みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方を襲った地震と津波の中で痛みと悲しみの中にある方に励ましがありますようにお祈り申し上げます。あまりにも大きな被害の前に、祈ることしかできませんが、今日のYahoo!ニュースにこんな記事がありました。
なぜ「ヤマザキパン」はいち早く支援物資を届けられるのか−−背景にあった「3代目はクリスチャン」社長の“哲学”デイリー新潮の元記事を参照してみると、タイトルの割にはあっさりした説明で終わっているのですが、ヤマザキパンが危急の際に迅速に行動できるのは日頃の自社一貫体制の物流ネットワーク、そしてそれを構築したのは3代目となる現社長・飯島延浩氏(82)の哲学が影響しているということでした。
飯島氏がプロテスタント教会で洗礼を受けたのは1973年。その直後、当時の主力工場だった武蔵野工場が火事に遭い、全焼する不運に見舞われる。
「しかし周辺の工場の支援や協力によって、すぐに通常の供給体制を回復したといいます。この困難を経て、飯島氏は会社としての使命を問ううちに、被災地への緊急支援は『食品企業としての責務』と公言するようになったと伝えられます」(食品業界ジャーナリスト)
山崎製パンに今回の支援について訊ねると、
「火や水もない緊急時に、そのまま食べられるパンなどをできる限り早く、現地へと届けるのは当社の使命と考えています。今回も地震発生後、農林水産省から日本パン工業会に支援依頼があり、それに弊社が応えた形です。(迅速な対応が可能だったのは)自社で配送を持っていることや過去の経験、社内体制などが生きた結果と考えています」(同社広報)
届けられたパンを頬張り、被災した人たちに束の間でも笑みが戻れば――と願わずにいられない。
この記事に対するヤフコメ欄にもこんな書き込みがありました。
ヤマザキパンはTVK等、主に全国の独立局で放送しているキリスト教(プロテスタント)の番組『ライフ・ライン』の事実上の提供スポンサーである。提供のテロップは出ないが、「ロイヤルブレッド」等のヤマザキパンのスポットCMが流れている。社長がクリスチャンであることの側面が見受けられる
ふだんはいやな気分になることが多いヤフコメですが、こういうコメントはうれしいですね。ちなみに豊栄キリスト教会の草創期を支えたクリスチャン夫婦の名前もヤマザキさん、いま新潟でライフラインのフォローアップの奉仕を担ってくださっている兄弟もヤマザキさんです。ヤマザキなしに日本のキリスト教は語れませんね。なお私のおすすめはヤマザキデイリーショップの十勝産豆いっぱい大福です。
聖書箇所 『詩篇』46篇1-11節
1神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
4川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
8来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。神さまに導かれて過ごしたこの年も、礼拝をもって締めくくることができることを感謝いたします。毎年、12月になると、その年の世相を反映した「今年の漢字」という漢字一文字が発表されますが、今年は「税」でした。約15万通の募集の中から、約6千通を集めて、「税」が堂々一位を獲得したのだそうです。たった4%なのに一位になっちゃうというところがいかにも今の世相を反映していますが、もし私だったら何という文字で募集するかなと考えてみました。少なくても税ではないなー。頭の中に浮かんだのは、「崩れる」という字でした。崩壊のホウですね。アイドル全盛の時代に生まれ育った者としてはジャニーズ事務所がここまでブラックな会社だったことはショックでしたし、ガザのビルディングが激しい攻撃によって瓦礫の山になっていること、またこれはごく最近ですが、パーティー券の利益還流で現職の議員が次々と任意聴取されていることなど、あらゆるものが明るみに出され、また崩れている姿などを思います。
聖書に、「砂の上に家を建てた、愚かな人」という言葉が出てきますが、まさに私たちの生きている時代は、一生かけて積み上げたものが砂上の楼閣のように一瞬で崩れ落ちてしまう、危うさをもっていると言えるでしょう。それは誰もが気づいている。しかし気づいていて、自分だけは大丈夫だろうと、目をそらしている。そんな時代には信じられないほどの力強い響きをもって、今日の詩篇は私たちの心に迫ってきます。詩人は歌います。「それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」。なぜ、恐れないのか。山が揺れ動き、海が波立ち、世界が終わりへとうごめいている中で、なぜ恐れることがないのか。それは、本当の恐れを知っているからです。
本当の恐れを知っている者は、それ以外の者を恐れることがない。神に出会った者は、この方こそが本当に恐れるべきお方であることを知ります。山や海が揺れ動くことさえも、恐れることはなくなります。なぜなら、山や海を揺れ動かすのは、それを造られた方、神ご自身だからです。そしてその神ご自身が、私たちの避難所であり、力であり、苦しみの時、すぐそばにある助けである、という事実!この世で、もっとも恐るべき方が、もっとも私たちと近しい方であるという事実!それは私たちから恐れを取り除き、大胆にさせます。
福音書の中には、イエス・キリストが荒れ狂う湖の小舟の上で、眠っておられたという記事がありますが、それはイエスにとって、父なる神こそ、唯一恐れるべきお方であったからに他なりません。私たちはこのイエスを信じました。神を信じるというのは、神だけを恐れて生きるということです。神だけを恐れるようになった者は、他のものを恐れません。神を知らない人は、神を恐れない代わりに、他のつまらないものを恐れます。しかし私たちは、神が恐れるべきお方でありながら、同時に私たちのために命を捨ててくださったことを知っています。その感謝のゆえに、「それゆえ、われらは恐れない」と叫ぶのです。
豊栄キリスト教会の今年の一年は、新会堂建設のために、実際に建築士を交えて、話し合いを続けてきた一年でした。昨年は委員会中心でしたが、今年は全体での話し合いをなるべく持つようにしてきました。約半年間、話し合いを続ける中で、設計図は少しずつ固まってきましたが、目下の課題は、それに必要な予算をどう確保するかということです。しかし私たちは、必要はすべて神が満たしてくださるという信仰をますます確かなものとされていきたいと願います。
もし会堂建設という大きなビジョンから信仰が抜け落ちてしまったらどうなってしまうか。じつはそのサンプルが約五百年前のドイツに残っています。私たちプロテスタント教会が、マルティン・ルターの宗教改革から始まったことはご存じかと思いますが、これが起こった原因は、当時のカトリック教会が、ローマに建てる大聖堂の建築資金を捻出するために、贖宥状といわれる紙をドイツで売り出したことが始まりでした。カトリックでは、私たちとは異なり、煉獄という発想があります。クリスチャンであっても死んですぐに天国へは行けず、天国の一歩手前にある、プチ地獄のような煉獄という場所で数億年を過ごさなければならない。贖宥状を買えば、そこで過ごす途方もない期間を短縮することができる。贖宥状にもやはり松竹梅のようなものがあって、高いものほど長い期間を短縮することができるというものでした。
聖書からはかけ離れた教えですが、しかし多くの人が飛びついてそれを購入し、カトリック教会はそれを資金にして大聖堂の建設資金にあてました。そんな寒いお金で建てた大聖堂に何の意味があるのかと思いますが、当時それに異を唱える者はだれもいませんでした。いや、たった一人だけおりました。それがあの有名なマルティン・ルターであったのです。彼はカトリック教会の修道士でしたが、自分が神学を教えていた大学の門に95か条の論題という紙を貼って、教会が行っていることは間違いであると公に告発しました。当時の教会の上層部は、それを撤回しなければ、おまえは教会にいられないばかりか、命の保証すらないぞと脅しました。
しかし彼は恐れなかったのです。それは彼が、まことの神はどのような方かを知っていたからです。神は、絶対的な正義であり、恐れられるお方。しかしそのお方が、私たちのために救い主イエスとなり、ここに降りてきてくださったことを、彼ははっきりと信じていました。私たちが神を恐れるとは、こわがって避ける、ということではありません。恐れるからこそ、愛しています。私たちをいのちがけで、愛してくださったお方だからこそ、私たちも自分の人生をかけてこの方を愛します。神はこの世界の創造者であり、その気になれば、私たちすべての作られたものなど、一瞬で消滅させることもできる、絶対的なお方です。しかし私たちは神が決してそのようなことをされないことを知っています。なぜでしょうか。
それはイエス・キリストによって愛を教えてくださったこの方を、確かに知っているからです。恐れつつ愛し、愛しつつ恐れる。そしてこのお方だけを恐れるならば、ほかのものを恐れることはありません。どんなことが起きたとしても、決して恐れません。次の年に、私たちが予想もしないようなことが待ち受けていたとしても、決して恐れに飲み込まれることはありません。それは、神が私たちの父であり、あらゆる幸いを用意しておられる方であることを確信しているからです。
五百年前に生きたルターは、聖書こそ私の立つ場所であると言いました。それは私たちも同じです。聖書は、神こそが真に恐れるべき方、そして真に愛すべきお方であることを教えてくれます。そして私たちがイエス・キリストを救い主として信じるとき、恐れはなくなるのです。なぜでしょうか。もっとも恐れなければならない方が、もっとも私たちのことを心配してくれている方であることがわかるからです。明日から始まる新しい年も、私たちは神さまだけを恐れ、いつも平安の中に進んでいきたいと願います。