礼拝であり、神が願っておられる安息日でもあります。私たちが、人として互いに赦し合い、お互いを喜び合う幸せをいただくために、安息日はつくられたのです。
私たちは、礼拝の中で語られる言葉に、自分は無理だ、自分は従えない、と考えてしまうことがあります。それは、この片手のなえた人にとってもそうだったのではないでしょうか。片手がなえている人に対して、「手を伸ばしなさい」というのは理不尽な命令に聞こえます。しかし彼が、ただその言葉に従ったとき、奇跡が起こりました。聖書は言います。「彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった」。礼拝は、みことばに従う場でもあります。そしてみことばに従うとき、その人にはいやしがあり、救いがあります。私たちの手はなえてはいないかもしれません。しかし心は、ふとしたことで簡単になえてしまうものです。ですから心を主の前に差し出しましょう。人をさばき、自分を誇り、人々のいのちに無関心の、なえた心を差し出しましょう。私たちがそれを主の前に差し出すならば、安息日にふさわしい神への賛美と喜びが与えられるのです。
しかし私たちは、悲しい現実も見なければなりません。パリサイ人たちは礼拝から出て行くとすぐに、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた、とあります。礼拝の場で、この片手の萎えた人は人生が変わりましたが、パリサイ人たちは依然として憎しみの中に留まり続けました。それは神の前に自分の醜い姿、弱い姿を認めなかったからです。私たちはそこに倣ってはいけません。あなたを愛し、十字架の上で身代わりとなって死んでくださったイエス様の愛を、この礼拝の場でかみしめましょう。安息日は私たちのために用意された幸いな日です。その恵みを存分に受け取って、新しい一週間へと踏み出しましょう。
2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
聖書箇所 マルコ2章18〜22節
18さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」19イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。20しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。21だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。22まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」2017 新日本聖書刊行会
「クリスチャンの信仰を一言でいうと」と問われたら、どう答えるでしょうか。色々な言葉が思い浮かびますが、「喜び」と答えます。クリスチャンにとって、この答えは決してそんなにビックリするようなことではないでしょう。しかし世の人々は驚くかもしれません。なぜなら、「信仰」という言葉に対して、多くの人々は、厳しい戒律や修行をイメージしているからです。
ヨハネの弟子や、パリサイ人が追い求めていた生活も、そんな生き方でした。自分の欲望を捨て、体を打ちたたいて、感情を押し殺し、断食や祈りを重ねていく生活です。しかしその熱心さと引き換えに、彼らは神の子どもとして最も大切なものを失ってしまったのです。それが「喜び」です。神を喜び、罪人が救われることを喜び、神の与えてくださったすべてを喜んで受け取る。しかし彼らは逆の道を歩みました。さも自分は頑張っていますという顔をして、自分は神に一生懸命従っているんだぞ、と、神よりも周りの人々の目を気にする。そこには、決して喜びはありません。喜びがなければ心は渇きます。その心の渇きを満たすために、彼らは、人からほめられることをいつのまにか求めるようになりました。
人々の目の前で断食や、重々しい祈りをすることで彼らは人々から認められようとしていました。そんな彼らをいつも見ていた人々もまた、信仰とは、宗教とはそういうものなのだ、断食を一生懸命することで神に喜ばれるのだ、という考えに影響されていました。そして人々はイエス様のもとにきてこう質問しました。18節をご覧ください。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
断食そのものは悪ではありません。しかしそれが人に見せることが目的となり、さらに人に強制するものになってしまったら、それは間違いです。イエス様は人々にこう答えました。19節をご覧ください。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです」。「花婿」とはイエス様、花婿に付き添う友人たちとは、弟子たちです。彼らは、イエス様と共にいることができるのを喜んでいました。イエス様も、やがては十字架の苦しみが待っていることをおぼえながらも、今は弟子たちと共に時間を過ごすことができるのを喜んでいました。そこには、ただ喜びがあります。人に断食を見せなければ保てないような、ゆがんだ信仰生活ではありません。しかしここでイエス様はこうも言われました。20節をご覧ください。「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします」。今がその時なのでしょうか。私たちは花婿たるイエス様が取り去られた者として、断食すべき時なのでしょうか。
いいえ、「断食をする日」は、十字架にかかられた主がよみがえられるまでの三日間だけです。今、確かに主はよみがえられて、私たちと共におられます。私たちは喜びましょう。クリスチャンにとって、毎日が披露宴の連続です。誰の結婚披露宴でしょうか。花婿であるイエス様と、花嫁である教会の披露宴です。私たちクリスチャンは、キリストの花嫁です。イエス様は今は私たちの心の中に生きておられるお方ですが、やがて御使いと共に栄光に包まれて、この地上に降りてこられます。そして私たち花嫁は天へと引き上げられ、永遠にイエスと共に喜びの中に過ごします。今はこの地上では辛いことや不安なこともあるでしょう。しかしその時には、何の曇りもない、永遠の喜びの中に生きることが約束されています。
今日、多くの人々が、様々な問題を抱えて教会に相談に来られます。ある人は家族や職場での人間関係に疲れて。ある人は経済的に困窮して。またある人は、病気のいやしを求めて。イエス様はそのすべてに解決を与えてくださいます。しかし誤解しないでいただきたいのは、そういった問題に対して一つずつ解決を与えていくような御利益宗教の主(ぬし)がイエス様ではないということです。こういったトラブルの根源は、人の心の中にあります。イエス様はその一個一個をピンポイントでつぶしていくのではなく、すべてをまとめて解決してくださいます。神を神として認めようとしないことを聖書では罪と呼んでいます。人がその罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちの罪は赦され、神の愛が私たちの心の中に注がれます。そして、私たちの生活にどんな問題が起きても、それらは決して私を神様の恵みから引き離すものにはならないのだと気づかされるのです。
ある教会でのエピソードを紹介しましょう。子どもの引きこもりを相談しに、一人の婦人が教会を訪問しました。しかし牧師の具体的な助言は「来週から礼拝に出席することを勧めます」だけでした。わらをもすがる思いで来たのに、と失望しましたが、それでもその言葉に従って、通い続けました。しかしあるときの礼拝説教を通して、彼女は自分の理想を子どもに押しつけ、夫に責任を転嫁していたということを示されました。子どものためと言いながら、自分の忠実なコピーを作って、自分をこの世に残し続けようとしていたことにも気づかされたのです。しかし永遠のいのちをイエス様が与えてくださった今、そのような必要はまったくないのだということがわかりました。そして家族との関係も少しずつ変わっていったのです。
このお母さんをはじめ、多くの人が、自分自身という古い革袋を変えようとしないまま、今の生活を何とかしてほしいと願っています。しかしキリストが与える人生の解決は、新しいぶどう酒です。それは、今もぐつぐつ発酵を続けているぶどう酒であり、今までの私という古い革袋に入れてしまうと、破裂してしまいます。この世のしがらみ、この世の価値観、この世の生き方、それをいつまでも捨てずに折り合いをつけようとしている生き方では、イエス・キリストを受け入れたところで必ず破裂します。人生を変えたいと思うなら、自分自身を新しい革袋にしなければなりません。古いものは愛着があり、捨てることに勇気がいります。しかし昨日までの自分、いや、さっきまでの自分と決別し、キリストにふさわしい花嫁として生きていきたいと願うもの、新しいぶどう酒にふさわしい新しい革袋を与えられて生きていきたいと願うもの、そのような人は、人生のどんな悪い状況の中でも、神が次に何をしてくださるのだろうかということを期待する、喜びに満ちた人生を歩むことができます。
イエス様の声を聞いてください。わが愛しき花嫁よ。古きぶどう酒から手を離せ。捨てよ。むしろ新しき御国の祝宴に酔いたまえ、と。今、私たちは毎日このイエスと共に、新しき時代の、御国の祝宴にあずかっています。それが新しいぶどう酒です。新しいぶどう酒は、新しい革袋に。新しい生き方に。新しい人に。永遠のいのちを受けるために、古い生き方を捨て、新しい生き方を手に入れる。そして新しいものはすぐに古くなります。クリスチャン生活も、変化を恐れているならば、自分自身という袋はパンパンになり、神様が新しいぶどう酒を注ぎたくても注げないということが起こります。だから私たちは、失うこと、変わることを恐れてはいけません。何かを失っても、神様はそれ以上のものを与えてくださるのですから。
2023.8.27「見るべきものは∞(無限大)」(第二コリント4:11-18)
聖書箇所 第二コリント4章11〜18節
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。13「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。14主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。16ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。2017 新日本聖書刊行会
ここから大きい道路に出て、北にまっすぐ行くと、敬和学園高校に着きます。敬和学園高校は、今年で創立55周年を迎えます。25年前の創立30周年の時に、たいへん美しいチャペルができました。私は敬和学園高校の21回生ですから、当然このチャペルはまだできておらず、毎朝の礼拝は体育館で行っていました。確か8時半くらいから礼拝が始まるはずですが、バレー部がぎりぎりまで朝練をやっているのです。5分前くらいになってようやくやめて、のろのろとボールやネットを片付け始めると、私たち普通の学生ものろのろと集まってきて、自分の場所に座っていくという感じでした。当時の敬和学園の入学パンフレットには、在校生の言葉として「礼拝の時間は神様の前に心が洗われます」なんてコメントが書かれていたのですが、嘘つけと思いながら読んでいました。礼拝はギリギリに始まるわ、始まってもうるさいわ、礼拝の間、柔道部の顧問の先生が、柔道部のくせになぜか剣道の竹刀を持って列の間を巡回しているわ、そんな美しい礼拝ではありませんでした。体育館ですし。
ただ、体育館のステージの上の方に大きな垂れ幕が張ってあり、そこに聖書の言葉が大きく書かれていたことは今でもよく覚えています。それが今日の18節のみことばでした。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」。当時は何のことを言っているのかよくわからなかったのですが、いま振り返ってみると、あのうるさかった礼拝の中にさえ、目には見えないが生きておられるイエス様がおられた、という意味で、もっともふさわしいみことばであったのかもしれません。
「見えるもの」そして「見えないもの」とは何でしょうか。パウロは、その直前の17節で、それぞれを別の言葉を使って表しています。見えるもの、それは「私たちの一時の軽い苦難」、そして見えないもの、それは「それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光」なのだと。イエス以後に現れたクリスチャンの中で、パウロほど苦しみ抜いた人はいなかったはずです。しかし彼は自分が経験した苦難を「一時の軽い苦難」とあっさりと言ってのけます。それは、私たちが地上で経験することは、それがたとえどんなに重い苦しみであったとしても、天に私たちに用意されている永遠の栄光に比べたら、それは軽い、圧倒的に軽いからです。
高校生の頃、数学の中に無限大という概念を学び、感動したことがあります。何に感動したかというと、無限大という概念のもとで、それまで知っている数を学び直してみたときに、1も百億も違いがない、ということです。わかりやすくするために、あえて1と100億という数字を出しましたが、プラスであろうがマイナスであろうが、どんな数字も、この無限大という概念に照らしてみたとき、どれもどんぐりの背比べ、ほとんど違いがないものになります。私たちが、やがて天に待ち受けている無限大の栄光が用意されていることを思うとき、この地上の戦いがどれほど激しいものであろうとも、それはやがて過ぎゆく一時的な、軽い苦難でしかないのです。
今から二千年近く前、ローマ帝国に捕らえられて火あぶりの刑に処せられたクリスチャンの名前を使った、こんな詩が残っています。私は生まれつき病弱の、貧しく卑しい奴隷であった。すべての苦しみ、憎しみ、ありとあらゆる地上でのことは、天の栄光のうちに忘れられる、それはさびしいことでしょうか。地上で私の名がどんなに残されたとしても、それはいつかは朽ち果てていく。しかしそんなことは、まるでどうでもよいことと思えるほどの、はかりしれない永遠のいのち、永遠の光、永遠の神のもとに安らぐ希望。それが私たちに用意されているのです。
しかしキリストに見いだされ、私は奴隷から、神の王子となった。
皇帝に捕らえられ、獣の皮をかぶせられ、火にかけられたとき、御手が火の中から頭上に現れ、私は天に引き上げられた。
そしてふと地上を見下ろすと、兄弟セルギウスが、私の亡骸のそばで、私が地上でどのように戦い抜いたか、壁に証しを書いていた。
しかし、私自身は、すべてを忘れてしまった。
私たちクリスチャンにとって、苦しみそのものが何か価値があるわけではありません。しかしその苦しみが、イエスのためであるときに、それは一切無駄なものはなく、意味を持ちます。パウロは、まさに死を覚悟するほどの苦しみを経験し続けてきました。コリントの教会から拒絶され続けていた数年間は、彼らの産みの親とも言うべき彼にとって、まさに死と等しいような毎日だったことでしょう。しかしコリントの教会が、イエスにふさわしい者として生まれ変わるために、その苦しみの一切は決して無益ではありませんでした。だから彼はこう告白します。12節をご覧ください。「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いている」と。
パウロがあらゆる困難に耐えることができたのは、それが無駄にならないこと、それが人々をキリストのもとに導くものであることを知っていたからです。自分の身に起こっていることは、文字通りキリストのために起こっているのだ、という確信を持つとき、私たちはどんなことにも立ち向かうことができるし、どんなことにも耐えることができます。この地上で私たちが求めることは、自分自身が楽に生きられることよりも、神の栄光が現れることなのだ、と。15節でパウロは言います。「すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです」。
私たちの人生のあらゆる苦痛も、他の人々の中に感謝が生まれ、神の栄光が現れるようになるために用いられるとしたら、それはまさに宝を生み出すものとなります。昔、豚小屋の管理人をしている老人がいました。ある人が、来る日も来る日も同じように豚小屋の汚物を処理しているその老人の仕事に同情して、「大変ですねえ、仕事がいやになることはないんですか」と聞いたそうです。するとその老人はこう答えました。「ちゃんとした見通しを持っていれば、仕事がいやになることはねえですだ」。
目に見えないものに目を注ぎ続ける、というクリスチャンの生き方は、それと似ています。決して目に見えるものから目をそむけるような生活ではない。やがては朽ち果てていくような、人生の汚物に対しても、責任をもって生きていく。しかしそこで自分を失うことなく生きていけるのは、目に見えないものを、内住の聖霊の目を通して見ているからです。私たちには、光が与えられています。キリストを知らない人々には、決して見えないが、私たちには見えるその光、それは神が天に永遠に続く喜びを用意して下さっているということです。いま、苦しみの中にある方は、イエス様がやがて私たちを迎えにきてくださり、私たちをその永遠の栄光の中に導いて下さることをかみしめましょう。このイエス・キリストを見上げながら歩んでいくとき、地上でのどんな苦難に対しても、私たちは耐え忍ぶことができるのです。その約束を一人ひとりが心に刻みつけて、これからの一週間に向かいましょう。
2023.8.20「主イエスを語り続けよう」(第二コリント4:1-10)
聖書箇所 第二コリント4章1〜10節
1こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。2かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。3それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。4彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。5私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。8私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。9迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。2017 新日本聖書刊行会
毎日暑い日々が続き、何もしたくないと考えてしまうのは私だけでしょうか。そんなとき、ヘンデルの『メサイア』を聞きます。教会では、最後の部分だけがハレルヤコーラスとして知られていますが、メサイア全曲は、約二時間半に及ぶ大作です。聞くだけでも一苦労ですが、ヘンデルはこのメサイアを、ちょうどこの時期、8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げたといいます。その間、食事も睡眠もほとんどとらなかったそうです。神が信仰者を用いて、大きな仕事をなさるとき、確かに神はその人にそれを遂行するのに必要な力も与えてくださいます。パウロは自分自身を振り返ってこう言いました。1節、「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません」。パウロとヘンデル、そして幾多の偉大な仕事を成し遂げた信仰者の人々に共通しているのは、「あわれみを受けた」というへりくだりです。人は大きな仕事を与えられたときに気分が高まりますが、高まりだけでは続きません。しかし自分を救い出してくれた愛のためになら、どんな努力を傾けても惜しくはない。神の愛にはそのような力があります。
さらにパウロの2節の言葉に注目しましょう。「かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで」と、しつこいくらいに言葉を重ねています。これは、パウロが実際、このようないわれのない批判を受けていたことを表しています。コリント教会の中には、パウロの教えに反対していた敵対者、偽教師たちがいました。彼らは、パウロが隠れた手段を用いて、悪巧みによって我を通し、福音のメッセージを勝手に曲げた、と言って彼を非難したのです。神のために働こうとするとき、悪魔による妨害も働きます。そして悪魔は、外側から無関係な人を使って攻撃するよりも、内側から家族や友人を使って攻撃することを好みます。
しかし、私たち自身の動機が誤解され、行動が悪く取られ、言葉が曲げられて解釈されるときでも、決してあきらめてはいけません。福音を伝えるということは、パウロのような熟練した使徒でさえ、困難な仕事でした。私たちは伝道と聞くと、どうしても特別伝道集会を想像してしまうようです。ある教会で牧師が信徒に講壇から「伝道しましょう」と呼びかけたら、説教後に「じゃあ特伝を計画しましょう」という声がさっそく挙がったそうです。しかし「特別伝道」とあるように、それは特別なのです。伝道イコール特伝ではなく、伝道というのは決して派手ではないが、信徒自身が毎日の信仰生活の中で少しずつ、はっきりした成果は見えない中で、それでも語り続けていることが伝道であって、特別伝道集会とは、その刈り取りをするためのものでしかありません。パウロでさえ、「一人でも二人でも救うためなのです」と別のところで語ったほどに、伝道は地道な働きでした。リバイバルさえ始まれば、何千人も面白いように救われていく、といったものでは決してなく、福音宣教は困難な仕事です。なぜここまで困難なのか。それは、この時代を支配しているサタンが、人々の心に覆いをかけて、暗闇の中に閉じ込めてしまっているからだ、と聖書は言います。信じた者たちは、神のかたちであるキリストに似た者にされるのですが、その証しの光さえも届かないほどに、滅びに至る人々の心はサタンによって覆われてしまっているのだ、と。しかしそれでもなお、私たちには、語り続けることしかできません。誰が救いに定められていて、誰が滅びに至るのかということには、私たちにはわかりません。見かけや言動で判断することもできません。そうであれば、乱暴な表現に聞こえるかもしれませんが、手当たり次第に語り続けるしかないのです。しかし下手な鉄砲数打ちゃ当たるとは少し違います。伝道に力を与えるのは、祈り、そして感謝です。
私たちが福音を伝える人々は、かつての私たち自身です。福音の力を知らず、キリストを救い主と知らず、何も知らないのに拒み続けていた私たちのかつての姿です。しかし神は、私たちをあわれみ、キリストの十字架への信仰を通して、私たちは闇から光へと変えてくださいました。それを実際に経験した私たちしか、このイエス・キリストを語ることはできません。逆に言えば、イエス・キリストによって私たちが救われたことを、だれかによって教えてもらったことを経験している私たちだからこそ、今度は自分がだれかに伝えることで、神の恵みがさらに広がっていくことを知っているのです。
「土の器」という言葉に初めて出会ったのは高校生の時ですが、松本清張の「砂の器」を思い出しました。その小説の中で暴かれる連続殺人事件の犯人は、ようやくつかんだ幸せを守るために、彼は過去を知る人々を殺してしまうのですが、「砂の器」とは、どんなに幸せを詰め込んでいってもぼろぼろ崩れていく、そのような彼の人生を象徴しています。パウロが語る「土の器」も、砂の器に比べてことさらに頑丈なわけではありません。小さな衝撃で壊れてしまうようなものにすぎません。それは私たち人間としての弱さそのものを表しています。弱さ、というよりは、無価値、と言ってもよいでしょう。しかしもし私たち自身が無価値であろうとも、私たちの中にイエスという宝があるならば、無価値の者が、他のどんなものよりも価値のある者となるのです。いつでも、かんたんに、こわれてしまうのが人間です。しかし私たちクリスチャンはこう告白することができます。弱さはわれわれのもの、しかし栄光は神のもの。私たちはまったく神に依存しているからこそ、弱いようで強い。苦しみに囲まれていても、絶望することはない。人々にどんなに迫害されても、神に見捨てられるようなことは決してない。途方に暮れても、決して希望を失わない、と。
ある若い牧師が、教会で中傷を受け、牧会から退こうと考えたことがありました。それを聞いた一人の老牧師が彼にこう言ったそうです。「みことばを語ることをあきらめてはいけない。天の御座の周りにいる御使いでさえ嫉妬せずにはいられないような、特別な仕事をあなたはゆだねられているのだから」と。それは牧師から牧師に語られた言葉ですが、信徒もまた同様です。福音を伝えるという、教会に与えられた仕事は、御使いでさえねたむほどに尊い働きであり、私たちはそれをあきらめてはいけない。あきらめそうになるとき、私たちに与えられたあわれみを思い出しましょう。闇が光の中から現れよ、という言葉で世界を造られた神が、再びその光をもって、私たちの心を闇から光へと変えてくださった、その救いの恵みを思いだし、かみしめるときに、どんな霊的攻撃があっても、立ち続けることができます。私たちに与えられている尊い使命に踏みとどまりましょう。そして語り続けていきましょう。
2023.8.13「従うという奇跡」(マルコ2:13-17)
聖書箇所 マルコ2章13〜17節
13イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。14イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。15それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。16パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」17これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」2017 新日本聖書刊行会
最初に13節をもう一度お読みします。「イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた」。きらきら輝く水面を右手に見ながらのんびりと散策しているイエスと弟子たちの姿を想像します。しかしじつはここは、そんなのんびりとした状況ではありませんでした。この直前、イエス様は、ある家の中におられ、みことばを語っておられました。そこに屋根をはがして中風の人が吊り下ろされてきました。そのときイエス様が「あなたの罪は赦された」と彼に語りかけると、そこにいた律法学者たちは、神でしか罪を赦すことができないのに、こんなことを口にするイエスは神を自称する者だ、と憤り、その家から追い出した、その結果がこの13節なのです。「また湖のほとりへ出て行かれた」とは、好きで出ていったのではありません。宗教指導者からは異端と認定され、イエス様ご自身が「人の子には枕するところもない」と言われた、長い流浪の旅がまた始まったのです。
「湖のほとりへ出て行かれた」という短い文の後ろには、そんな暗く、気落ちしそうな状況が隠れていました。しかしそれでもイエス様は、みもとに近づく民衆たちにみことばを語るのをやめませんでした。そして道を通りながら、収税所に座っていたレビという人に声をかけ、「わたしについて来なさい」と声をかけられました。イエス様の辞書には諦めるという言葉はありません。たとえ宗教指導者から異端認定されて、会堂で公に語ることもできなくなったとしても、人々が集まるところであればどこででもみことばを語られます。そしてその働きにふさわしい弟子を招かれます。イエス様から声をかけられたレビは、そこで何を考えたでしょうか。収税人という職業柄、その招きに従うことはプラスかマイナスか、そろばんをはじいて考えたでしょうか。いいえ、彼はすぐに立ち上がって、イエスに従いました。
私たちがイエス様に選ばれ、招かれ、救いを受け入れる。それは、人間的な損得勘定を超えた、神のわざです。私が市役所で働き始めた初日、夜の歓迎会で先輩が冗談めかして私にこう言いました。「これから定年までの約四十年間で、近さんには市民の税金から二億円が生涯賃金として払われるんだ。くれぐれも市民に足を向けて寝たらいけないよ」。東西南北どこにも市民がおられますから立って寝るしかないのかなと思いましたが、私はそのときもう一つ、頭の中で、「そうか、ではそこから十分の一献金をささげると、生涯で二千万円を教会にささげることになるのか」と計算しました。市役所より税務署のほうが向いていたかもしれません。
しかし実際に教会員の皆さんが経験していることですが、ささげるのは十分の一献金だけではありません。集会献金、特別献金、外部献金、会堂献金、ナントカ献金、十分の一どころか生涯賃金の二割、三割は当たり前。もしみなさんが一年間にこれだけの額を神様にささげています、と友人に話せば、「あなたそれだまされているんじゃないの」と言われかねないほどの金額を一人ひとりがささげています。しかしクリスチャン生活の醍醐味は、損か得かを超えたところにあります。さらに言えば、頭や心を超えたところにあります。神のひとり子が私たちを救ってくださった。だからイエス様に私のすべてをささげます。これもまた、あなたそれだまされているんじゃないの、と言われかねない。しかし信仰は、私たちの計算や判断の上にはありません。「私について来なさい」と、神が私たちを引き寄せてくださった、圧倒的な御力の上にあります。神が必ず責任をとって最後まで導いてくださることを信じる、どうしてそんなものを信じられるのか。これこそが奇跡です。そこには人の思いを超えた、圧倒的な招きと、それに答えた一人ひとりの奇跡の物語があるのです。
15節、「それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである」。イエス様は、罪人と呼ばれる人々を喜んで受け入れました。しかし次の16節には、そんなイエス様を批判するパリサイ人や律法学者のこんな言葉が記されています。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか」。それに対してイエス様ははっきりとこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」。
イエス様がここで医者をたとえに用いているのは、イエス様のもとにやってきた、罪人と言われる人々が、自分たちが病人であることを自覚していたからだと思います。自分の力では決して治すことができないものが自分の中にあることを、取税人や売春婦たちは自覚していた。だからイエス様のもとにやってきた。しかし自分が健康だと誤解している病人は、医者でも治すことはできません。それがまさにパリサイ人や律法学者の姿でした。自分だけは神の戒めを守っている正しい者たちだと思い込み、イエス様のみことばが心に入ってこない人たちでした。私たちはどちらでしょうか。クリスチャンは、イエス・キリストによって罪を許された者です。しかし罪がなくなったわけでも、罪を犯さなくなったわけでもありません。信仰生活の中で、今も自分の心の中や唇の上に、鎌首をもたげる罪に気づき、苦しむこともあります。しかし自分の中の罪に気づく、ということそのものが恵みなのです。私は健康だから医者なんかいらない、という人は医者の言うことを聞きません。私は罪がないから悔い改めも必要ない、という人は、神のことばを聞いても、自分ではなく、あの人にきかせてやりたかったわ、という感想で終わってしまって、何も成長がありません。
収税人レビは自分が罪人であることを自覚していました。いや、むしろ神がレビの心の中に、罪を示し続けておられた、と言ったほうがよいかもしれません。自分が病人だということがわかっていたからこそ、彼はたましいの医者であるイエスの招きにすぐに答え、立ち上がって、従いました。収税人は、一度この仕事からやめてしまうと、決して再びこの職に戻ることができないきまりだったそうです。それもまた、私たちクリスチャンの姿を表しているように思います。私たちがキリストに従うということは手に何かをつかみ続けたまま、あれもこれもと求めることではありません。今までの人生でつかんだものもすべて、神様にゆだねて、まずは手を離すことから始まります。
子どもの頃に見たドラマにこんな光景がありました。買い物帰りの若い奥さんが両手にいっぱいの買い物袋を抱えて公園の中を歩いていると、サッカーボールが転がってきて、子どもたちが蹴り返してと合図します。買い物袋を抱えたままキックしようとしたら見事に空振り、転倒した上にパンツまで見えてしまう。昭和ですね。でも彼女が一度、その買い物袋をベンチかどこかに置いて、助走をつけて蹴り返していたら、そんなことはなかったかもしれません。
クリスチャン生活とは、そのようなものです。家族のこと、将来のこと、私たちの心をいつも支配しているもの、そういうものを一度下に置く。それは神様にお任せするということです。無責任ではなく、神が必ずケアしてくださるという信頼です。収税人レビは、すべてを捨ててイエスに従い、十二弟子のひとりになりました。聖書では、マタイというもう一つの名前で知られています。彼がいなければ、四つある福音書のうちのひとつは生まれませんでした。神様は、一人ひとりに最善のご計画を用意しておられます。神様の招きに、一人ひとりが答えていきましょう。
2023.8.6「死んだからこそ生きられる」(第二コリント5:14-21)
聖書箇所 第二コリント5章14〜21節
14というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。15キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。16ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。17ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。18これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。20こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。21神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。2017 新日本聖書刊行会
今日8月6日は、広島に原爆が落とされた日、そして三日後の9日は長崎にもそれよりやや小さい原爆が落とされました。小さいといってもそれは爆弾のサイズの話であって、二つの原爆が与えたものは数え切れないほどの悲しみでありました。直接の死亡者は広島が14万人、長崎が7万4千人という記録が残っていますが、原爆が落とされてから78年のあいだに、父や母、祖父母、あるいは遠い親戚に原爆を経験した人がいるというだけで、学校や職場、地域で偏見の目にさらされてきたという人々を含めれば、いったいどれくらいになるのでしょうか。
いま、アメリカで「オッペンハイマー」という映画が公開されています。「オッペンハイマー」は原爆開発の指揮をとった科学者の名前で、「原爆の父」とも呼ばれています。この映画は日本ではまだ未公開ですが、二つの原爆が入った木箱が研究所から運び出される様子を見て、科学者たちはこれが実際に落とされるのではないかと不安になるという描写があるそうです。しかし、原爆を作っていながらこれが実際に都市や人間に対して落とされることはないだろう、なんて科学者が考えていた、ということは実際にはあり得ないでしょう。
戦争は、政治家であろうと軍人であろうと、科学者であろうと民衆であろうと、それに関わる、あらゆる人間を狂わせます。オッペンハイマーは平和主義の人格者としても知られている人ですが、その彼が、なぜ原爆の父と呼ばれるほどまでに、この開発に深く関わっていったのか。そこにある、どんな高潔な人間の心の中にも、罪と闇があるという事実を映画に求めることは酷ですが、少なくとも聖書はそれをはっきりと語っています。そして私たちもまた、自分の中であぐらをかいてのさばっている罪の存在を認め、キリストだけに頼る者
となったことを改めて覚えていきたいと思います。
14節の後半でパウロはこう語っています。「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と」。「一人の人」とはイエス・キリストのことです。すべての人をお作りになった神ご自身であるイエスが、十字架の上で自分の命を捨てた、それはすべての人が死ぬためであった、とパウロは言います。「死」というのは悪い印象しかありませんが、ここには、解放としての死が語られています。つまり、私たちすべての人間は、キリストの死によって、この世界に対して死に、この世界から解放されたのです。死んだ者は自分の評価を気にしません。死んだ者はもはや欲望を満足させることに執着を燃やすことはありません。しかしそれにもかかわらず、キリストが死なれた後、二千年間、いまだに人は自分の欲望に生き、自分がいかに評価されるかに執着します。それは、自分がすでに死んでいることがわかっていないからです。どれだけ手に入れても終わりのない世界。フルカラーの世界のようで、実はまったく色のない世界でしかないことに気づかないまま、人々はいまもその場限りの欲望や評価を追いかけています。しかし、その中で、異色な人々がいます。クリスチャンです。キリストが私のために死に、私もこの世界に対して死んだ、だからこそキリストのために、キリストのためだけに生きる。それが私たちです。
ですが口で言うのは簡単、実際にはそうは生きていない私たちがいます。16節でパウロはこうも語っています。「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません」。「肉に従って人を知る」という言葉の意味は、「目に見えるもので判断する」ということであり、私たちがかつて身を置いていた、この世のやり方です。キリストを信じたときに、そこから解放されて、私たちはうわべで人を見る生き方からも解放されたはずでした。しかしパウロはさらにこう言います。「かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても」と。
キリストに対して、いまもこの世の栄光を求める人々がいます。それがかつてのコリント教会であり、あるいはパウロ自身でさえそうであったのかもしれません。しかしこの世に対して死んだ者であるクリスチャンが、いまだに世の人々が憧れるような富や権力、信者の数を求めることは愚かではないか。しかしかつてはそのように見ていたとしても、もうそのような見方はしない。いや、できない。なぜならば、キリストのうちにある者は、常に新しく生まれ変わっているからだ。私たちを縛っていたものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなったのだ、と。
今日の聖書箇所の後半では、何度も「和解」という言葉が出て来ます。しかしすべての和解の出発点は、まず私がイエス・キリストによって新しく生まれ変わることにあります。多くの人が、多くの国が、和解を求めています。しかし自分は変わらないままで、他人を変え、世界を変えることはできません。
ある児童養護施設の職員が、ある男子から「どうして人を殺してはいけないのか」と質問されたそうです。彼は、父親に虐待されて育ち、その父親は、人を殺したあげくに自殺したという人であり、彼は言葉一つにしても大変配慮を必要とする少年でした。「人を殺したらいけないのは当たり前」は、それが当たり前ではない家庭に育ったこの子には通用しません。人を殺したら、その人も、家族も周りの人もみんなが苦しむよねと語っても、その子自身が希薄な家族関係の中で生きてきたので、それもわからない。しかしその時にベテランの先輩がこう答えました。「○○君はリンリンとランランを殺せる?」。パンダの名前みたいですが、それはこの子がいきものがかりとして世話をしていたアゲハチョウの幼虫二匹でした。「殺せるわけがない」と彼が答えたとき、虫でさえそうであれば、ましてや人を殺すことはできないということが肌感覚としてわかってもらえたようだ、というお話でした。
しかし彼がその幼虫を飼うという関わりがなければ、通じなかったかもしれません。関わり。「交わり」と言い替えることもできますが、それがいかに大切なことなのかを思います。和解とは、自分と相手との関わりが変わることです。しかし私たちは自分の中に罪があるがゆえに、自分を変えること、相手を変えること、関わりを変えていくこともできません。だからこそ、まず神のほうから和解の手を差し出してくださいました。この神に自分自身をゆだねることで、神が私を変え、この世界との関わりを変えてくださいます。
しかし、すでにこの世界に対して死んでいるはずの人間は、それを知らず、そして死んでいるにもかかわらず、両手にあまりにも多くのものを抱えすぎているがために、和解のための右手を差し出すことができないのです。抱えているものは、人によってまちまちです。家族、仕事、誇り、経済的不安、人間関係、しかし抱えているものが何かは、大した問題ではありません。大事なことは、和解のために抱えているものを一旦捨てるということです。捨てる、というよりは神の御手にゆだねることです。和解、つまり関係を変えるという道は、決して歩きやすい安全な道ではありません。自分の足で一歩一歩踏みしめながら、何度も蹴躓きながら歩んでいくしかない道です。しかし決してひとりぼっちの道ではありません。常に神が共におられ、そして疲れ果てた私たちを神が背負って歩んでくださる、そういう道です。そして私たちひとり一人は、和解をもたらす全権大使として、今までも、これからも、この場所にあって生かされている者たちです。神との和解、人との和解、それが今与えられている交わりの中から生まれていくことをおぼえながら、今週もお互いに祈り合っていきましょう。
2023.7.30「天を仰ぎ、常識の向こう側へ」(マルコ2:1-12)
聖書箇所 マルコ2章1〜12節
1数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。2それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。3すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。4彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。5イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。6ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。7「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」8彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。9中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。11「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」12すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。ある教会員の方が、先日こんなことをお話ししてくださいました。少し前に、地元の高校生が礼拝に出席してくださったのですが、ここが教会というよりは絵に描いたような民家ですので、いまどきの高校生にはどうかな、と思いつつ、その教会員は感想を聞いたそうです。そうしたら「確かに古いけど、逆に、こういうほうが落ち着く」という答えが返ってきた、と。私も古い家が好きなほうですので、そんな話を聞くと、「じゃあ、いっそのこと、ずっとここでやっていこうか」と一瞬だけ思いましたが、いやいや、やはりそんなわけにはいかない。その理由の一つは、このスペースでは、今の人数でほぼ限界だからです。これは教会に限りませんが、ある建物に入っている方の数が、その収容人数の八割を超えると、それ以上は増えないと言われます。人間の心理として、席が埋まっているのが目に入ると、繰り返し来たいとは思わないそうなんですね。もちろん、行列のできるラーメン屋のような例外はあります。しかしそれは、行列してまで食べること自体が、満足感を得る手段となっているわけです。しかし残念ながら、行列してまで聞きたい聖書のお話というレベルに私は届いておりませんし、みなさんが家族や友人を教会に誘うとき、「狭いから座れないカモよ」と前置きしなきゃいけない教会というのも申し訳ない。ですから、今は子どもたちを合わせて約30名くらいですが、これから50名の礼拝を目標としています。50名を受け入れるためには、駐車台数はその半分、25台が余裕をもって駐められる数字になります。ここを残したままでは25台駐めることは難しいので、取り壊した上で、教会堂と牧師館、駐車場を整えていくことになるでしょう。完成に至るまでは、これからもどんなことが起こるのかわかりません。しかし主は知っておられます。だから恐れる必要はありません。心を合わせて、新しい宮をささげていきましょう。
さて、今日の聖書箇所の中には、イエス様が入られた家は人々が押し寄せ、足の踏み場もないほどであったことが書いてあります。先ほど八割云々と言いましたが、イエス様には適用できません。行列ができるラーメン屋は極上のラーメンを提供しますが、イエス様はそれよりもはるかにまさる神の恵み、みことばといやしを人々に与えました。だから人々は、座る場所があろうがなかろうが、イエス様のもとに押し寄せたのですね。しかしそこに、四人の人に担がれた、中風の人が運ばれてきました。私たちがこれから計画している教会堂には、車椅子の方でも安心して使うことのできる、多目的トイレを作ろうという話をしています。礼拝堂も、体調の悪い方が少し横になってでも一緒の礼拝が守られるような設備を考えているところです。
しかし二千年前は、そんな優しい時代ではありません。中風の人を担いだ四人の人が来たとき、「どうぞどうぞお入りください」と出入り口に近い人たちが外に出て道を空けてくれるようなことはありません。出入り口からイエス様のところまでぎっしり人が埋まり、みんなイエス様のほうしか見ていない。その中には、イエス様の言葉尻を捉えて訴えようとしている宗教指導者たちもいました。彼らも、そんな四人に担がれた中風の人に気づいて席を空けるなんてことはしません。季節がいつかはわかりませんが、この家の中から吹いてくる世間の風は、彼らにとって冷たかったのです。
しかしだからこそ、彼らは信仰を働かせる機会を神様から頂きました。どうすることもできず、天を見上げたとき、彼らは気がついたのです。正面から入れなければ、上から入ればよいではないか、と。おそらく外階段を使って、四人の人は中風の人を担いだまま屋根に上がりました。そして人さまの家にもかかわらず、屋根をはがし、この中風の人を床(とこ)に寝かせたまま、イエス様の前へと吊り下ろしたのです。
ある貧しい国から政府の補助を受けて、日本の大学に留学していた青年がいました。ある朝、日本人のクラスメイトが、電車の中で本を読んでいる彼を見つけました。しかしそのクラスメイトは、思わず笑いそうになったそうです。というのは、彼が本を逆さまにして読んでいたからです。電車を降りた後、クラスメイトは彼に声をかけて、こう言いました。「さっき本を逆さまに読んでいたろ。読むふりをして、眠っていたんじゃないのか」。すると彼はこう答えました。「ああ、さかさまだったよ。でもそれが僕の国では当たり前なんだ」。彼の国は度重なる内戦で荒れ果て、子どもたちは教科書さえも配られない。そこで教師は、一冊の教科書を地べたに置いて、それを取り囲むように子どもたちが座り、授業を続けて来た。だから本を逆さまに読むなんて当たり前だったんだ、と。その話を聞いた日本人学生は、赤面して彼に謝ったそうです。
日本のように教科書、いまはタブレットでしょうか、子どもたち全員にそれが行き渡る国であれば、逆さまに本を読むなんてあり得ない。それが常識です。しかし貧しい国では、その常識が逆転します。信仰の世界でも同じです。神を知らない人々の常識は、神の国で生きる人々にとっては非常識、ということも決して珍しくありません。屋根をぶち抜いて、イエス様に直してもらうなんて、非常識だ。人々はそう考えました。しかし常識の向こう側に行かなければ、常識を越えた神の恵みに出会うことはできません。屋根をべりべりと剥がして布団ごとつり下げるなんて、明らかに非常識です。常識を越えています。しかし本当に大切なもの、本当に必要なものは常識の向こう側にあるのです。キリスト教は外国の宗教だとか、救いを必要としているのは一部の人間だけだとかいう、この国の常識を乗り越えて、本当の救いを受け取ってほしいと願ってやみません。
この中風の人は、すべての人間の姿です。私はとりあえず健康だから関係ない、ではありません。私たちは、あらゆる人間が罪という病に冒されています。それは生まれたときすでに背負っている病であり、あるひとつの方法以外には、決していやされることはありません。そのたったひとつの方法とは、イエス・キリストを救い主として信じることです。そうすれば罪のさばきから解放され、私たちは本当の意味で立ち上がることができます。
しかし聞いたことのない方を信じることなどできません。出会ったことのない方を信頼することなどできません。だからこそ、私たちはどんな方法であっても、人々に教会に来ていただきたいのです。そして私たちからキリストの香りをかいでほしい。キリストを信じた者がどれほど喜びと希望にあふれて歩むことができるのかを知ってほしい。それができるのは人間ではなく、ただ神だけです。「子よ、あなたの罪は赦された」と優しく呼びかけてくださるイエス・キリストだけです。どうか、この方を信じることができますように。そして私たちクリスチャンがことばや、対応する姿勢を通してキリストを証ししていくことができますように。
2023.7.23「誤解を解くよりも大切なこと」(第二コリント1:15-24)
聖書箇所 Uコリント1章15〜24節
15この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。16すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。17このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。18神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。19私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。21私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。22神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。23私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。24私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。2017 新日本聖書刊行会
本日も、コリント人への第二の手紙からみことばをいただきたいと思いますが、残念ながら、何を言っているのかわからない、とため息をもらしたくなる箇所です。所々、神の子キリスト、保証である御霊、といったことも出てきますが、はいはい、いいえいいえ、はいと同時にいいえとか、わかりにくいことこのうえありません。
この第二の手紙が、教会の礼拝で連続説教されることが少ないのは、この手紙を理解するためには、そこに書いていない背景についても説明しなければならないからだと思います。じゃあなんでうちの牧師はわざわざ難しいところを取り上げているのと聞かれたら、ここにはまさに、神の教会が内側から揺れ動く姿と、必ず回復していく恵みに溢れているからです。私たちはいま、教会の会堂建設という大きな働きの正念場に来ています。会堂建設はお金集めが最大重要点ではなく、一人ひとりの確信をいかに作り上げていくかがポイントです。私たちは確信のないものに力を注ぐことはできませんが、確信が与えられれば、どのようなものでも献げることができます。しかしその確信に至るまでは、それぞれが異なる思いを丁寧にすりあわせながら進めていかなければなりません。意外とクリスチャンはこれが苦手です。自分に示されたものこそみこころなのだ、と考えやすいからです。しかしすりあわせる労力を避けるあまり、なおざりにしていると、後になってから、これは私が求めていたものとは違う、と問題が再燃することもある。何やら不安なことばかり語っていますが、これは信仰を働かせなかった場合の話です。しかし信仰を働かせていくとき、会堂建設は、会堂以上に、私たち自身をイエスに似た者へとさらに近づけさせていく、恵みをもたらします。むろんその途中、私たちはたくさんの誤解や、すれ違いに対して、丁寧に取り組んでいかなければなりません。
話が少し横道にそれましたが、今日の聖書箇所の背景にあるのも、コリント教会の中にまだくすぶっていた、パウロへの反感でした。コリントの信徒を利用して私腹を肥やしていた偽教師たちは、パウロがコリント教会を訪問すると言っていながらまだ来ないのは、パウロがいい加減な人間だからだ、と批判していました。そんないい加減な人間が語る福音や救いが本物であるという保証はどこにあるのか?と、彼ら偽教師はパウロの人格性だけではなく、その教えまでも批判・否定していたのです。しかも彼らは、自分たちの言葉をもっともらしいものにするために、イエス様の語られた言葉さえ利用していました。この箇所で繰り返されている「はい」「いいえ」は、イエス様が語られたことばの一節です。マタイ福音書にある山上の説教の中で、主はこう語られました。「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」
偽教師は、このみことばを持ち出して、パウロを批判しました。ことばと行動が一致しないパウロは、イエスが警告した「悪い者」そのものなのだ。だからパウロが今まで語ってきたことも、口先だけの約束にすぎない。そして彼らは今までパウロが伝えてきた永遠のいのちや、聖霊による保証についても疑わせ、教会を再び混乱させていたのです。
悪魔が教会をかき回すときは、必ずみことばを使ってきます。悪魔にとってみことばは触れたら溶けるというものではなく、むしろみことばを自分の言いように使って、信者を惑わしてきます。荒野の誘惑のときも、エデンの園での誘惑のときも、悪魔は神のことばを持ち出してきました。コリント教会においても、偽教師たちはみことばを使って、教会をかき回していました。それに対してパウロはどのように答えているでしょうか。
15節と16節で、パウロは、教会の訪問を取りやめた理由は思いつきではなく、別の機会を設けて、コリント教会に何重もの恵みをもたらすためであると語っています。しかし具体的な反論はここまでです。その後、彼はひたすら言葉を尽くして、イエス・キリストが「はい」と同時に「いいえ」である方ではなく、この方には「はい」だけがある、私たちに聖霊の油を注ぎ、救われた保証としてあなたがたにも聖霊を与えられたお方、といったことについて語っていきます。パウロにはわかっていました。悪魔が偽教師を通して、みことばを利用して自分たちが神のしもべであることを疑わせようと仕向けているのであれば、彼にできること、それはコリント教会の信徒たちが、正しいみことばにとどまるように、自分のことよりも神のことを語るべきだ、ということを。
パウロは、多くの言葉を費やして、自分たちの計画の正当性を弁解することもできました。しかしたとえ誤解は残しても、自分のことを語るよりも、彼は人々がみことばを正しく解釈し、与えられたみことばの中に信頼し続けることを願ったのです。私たちが何かを伝えたり、あるいは伝えなかったことで、他人から誤解を受けることは珍しくありません。しかし教会においては、自分の語ったことや行動については、人がそれをどう考えるか、ということの前に、自分が神様に対する真実さをもってそれを語り、行ったのか、ということが重要です。それがあやふやであれば、神に悔い改め、人に謝罪します。しかし神への誠実を確信できるのであれば、仮に誤解や問題が起こっても、真実なる主にゆだねることができます。パウロとコリント教会のように、問題解決まで何年もかかるかもしれません。しかしすべてのことが神から発しているという確信に立つとき、トラブルの日々の中で最も重要なのは、早期解決よりも、そこから何を信仰の訓練として引き出すかということです。
約二十年前に豊栄に赴任してきたとき、会堂がとても広かったのを覚えています。スピーカーやミキサー、録音装置のようなオーディオ関係がまったくなかったからでした。声が大きいから音響いらないよねという声もありましたが、いつも声を張り上げていると説教者も会衆も疲れてしまいます。インターネットで調べて、スピーカーやオーディオなどについて勉強しました。スピーカー一本にしても、ミドルクラスで数万円、高級品では数十万円もします。到底買えませんが、どんなに高いスピーカーも、いやむしろ高級品だからこそ、すぐには使い物にならないそうです。高音、低音、あらゆる音域を何十時間、何百時間と鳴らし続けて、ようやく本物の音が出るようになります。これを「加齢」を意味する言葉と同じ、エイジングと言います。しっかりと時間をかけてエイジングをしたスピーカーは、何十年も同じ音を鳴らし続けることができます。それは本物になるまで時間をかけたからです。
神が私たちを訓練するときも、時間をかけます。問題に投げ込み、長い時間をかけてその意味を見いだし、益に変えます。問題が起きたとき、それを直ちに解決することに心が向いてしまい、神がこの問題をどのような計画で私に与えられたのか、忘れてしまいがちです。パウロにとって、数年間のコリント教会との軋轢は、自分が育てた教会との間に起きた、悲しい経験でした。しかしパウロは、人からいくら誤解されても、動じませんでした。それは、自分が神のみこころに従って歩んでいると確信していたからです。私たちは、何を行うにしても、「これに関して、神のことばはどう語っているか」ということをまず第一に考えるようにする訓練が必要です。それは、日々みことばを読み続けることを通して内側に作り上げられていくことを心に刻みつけながら、歩んでいきましょう。
2023.7.16「苦しみから祝福そして祈りへ」(第二コリント1:8-14)
聖書箇所 Uコリント1章8〜14節
8兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。9実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。10神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。11あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。12私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。13私たちは、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。あなたがたは、私たちについてすでにある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。2017 新日本聖書刊行会
教会の牧会と並行して、刑務所で教誨師として奉仕している、ある牧師が次のような文章を書いていました。「教誨師というのは、刑務所に入っている人たちの相談に乗るのが仕事だが、時には直接、福音を伝えることもある。そして決して多くはないが、その中でイエス・キリストを信じて悔い改めた人たちもいた。しかしクリスチャンとなっても、完全に社会復帰を果たすことは難しい。また同じ罪を犯して、別の刑務所に入所しているという話を聞くことも多い。そのたびに私の心は、裏切られたような思いに襲われる。教誨師として働くことに意味があるのかと、何度も心の中で繰り返す。同じ罪を繰り返してしまう、弱い人間だからこそ、私の手を離してはいけないのだ、と思っても、心は晴れない。私は二十年以上、そんな葛藤を繰り返しながら、この奉仕を続けている」。
教誨師という仕事は、同じ牧師という職業である私でも、謎の多い奉仕です。しかしこの先生の文章を読んで、二十年以上のベテランであっても、決して慣れるということがない奉仕なのだろうということを思いました。それは、他の多くの仕事にも言えることかもしれませんが、人間が相手であるからだろうと思うのです。機械の操作や、何か製品を作るとき、ある手順に従えば、同じものができます。しかし人間はそうではありません。牧師の仕事で言えば、同じ説教を聞いているのに、ある人は心が砕かれ、ある人は心をかたくなにするということがあります。牧師を含めて、人間、とくにその心やたましいを扱う仕事においては、こうすれば必ず同じ反応がある、ということはありません。人の心は、それほどまでに繊細であり、だからこそ神が作られたかけがえのないものなのだということを痛感します。
そんな中で、私たちはパウロが語っている、「生きる望みさえ失うほどの、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫」とは何を指しているのかと考えます。それはまるで「死刑の宣告を受けたかのような思いであった」とも述べられています。パウロは、この苦しみについて、コリント教会の人々に「あなたがたに知らずにいてほしくはない」と言っているのですが、それが具体的に何を指しているのかは、一切触れていません。ユダヤ人からの迫害なのか、難破や遭難の類いなのか、あるいは死さえ覚悟するほどの病にかかったことなのかは、謎に包まれています。しかし、想像するに、やはりパウロほどの人が死をも覚悟するほど、そしてコリント教会の人々に伝えずにはいられない、というほどの苦しみは、遭難や病気といった単純なものではなく、人々との関わりの中で生まれてくるものであったのだろう、と思います。そして、一つだけ明らかなことは、たとえその苦しみが何であろうとも、この苦しみを通して、パウロの中には、本当の意味で神により頼む者になった、という神への感謝と賛美が生まれたということです。9節にはこう書かれています。「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです」。
パウロが経験した、激しい苦しみは、人々の関わりの中で生まれたものではあっても、それはじつはパウロが神だけに頼るように、神から発しているものでした。苦しみは一つとして無駄に終わるものはなく、自分が無力なひとりのしもべにすぎないことを悟らせ、そして無力だからこそ神にすべての希望を置く信仰へと至らせます。
旧約聖書の中にヤベツという人が出てきます。彼の母親は、「私がたいへんな生みの苦しみを味わったから」と言って、「苦しみを作り出す者」という意味の、ヤベツという名前をつけました。「苦しみ」だけならまだしも、「苦しみを作るもの」なんて、何を考えて自分の息子にこんな名前をつけたんだ、と言いたくもなります。しかし聖書は、自分の母親からトラブルメーカーと呼ばれたヤベツが、やがて変えられていく姿について記しています。彼はこう祈るのです。「どうか私を祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私と共にあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」。これは、単に、苦しみを避け、祝福を求めている祈りではありません。苦しみをつくる者と名付けられた彼が、苦しむことのないようにしてくださいと祈りつつ、しかし彼をその祈りに導いたのは、まぎれもなく、彼が苦しみ続けた経験そのものであったということが短い言葉の中に表されているのです。
苦しみは、私たちから何かを奪うためではなく、何かを気づかせるために、神が与えてくださるものです。そしてパウロの場合は、苦しみを通して改めて気づかされたのは、祈りの力であったと告白しています。11節にはこのようにあります。「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」
中途半端な苦しみは、私たちを他人に依存させる、麻薬のようなものです。しかし神のみこころにかなった苦しみは、他人に頼ることさえできぬほどに人を打ちのめします。しかしそのとき、人は神に行く以外に、ほかに行くところがなくなります。ひざまずいて祈るしかできなくなります。そして苦しみを通して、祈りにしか頼れなかったパウロは、いま、かつて彼に反抗していたコリント教会の人々に対してさえ、祈ってくださいと言えるようになりました。祈りは、人間的な考え方の違いを超えて、私たちを一つとするのです。一致がなければ祈れないという声を聞いたことがありますが、むしろ真実は逆です。祈るときに一致が生まれるのです。
ある夫婦が、新築住宅を建てることになりました。家を建てる場所が、人通りの多い道路に面していたので、ハウスメーカーの担当者が、外からはできるだけ家の中が見えないようにしましょう、と提案しました。しかしその夫婦はこう言ったそうです。「いえ、できるだけ、どの部屋も外から見えるようにしてください。私たちがいつも祈っている姿を、できるだけ多くの人に見てもらいたいのです」。これは、祈るときには奥まった部屋で誰にも見られないように祈りなさいと言われたイエス様の言葉に反するものではありません。イエス様は、人前でわざと祈り、信仰的と思われたいという人間のエゴを戒められました。しかしこの夫婦は、自分たちが信仰的だというのではなく、祈りには力があるということ、祈りは家族を結びつける霊的な帯なのだということを、家の前を通る人たちに伝えたかった。このような夫婦の姿は、神も喜びとされることでしょう。私たちがだれかに祈ってくださいと求めたり、祈りの課題はありませんか、と誰かに聞くとき、そこにはあらゆる人間的なわだかまりを超えて、祈りの内に一つとなることができる幸いを味わうことができます。
人は、言葉や行動を誤解しやすいものです。コリント教会の人々も、かつてはパウロに対してそうでした。そしてその結果、パウロも、コリント教会も、数年のあいだ、苦しみました。しかしそれでもなお、やがて主が来られる、終わりの日には、すべてが明らかにされ、あらゆる傷も誤解も、再臨の主の御前で溶けていく。そのとき、私が誇りにするのは、コリント教会の人々よ、あなたがたなのだ、とパウロは語りました。だからあなたがたも、私たちを誇りとしてください、と。パウロがコリント教会を誇りとしたように、神は私たちの教会、そしてひとり一人をも誇りとしてくださっています。イエス様は、私たちを喜ばれているからこそ、いのちを私たちに与えてくださいました。その恵みをかみしめながら、歩んでいきたいと思います。