みなさん、おはようございます。今年最後の主日礼拝になりました。今日を含めて、残り三日となりましたが、皆様にとって今年はどのような年でしたでしょうか。今年、というよりも昨年になりますが、昨年は12月31日が日曜日でした。それで例年行っている元旦礼拝は行わず、何もない元旦を過ごしたのですが、何もなかったのは夕方まで。午後4時を過ぎたときに大きな揺れが起こり、携帯が津波警報を叫びました。能登地方地震です。それから一年が経とうとしておりますが、被災地では9月の豪雨災害の影響で、いまも復興が進んでいないと聞いています。
私たちにとって、来年はどのような年になるのでしょうか。何が起こるかはわかりません。しかし何が起こったとしても、それはすべて神の御手の中で起こることです。そして神さまは、私たちの人生に必要なことは、すべてみことばの中に隠してくださっています。本来は隠して、ではなくて、示して、と言うべきかもしれませんが、そんな簡単に示されているものではないので、あえて「隠して」と言います。聖書を丹念に味わうときに、隠されているものがみなさんの心の中に浮かび上がってきます。しかしその気になって聞かなければ、それは隠されたままです。ですから私たちは、今日も、明日も、聖書を丁寧に味わっていきましょう。みことばの中にこそ、私たちがどんなときでも感謝を忘れず、主を賛美することができる力が隠されています。
先週のクリスマス祝会では、教会学校の子どもたちや先生方が、クリスマスの物語をじつにかわいらしく、ひもといてくださいました。それを思い出しながら、今日はもう一度、クリスマス物語を味わってみたいと思います。クリスマスは、永遠の神であるイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになったことをおぼえる日です。それは、みことばそのものであるお方が、言葉を一切出せない赤ん坊として、家畜小屋にお生まれになったという不自由さを描いています。キリストは永遠の昔から、神であられました。この世界をことばによって作ったお方であり、この世界をことばによって保っておられるお方です。しかしその、ことばそのものであるお方が、あーとかうーとしか言えない赤ん坊として、この地上に来てくださいました。それは、ことばであるキリストご自身が、あえてことばを出せない、ゼロの地点から始められたということです。それを聖書は、キリストは、ご自分を無にしてお生まれになった、と語っています。そしてこのクリスマスの出来事を見つめるとき、かつてキリストが天の天で栄光にあふれた姿をもち、ことばによってすべてを支配していた姿をまのあたりにしていた御使いたちは、どれだけむせび泣いたことか、と思います。彼らは羊飼いたちの前で、歌いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。
かつていと高き所におられたキリストは、いまやそのまばゆいばかりの栄光をかなぐり捨てて、この地上に来られました。それは、このキリストの犠牲によって、地の上に平和が訪れるためである、と。万軍の主、全宇宙の創造者、あらゆる被造物の支配者である方が、ベツレヘムという小さな町の、名もなき宿屋の馬小屋に、しかも産湯もゆりかごもなく、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされる。私たちは『荒野の果てに』という讃美歌の中で、「グローリー、インエクセルシスデオ」と歌います。それは栄光がいと高きところにいます神にあるように、という意味ですが、そこに込められている御使いたちの叫びに私たちは耳を傾けるべきでしょう。全人類のために、すべての栄光を捨てられた創造主よ、あなたがそこまでして救おうとされるこの人々に完全なる平和がありますように。そして我らが主に、とこしえまで栄光あれ、と。
毎年、年末になると多くの人々がコンサート会場に足を運びます。そしてベートーベンの第九、喜びの歌に耳を傾け、拍手をささげます。新潟でも、古町にあるだいしほくえつホールや、りゅーとぴあなどで、それを味わうことができるでしょう。そういう場所には、いわゆるドレスコードというものがあるようです。つまり、それっぽい、いい格好で来てください、というものです。しかし本物の喜びの歌、この二千年前にささげられた御使いたちの讃美は、当時の社会の中で最も貧しく、最も疎外されていた人々がその聞き手となりました。それは、名もなき羊飼いたちでした。彼らは羊の所有者ではなく、日雇いで羊の世話を任せられていた人々でした。何とか羊たちが獣に襲われずに明日の朝を迎えることだけが、彼らの生活のすべてでした。しかし救い主のメッセージは、真っ先に彼らに向けて届けられたのです。
主の使いは彼らに言います。「私は、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」と。羊飼いたちは、民全体の中でも最も底辺に位置し、まったく影響力を持っていない人々でした。よりによってなぜ羊飼いを選ぶのか。王や貴族、学者たちに語ったほうがよいのではないか。しかし御使いは何度も繰り返します。「あなたがたのために生まれた、あなたがたは見つける、あなたがたのためのしるし」。すべてはあなたがたのために。それはすべての時代に生きる、あらゆる人々の言い訳をつぐみます。自分なんか社会に何の意味もない。自分は誰からも愛されない。自分には、神なんて関係ない。福音を聞いても、人々は決まってそのように救いを拒みます。しかしそうではない。主の救いが、あらゆる人々に向けられており、それが羊飼いのような小さく、弱い者であったとしても、例外ではないこと。そして羊飼いであっても、この良い知らせを伝えていく者となれるのだということを、神は教えておられるのです。羊飼いたちは、ベツレヘムの家畜小屋を一軒一軒探し回り、御使いたちの言葉を人々に知らせました。
世間では、クリスマスはとっくに終わりました。しかし教会は今週から降誕節が始まります。私たちにとってクリスマスは終わっていません。キリストが来られたというメッセージを、羊飼いのように、これからも語り続けていくのです。先週のクリスマス集会では、何名かの方が来てくださいました。そのすべての方が、この教会に来ておられる誰かに誘われて、礼拝に出席しました。私たちが誘わなければ、誰も来ません。私たちが伝えなければ、誰にも届きません。新しい一年も、この福音をしっかり握りしめて、人々に喜びを伝えていきましょう。
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2024.12.22「プレゼントは受け取るために」(ルカ2:1-20)
みなさん、クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、言うまでもなく、イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことをおぼえる日です。それは、父なる神さまが、私たちすべての人間を救うために、イエス・キリストという救い主をプレゼントしてくださった日と言い換えることができます。しかし、ほとんどの人々は、このプレゼントを受け取ろうとはしません。人間同士のプレゼントは喜んで受け取りますが、そのおおもとであるはずの、神から人間に贈られた、世界で一番大きなプレゼントであるイエス・キリストを受け取ろうとはしないのです。
こういう話があります。今から二百年以上前、インドのある島に、イギリスから若い宣教師が派遣されました。島の人はみな馬鹿にして話を聞いてくれませんでしたが、ラムパウという、息子を事故で失った一人暮らしの老人だけが、この若い宣教師をかわいがってくれました。しかしイエスが救い主という話になると、しばらく不機嫌になってしまい、またほとぼりが冷めた頃に訪問すると喜んでお茶を入れてくれたり、という繰り返しだったそうです。
やがてこの宣教師が、本国に帰ることになりました。するとラムパウさんが、餞別だと言って、小さな箱を持ってきました。宣教師が中を見ると、大きな真珠が入っていました。
「こんな高そうなものは受け取れません」
「あんたを死んだ息子のようにかわいがってきたから餞別にあげたいんだ」
「いえ、受け取れません」
そんな押し問答を続けたあげく、ラムパウさんが怒ってこう言いました。「うちの息子は、この真珠を取るために深く潜りすぎて、死んでしまったんだ。この真珠は、息子が命と引き換えに握りしめていたものなんだ。それをあんたは、受け取れないというのか」。
するとそれを聞いた宣教師は静かにこう言いました。
「ラムパウさん、あなたはイエス様のことを話すときまって不機嫌になりました。でも、イエス様も、ご自分の命と引き換えに、十字架であなたを救ってくださったのですよ。私も息子さんの命である真珠を受け取りますから、あなたもイエス様のいのちである救いを受け取ってくれませんか」。
するとラムパウさんはひざまずいて、罪を告白してイエス様を信じました。そしてその宣教師が去った後、彼が島の人たちにイエス様を伝えて、救われる人々が起こされていったそうです。
一つ一つの贈りものにはドラマがあります。そしてその贈り物を通して喜んでもらいたいという愛がこもっています。私たち人間でさえ、贈り物にそれだけの愛を詰め込むのだとすれば、ましてや愛そのものである神さまは、いったいどれだけのものをその贈り物に詰め込んでおられることでしょうか。二千年前のクリスマスの夜、神さまは、とっておきのプレゼントを、その愛するすべての人間たちに贈ってくださいました。それが、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたみどりご、イエス・キリストです。
イエスの両親であるヨセフとマリヤは、宿屋に泊まることができず、家畜小屋へと身を寄せました。そしてそこで生まれたイエス様は、産湯につかることも許されず、布にくるんで飼い葉桶に寝かせられました。家畜小屋も、飼い葉桶も、最も神にふさわしくない場所の象徴です。糞尿の臭いが漂う家畜小屋の、唾液がこびりついているような粗末な飼い葉桶、しかしそこに救い主は生まれてくださいました。そしてそこから始まるキリストの生き方は、常に神にふさわしくないような場所におられる生活でした。罪なき方でありながら、罪人、取税人、遊女、社会からのけ者にされ、さげすまれていた人々に寄り添い続けてくださったのです。当時の偉い人たちはそれを見てこう考えました。もしイエスが本当に約束された救い主であれば、こんなつまらない人間たちの仲間になるわけはない。なぜなら救い主はこの全世界の王なのだから。
しかし彼らは勘違いしていたのです。神が真っ先に助け出そうとしていたのは、正しく生きている人々ではなく、人生を踏み外している人々でした。当時の人々がそっぽを向いていた、そんな人々にイエス様は手を差し伸ばし、傷つくまで愛を与え尽くしてくださいました。
その愛が、私たちひとり一人に向けられているのです。その愛を、私たちひとり一人は受け取ることができるのです。イエス様が向かっていった先は、飼い葉桶よりもさらに神にふさわしくない場所であった、十字架でした。そしてその十字架の上で、神のひとり子イエスは、神にのろわれた者として死なれなければなりませんでした。罪を犯したことのないお方が、罪人として死ななければなりませんでした。それは、私たちすべての人間の罪を、身代わりとして引き受けるためでした。そしてそれを信じる者は、すべての罪を許されて永遠に生きるのです。これほどのすばらしいプレゼントはありません。
私たちは生まれながらに罪を抱えています。大人になるにつれて着飾ることを覚えていきますが、光に溢れた神さまの前では、どれだけ装ってもあわれで、みすぼらしい者です。しかし自分のみじめさを認めている人は、最も神さまに近づいている人です。二千年前のクリスマスの夜、神さまから真っ先にプレゼントのお知らせを受け取ったのも、自分たちが貧しくあわれな者であることを知っている、羊飼いたちでした。み使いは彼らにこう告げました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」。そして羊飼いたちは、さっそく立ち上がって出かけ、イエスを探し当てたのです。
今日、みことばを聞く私たちにも、想像を遥かに超えた、信じられない知らせが贈られています。それは、あなたが、このイエス・キリストを救い主として信じるだけで、あなたは永遠に、そして完全に救われるという知らせです。神の言葉を聞いてください。あなたの罪の身代わりとしてわたしはわがひとり息子イエス・キリストをあなたに与える。あなたが自分の罪によって永遠に滅んでしまうことをわたしは喜ばない。十字架で自分のいのちを捨てるイエス・キリストによって、あなたの罪をすべて赦そう。たとえあなたがどのような者であろうとも、ただキリストの十字架によって、私はあなたを赦し、愛し、すべての恵みを与えよう、と
クリスマスに、イエス・キリストがお生まれになったということ。それは、私たちを無条件に救いの中に招こうとしている、とっておきのプレゼントです。イエス・キリストを信じる者は、誰であっても罪赦され、救いをいただけるのです。どうかひとり一人が、このプレゼントを受け取ってくださいますように。
2024.12.15「明日のために種をまく」(詩126:1-6)
みなさん、おはようございます。待降節第三週に入りました。教会学校ではクリスマスのお話をしていますが、礼拝では続けて都上りの歌から信仰について学びます。しかし決してこの詩篇は、主イエスがこの地上に来てくださったというクリスマスから遠くかけ離れたものではありません。むしろ、クリスマスと聞くとどこか心に温かいものがわいてくるのと同じように、この詩篇には私たちの心を慰め、励ましてくれる言葉で満ちています。最後の5節、6節をもう一度お読みします。
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え泣きながら出て行く者は
束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
もはや説明の必要もない、励ましの約束です。しかしあえて言うならば、私たちはこの「種」という言葉に注目してみましょう。「種」とは、じつは実そのものです。種は実の中に入っているのです。お米を想像してください。あの金色の稲穂に連なる無数の粒ひとつひとつが実であり、そして同時に種でもあります。種をまくというのは、じつは実をまくことに他なりません。しかし、もし実がわずかであったらどうでしょうか。つまり、わずかに結んだ実を種として来年へ向けて地にまくか、それともそれを今、食べてしまうか、という状況がしばしば起こりうるのです。食べてしまったら種はまけません。しかし結んだ実を種に回せるような余裕はない。それがじつは、この詩篇の背景でした。今日食べる分を犠牲にして、涙をもって種をまく。幼い子どもたちに食べさせる分を取り上げてまで、泣きながら畑へと出て行く。それは来年実を結ぶのを見る前に自分たちが飢え死にしてしまうかもしれない危険をはらんでいます。
しかし詩人はここで歌います。彼らは、喜び叫びながら刈り取る。彼らは束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る、と。多くの人々はこう考えます。将来がどうこうよりも、今日を生き延びることができなければ意味がない、と。しかしここで詩人はこう語っています。今日を生き延びることよりも、明日、種が芽を出すために私の命を削り取るのだ、と。明日、芽を出した種がやがて実を結んだ時、それを刈り取るのは、自分でなくてもよい。子でも、孫でも、と彼は考えるでしょう。しかし神は約束しています。「種をまく者自身が、喜び叫びながら刈り取る者となる。泣きながら出て行く者自身が、喜び叫びながら帰って来る者となる」。私たちが自分の命を長らえることを望まず、ただ次の世代に実を残すことを覚悟したとき、すでに神はその世代にも、その子や孫の世代にも続く、祝福の実を用意してくださっています。それが私たち自身なのです。
今日、犠牲の涙をもって種をまくならば、必ずいつかその実を結びます。大切なのは、明日何が咲くかは神に任せ、今日自分に与えられた責任を果たすことです。世の人々は、明日何が起こるかわからない、漠然とした恐怖感の中で、今日蒔くべき種籾を食べ尽くしています。今日を乗り切ればそれでいい。今が楽しければそれでいい。しかし私たちは今日、聖書のことばを聞きました。もはや笑い声をあげて種籾をむさぼり食うような生き方を選ぶことはできません。今どんなに涙を流しても、今どんなに苦しみの束を抱えても、それはやがて喜びと収穫の朝を迎えます。聖書はそれを何千年も昔から、信じる者に約束しているのです。
今日の詩篇をより豊かに味わうためには、この詩篇が作られた背景も正しく知る必要があります。シオンというのはイスラエルの都エルサレムのことですが、イスラエルはやがてまことの神を捨て、偶像を拝むようになりました。悲しまれた神によって、この国は一度滅ぼされます。エルサレムの都は廃墟となり、民をバビロンという国に七十年のあいだ、捕らえられました。この詩篇の背景は、その七十年が終わり、再び民がエルサレムに帰ってきたときのことです。人々は再びエルサレムを偉大な都にすることを志し、神殿も建て直されました。それは少し前までバビロンで奴隷として過ごしてきた生活を振り返ってみれば、夢のような出来事でした。人々の口には笑い声があふれ、喜びの叫び声が響き、周りの国々も、「主は大いなることをなされた」とほめました。
しかしその喜びの絶頂の中で、4節で詩人は歌うのです。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください」。「ネゲブ」とは、イスラエルの南に広がる乾燥地帯を言います。そこは一年が雨期と乾期に分かれ、乾期の時にはまったく雨が降らず、水のない川が広がります。しかし雨期が来ると、それまでの日照りが嘘のように、天から恐ろしい勢いで雨が降り注ぎ、あらゆるものを押し流していくような洪水さえ起こります。詩人が「ネゲブの流れのように私たちを元通りにしてください」と歌ったのは、悔い改めの洪水を起こしてくださいという意味でした。たとえ神殿が再建され、礼拝者が戻ってきても、そこに心から礼拝をささげる者たちがいなければ、意味はない。生活の繁栄を神の祝福と言うが、神を心から恐れる礼拝が生まれていなければ、意味はない。イスラエルの国には悔い改めの種をまき、悔い改めの実を結ぶ者たちが必要なのだ。それがなければ、本当の意味で元通りにはなっていない。そして、私たちが生きているこの国も、この時代も、そうなのです。
明日のために種をまくという言葉を、それぞれが受けとめてほしいと思います。今から二千年前、イエスはベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。永遠の神であられた方が、何も持たない、貧しい夫婦のあいだに、力なき赤子としてお生まれになりました。私たちがイエスを救い主として信じるというのは、この方が生まれたときに背負ってきた重荷を自分自身も背負うということです。それは貧困であり、嘲りであり、人のために自分のいのちを犠牲にする生き方でした。しかしそれでも神にしがみつき、種をまき続ける者は、やがてキリストが再び天から来られる時に栄光の冠をいただくことができるのです。今日、涙を流しながら、それでもキリストと共に、いのちの種をまく者は、やがて抱えきれないほどの束を持つのです。明日のために種をまきましょう。それは今日、だれかのために生きること。今日、自分が立っているところにみことばの種をまき続けるということです。必ず、それに答えてくれる人を、神は私たちに与えてくださいます。待降節の日々、それぞれが置かれた場所で神のことばを伝えていきましょう。
2024.12.8「今よりとこしえまでも」(詩125:1-5)
みなさん、おはようございます。アドベント第二週に入りましたが、今週もこの都上りの歌と呼ばれる詩篇を通して、イエス・キリストが私たちに与えてくださった信仰の恵みをかみしめていきたいと思います。
二週間前の教会学校でのこと、子どもたちへのメッセージの終わりに、お話してくださった先生から「来週までの宿題」ということで、どれかひとつ、聖書のことばを覚えてきましょう、というものが出されました。「やだ」という声も一部聞かれましたが、子どもたち概ね「はーい」と元気な声で返事をしました。そしてそれから一週間後、つまり先週の日曜日ですね、みなさん覚えてきましたかという先生の呼びかけに対して、「やってなーい」と子どもたちの元気な声が聞こえました。私はそこまでは教会学校に出ていたのですが、礼拝の準備がありますので部屋を出ました。それ以降、午後になるまで、向こうの教会学校の部屋には立ち寄らなかったのですが、午後になって行っていたら、驚きました。隅にあるホワイトボードに、子どもたちが書いたであろう、たくさんのみことばが書かれていたからです。やってないと言いながらやってるじゃないか、これが豊栄流かと思いましたが、とても感動しました。
先生の言ったとおりにおぼえてきたのか、それともその場で聖書を見て書いたのか、それは確認していませんが、かきなぐったようなみことばであっても、それは確かに神のことばです。そして子どもの時分からこのようにみことばを記憶することを習慣にしていれば、必ずそれは大人になっても決してなくなることのない、いや、永遠に残るであろう、信仰の宝物になります。
私は子どものときには教会には関わりのない生活をしておりましたが、高校二年生の夏休みくらいから教会に行き始めました。卒業する直前くらいに洗礼を受けましたが、いざ教会生活を始めてショックだったのは、もうすぐ大学生になる私よりも、教会にいる小学生たちのほうが聖書のことばを覚えているということでした。まあ年期が違うので張り合う必要もないのですが、負けず嫌いなので、毎日ひとつずつ聖書を覚えることに決めました。大きなカレンダーの裏に、小さく聖書の箇所を書いて、続けていると、どんどん覚える言葉が増えてきました。でも覚えるのが大変だというよりも、そらで言えるみことばが増えていく喜びのほうが大きかったことを覚えています。一年くらいで飽きてやめてしまいましたが、その間に覚えたみことばは、30年以上経っても簡単には消えません。今日の聖書箇所もそうですね。主に信頼する人々はシオンの山のようだ。当時は第三版の新改訳聖書で覚えましたが、この1節、2節に関しては、ほとんど変えられていません。私にとってはおぼえてから30年ですが、実際には、三千年以上、このみことばは多くの人々を励ましてきたのだなあということを今かみしめています。
ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。
山々がエルサレムを取り囲むように、
主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
シオンの山というのは、エルサレムのことです。動かざること山のごとしという言葉がありますが、まさに主に信頼する人々は、決して動かされることはない。揺るぐことなくとこしえにながらえる、と。なぜ揺るぐことがないのか。なぜとこしえにながらえることができるのか。それは、天地を造られた主、永遠、無限の主が、私たちをどんなときでも取り囲んでいるからです。
この世界は、罪と悪がのさばっているように思います。いや、思うのではなく、実際にそうなのでしょう。イエス様のたとえ話の中に、「毒麦のたとえ」というものがあります。神が、良い麦として私たちをこの世界に植えてくださった後、悪魔が悪い毒麦も、この世界に植えていきました。良い麦と悪い麦は、同じ畑の中にひしめいているため、悪い麦だけを抜こうとすると、良い麦も一緒に抜いてしまうかもしれない。だから世の終わりまで、悪い麦もそのままにしておきなさいと神はさばきの御使いたちに命じる、ということがたとえ話の形式で語られています。
正しく生きたいと思っても、人は生まれたときから多くのことに流され、多くのものにだまされ、いつのまにか自分を見失ってしまいます。クリスチャンでさえ、この世界で、自分の力で、自分自身を正しく保っていくことは不可能です。だからこそ、神は私たちが悪の杖によって砕かれることがないように私たちを恵みによって取り囲んでくださっています。また私たちが不正なことに手を伸ばさないようにするために、私たちにみことばを与えてくださいます。私たちは、かつては自分たちも神を受け入れず、曲がった道を歩んでいた者でした。しかし今は神の恵みに何重にも取り囲まれています。そしてかつての私たちのように神を知らず、神を素通りしてきた人々に、恵みを伝えるために、私たちの人生も用いられていくのです。
今日の日付をあえて年号で言えば、令和6年12月8日となりますが、少しこれをいじって昭和16年12月8日としてみると、真珠湾攻撃の日として覚えている方もいるのではないでしょうか。今から83年前ですので、ほとんどの方は生まれておらず、私も写真や映像でそれを知るのみです。この真珠湾攻撃隊の一番隊隊長として名を馳せた一人のパイロットがおりました。名を淵田美津雄と言いますが、彼は戦後、キリスト教の伝道師になります。しかしそこに至るまでの道は、悲惨の一語でした。この淵田さんは、開戦時には真珠湾攻撃の立役者として国民的英雄になりますが、その二年後には大けがをして飛行機を降りました。そして何をさせられたかと言うと、あの有名な、体当たり攻撃である神風特攻隊で死んでいく者たちの、遺族に対する軍からの感謝状を書かせられていたというのです。当時は神風特攻という非人間的な作戦でさえ、お国のためと納得させられていた時代でした。しかし実際にその仕事にあたっていた淵田大佐は、悩み、苦しみ、日本が戦争に負けた後は、生きる気力もなく、さまよっていたと言います。しかし、ある一冊の本との出会いが、彼の人生を変えました。それは、日本軍の捕虜となりながらも、終戦後日本人に福音を伝えるために宣教師になった、元アメリカ軍人が書いたものでした。そこに書かれていたイエス・キリストを知ったとき、過去に縛られていた彼の心は、解放されました。彼は終戦後、罪悪感から自分が真珠湾攻撃隊の隊長であったことを隠していたそうです。しかしキリストの御名があがめられるために彼はこんなタイトルの本を書きました。「私は真珠湾攻撃の隊長だった」。その本を片手に、彼は日本全国を回り、なんとアメリカまでも伝道旅行に行きました。人殺しと言われても、キリストを語り続けました。そして亡くなるまでのあいだ、キリストのしもべとして歩み続けました。
人はみな、かけがえのない者として生まれてきます。しかし同時に人は自分が何者であるかを見失い、悪と罪の中に自分の人生をかき回されてしまいます。しかしイエス様との出会いによって、私たちは内側から作り変えられていくのです。神様は、私たちが罪人のまま生きることを願ってはおられません。救い主イエス・キリストを信じるとき、私たちの力を本当の意味で生かすことのできる人生が始まるのです。待降節の中で、私たちに起こったことを人々に伝えていきましょう。イエス様との出会いが、人生を変えます。そして決して揺るぐことのない、今からとこしえまで神に囲まれた人生が続いていくのだ、と。
2024.12.1「もしも主が救ってくださらなかったら」(詩124:1-8)
みなさん、おはようございます。
今日から、教会の暦は、待降節、英語でいうとアドベントに入りました。待降節は第一週から第四週までありますが、イエス様のお誕生を記念するクリスマス、12月25日に一番近い日曜日から遡って四回の日曜日を待降節としています。教会では、原則としてこのアドベント第一週からクリスマスリースを飾ったり、四連のキャンドルに火をともしていきますが、いまは世の中の人々のほうが先にお祝いしてくださっていますね。スーパーに行けば11月中からクリスマス商戦が始まっていましたし、先週も社協にバザーの寄付金を届けにいきましたが、すでにクリスマスのリースが飾られていました。
ただ、世の中の人々は、クリスマスという時期を楽しみにはしていますが、イエス様についてはそれほどではありません。意地悪な言い方をすれば、クリスマスに生まれた方がサンタであろうが、お釈迦様であろうが、だれでもいいのです。クリスマスという雰囲気を味わえればそれでよい。しかし私たちクリスチャンにとっては、イエス様がこの世界に生まれてくださったことが一番大事なことです。
毎年お話ししていることですが、このアドベントの時期は、一年で唯一、クリスチャンがイエス・キリストについて語ってもとがめられない時期です。普段は宗教について語ってくれるなという人々も、この一か月の期間だけは、クリスマスという雰囲気に吞まれるのでしょうか、イエス・キリストについて聞いてくださいます。一人一人が改めて、イエス・キリストを心の中に味わいながら、救い主のことを明かししていきたいと願います。
さて、アドベントに入りましたが、今日もメッセージは詩篇から都上りの歌の5番目です。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。さあ、イスラエルは言え。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。このような会話形式のやりとりは、まさに都上りの歌にふさわしく、礼拝の中で、祭司と会衆とで交互に朗読されたのだろうと思います。もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちはとっくの昔に敵に飲み込まれていただろう、と歌うのです。
私たちは、イエス様によって救われたという事実を振り返るとき、まさにこの詩篇の言葉と同じ問いかけを心に持つのではないでしょうか。もしもあの日、郵便受けに一枚のトラクトが入っていなかったら、もしもあのとき、クリスチャンである○○さんが私に話しかけてくれなかったら、あるいはもしもあの頃、私を苦しめていた問題がなかったら、私は教会に来ることはなかっただろう、私は救われていなかっただろう。そういう出会いが、私たちクリスチャンには必ずあるのです。「主が私たちの味方でなかったなら」、それは言葉を変えると、「主が私の人生の主(あるじ)でなかったなら」という意味です。
神は私の人生を導いてくださる。良いときにも、悪いときにも。人々の悪意が、洪水や濁流のように私に襲いかかってくるように感じたとき、しかし詩人はその背後にも神が私の主であるがゆえに恐れることはないのだ、と確信することができました。私たちの人生には、様々な事が起こります。あのことがなければ、私は教会に導かれることはなかっただろう、というトラブルもあれば、あの人との出会いがなければ、私は今も変わっていなかっただろう、というようなクリスチャンとの出会いもあったりします。しかしあらゆることを通して、神は私たちの人生を導いてくださっている、ということは変わりありません。
ところでこの詩篇の表題には「ダビデによる」とありますが、ダビデほど、人生の中で裏切りに直面した人はいなかったと言えます。自分を家来として取り立ててくれたサウル王とは、最初はうまくいっていましたが、やがて王から激しく妬まれるようになり、何年も逃げ回らなければなりませんでした。サウルの死後、彼はイスラエルの王になりますが、家族関係は決して幸せではなかったようで、後には自分の息子や、信頼していた家来にさえ裏切られるということも経験します。その意味で、「彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしていたであろう」「荒れ狂う水は私たちを越えていったであろう」という表現は、人間の悪意、殺意、そういったものに人生の大半を巻き込まれていったダビデの生涯からにじみ出るようなものであったことでしょう。
しかしそれでも私たちは、「もしも」ではなく、実際に主が私たちの味方であるがゆえに、決して揺るがないということを忘れないでいきましょう。確かに人生には問題が次々と起こります。とくにクリスチャンの場合には、人々が気づかない、霊的な戦いというものがあることを認めなければなりません。聖書は、悪魔が吠え猛る獅子のように獲物を求めて、あわよくばクリスチャンさえも惑わして、信仰から離れさせようとしている霊的な戦いを語っています。しかしその中でも、6節にはこう約束されています。「ほむべきかな主、主は私たちを彼らの歯の餌食にされなかった」と。どんなに裏切られ、困難に直面しても、ダビデに用意されていた人生は、勝利のシナリオでした。クリスチャンの人生の中で起こる問題は、必ずそこに神の脚本があります。私たちが信仰によって必ずこう動くだろうということを神さまはすべて知っていて、そのうえでハラハラドキドキの脚本を私たちのために用意しておられます。悪魔の誘惑に負けて人生を失ってしまうシナリオは私たちには用意されていません。
確かに、人生の中には、まるで鳥を捕らえるために仕掛けられた罠のように私たちを待ち受けている試練があります。神さまは、私たちがその罠に捕らえられるところまでは許しておられます。しかしそこに捕らえられたままでいることまでは許しておられません。つまり、私たちは困難に遭う、困難の中で信仰が試される、しかしそこで信仰が必ず働き、その罠は破られて、必ずそこから自由に飛び立つことができるのです。今までの人生を振り返ってみてください。そういう経験が見つかるのではないでしょうか。それがあったからこそ、神さまと出会い、イエス様を信じることがで来たという人もいます。あるいはクリスチャンとして信仰生活を歩む中で、そんな神さまからの取り扱いを受けた人もいるでしょう。そのどちらにしても、神は私たちを滅ぼすのではなく、生かし、成長させるために幾多のことを経験させてくださいます。
ダビデは最後にこう告白しています。「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」。この天地を造られた主は、私たちがどこにいても助け出すことができるお方です。私たちを苦しめている問題がどんなに大きいように見えても、それよりもはるかに大きい方です。世の中では、数え切れない人々が、自分自身ではどうすることもできない問題に悩み、途方に暮れています。しかし私たちは、そのような人々に対しても、この天地を造られたお方にして、私たちのために十字架で命を捨ててくださった方、イエス・キリストの御名に生きる人生が与えられています。この方をだれかに伝えていく、そして悩みに寄り添っていく、そのような一週間を歩んでいきたいと思います。
2024.11.24「子どもたちは主の賜物」(詩127:1-5)
みなさん、おはようございます。
今日は、第二礼拝の中で、子ども祝福式を行う予定です。七五三の教会バージョンといったところですが、今日の詩篇127篇は、都上りの歌であると共に、子どもたちが祝福であるということを歌っているものでもあります。
子どもたちが祝福をもたらしてくれるのではなく、子どもたちそのものが祝福だと言っています。私は子どもがおりませんので子育ての苦労というのを語る資格はありませんが、話を聞くと、やはり大変だなということを思います。ワンオペという言葉がありますが、夫婦共働きの中で、さらにお母さんのほうだけに子どもの世話が集中するということもあったりして、つらい思いをしている方もいるそうです。しかしそこで、この詩篇のことばを聞いてほしいと思います。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは、むなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは、むなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは、むなしい。一見、空しいという言葉が連続し、とても人の心を励ますようなたぐいのものには聞こえません。しかし、詩人は、主を認めなければむなしいと語っています。逆に言えば、あらゆる人生の営みの中に、主を認めるとき、それはむなしいものではなく、それ自体に祝福がある、ということを語っているようです。
家を建てることも、町を守ることも、がんばって糧を得ることも、それ自体は決してむなしいことではありません。問題は、それを私ががんばった、私たちががんばった、で終わらせてしまうことです。私、あるいは私たちで頑張っているように思われるとき、いちばんがんばったのはじつは神さまです。頑張ったという言葉が不適切であれば、最善へと導いてくださったのは神さまであるということ、それを認めなければ、すべてはむなしいのです。
今日の詩篇は「ソロモンによる」とありますが、実際にはこの詩篇で使われている言葉の特徴などから、これはソロモンの時代から約五百年後、ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還し、エルサレムを建て直す時代に作られたものであると言われています。当時、エルサレムの町は廃墟となっていました。ソロモンが建てたと言われている神殿は、バビロン軍に壊されて瓦礫の山となっていました。エルサレムの町を取り囲んでいるはずの城壁も、打ち壊されたままでした。当時の人々は城壁の中に住んでいましたので、城壁が壊れているというのは、住む家がないということを意味します。自分の家さえ満足に建っていないのに、神殿を建て直すなど無理だ、という人々がいました。それでも神殿再建に立ち上がった人々も、家族みなが総出で、かわりばんこに寝ずの番をし、いつ襲われるかわからない緊張と不安の中で、神殿を再建しました。
それは何千年も前のイスラエルでの出来事ですが、今日の日本で言えば、自分ががんばらなければ家族が立ちゆかない、という必死な思いのなかで生きている方がたくさんいます。自分ががんばらなければ子どもたちを学校に行かせられない。自分ががんばらなければ、教会の赤字が収まらない。自分がしっかりしなければ、家族も町も守れない。確かにそうです。私たちの常識から言ったら、確かにそのとおりです。しかしこの詩篇は、私たちにこう伝えるのです。「主があなたのその働きをされるのでなければ、あなたがしていることはすべてむなしいのだ」と。
詩人は、建てること、守ること、勤勉な生活をすること、決してそれらすべてを否定しているわけではありません。問題はそれが主がなされ、主が備えられるということを無視して自分の力で進めようとすること、それがむなしいといっているのです。「主が建てるのでなければ」。私たちの力が必要ないという意味ではない。そして人間の努力そのものを否定しているわけでもない。しかし、私たちの想像を超えた、はるかな高みにおられる方。私たちの常識を超えた、すべてを変えることのできる力を持っておられる方。その主なる神が、私たち愛するもののすべての必要を知っておられる。そして、私たちが眠っている間に、すべてのことを備えてくださっている。
何という励ましでしょうか。このお方におゆだねすることができるのは、何という幸いでしょうか。信仰生活は「私が」ではないし、「私たちが」だけでもありません。すべてに先立つのは「主が」です。私たちの労苦のわざは、主がそれをなしてくださるという確信のゆえに喜びがあります。自分を第一とするのではなく、家庭を第一とするのではなく、教会を第一とするのでもなく、第一とすべきは、主なる神ご自身です。まず主を第一とするとき、ほかのすべては神が最善へと導いてくださいます。
この詩篇は、私たちにこう語りかけます。早く起き、遅く休み、苦しんで糧を得ようとする者よ。あなたの生活のすべてにおいて、主があなたの代わりになしてくださることを認めよ。そうすれば主はあなたに必要なものをすべて与えてくださるのだ、と。
最後に、後半部分を味わって、説教を閉じましょう。3節からは、子どもについての祝福が描かれます。見よ。子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である、と。人は愛する子どもたちのために、家を建て、町を守り、糧を得ようとします。確かに親は、子どもたちを養い育てる責任があります。しかし子どもたちそのものが、主が与えてくださるものなのだ、と。親が責任という重荷に押しつぶされることなく、子どもが与えられることを豊かな祝福として受け取っていく幸いを、ここに見ることができます。若い時に子をもうけ、育てるということは、とくに現代社会では大変なことです。しかし若いときに生まれた子どもたちの特権は、親と一緒にいろいろなことを経験できるということでもありましょう。この詩篇においては、親と子が一緒になって、城門で敵と向かい合い、町を守る姿が、幸いとして描かれています。教会は、まさにそういうところかもしれません。まだ幼子でも、信仰においてはじゅうぶんに立派な戦士として、自分の両親や祖父母の世代とともに賛美し、祈り、聖書を学び、他者に仕えています。その世代を超えた、共通の姿を通して、私たちは神がすべてを備え、与えてくださるという確かな信仰を世に証ししていきます。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きはむなしい。建てる者の働き、守る者の見張り、私たちのすべての労苦は、主なる神を自分の人生に認めてこそ、意味を持ちます。神が全部してくださるのならば、何もしなくてもよい、ということではありません。神が絶対的な主導権をもって、すべての働きを導いてくださるからこそ、どんな失敗も恐れずに挑戦していくことができるのです。そんな喜びと期待を胸にして、主の家を建てるわざ、主の町を守るわざに、私たちも加わっていきましょう。
2024.11.17「われ無力なれど全力」(U歴代2:1-18)
おはようございます。
今日の午後に、会堂建設懇話会を行う予定ですが、そこでは具体的なことを話し合うというよりは、一人一人にとって、この会堂建設のために祈り、労してきたことに、どんな恵みが生まれたのかということについて分かち合いたいと考えています。たとえば、私たちはこの会堂建設において、教会債という聞き慣れないものを資金調達の一つとしてお願いしました。端的に言えば、教会員の方が、ご主人とか奥さんとか親御さんといった、普段はなかなか教会に来てくださらないご家族に、いま教会は新しい会堂を建てようとしているんだけれど、うちの家計から教会にお金を貸してもらえないかなと頼むことになります。このご時世、宗教がらみで十万、百万単位でのお金を貸すなどということは、おいおい大丈夫か、変な宗教じゃないだろうなという話になりかねません。私たちの教会で募集した教会債は1300万円です。教会員の人数や、置かれている経済状況などを考えると、これもたいへん高いハードルでした。
しかし募集に答えてくださった家族が多くおられ、ほぼ満たされております。その背後には、それぞれの教会員の方々の、家庭での信仰生活が、家族に対してどれだけよい証しを積み上げてきたかということが問われていたのだと思います。経済的に協力することができないという方も、代わりにどれだけ祈ってくださったことかと思います。懇話会では、そういう恵みの分かち合いをしたいのです。会堂建設は牧師の寿命を十年縮めると言いますが、むしろ何年か延ばしてくれたのではないかと、冗談ながら思うことがあります。神さまが私たちに志を与えてくださり、そしてそのとおりに道を開いてくださいました。皆さんの信仰に、牧会者である私自身も励まされました。そのような感謝を胸におきながら、本日の聖書箇所を一緒に味わっていきたいと願います。
この歴代誌第二の2章は、いよいよ、ソロモンが神殿建設に具体的に着手するところです。数週間前に開いた1章のところでは、ソロモンが神から知恵と富を与えられたことが書かれていました。しかし今日の前半の、ソロモンの言葉を読んで、こう思います。この世の知恵というのは、俺は何でも知っている、と人を高慢にさせるが、神がくださる知恵というのは、むしろ人を謙遜にさせるのだ、と。ソロモンは、ダビデの古い友人であるヒラムに、使者を送ってこう言わせました。5節、6節をご覧ください。「私が建てようとしている宮は壮大なものです。私たちの神は、すべての神々にまさって大いなる神だからです。しかし、だれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょう。天も、天の天も主をお入れできないのです。主のために宮を建てようとする私は何者でしょう。ただ主の前に香をたく者にすぎません。」
どんなに大きな建物を建てたとしても、それはとうてい神を迎え入れるほどのものにはなりえない。どんなに立派な神殿を建てても、それは神の栄光に比べたらカスのようなものだとソロモンは知っていました。そしてその神殿を建てようとしている自分も、何者でもなく、ただ主の前に香をたく者にすぎない、と彼は告白します。主の前に香をたけるのは祭司だけですから、ここでソロモンが言っているのは、私はただあなたを慕い求めている、礼拝者のひとりにすぎない、という意味です。しかしどんなに小さな者、いや、神に比べたらいかに無力な者であろうとも、私は神の宮を建てることにすべての力を尽くします、そういう決意がここにはあふれています。私たちも、それぞれが持っている賜物や、献げることができるものには個人差があります。しかしそれぞれがそれぞれにできることに力を尽くすときに、そこには必ず神が喜んでくださるという確信がついてくることでしょう。
いま、それぞれがそれぞれにできることに力を尽くすと言いました。これはとくに会堂建設という大きな予算が必要とされることにとりかかるとき、大事なことであろうと思います。たとえば三十人の教会員が三千万円で新会堂を建てる計画を立てたとき、それはひとりが百万円を出さなければならないとうことでは決してないということです。二百万円を献げる人もいれば、まったく献金できないという経済状況の人もいるでしょう。それ自体はまったく問題ではないのです。しかし、そのなかで自分にできることはなんだろう、自分にささげられるものはなんだろう、と一人一人がそれぞれの信仰に応じて自ら考え、神に向き合っていくときに、そこには最善が生まれます。「もう少しお金があれば」とつい口から出てくることが何度もありました。しかしお金がどれだけあっても教会は建たないということも知っています。お金よりも大事なもの、それは一人一人の献身、身をささげて、自分にできることを駆使していくということなのでしょう。その中に、神は働いてくださいます。ある教会では、私たちの教会からの献金要請が届いた後、専用の献金箱を作ってくださり、三ヶ月のあいだ、それを受付の一番目立つ所に置いてくださったそうです。他の教会でもそうなのですから、うちの教会の、見えない所で、一人一人が労してくださったことと思います。話せることもあれば、話せないこともあるかもしれません。しかし神は、見えないことにさえ、必ず報いてくださいます。
最後に、この神殿建設が、イスラエル人だけではなく、あらゆる外国の民も巻き込んだものであったことをおぼえたいと思います。ツロは偶像を神として拝んでいた国でしたが、ソロモンは神殿建設への協力をヒラムにお願いしている言葉は、信仰を大胆に伝えるものになっています。たとえば、私は、私の神、主の御名のために宮を建てる。この神は天地の神であり、天の天も、この方をお入れすることはできない。これらの言葉は、彼が父ダビデの古い友人であるヒラムに対して、ソロモンがまるで個人伝道をしているようにも聞こえます。対するヒラムの言葉は、外交辞令かもしれませんが、それでもこの申し出を喜び、「天と地を造られたイスラエルの神、主がほめたたえられますように」とあいさつを返しています。ソロモンは後に信仰から離れていってしまいますが、このときは父ダビデの信仰に倣おうとしていました。そしてそれはダビデの友人であったヒラムにとって、まことの神を信じていたダビデだからこそ、その子であるソロモンも、この父の信仰に倣おうとしているのだという証しとして映っていたのでしょう。
私たちは某団体のように、訪問伝道に自分の子を連れて行くという偽善的行動をする必要はありません。しかし私たちが友人に証しをするとき、そこに実際に家族はいなくても、私たちの背後に家族が見えているかどうかは重要ではないかと思います。神を愛する者は、家族を愛します。その愛が、家族以外の人間関係にもこぼれていくのが伝道です。教会を建てるということは神の家族を建てること、そこから神の祝福が周囲のあらゆる人々にもこぼれていくことをおぼえながら、これからの一週間に向かっていきましょう。
2024.11.10「希望のひとみ」(詩123:1-4)
おはようございます。今日の詩篇は、都上りの歌の4番目です。古来よりこの詩篇は、「希望のひとみ」という副題がつけられてきました。私はその日の説教題を何とつけるか、いつも悩むタイプですが、今回の説教はほとんど悩まずにつけることができました。「希望のひとみ」、美しいタイトルです。タイトルが美しくても説教の内容がそれに傷をつけることがないように、気をつけて語りたいと思います。
いま、この詩篇が古来より「希望のひとみ」という副題がつけられてきたという話をしました。そこには二重の意味がこめられています。ひとつは、私たちがどんなに苦しい状況の中に置かれていたとしても、天に向かってそのひとみを向けるとき、そこにはすべてを支配しておられる神が、天の御座に就いておられる姿を信仰の目によって見いだすのだ、ということ。そしてもう一つの意味は、逆に神ご自身が、私たちをいつもそのひとみで見つめておられ、私たちがどのような者であろうとも、そこに希望を見いだしておられるということです。先にこちらのほうからお話ししましょう。詩人は、この詩の後半の中で、私たちはさげすみで一杯です、安逸をむさぼる者たちの嘲りと高ぶる者たちのさげすみで一杯です、と告白しています。これを私たちに敵対する人々からの攻撃として考えることもできますし、実際にそれがこの詩篇が作られた時代の状況だったのでしょう。しかし私たち現代に生きるクリスチャンにとって、ここはまた別の意味で捉え直すことができるのではないでしょうか。それは、私たちの内側がさげすみで溢れている、というのは、他の誰でもなく、自分自身で、自分をさげすみ、身動きが取れないほどにがんじがらめにしてしまっている、ということです。
言い換えると、自分自身に価値を見いだすことができない、今日、多くの人々を苦しめている、見えない病の姿です。そして、その原因がどこにあるかと言えば、それは私たちが生まれたときからこの心に宿してしまっている、罪の原理にあります。罪は、内側からたましいを責め立てます。おまえは何をやってもだめなやつだと落胆させ、失望の刃を容赦なく突き立てます。自分自身の心の中にある罪が、私たち自身を責め立てるとき、神を知らない人々は、外側にはけ口を求めます。誰かの欠点をことさらに強調し、批判し、自分はその人よりもましだと自分に言い聞かせようとします。他人に責任を押しつけていられるあいだは楽なのです。「安逸をむさぼる者たち」は私のことではなく、他の人のことだとうそぶいていられる余裕があるうちは、まだ何も見えていないのです。信仰を持っていればそうはならないと決して言い切れないところに、私たちの罪の根深さがあります。しかしそれでもなお、私たちは、たとえ私たちがどのような者であったとしても、神は天の御座から私たちをそのひとみで見つめておられ、私たちに希望を持っておられるという約束を、この詩篇から信じることができます。なぜ神は私たちに希望を持っておられるのでしょうか。それは、実際にイエス・キリストを宿している私たちだからこそ言えます、私の中に、神の一人子イエス・キリストがいま、生きておられる、だからこそ私たちがどんな者であろうとも、神は私たちから希望を捨てないのだ、と。私たち自身の中に、何かよいものがあるということではなく、ただ私たちのために命を捨ててくださったキリストのゆえに、神は私たちの中に、この世界を罪から救い出す希望を見いだしておられるのだ、と。
そして「希望のひとみ」のもう一つの意味に戻ります。
神が私たちに希望を見いだしておられるように、私たちも、どんなときでも神に希望のひとみを向けています。新約聖書のヘブル人への手紙にはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者である、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」と。そしてこの詩篇123篇の作者は、神から目を離さない一つの例として、しもべたちの目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているというたとえを使っていることは注目に値します。
昔、こういう経験をしたことがあります。私が敬和学園の理事会に加えていただいたのは、今から十四、五年前のことでした。初めての理事会は、新潟市の万代シティにあります、某老舗のホテルの会議室で開かれました。めんどくさいなあと思いながら、会議に出ましたが、なんと本物のメイドさんが給仕してくださいました。秋葉原のメイド喫茶にいるようなアルバイトじゃないですよ。行ったことありませんが。本物のメイドです。当時、理事会の会議は二時間くらいでしたが、何人ものメイドさんが会議の間中、ずっと脇に立っていて、こちらが頼みもしないのに、的確なタイミングでコーヒーを注いでくださるのです。理事を引き受けてよかったなあと思いましたが、経費がかさんだのでしょうか、次の年からは大学の会議室で、セルフのインスタントコーヒーになりました。ただ思い出すのは、そのメイドさんたちは、私たちの動きを、こちらが意識しないように気をつけながら、ずっと見ていて、的確にコーヒー注いだり、いろいろとしてくださったのです。
私たちが神を見上げて生きるというのは、そのメイドさんたちのように見ていることを意識させないという必要はありませんが、彼女たちが常に、顧客が喜ぶことは何かということを考えながら仕事に努めていたことを参考になりました。私たちも、神を希望のひとみで見上げるということは、神が喜ぶことは何かを考えながら、神の御手を見つめ続けることかもしれません。私たちの人生には、もうすべてを手放し、逃げ出したいというようなことも起こります。しかし私たちは神の子どもであると共に、神のしもべであるということもおぼえておきたいと思います。苦しいとき、つらいとき、でもそれは神が私たちを整え、成長させ、組み合わせて、ひとつの教会を建て上げるために与えておられるチャレンジだとすれば、よくやった、よいしもべだ、と言われるように、神のために自分のすべてを働かせる者でありたいと願います。どんなに苦しくても、今私たちは神の御手の上にあるのだということを忘れることがありませんように。今週も私たちはこのひとみで神を見上げつつ、そして神が私たちをご覧になり、希望を抱いておられることをおぼえつつ、一人一人が置かれている場所で信仰の目をもって歩んでいきましょう。
2024.10.27「みんなとともに」(歴代誌第二1:1-17)
こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ちょっと前に、自作のキャラクター(ニャスモ)をAIでいじりまくった結果を披露しましたが、
今日、ハードディスクを整理していたら、なんと私たち夫婦のスナップ写真をAI化した画像が出てきました。
正直言って、まったく似ていません。なので逆に安心して、お目にかけることができます。
ちなみに元ネタとなっている写真は、同盟教団発行の「祈りのネットワーク」に掲載されています。
教団関係者の方は、そちらと比較してみるのも一興かと。この黒いスーツの人(私)、どこ見ているんでしょうか。

何度も言いますが、まったく似ていませんからね。
とくに牧師夫人のほうにときめいて来られても困ル ウワッナニスルンダヤメレー
スミマセンデシタ
ちょっと前に、自作のキャラクター(ニャスモ)をAIでいじりまくった結果を披露しましたが、
今日、ハードディスクを整理していたら、なんと私たち夫婦のスナップ写真をAI化した画像が出てきました。
正直言って、まったく似ていません。なので逆に安心して、お目にかけることができます。
ちなみに元ネタとなっている写真は、同盟教団発行の「祈りのネットワーク」に掲載されています。
教団関係者の方は、そちらと比較してみるのも一興かと。この黒いスーツの人(私)、どこ見ているんでしょうか。
何度も言いますが、まったく似ていませんからね。
とくに牧師夫人のほうにときめいて来られても困ル ウワッナニスルンダヤメレー
スミマセンデシタ
おはようございます。
私たちの教会では、8月から3ヶ月間、新会堂建設のための献金と教会債を募ってきましたが、いよいよ最後の週となりました。先週の日曜日、NBIスペシャルナイトという集会があって、そこで顔を合わせて多くの先生や信徒の方が「会堂献金、まだ受け付けていますよね」と声をかけてくださいました。それがもしリップサービスでなければ、来月にはドバーッと献金がささげられるはずです。しかし一応、10月末までが募集期間ですので、本日の会堂建設委員会、また来週主日の役員会で献金、教会債の最終報告をすることになります。しかしその結果がどうあろうと、必ず神のみこころは実現します。期待、あるいは失望するような現実の中でも、私たちの考えや常識をはるかに超える神の道が用意されています。これから毎月の最後の主日、礼拝説教ではこの「歴代誌 第二」の1章から7章までを約十回のシリーズで語りたいと考えています。そこには、古代イスラエルの王ソロモンが行った神殿建設について、つぶさに記されているからです。月一で、来年の夏くらいまでの説教計画です。
ソロモンもまた、決して完璧な人間ではありませんでした。そればかりか、神殿建設そのものが、後の彼が堕落する原因の一つとも分析できるくらいです。しかしそれでも神は、彼を通して建てられた神殿を受け入れてくださいました。人間の中には、例外なく、人の目には見えないほどの小さなゆがみが隠れています。しかしそれでも私たちが自分自身を神に用いてくださいと願うとき、神は私たちを受け入れられます。完全にきよい人間でなければ、神が用いられないということはないのです。ソロモンは神に知恵と富を与えられながら、堕落していきました。しかし彼が建設を志し、ささげた神殿は、神の恵みと慈しみを象徴するものとなりました。彼が手がけた神殿建設を通して、私たちもさらに励ましを受け取りたいと願っております。
さて、前置きが長くなりましたが、ソロモンが王となった後、最初に行ったことは、ギブオンに行っていけにえをささげたことでした。ここで大事なことは、彼が、すべてのイスラエル人と共に、いけにえをささげたということです。ギブオンにあった祭壇は、もともとは祭司が民の代表としていけにえをささげるためのものですから、決して大きくはないし、一個だけです。そこに全イスラエルが集まり、ソロモンが千匹のいけにえをささげたというのは、たとえると、今日の選挙で、鉛筆が一本しかない投票所に、数万人の有権者が長蛇の列を作るようなものです。千匹のいけにえをささげたとさらっと書かれていますが、とても一日で終わるようなものではなく、一日ぶっ続けでも二、三ヶ月かかるようなものだったかもしれません。しかしソロモンにとって、どれだけ時間がかかり、体力を使い果たしても、イスラエルの民みんなと一緒に、まず神の御前に集まり、まったき献身を表すいけにえをささげることが重要でした。すべての民が心をひとつにすることが神殿建設には不可欠でした。しかし聖書は、それ以上のことを私たちに教えてくれます。いけにえを献げた後、神はソロモンに「あなたに何を与えようか、願え」と、夢の中で尋ねられました。そのときにソロモンが答えた言葉に注目してください。10節をお読みします。「今、知恵と知識を私に授けてください。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします。さもなければ、だれに、この大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
最後のところで、「この大いなるあなたの民」という言葉が出てきます。「大いなる」は、神にもつながるし、民にもつながっている形容詞です。単に数が多いというだけではなく、まさに「大いなる」という形容詞がふさわしい、誇りと力にあふれた、あなたの民、という意味です。ソロモンは、民を尊敬していたのです。選挙の時だけは有権者に頭を下げますが、選挙が終わるとたちまち見下すような国会議員とは違います。彼はイスラエルの民を文字通り、慕っていました。尊敬していました。この大いなるあなたの民とは、彼の敬意と愛情を表現する言葉です。彼が知恵を求めたのは、若く、経験がなかったからではありません。一人一人が、神の誉れと栄光を表している者たちであるからこそ、あなたからの知恵がなかったならば、誰も彼らを治めることはできない、と言っているのです。教会をゼロから開拓し、約五十年かけて大教会へと育てた牧師が、引退の際に、牧会が長続きした秘訣を尋ねられ、こう答えました。「それは、私が常に信徒を尊敬し、信徒も私を尊敬してくださったからだと思います」。ソロモンはこのとき、二十歳そこそこの年齢であったと思われますが、彼は民を、神の似姿として尊敬し、仕えようとしました。そのために必要なものは、年齢でも経験でも、ましてや富や武力でもない、それはあなたからの知恵なのです」と神に願いました。神はソロモンの心に宿る謙遜さを喜び、知恵だけではなく、富と誉れも与えました。しかしその後のソロモンの転落を知っている私たちは、あえてここから警告を読み取りたいと思うのです。
彼が知恵を求めたことは、みこころにかなったことでした。しかし彼は父ダビデのように主に従い通すことができませんでした。神からの完全な知恵を与えられていながら、なぜそうなったのでしょうか。富を与えたのは神ご自身ですから、富が彼を迷わせたと単純に言い切ることはできません。彼が完全な知恵を得たにもかかわらず転落していったのは、知恵を自分自身の中で独占してしまったことにあります。
数十万の民を治めなければならないという点においては、ダビデもソロモンと同じでした。しかしダビデは、知恵を自分にではなく、自分の周りの人々にゆだねました。サムエル記や第一歴代誌には、ダビデが、いかに多くの人々の絆で生かされていたかが記されています。民を治める知恵については、預言者ナタン、祭司ツァドクやエブヤタル、賢人として知られたフシャイなど、ダビデの周りには、常に誰かが彼を支えていました。しかしそれに対してソロモンの記録には、彼が特定の人々の絆に支えられていたことを見つけることができません。確かに彼は民を大いなる者たちとして尊敬し、彼らにふさわしい王となるために知恵を求めました。しかしその知恵は、彼をむしろ孤独にしました。民を治めるために知恵を求めることは間違いではありませんでした。しかしダビデが自分にない知恵を与えられている人々を最後まで大事にしたのに対し、ソロモンははじめから助言者を不要としてしまい、孤独の知恵者として歩みました。その人生の終わりは、誰の意見も聞かず、誰も彼に意見しない、ひとりぼっちのライオンのような王の姿でした。
私たちはいま、こうしてみことばを聞いています。みことばは、神の知恵であり、神の力そのものです。しかしその力と知恵が、私の中だけで終わってしまうのであれば、それは人を生かすことはできません。信仰によって聞くみことばは、行いによって完成されるということを私たちは知っています。行いとは何でしょうか。それは、言うなれば、人との絆です。兄弟姉妹との絆、求道中の人々との絆、あるいは聖書を信じようとしない人々の間にも、私たちは絆を持ちます。人々を尊敬し、そこで自分が持っているみことばを働かせようと奮闘する中で、みことばは聞くだけのもので終わらず、血となり、肉となります。神がソロモンに知恵と富を与えました。それは、その知恵と富を自分のためにではなく、他の人と分かち合うため、知恵と富をお裾分けするためです。しかし彼は自分のために、自分の中だけで知恵と富を独占します。そんなつもりはなくても、結果としてそうなっていきました。
民は王を必要としていました。そして王も民を必要としていました。共に成長し、欠けを補い合う存在として、お互いに相手を必要としている、それが神の民であり、絆に生きるクリスチャンです。私一人ではない、みんなとともに。それが私たちが神さまから与えられた姿であり、そのために神は、それぞれ違った賜物を一人一人に与え、それを組み合わせて教会を建ててくださいます。みなが同じものを同じだけささげるという必要はありません。しかし何の賜物も与えられていない、という人も決しておりません。自分にはないけれども、他の人に与えられている賜物を通して、さらに自分の賜物が生かされていく、ということも、兄弟姉妹や人々との絆を大切にしていく信仰生活の中では起こります。感謝しつつ、これからの教会建設のためにも祈っていきたいと願います。
2024.10.13「祈りに限界なし」(詩篇120:1-7)
こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
明日10/19(土)の朝10:00〜12:00まで、ゲリラバザー&オープンチャーチをやります。
ゲリラっつうか、単にブログで案内するのを忘れていただけなんですけどね。
ご近所さんには、ちゃんと一週間前の朝刊折り込みでチラシ1800枚を配っています。
2時間しかやりません。良い品は開始10分で売れまくりです。よろしくお願いいたします。


明日10/19(土)の朝10:00〜12:00まで、ゲリラバザー&オープンチャーチをやります。
ゲリラっつうか、単にブログで案内するのを忘れていただけなんですけどね。
ご近所さんには、ちゃんと一週間前の朝刊折り込みでチラシ1800枚を配っています。
2時間しかやりません。良い品は開始10分で売れまくりです。よろしくお願いいたします。
おはようございます。今週から、礼拝説教では詩篇を扱っていきたいと思います。ずっと詩篇を最後まで、ではなくて、この詩篇120篇から136篇までの17篇、これらは通称、「都上りの歌」と言われております。モーセの時代、イスラエルが荒野をさまよった40年を終えて、カナンの地に定住したとき、神はイスラエルの民に、年三回の祭りを守るようにと命じられました。その三つの祭りを全部言える方がおられたら、よく聖書を学んでいる人ですね。春のパン祭り、じゃなくて、春は過越の祭り、その後すぐに初夏の五旬節の祭り、そして秋に行われる仮庵の祭り、です。それぞれの祭りの意味についてはいずれお話ししたいと思いますが、イスラエルの民はこの祭りの時期、村や家族ごとにツアーを組んで、全国からエルサレムへと上っていきました。「都上りの歌」とは、その旅を出発するときや、その途中、また神殿に迎え入れられる時などに、あるときは民自らが讃美し、またあるときには神殿の聖歌隊によって歌われたものでした。
私たち豊栄キリスト教会は、教会堂の建設を進めています。しかし忘れてはならないのは、教会堂とは礼拝堂であるということです。確かに今日の教会は、信者の交わりの場や、地域の人々の居場所としての場も求められています。しかし教会とは何よりも礼拝するところなのだという本質が薄められてはなりません。これからの時代、礼拝はより手軽な方法に変わられていくでしょう。オンラインで礼拝に参加することができるようになりました。大雪の日にまず自分の家の車を出せるように雪かきをし、教会に着いたら今度は教会の駐車場の雪かきをして、礼拝者を待つというような苦労をしなくても、家で礼拝を守ることもできるようになりました。しかし私たちは、イスラエルの民が年三回、あるいはそれすらもできずに、数年に一回、神殿に礼拝に行くのを人生最大の喜びとしていた彼らの姿をおぼえていきたいものです。
まず1節をお読みします。「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった」。この詩の作者は、過去、苦しみの中で神に叫び求めたとき、神に助け出された経験を持っていました。信仰生活の中で一度でもそのような経験がある人は、どんな困難の中でさえも必ず助け出してくださる主に信頼し、失望することはありません。では今までの信仰生活の中で、一度も助け出された経験のない人はどうしたらよいのでしょうか。しかし、助け出されていないクリスチャンなど、一人もいないのです。
「都上りの歌」がエルサレム神殿への巡礼のときに歌われたものであることはすでに語りました。それはいわゆる、景気づけの歌ではありません。礼拝にふさわしい者となるために、自分の過去を遡って、忘れられていた記憶の下の深みにまで思いをめぐらし、恵みを取り戻すための歌、それが都上りの歌です。今までの信仰生活の中で、経済的危機を脱したとか、家族の問題が解決されたとか、そういうものはなくても、十字架でイエスさまが私のために死んでくださったという恵みよりも大きな恵みというものはありません。つまり、あらゆるクリスチャンは、お金の問題が解決したとか、家族関係が良好になったとかいったこと以前に、救いを受け入れたあのときに、確かに神に助け出された経験を持っているのです。そしてその十字架の恵みをかみしめて、そこで改めて自分を苦しめている具体的な状況を見つめ直したとき、じつはさっきまで私の心を苦しめていた問題は、いま、自分が永遠のいのちを与えられているという特権に比べたら、まったく何物でもないことに気づかされるのです。
イエス様は、弟子たちに祈りを教えてくださいとお願いされたとき、「主の祈り」を教えてくださいました。今も私たちが信仰に入ったとき、使徒信条と並んで真っ先に覚えるもの、それが主の祈りです。主の祈りは、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけから始まります。イエス様が弟子たちにまず、天におられる私たちの父、という呼びかけを教えてくださったのは、天というだだっ広い空間に神がおられる、というイメージではありません。天よりも大きい、無限のお方が、父なる神です。「天におられる父」とは、天の真ん中に座っておられるお方という意味ではなく、私たちのいるこの地上をはるかに越えて、人の予想や想像を超えた、しかし私たちのために用意してくださっているありとあらゆる祝福を与えたくてたまらない、そんな父なる神が、イエス様の語られたお方です。私たちが自分の願いを神に祈るとき、確かにその祈りは聞かれています。しかしむしろ、私たちが願ったこと以上のことを神はとっくの昔に、私たちのために計画しておられます。私も、そしてみなさんも、今まで数え切れないくらい、神に祈ってきたことでしょう。その一つ一つを思い出すことは不可能ですが、私たちが祈ったこと以上のことを、神がしてくださったということはうなずくことができるのではないでしょうか。
私たちは、具体的な問題に対して、こうしてほしい、ああしてほしい、と神に祈ります。そしてその祈り自体は、自分が願ったような解決が与えられないことはあったとしても、その願い以上のことを神はしてくださったのだ、ということを、ずっと後から気づかされることがあります。信仰生活が何年、何十年経っても、相変わらずお金の問題では悩むし、人間関係ではしょっちょう土壇場に立たされますが、神はいつも私たちが想像する解決よりも斜め上のところから、考えもしなかった道へと導いてくださるのです。
次に2節をご覧ください。「私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から救い出してください」と詩人は祈ります。彼は回りの人々から、根拠のない中傷や批判を受けて苦しんでいたようです。しかし「救い出してください」という願いの後の、彼の言葉は、祈りというよりはのろいです。「欺きの舌よ、おまえに何が与えられるのか。それは勇士の鋭い矢、えにしだの炭火だ」と。「えにしだ」は当時、最高に長持ちする木炭を生み出す木として知られていました。つまり、決して燃え尽きることのない、終わりの日のさばきを表しています。まさに復讐を求める言葉であり、のろいの詩篇であり、およそ都上りの歌にはふさわしいようには見えません。しかし私たちの祈りの言葉には禁句はないのです。もちろん礼拝の公の祈りの中で、「あの人をさばいてください」とは祈りませんが、個人的な、神との密室の祈りにおいては、私たちは祈りを制限する必要はありません。どんなことでも祈ってよいのです。それが私たちと神様とのあいだに生まれている、父と子どもとの関係です。
創世記の中に、ヤコブという人が夜通し神の使いと格闘した物語が出てきます。多くの説教者が、それは私たちの祈りの象徴であると語っています。祈りはスマートである必要はないのです。神と殴り合うくらいであってもいいのです。私たちは、人にはとうてい聞かせられないようなものでさえ、神にだけは吐き出すことが赦されているのです。人間同士のやりとりの中でそんな話ばかり聞かされていたら、やがてまいってしまいますが、神は私たちの不平不満も永遠に聞き続けてくださるお方です。祈りというのは、タブーがありません。祈りの中で、あらゆることを神に訴えることができる、それがクリスチャン、神のこどもに与えられた特権です。
最後に5節をご覧ください。「ああ嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留しケダルの天幕に身を寄せるとは」。メシェクは、イスラエルからはるか北にある、現在のウクライナあたりにいた民、一方ケダルは逆にイスラエルよりも南にあたる、アラビア人の一部族です。メシェクとケダルはまったく別の所に住んでいる人々ですから、この詩人が実際にそこに住んでいたわけではありません。ここでは、同じ場所で生活を営んでいながら、自分が敵と見なされ、中傷や批判を受けながら生活していることを表しています。どんなにこちらが平和を望んでも、返ってくるのは敵対心だけ、そんな環境の中で彼は生きていました。もしかしたらそれは外国人に囲まれていたのではなく、同じイスラエル人でありながら、神を嘲って生きていた人々の中で暮らしているということであったのかもしれません。
なぜこのような詩篇が、都上りの歌、つまり巡礼歌に含まれているのでしょうか。それは、彼らはこの詩篇を歌いながら、かつてはそのような困難の中で都上りができなかった自分たちが今、エルサレムに向かうことができる恵みをかみしめたのでしょう。あるいは、今もそのような状況の中で、一緒に都に上ることができない同胞の痛みをおぼえたのでしょう。都上りが、私たちにとっての礼拝を表すとすれば、自分たちが礼拝に出席できることを感謝するとともに、出席したくてもできない人々のためにとりなすこと、また出席しようとしないクリスチャンの心が変えられるように祈りたいと思います。都上りから戻ってきた巡礼者たちは、上ることのできなかった者へ恵みを持ち帰ることで、彼らの困難な生活に霊的な励ましを与えたと言われます。私たちも、礼拝を通して受け取った恵みを、人々に分かち合っていく一週間でありますようにと願います。

