みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、イエス様が山の上で群衆に語られた説教の初めの部分、通称、「八福の教え」と言われているところです。
なぜ八福と言うかは、幸いですという言葉が八回繰り返されているからです。
そのまんまですね。
この八福の教えのうち、「心の貧しい者は幸いです」という3節については、以前語ったことがありますので、今日は4節の「悲しむ者は幸いです」というみことばを一緒に味わっていきたいと思います。
4節をもう一度お読みします。
「悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるからです」。
私たちクリスチャンはイエスさま大好きですから、ああ、言い言葉だなあと思うかもしれませんが、実際に悲しんでいる人にこの言葉を贈ったとき、十中八九、変な顔をされることでしょう。
中にはその悲しみの深刻さゆえに、怒り出す人もいるかもしれません。
悲しむ人が幸せだなんて何を言うかあ、と。
常識で考えてみたら、悲しんでいる時よりは喜んでいる時の方が幸せです。
いくら悲しい者は慰められると言われても、普通の人が神さまに臨むことは、慰めてもらわなくてもいいですから、悲しいことも私の上に起こさないでください、というものでしょう。
アイデンティティという英語を聞いたことがあるでしょうか。
自己同一性という難しい言葉で訳されることがありますが、私流の解釈は、自分が世の中に必要とされているという生きがいです。
例えば家族が私を必要としている、社会が私を必要としている、人はそのように自分は必要とされている、という確信があってこそ、生きていける。
だけど、では誰も必要と認めない人は生きていても仕方がないのか、という疑問が浮かびます。
そんな人はいない、少なくても私はそうではない、と人は考えるのですが、自分が考えもしなかった悲しみに襲われたとき、誰かに必要とされているという建前が通用しなくなるほどに、立ち上がる力が失われてしまいます。
愛する家族を失った人、人生の大半を費やしてきた仕事を失った人、親しい友や恋人に裏切られた人、実際にそのような、生半可ではない悲しみに襲われた人たちは、生きる意味を失い、誰かが私を必要としているという人生の目的で自分を支えられなくなってしまう。
たいへん不幸なことです。人間の目にはそう見えます。しかし本当に不幸なのか。
それまでの人生がどんなに充実していたとしても、それは神に気づかず、神に頼らず、神を無視して生きてきた人生ではなかったか。
だからこそ神は私たちに悲しみを通して、私たちの目を開かれます。
誰かに必要とされていることで自分を奮い立たせる生き方は、真実なようで真実ではない。
私たちは弱く、いつも慰められることを必要としている。
悲しみを通して、私たちがいつも神の慰めを必要としているもろい存在なのだということを私たちは知ります。
喜びが幸福で、悲しみが不幸だという単純な人生観ではなく、悲しみの中にあるからこそ、変わりゆく人間の言葉や思いではなく、決して変わらない神の愛と慰めの中に生きることができるのだ、と。
あるテレビ番組で、生きづらさを抱えながら生きる男性のことを取り上げていました。
その方は先天的な障がいがあり、生まれつき情動が希薄でした。
つまり喜怒哀楽といった感情がわからない。
そのため、幼い頃から両親を含めて周りの人々からは誤解され、心ない言葉を投げつけられることも多かったそうです。
成長するにつれて、感情を大げさに表現することで人間関係のトラブルを避けることができると知った彼は、努力の結果、「喜び」の表現を覚えました。
たとえ嬉しくなくても、顔の筋肉を持ち上げて、喜びのジェスチャを演じることができるようになりました。
それを続けていくうちに、なんとなく喜びの感情がわかるようになった。
しかし「悲しみ」の感情はまだわからないということでした。
おまえなんか生まれないほうがよかったと言われ続けた彼は、自分がいなくなることによって誰かが悲しむということが想像できない。
一人で暮らすのは寂しいでしょうと誰かに言われたので、犬を飼うことにした。
しかしその犬が死んでしまったときも、その犬がもうどこにもいないという悲しみがわからない。
何かモヤモヤしたものはあるが、それが悲しみなのかどうかがわからない。
笑うことはできるのに、涙が出てこない。
悲しむことができるというのは、これほどまでに貴重なこと、尊いことなのではないでしょうか。
悲しみは決して人生に不要なものではなく、神が人間に与えてくださった賜物でさえあるのかもしれない。
もちろん神が作られた最初の楽園には悲しみはなかったし、やがて来る永遠の天国にも悲しみはありません。
しかしクリスチャンならこんなことを経験するのではないでしょうか。
悲しみの中にあった時には、神に必死で祈った、聖書をむさぼるように求め、神のみ声を聞き逃すまいとした。
しかし悲しみが過ぎ去ってしまうと、いつのまにか祈ることも、聖書を開くこともなおざりになったという経験を。
手紙の中に、こういうみことばがあります。
「神の御心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る、悔い改めを生じさせるが、世の悲しみは死をもたらす」。
世の多くの人々は、悲しみを不要なものとして避けていきます。
しかし神を信じる者、そしてまだ信じてはいないけれども救いに定められている者たちにとっては違うのです。
悲しみの経験をするとき、むしろ神を近くに感じます。
確かに悲しみはつらい。
苦しい。
できることなら取り去ってほしいと願う。
しかし悲しみの中だからこそ、感じることのできる暖かさがある。
それは人の温かさではない。
神が近くにおられ、そして私の肩の上に手を置いて慰めてくれている。
悲しみの中で、私たちは何もできない、何もしたくないという気持ちに陥る。
だが私たちが何もできないと感じる時こそが、神が私のために立ち上がり、私を助けられるということを確信できるときなのです。
イエスさまも悲しみの人でした。
いつも人々の悲しみを背負い、それゆえに慰められることを知っていた人でした。
私たちのために自分のいのちを十字架で捨てられた方、そのイエスがいつも私たちとともにいて、私たちを慰めてくださいます。
悲しみがこのイエス・キリストに近づくための扉であるならば、悲しみは決して人生にとってマイナスではない、むしろ避けることのできないチャンスであるということができるでしょう。
今日のみことばをもう一度それぞれが心に刻みつけましょう。
たとえ私たちをとりまく現実が悲しみに満ちているものだとしても、それを通して私たちに近づこうとしておられるイエス・キリストをおぼえて歩んでいきましょう。
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(08/08)[重要]ブログ移転の報告
(08/01)2025.7.27「悲しむ者の幸い」(マタイ5:1-10)
(07/25)2025.7.20「祝宴の主役はあなた」(ルカ15:20-32)
(07/18)2025.7.13「待ち続ける神」(ルカ15:11-24)
(07/12)2025.7.6「一人が欠けたら世界はむなしい」(ルカ15:1-10)
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TOP / 2025年のメッセージ
2025.7.20「祝宴の主役はあなた」(ルカ15:20-32)
みなさん、おはようございます。
先週の礼拝メッセージでは、弟息子に対する父の愛を一緒に学びました。
それはどんな罪人をもただ優しく抱きしめてくださる神の愛を表しています。
今日は後半部分、その絶対的な父の愛が、兄息子にも惜しみなく与えられていることを学びます。
この兄息子はパリサイ人や律法学者を表し、弟息子は彼らが見下していた取税人や遊女といった人々を表していました。
しかし父、つまり神の愛は、あらゆる人に対して注がれています。
差別される者にも、そして差別する者にも、あらゆる人々に例外なく、惜しみなく、神の愛は注がれているのです。
父親から財産を受け取ってすっからかんにしてしまった弟息子は、悔い改めて家に帰ってきました。
そこに至るまでの期間がどれくらいかわかりませんが、父親は毎日、この弟息子を探していたのでしょう。
弟息子がまだ家から遠くにいたのに、走り寄って抱きしめました。
今までのことをとがめることもなく、ただ喜び、ひたすら喜び、祝宴を開いた、ということが24節には書いてあります。
畑で働いている兄息子に、しもべの誰かが宴会やってますよと伝えに行けばいいと思うのですが、ちょっとタイミングが合わなかったようで、兄息子が何も知らずに帰ってくると、家の中で宴会をやっているではありませんか。
聞くと、弟息子が帰ってきたという。
そこで兄息子はヤッターとはならなかったのですね。
むかつく。腹立つ。家に入りたくない。
なだめる父親に対して、彼は思いをぶつけました。29節をお読みします。
「ご覧ください。
長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」。
兄息子はパリサイ人や律法学者を指している、とすでに語りました。
彼らは確かに自分たちで言うとおり、長年の間、一生懸命、父なる神に仕えてきました。
しかしどんなに尊い奉仕であっても、愛が動機となっていないものは義務感の中に沈んでいきます。
自分には子山羊一匹くれないのに、どうして弟には子牛をほふらせたのか、と彼は父親に食ってかかりました。
一生懸命、父に仕えてきたのは自分ではないか。
なのに、なぜ放蕩の限りを尽くしたあげく、のこのこ帰ってきた弟がここまでえこひいきされるのか。
どうして弟がそこまで愛されるのか。えこひいきされるのか。
兄の言葉の中で、たいへん気にかかる表現があります。
彼は弟のことを「財産を食いつぶした息子」「そんな息子」と呼びます。
それに対して父親は「おまえの弟」と呼びます。
身内なのですから本当は名前で呼んでほしいところですが、たとえ話ですからそこは仕方がありません。
しかし兄は「弟」と呼ばずに、あなたの「息子」と呼びます。
「弟」と呼びたくないのでしょう。
自分自身、父の息子であるのに弟をあなたの息子と呼んでいるのは、父親の愛も祝福も全部自分からもぎとってしまったという妬みと敵意が垣間見えます。
もう二十年以上も前のことです。
すでに教会を離れた信徒の方ですが、私との個人的会話の中でしばしば「この教会の人たち」という言葉が出てきました。
それを聞くたびに、私の心の中には悲しいような、寂しいような思いを抱いたものです。
そこは「私たち」と言うべきではないか、と。
同じ教会員同士、キリストが命をかけて贖われた者同士でありながら、私はあの人たちとは違う、という兄息子の視線が重なります。
教会で問題が起きているとき、「私たち」ではなく「この教会の人たち」という時には、自分は問題の関係者ではないとしてしまっているのです。
しかし神に感謝すべきは、自分の弟を弟と呼べない、そんな兄息子にさえ、この父親は、弟に勝るとも劣らない愛を注いでいることです。
あくまでもこれはイエスさまのたとえ話です。
しかしまるで目の前に起きている、家族の姿をそのまま語っているかのように、イエスさまはリアルに語ります。
怒りのあまり、父親に思いのたけをすべてぶつけてくる兄に対し、父はおまえは間違っていると突き放すことはありません。
ただ、彼に一言、答えました。31節をご覧下さい。
「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ』」。
父親は、かたくなな心に捕らえられてしまった兄に対して、こう語りかけているのではないでしょうか。
息子よ、思い出せ。弟と一緒に汗を流して畑を耕した昔のことを。
兄弟二人で荷車を引いて家路に着いたあの頃を。
いっしょのテーブルで食事を分け合ったかつての日々を。
振り上げている拳をおろして、代わりにたったひとりの弟の手を握ってあげてくれ。
いなくなっていた弟が帰ってきた喜びを、どうかいっしょに分かち合ってくれ。
おまえがいなければ、この祝宴は完成しない。
どうかこの喜びの祝宴に笑顔で加わってくれないか。
この兄息子が、父の呼びかけにどう答えたのか、イエス様はあえて語っておられません。
この話の続きを紡ぎ出すのは、たとえ話の登場人物にすぎない、想像上の兄息子ではなく、兄の分身そのものである私たち自身でなければならないからです。
言い換えれば、このたとえ話は、私たちがこのメッセージを聞いた後に、いかに行動していくかによって完成されます。
今日も明日もプライドを人生の伴侶にして家の外でむくれ続けるのか。
それともプライドを自ら踏みつぶして、きびすを返し祝宴に加わっていくのか。
神は、あなたをご自分の子どもとしたいと願っておられます。
そしてあなたがイエス・キリストを信じて神の子どもとなるまで、祝宴の外であなたをなだめ、招かれるお方です。
なぜでしょうか。
あなたがいないと祝宴が始まらないからです。
事実、あなたを招き入れるために、神はご自分のひとり子イエス・キリストをあなたの罪の身代わりとして十字架にかけてさえくださったのです。
神の祝宴に招かれているすべての者よ。喜びましょう。私たちは主役です。
喜んで祝宴に着けばよいのです。
私たちの教会は、次のみことばを今年の目標聖句に掲げています。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」。
しかし本来はこのみことばは目標ではなく、すでに起こっている事実であるはずなのです。
いま、私たちは兄弟姉妹として、一つになり、ともに生きている。
それは何という楽しさ、何という恵みだろう、と。
どうかひとり一人がこの喜びをかみしめていくことができるように。
2025.7.13「待ち続ける神」(ルカ15:11-24)
みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語から、一緒に分かち合っていきたいと思います。
まずこのたとえ話は、ある人に二人の息子がいた、というところから始まります。
お兄さんのほうは今日のところでは出てきません。
この物語はこの後もまだ続きがありますので、またその時にお兄さんのことを話します。
今日は弟のほうだけです。
そしてこの弟がなかなか大物です。
いきなり父親のところにやってきて、「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」とお願いするのですね。
まあ、現代ですと、相続税対策や、認知症になって遺言が残せなくなると困るから、といったことで、親が健在なうちに財産を分ける、ということはあります。
しかし二千年前のイエスさまの時代には、親が生きているのに財産をください、というのはちょっとあり得ません。
この弟息子のおねだりの本音は、「お父さん、早く死んでくれないかなあ」ですね。
まあ、とんでもない息子に育ってしまった。
どこで教育を間違えたのか。
父親の嘆きは相当でありましょう。
しかしなんとこのお父さん、素直に財産を分けてあげるのです。
先週のメッセージの中で、このルカ15章に含まれている一連のメッセージは、パリサイ人や律法学者といった、当時の宗教指導者に向けて語られたものだと説明しました。
彼らは、取税人や遊女といった、自分たちの教えを聞こうとしない人々を罪人と呼び、彼らと親しく食事をしているイエスさまを批判していました。
彼らにしてみれば、この弟息子こそ、自分たちが罪人と呼んでいる取税人や遊女といった、金銭やモラルに対してだらしない者たちの象徴のようなものです。
父親から財産を受け取るや、すぐに家を出て、瞬く間に身を持ち崩してしまうこの弟息子と、そんな息子を野放しにしてきた父親、聞く価値もないたとえ話となるでしょう。
しかしイエスさまがこのたとえ話に込めたのは、この父親の、一見甘やかしているように見える姿こそ、じつは罪人に対してどこまでも寛容で、待ち続ける、神の愛を表しているのだということでした。
現代の私たちから見ても、この父親もしつけという意味ではちょっとおかしい、と感じるかもしれません。
ましてや二千年前のパリサイ人や律法学者からすれば、この親にしてこの子あり、といったところでしょう。
しかしこの弟息子こそ、神の愛がわからずにさまよい続けている、私たちあらゆる人間の姿です。
そしてまことの神は、そのような人間をさばき、バチをあてるような存在ではない。
どこまでも愛し、傷を包み、帰ってくるのを待ち続ける、それがまことの神である、と。
放蕩息子がさんざん道を踏み外し、豚の食べる豆で腹を満たしたいとさえ思うほどに落ちるところまで落ちたとき、彼は初めて我に返りました。
そのとき彼は、父の家に帰ろうと思いました。
それは、神の愛があるところには、どれだけあたたかさがあるのかということを、この息子が体験していたからでした。
これが神の愛なのです。
神は正しい者たちだけの神ではなく、すべての罪人にとっても父なる神です。
どんなにその子供たちが愚かで、罪を犯した者であったとしても、いつまでも待ち続けてくださるお方です。
よく考えもせずに、遺産の分け前を受取り、家を出て行った息子の行いをとがめません。
むしろ遠くから走り寄って、かき抱き、口づけをします。
息子はあらかじめ用意していた謝罪の言葉を口にします。
でも父は、この息子が謝ったから抱きしめたのではありません。
この息子が帰ってきたから抱きしめたのです。
これが聖書の説く、神の愛です。
聖書は、すべての人間は生まれながらにして罪人である、と教えます。
たとえ行動としての罪を犯すことはなくても、心の中で神を拒み、無視し、踏みつけており、すべての人間は例外なく神の怒りを受けている、と。
そんな私たちが罪赦されて神の子どもとされるためには、罪を悔い改めることが不可欠です。
しかし誤解を恐れず、あえてこう言いましょう。
私たちが悔い改める前に、すでに神の愛は私たちに向けられています。
その愛のしるしが、イエス・キリストが私たちの受けるべき罪のさばきを十字架で身代わりとして引き受けてくださったことです。
しかしたとえキリストが何百回身代わりになって死んでくださったとしても、悔い改めがなければ救いを受け取ることはできません。
このたとえ話が教えていることは、悔い改めなければ、神はあなたを愛さないということではありません。
悔い改めがなかったら、あなたは神の愛を100%楽しむことができないのだ、ということです。
だから悔い改めというのは、つらいこと、苦しいこと、ではなくて、神の愛を心の底から受取り、自分がどれほどまでに神に愛されているのかをかみしめることができる至福の時、とさえ言うことができます。
人によって、父親という存在は、ただ厳しい人というイメージしかない場合もあります。
しかし神が私たちのまことの父である、という言葉の意味は、どんなことがあっても、まことの父である神は、私たちを見捨てることはないのだ、という約束です。
私たちひとり一人を無条件に愛してくださる方、それが父なる神であり、イエス・キリストです。
最後に、今日の招きの言葉をもう一度繰り返して、終わりたいと思います。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」。
2025.7.6「一人が欠けたら世界はむなしい」(ルカ15:1-10)
みなさん、おはようございます。
今日の礼拝メッセージは、イエスさまのたとえ話の中でも、最もよく知られたものの一つである、九十九匹の羊のたとえから、神さまが私たちをどれほど愛しておられるのかということを一緒に味わっていきたいと思います。
まず、今日のメッセージの前提として、人間は、ねたみや怒りに支配されてしまうとき、本来持っている、優しい心も失ってしまうということをおぼえていきたいと思います。4節をご覧ください。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら」とイエスさまは語りかけておられます。
これはだれに対するメッセージでしょうか。
3節を見ると、「彼らにこのようなたとえを話された」とあり、さらにその前の2節を見れば、その彼らとは、パリサイ人、律法学者であることがわかります。
弟子たちでもない、取税人や罪人たちでもない、イエスさまはパリサイ人、律法学者に対して、あなたがたが一匹の迷子の羊をなくしたら、あなたがたはいなくなった一匹を見つけるまで探し歩くでしょう。
そしてもし見つかったら、友だちや近所の人と一緒に喜ぶでしょう、と話しかけておられるのです。
パリサイ人、律法学者は、本来、意地悪で邪悪な人々ではありませんでした。
彼らはイスラエルの宗教指導者たちです。
聖書をよく学び、そして聖書を行おうとしていました。
しかし聖書の中では、彼らは終始一貫して、悪役として描かれています。
それはイエスさまに対するねたみ、敵意のためです。
彼らだって、迷子の羊を見つけたら、プライドなんか忘れて、大喜びするのに、イエスさまに対するねたみと敵意で、自分を見失っていました。
それをイエスさまは取り戻そうと語っておられるのです。
ドラクマ銀貨を一枚なくしてしまった女の人のたとえにも簡単に触れておきましょう。
当時は、結婚指輪を贈るという習慣がありませんでした。
代わりに、銀貨10枚を数珠つなぎにした髪飾りを、男性は女性に送ったそうです。
今でも中近東では、コインがいくつもつり下がっているヘッドバンドを女の人がしているのを見ることがあります。
現代では未婚の女性でもそれをしていますが、二千年前は既婚者の証しであったわけですね。
この銀貨10枚が結婚指輪の代わりだとすれば、その一枚をなくしたときの一生懸命さが分かるような気がします。
夫から夫婦の絆として贈られた宝物であるとすれば、一枚なくしてもまあいいや、あと9枚ある、とはならなかったでしょう。
じつは当時は、光をともすための油は、かなり貴重なものでした。
なくした銀貨一枚を見つけるために夜通し明かりをともすというのは、現代で言えば、家でエアコンを付けると電気代がかかるからと言って、車の中でエアコンをつけるようなものです。
よっぽど金がかかるわけです。
しかし女の人にとってこの銀貨一枚は、油代がどれだけかかっても、家の中を隅々までかき回してでも見つけなければならないものでした。
それが見つかったならば、時間お構いなく、近所の婦人たちや友達をかき集めずにはいられなかったでしょう。
そして今ではお茶、風呂、寝るしか言わなくなったご主人も、昔は優しくてまめな人だったのよ、とかいうのろけ話に花を咲かせたのかもしれません。
イエス様がこの二つのたとえ話を通して語られた、「罪人が失われること」。
それは、たった一つが、たった一人が欠けたとしても、それはすべてが欠けることに等しいのだ、ということを意味しています。
一匹の羊がいなくなってしまった人、そして一枚の銀貨をなくしてしまった女の人、このどちらも、大事なものを見失っているパリサイ人や律法学者たちに向けて語られたたとえです。
彼らパリサイ人、律法学者が聖書を学び、古くからの言い伝えを大事にしたのは、本来はそれによって人々の生活を幸せにするためであったはずです。
自分の生活を優先して神さまをないがしろにしている人には、聖書に戻るように教え、自分自身もその模範になろうとしたのがもともとの彼らでした。
しかし正しさを追い求め、社会をよくするために人々を教えようとしていた彼らは、いつのまにか、自分たちの求める基準に達しない人々を批判し、さばいたり、のけ者にしていくことで、自分たちの正しさを誇るようになってしまいました。
その基準に達しない人とは、取税人、罪人、遊女といった人々です。
そしてパリサイ人たちは、自分たちがそのように見下すようになった人々を受け入れて、一緒に食事をしているイエスに対して、激しくねたみ、攻撃し、神さまを悲しませていました。
しかし神さまは、どの時代においてもこう言われているのです。
どんな人であっても、決して必要とされていない者などいないのだ。
どんな人もこの世界から欠けてはならないのだ。
たとえ彼らが自分の求める基準に届かない人々であったとしても、この世界から消してはならない。
それは、家庭でも、学校でも、教会でも、あらゆるところで宣言されなければならないことです。
あなたは、いなくなってはいけない人なのだ、とお互いに認め合うことができたら、何と幸せなことでしょうか。
パリサイ人や律法学者にとって、イエスの話を聞きに集まった人々は、自分たちの生活に入り込んでほしくない者たちでした。
彼らにとっては、一緒に食事をするだけでけがれてしまうほど、この罪人や取税人たちは、彼らの世界には必要のない者たちでした。
しかし神様の目には違っていました。
彼らは、そのたった一人が欠けてもならない、大切な人々であり、必要な人々であるのです。
私たちは罪人です。
ひとりの例外なく、みなが罪人です。
クリスチャンでさえ、救われた罪人です。
しかしどんな一人が欠けても、この世界は神の満足した世界の姿から離れてしまいます。
御使いたちの喜びの叫びとはまったく無関係で、何も聞こえない世界になってしまいます。
私たちは、まず自分自身がこの銀貨であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
次に隣の人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
そして私の知らないところで苦しんでいる、名前も知らない人もまた、同じように銀貨一枚であり、迷子の羊なのだと認めましょう。
イエス・キリストは、そのすべての人のために死んでくださったのです。
この方が私のために死んでくださり、この方が十字架で差し出されたいのちによってあなたは永遠に生きることができるのです。
そしてこの方にしがみついて歩み続けるならば、その人はもう決して神の前から失われることはないのです。
どうか私たちに、主イエスと同じようにあわれみの心が与えられるように。
失われた一匹を探し続ける羊飼い、失われた一枚を探し続ける女性のように、イエス・キリストの愛の模範に従うことができますように。
2025.6.29「散らされてこそ広がる福音」(使徒8:1-4)
みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、初代教会の歩みを記した、使徒の働きの中から第8章、教会学校で語られたのと同じところから、短い箇所ですが、1節から4節をともに分かち合っていきたいと思います。
初代教会は、毎日多くの救われる人々が与えられ、イスラエルの宗教指導者たちにとって決して無視できない存在となっていきました。
そこで彼らはペテロやヨハネを捕まえて、これ以上福音を語るなと脅したのですが、もちろん使徒たちはそのような脅迫に屈しません。
このイエス・キリストの福音、いのちのことばを語らなければ、だれも救われないのだ、だから私たちは決して語ることをやめない、と宣言し、どんなに迫害を受けても語り続けました。
しかしあるとき、ステパノというクリスチャンが、とうとう怒り狂った群衆たちに石を投げつけられて殺されました。
最初の殉教者です。
それまではクリスチャンは捕らえられることはあっても殺されることはなかったのですが、このことをきっかけとして、エルサレムのクリスチャンと教会に対して、かつてない規模の迫害が始まりました。
教会を敵対視する、典型的なユダヤ人のひとり、サウロという青年は、クリスチャンが集まっているという家々を次々に襲い、信徒を引きずり出して、投獄しました。
このサウロこそ、後に復活のイエス・キリストに出会って人生を変えられるパウロその人なのですが、それはまたいずれのお話しになります。
サウロ、後のパウロは、自分のことを「ガマリエルの弟子」と語っています。
サウロの師にあたるガマリエルは、当時イスラエルにおいて、穏健な派閥の指導者とみなされていた人でした。
イスラエルの宗教指導者たちが教会を迫害しているなかで、ガマリエルは彼らを説得し、迫害をやめさせようとした人です。
しかしその弟子であるサウロは、なぜここまでクリスチャンを迫害したのでしょうか。
それは、どんなに脅迫しても屈せず、どんなに迫害しても信仰を捨てない、彼らの底の見えない生命力に対して、サウロはおびえ、ひたすら攻撃したのです。
それを表すのが3節の言葉です。
「サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた」とあります。
ここで「教会を荒らし」と訳されている「荒らす」というギリシャ語は特別な言葉です。
半狂乱の獣が敵に襲いかかり、そのからだを引きちぎっていくことを表します。
狩りを楽しむために引きちぎるのではなく、自分が殺されないために敵を狂ったように引きちぎっていくのが、この「荒らす」という言葉の意味です。
サウロはまさにおびえる獣のようでした。
なぜおびえたのか。
それは、クリスチャンが同じユダヤ人でありながら、サウロには理解できない人々であったからです。
ユダヤ人であれば、幼い頃から神は目に見えないお方であり、人を拝むのは偶像礼拝だと教えられてきたはず。
しかしなぜ彼らはイエスなどという人間を神と主張し続けるのか。
なぜ十字架刑にかけられた人間を救い主などと信じるのか。
そしてこんな常軌を逸した教えに対して、なぜこれほどの人間が次から次へと取り込まれていくのか。
それはすべてサウロの理解を超えた、クリスチャンの姿でした。
人は自分の理解できるものに対しては愛あるいは憎しみを抱きます。
しかし理解できないものに対して抱く感情は、恐怖です。
サウロが教会とクリスチャンに対して抱いていた感情は、まさに相手を理解できない、相手を理解しようとしないという恐怖でした。
もはや理性や自制の及ばない、破壊的な迫害がエルサレムに起こり、クリスチャンたちは次々と投獄され、殺されていきました。
使徒たちは命をかけてエルサレムにとどまり、そのほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れて、ユダヤ、サマリヤの全地方へと散らされていきました。
しかし恐怖に駆られた獣が教会をばらばらにしても、教会は決して消滅しませんでした。
むしろ、散らされた場所で、ひとり一人のクリスチャンが福音を語り、ますます教会は成長していったのです。
昭和生まれの方は、かつてウーパールーパーという南米の生き物をテレビのCMで見たことがあると思います。
私の子どもの頃に一時ブームになり、すぐに下火になりましたが、ウーパールーパーというのは日本人が勝手につけた名前で、本来はメキシコサンショウウオと言います。
かわいげな顔をした、ピンク色のカエルという風貌ですが、このウーパールーパー、テレビからは消えましたが、世界中の大学や企業の研究所で飼育され続けています。
なぜかというと、脳や心臓が損傷しても自然に再生するという驚くべき再生能力を持っている高等生物であり、これを人間に応用する研究が続けられているからです。
教会のマークは伝統的に魚が使われてきましたが、ウーパールーパーにしてもよいかもしれません。
教会はバラバラになっても、それぞれ散らされた場所で必ず教会は再生します。
だからこそ、私たちは間違えてはなりません。
高齢化や少子化に伴う信徒の減少、教会に対する批判や攻撃、そういったことは必ず通る道です。
恐れるべきことではありません。
むしろ恐れるべきは、私たちが、ばらばらにされることをいやがって群れるだけの存在に成り下がることです。
散らされることを恐れて、自らの力に頼りきる群れになってしまうことです。
1節にある「散らされた」という言葉は、ギリシャ語で「ディアスペイロー」と言います。
ここに含まれる「スペイロー」は種を蒔くという意味です。
じつに散らされるからこそ、種は蒔かれていくのです。
たんぽぽの種が、綿帽子のように身を寄せ合っているあいだは、何も生まれません。
しかし風で飛ばされて、散らされたときに、はじめて種は蒔かれていくのです。
クリスチャンにとって迫害とは、聖霊が起こしてくださる成長の風です。
だからこそ迫害を恐れるべきではありません。
後に救われて伝道者パウロと改名する、かの迫害者サウロは、晩年に書いた手紙の中でこう書いています。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」。
明治時代にキリスト教が解禁されて以来160年、日本の教会はごく一部を除いて、迫害を避けてきました。
今もそうです。
しかし風が吹かなければ種は飛ばない。
ばらばらに散らされなければ、いつまでも仲良しクラブのまま。
聖霊の風よ、吹けと祈る者たちが必要です。
たとえ人々から恐れられ、疎まれようとも、ただイエスの御名に自分の人生の基を置く人々が必要です。
嫌われることを避けて口をつぐむよりは、嫌われることを恐れないで語り続けたいのです。
どんなにばらばらにされても、そこから再生していく生命力が、クリスチャンには与えられています。
主に感謝して、歩んでいきましょう。
2025.6.22「みことばを基(もとい)として」(U歴代4:1-22)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回のメッセージの中盤で、クリスチャンが仏式葬儀に出席した際の「焼香」について触れています。
誤解がないように言うと、「焼香をすることはクリスチャンとして正しいかどうか」ではなく、
「正しいと思う人も、正しくないと思う人も、それは自分で考えての結果なのか」を問いかけています。
焼香することも自由ですし、しないことも自由です。
それはそれぞれが「聖書から」判断してのことになりますが、聖書には焼香については一切書いていません。
今の時代に起きていることは、聖書を原則として、自分で考えていかなければなりません。
聖書は、考えなくてもそのまま実践すればうまくいくというような、ハウツー本ではないのです。
「○○は正しい・○○は間違っている」について、初めから答えありきで決めつけていくのではなく、
聖書を自分で読み、その原則をよく吟味しながら、自分で考えて、決めていこう、というメッセージです。
残念ながらカルト化の傾向がある教会が新潟にも増えています。
そのような教会では、牧師による「説教」がそのまま「みことば」として権威化される傾向にあります。
牧師の解釈にすぎないものが、あたかも聖書そのもののように絶対化され、
信徒は粛々とそれに従い、しかもそれがクリスチャンとして当然であると疑わないようになっています。
自分で決めることを極力避けようとしている今の時代の中で、聖書はすぐに答えを与えてくれる虎の巻ではありません。
答えを間違えても、神はそこからまた再チャレンジさせてくださる。だから恐れずに自分で考え、決断し、進んでいける。
新しいことへのチャレンジが萎縮している社会の中で、聖書は積極性と創造性を与えてくれます。
それでは、興味のある方はメッセージ本編をご覧ください。ありがとうございました。
今回のメッセージの中盤で、クリスチャンが仏式葬儀に出席した際の「焼香」について触れています。
誤解がないように言うと、「焼香をすることはクリスチャンとして正しいかどうか」ではなく、
「正しいと思う人も、正しくないと思う人も、それは自分で考えての結果なのか」を問いかけています。
焼香することも自由ですし、しないことも自由です。
それはそれぞれが「聖書から」判断してのことになりますが、聖書には焼香については一切書いていません。
今の時代に起きていることは、聖書を原則として、自分で考えていかなければなりません。
聖書は、考えなくてもそのまま実践すればうまくいくというような、ハウツー本ではないのです。
「○○は正しい・○○は間違っている」について、初めから答えありきで決めつけていくのではなく、
聖書を自分で読み、その原則をよく吟味しながら、自分で考えて、決めていこう、というメッセージです。
残念ながらカルト化の傾向がある教会が新潟にも増えています。
そのような教会では、牧師による「説教」がそのまま「みことば」として権威化される傾向にあります。
牧師の解釈にすぎないものが、あたかも聖書そのもののように絶対化され、
信徒は粛々とそれに従い、しかもそれがクリスチャンとして当然であると疑わないようになっています。
自分で決めることを極力避けようとしている今の時代の中で、聖書はすぐに答えを与えてくれる虎の巻ではありません。
答えを間違えても、神はそこからまた再チャレンジさせてくださる。だから恐れずに自分で考え、決断し、進んでいける。
新しいことへのチャレンジが萎縮している社会の中で、聖書は積極性と創造性を与えてくれます。
それでは、興味のある方はメッセージ本編をご覧ください。ありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、語るほうも聞くほうも拷問のように思えるところかもしれません。
なんでわざわざこんなところから語るのかと言われると答えに詰まるのですが、私たちの会堂建設に合わせて、ソロモンの神殿建設から少しずつ語っていくと、どうしてもこの3章、4章という、無味乾燥な設計図、仕様図のようなものを通らなければならないのです。
私の説教者人生の中で、ここから語ることは、最初で最後かもしれません。
それくらい、まず礼拝説教で取り扱われることはない聖書箇所と言えます。
しかし聖書の中にこうして神殿とその付属物に対する仕様やリストが掲載されているのは、それが私たちにとっても必要であるからです。
神殿の前庭に置かれた祭壇や、祭司のからだを洗い清める浴槽、ここでは「海」と呼ばれています。
またいけにえを洗う場所も必要で、これは洗盤と言われています。
そのほか、燭台、机、ともしび皿だとか、細かいものすべてがここに書かれています。
私たちにとってはまさに眠くなるだけの備品リストに見えるかもしれませんが、ここに書かれているものの中で何一つ欠けてはいけない、逆に言えば、ここに書かれているもの以外は一切神殿に持ち込んではならない。
そのような緊張感も、ここから読み取ることができるのです。
神さまは、私たちにこの4章を通して何を伝えようとしているのでしょうか。
まず結論から先に言えば、主はどの時代においても、私たちがみことばを基準としつつ、信仰を働かせて、自ら考えていくことを願っておられます。
この1節に書かれてある、青銅の祭壇を例にとって、考えてみたいと思います。
先ほど触れたように、細かい仕様やリストが記されているのは、ここにあるものが欠けることがないように、そしてこれ以外のものを持ち込むことがないように、というものでした。
しかしそもそもこの祭壇からして、かつてモーセがこのように祭壇を作りなさいと命じられ、記録されていた祭壇から、はるかにかけ離れた大きさのものとなっています。
荒野で命じられた祭壇は、5キュビト四方、すなわち日本で言うと一間四方、約2mの正方形です。
これ以外の仕様で祭壇を作ってはならないと命じられていたわけです。
しかしソロモンが作った祭壇は、モーセが荒野で与えられた設計よりもはるかに大きなものでした。
幅と長さは20キュビト、高さは10キュビトとあります。20キュビトは約5間ですので、このときわ会堂で言いますと、廊下を含めた向こう側の部屋を合わせた幅がちょうど5間。
長さですと玄関まで含めた5間ですね。
高さのほうは二階の天井より少し低いくらい。
つまり、祭壇はこのように作らなければならないと言われていたものよりも何倍も大きなもの、命令から外れたものをソロモンは作りました。
ではそれはみことばを無視した、守らなかったということになるのでしょうか。
そうではないですね。
荒野での移動式の幕屋と、王国における建物としての神殿、その違いに応じて、祭壇の大きさや仕様もそれにふさわしいものを、信仰を働かせながら彼は考え、作ったのです。
当たり前と思うかもしれませんが、その当たり前ができなかったのが、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者です。
自分たちが作り上げてきた決まりや、律法の固定した解釈にこだわり、イエスさまを律法の破壊者として拒絶しました。
キリストはむしろ、杓子定規に聖書を解釈して逆にいのちの喜びを奪っている彼らをあわれみ、律法が真に人を生かすものとなることを願ったのですが、彼らはそれを受け入れなかったのです。
聖書は、どんな時代においても、真理です。
しかし聖書は、原則を教えていますが、その適用については、それを受ける者たちが自分で考えていかなければなりません。
みことばを神のことばとして受け止めつつ、いま自分を取り巻いている時代や環境において、どのように解釈し、適用していくかは、私たち自身にゆだねられているのです。
この私たちとは、牧師ではありません。
信徒ひとり一人です。
聖書は原則を教え、私たち牧師はその原則をどのように読み取るかを教えます。
しかしそれを実際に適用していくのは、みなさんひとり一人です。
あるクリスチャンが、仏式の葬儀に参列することになりました。
葬儀の中で、焼香というものがあります。
焼香は偶像礼拝だからやってはいけないと助言する人がいました。
しかしある人は、焼香を通して遺族の悲しみに寄り添うことができるのだから行うべきだと助言しました。
葬儀には参列せずに、葬儀の前に行って、そこで慰めを語るべきだという方もいました。
みんなクリスチャンです。
どれが正しいのでしょうか。
それは聖書には書いていません。
もし聖書に書いてあると言う人がいたら、それは聖書の解釈にすぎないものを聖書と言っているにすぎません。
聖書のどこにも焼香という言葉は出てきません。
カナンの偶像礼拝を仏式の葬儀と同一視することもできません。
そこで私たちは、自分に今まで語られ、心の中にたくわえられてきたみことばを、自分自身でどのように適用していくかということが問われるのです。
そこに、外からの答えはありません。
牧師がこう言った、先輩がこう言った、ということではなく、いま私は目の前の問題に、どのようにみことばの原則を用いて、具体的な行動をとるべきかということが、それぞれに求められるのです。
ですから答えは外にではなく、内側にしかありません。
そこに自らの足で立つことができるのが、成熟したクリスチャンです。
ソロモンがこの4章の中で作ったものは、私たち現代のクリスチャンから見たら、あれと思うものが少なくありません。
祭壇については、大きく作るのはわかりますが、祭司が自分のからだを洗うための「海」については、ここまで凝ったものを作る必要があるのか、と思います。
設計を簡単に説明すると、イスラエル12部族を象徴する12頭の牛が、お尻をくっつけた状態で頭は外側に向けて、ちょうど時計盤の数字のように並び、直径5mの円形プールを支えていました。
「いやだ、何これ・・・・」と言った人がいても不思議ではありません。
しかし、この後に書かれている柱の細工にも共通することですが、神はこれを喜んで受け入れてくださいました。
それは、設計者ソロモンと、制作者フラム、彼らの心にある思い、願いを主はご覧になって、それを喜ばれたからです。
私たちが神さまのために行うことが神さまの役に立つのかはわかりません。
あるいは私たちが神さまのために作るものが神さまの栄光を証しするものになるのかも、私たち自身にはわかりません。
しかし神さまはその結果よりも、私たちの心をご覧になり、その思いを喜ばれるお方です。
この青銅の海や、柱はやがてイスラエルが堕落してバビロンに滅ぼされたとき、すべて打ち砕かれてバビロンに持って行かれました。
そこで青銅が溶かされて、バビロンの偶像に作り変えられてしまったのかもしれません。
しかしだからといって、ソロモンの作ったものが無駄であったということではありません。
結果がどうなろうと、ソロモンとフラムが協力して、イスラエルの神に栄光をささげようとした、その思いを神は心から喜んでくださいました。
私たちもそうです。
みことばを基(もとい)として、信仰を働かせて、自分自身で考え、行動したこと、それがたとえ失敗だと言われても、それを神は喜ばれ、私たちのうかがい知れないご計画をもって、栄光を表してくださることでしょう。
2025.6.15「ナザレのイエス、その御名だけを」(使徒4:1-12)
みなさん、おはようございます。
先週の礼拝メッセージに引き続き、今週も使徒の働きの中から、大人も子どもも一緒に、同じみことばを味わっていきたいと思います。
先週のメッセージでは、聖霊を受けた弟子たちが多くの人々の前で力強くイエスの復活を証しし、その日だけで三千人の人が救われた出来事を学びました。
一日で三千人、さぞや教会は活気に溢れたことだろうと私たちは想像するかもしれません。
しかしその三千人は、ほとんどがもともと外国で暮らしていたユダヤ人であり、祭りのためにエルサレムに滞在していた人々でした。
本国では家族や親族が暮らしています。
ですからいきなり三千人教会になったというのではなく、数日間で、ごく基本的な教えを使徒たちから受けた後は、本国へ戻り、そしてそこでイエス・キリストへの信仰を守っていったのだろうと思います。
しかし想像してみてください。
家族や親族の中で、イエスさまを信じているのは自分一人だけ。
私たちの場合には、教会に行けば、こうして同じ信仰の友がいますが、二千年前の彼らはそうではありません。
帰って行った先で信仰を守っていくのは大変なことだっただろうと思います。
しかし大変ではあったでしょうが、その内側には、確かに聖霊の息吹がありました。
私たちがイエス・キリストを信じるとき、心の中には平安があります。
しかし実際の生活の中では、とくに家族関係や人間関係において、戦いや葛藤が生まれます。
逆に言えば、戦いや葛藤がないところには、成長の機会もないと言えるのではないでしょうか。
今日の聖書箇所は、ペテロとヨハネが神殿へ祈りに向かったとき、門の前に座っていた、生まれつき足のきかない人を、イエスの御名でいやした奇跡の後に続く話です。
イエスの御名が語られるとき、私たちのたましいは生き返ります。
みこころであれば、生まれつきのハンディキャップでさえこうして作り変えられることも起こるでしょう。
それは正しいこと、良いことのように思いますが、祭司長やサドカイ人といった宗教指導者にとっては、極めて不愉快な出来事でした。
イエスを十字架にかけて殺し、やれやれ一安心と思っていたら、今度はあのとき逃げ出した弟子たちが、まるでかつてのイエス・キリストと同じように人々をいやし、大胆に福音を語るようになりました。
祭司長たちはペテロとヨハネを捕らえます。
大祭司の一族や最高法院の人々も集まって話し合い、使徒たちを脅します。
しかしペテロは彼らに高らかに宣言しました。
イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名はどこにもないのです。
だから私たちは、これからも、何があっても、このイエスの御名を語り続ける、と。
世の人々は、クリスチャンが黙っていれば喜びます。
クリスチャンの語る言葉は人々に罪を意識させるからです。
それは、ひとり一人のクリスチャンの中には確かに聖霊が生きておられ、その聖霊がことばを越えて語られるのです。
たとえ語る言葉がみことばそのものでなくても、クリスチャンの人生観、価値観、あらゆるものがこの世とは反対側にあります。
だから、黙っていれば私たちは世の友でいられるでしょう。
でもそのような友は真の友ではありません。
真の友はいのちをかけて、滅び行く人に忠告します。
人畜無害なキリスト者は、世を腐敗から防ぐことはできません。
決して大きなことを語る必要はありません。
「ナザレ人イエス・キリストの御名」。
それを語り続けるのです。
ここで私たちは、「ナザレ人」という言葉について考えてみたいと思います。
旧約聖書には「ナジル人」という言葉があり、それは生まれたときから神さまの働きのために人生をささげた人のことを指します。
しかしペテロがここで言っているのはナジル人ではなくナザレ人、ナザレ出身の人間、という意味です。
当時、ナザレという町、そしてナザレ人という住民のイメージは、ユダヤ人と外国人との混血によって生まれた、ろくでもない人々、というものでした。
ヨハネの福音書に、ナタナエルという人が、アンデレというイエスの弟子からイエスのことを紹介されたとき、ナタナエルは最初こう言うんですね。
「ナザレから何の良いものが出るだろう」。
しかしペテロはあえてこの「ナザレ人」という言葉を何度も繰り返して、イエスのことを語ります。
なぜでしょうか。
それは次のことを伝えるためにです。
私たちの救いは、人々がほめたたえ、憧れるものの中にはない。
むしろ人々に蔑まれ、貶められた、そのようなものの中にこそ、本当の救いが隠されているのだ。
「この方以外には、だれによっても救いはない」。
この方こそ、ろくでなし、人でなしというイメージのナザレ人、イエス・キリストであるのです。
キリストは自らしもべとして仕えられ、ご自分の力を誇ろうとはされませんでした。
使徒がイエスを「ナザレ人」と語っているところは聖書に何度も出てきますが、「世界の王」と語ることは一度もありません。
「世界」も「王」も使徒の働きの説教にはほとんど出てこない。
ナザレ人で十分なのです。
ナザレの王ではなく、ナザレ人で十分なのです。
地上の誇りなどいりません。
神の大いなる力が私たちを覆うために、私たち自身は小さな器のままでいいのです。
その小さな器がこぼれ、世を満たすまでに神のみわざが注がれることを求めようではありませんか。
私たちの教会の会堂建設がいよいよ着工ということが目の前に現れてきて、私はどこか心が大きくなってしまっているということをしばしば内側に示され、反省することが多くなりました。
確かに教会が新しく会堂を建てるということは祝福ではありますが、それが高ぶりを生み出す機会にもなりえます。
私たちは小さな器に過ぎず、しかし小さな器であることを自覚するときに、その小さな器を神は大いなるみわざのために用いられることを忘れずにいきたいと思います。
今日の聖書箇所の終盤、11節で、ペテロは旧約聖書の詩篇から、こう語っています。
「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです」。
要の石、別名「礎の石」とも呼ばれますが、これは今日でも建築用語として使われています。
「要の石」を英語では「コーナーストーン(cornerstone」と言います。
日本では礎石と聞いて思い浮かべるのは大きなコンクリートの土台かもしれませんが、英語ではまさに「隅(コーナー)の石」です。
本当に大切なものは目立たない隅にこそあります。
私たちは、この世ではナザレ人です。
弱く、さげすみを受ける人生です。
しかしやがて天に迎え入れたとき、地上での評価、今までの人生での経験、あらゆるものは逆転します。
もし私たちが、イエス・キリスト以外に救いはない、というこの一筋の信仰告白にいつまでも拠り頼んで生きていくならば、神はこの地上において、小さな器を用いて、いくらでも大きなみわざを成し遂げてくださることでしょう。
イエス・キリストがナザレという小さく、蔑まれたところから生まれ、そして使徒たちがそれを誇りとしつつ、世界へ出ていったことを心にとめながら、私たちも今いる小さな場所から始めていきましょう。
2025.6.8「聖霊と共に生きる幸い」(使徒2:1-24、36)
今日はペンテコステの日です。
ペンテコステとは、イエスさまの弟子たちに聖霊が与えられキリスト教会が誕生した日です。
この2章より前に語られていることですが、イエス様が天に上られる際、弟子たちに対して聖霊が来られるのを待ちなさいと言われました。
そこで弟子たちは一緒に集まって祈り続けていると、その十日目、五旬節という日にあたりますが、このペンテコステの日に聖霊が炎のように弟子たちに下りました。
すると彼らは、集まってきた人々がもともと暮らしている、外国の言葉で語り出したのです。
これはクリスチャンの中ではよく知られている出来事ですが、実際には、聖霊についてよくわからない、というクリスチャンも決して少なくありません。
ある方から真顔でこんな質問をされたことがありました。
イエス様が私たちの中にいて、聖霊も私たちの中に住んでおられると言いますが、それだと神さまが二人私の中にいるということですから、もしかしたらイエス様の別名が聖霊なんでしょうか、と。
そこまでとはいかなくても、聖霊なる神について、どうもよく分からない、という人は多いのではないでしょうか。
私たちクリスチャンが信仰について疑問を持ったとき、それを解消する唯一の方法は聖書に立ち戻ることです。
まず今日のペンテコステの箇所から聖霊について言えるのは、聖霊はどんなときもみことばと共に働かれるお方であるということです。
私たちがみことばを理解できるように悟りを与えてくださるお方です。
知らずに罪を犯したとき、それは罪だと、みことばを思い起こさせて悔い改めに導いてくださるお方です。
誰かと一緒にいるとき、今この時こそ、みことばを直接語るチャンスだ、と教えてくださるのも、聖霊です。
聖霊の力というと、奇跡を思い浮かべる人が多いのですが、聖霊はただ奇跡を起こす方ではなく、人々をみことばに導くために奇跡も用いられるお方である、と言えます。
二千年前のペンテコステの日、弟子たちは聖霊の力によってさまざまな国の言葉を語りました。
当時は祭りの真っ最中で、ふだんは外国に散らされて生活しているユダヤ人たちが、そのときだけエルサレムにたくさん集まっていました。
そこで人々は弟子たちが自分のふるさとの言葉で語っているのを聞くのです。
延々とそれぞれの地名が挙げられた後、11節で人々が言っている言葉に注目してください。
「それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」。
ここでのポイントは、「神の大きなみわざを語るのを聞く」ということです。
ガリラヤ出身の弟子たちが外国語の言葉で話すこと自体が神の大きなみわざではないのです。
本来の大きなみわざ、それこそが、私たちの知っている福音です。
イエスさまが私たちのために命を捨ててくださったがゆえに、私たちは永遠のいのちを与えられた、という福音です。
そして私たちも、この福音を語ろうとするとき、必ず聖霊が内側からも外側からも助けてくださるのです。
聖霊は、私たちが聖書をよくわかるために常に働いてくださる、神ご自身です。
イエスさまは聖霊を「助け主」と呼びました。
私たちが困難にあるとき、実際に助けてくださるだけではなく、私たちがみことばを理解することができるように助けてくださるのが、聖霊です。
復活したイエスさまが天に戻られたのはイースターから40日後、つまりペンテコステの日からわずか十日前のことでした。
そのときの弟子たちは、イエスさまに対して「いまこそイスラエルを再興してくださるのですか」と質問するほど、まだ救いや神の国についてきちんと理解していませんでした。
しかしこのような弟子たちが聖霊を受けたとき、聖書に述べられている神のご計画を理解する者となったのです。
それはまさに聖霊によって人は内側から作り変えられるという、奇跡そのものでした。
ペテロを例にとって、聖霊の働きについて考えてみましょう。
14節では、「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」と語られています。
立って、声を張り上げ、とあるように、聖霊は私たちの言葉に確信を与えます。
そしてペテロはこの後、聴衆に対してイエスを語るとき、何度も、「あなたがたが十字架につけたイエス」と表現しています。
しかしイエス様を十字架につけた、という意味ではペテロ本人がその張本人です。
イエスさまを見捨てて何度もそんなやつは知らない、と言ってしまったことを、本人も決して忘れたわけではないでしょう。
しかし彼は聖霊を受け、聖書を正しく悟ったときにわかったのです。
過去に犯した罪で、自分を責め続けることより、罪は罪として悔い改めたうえで、自分に与えられた宣教の使命に生きるべきである、と。
私たちの人生観を変えて、心を作り変えていくこと、それは人にはできないこと、まさに神ご自身である聖霊にしかなしえないことです。
私たちはその恵みの中で、今日も明日も生きていきます。
今日、聖霊についての誤解により、教会を変えてしまうクリスチャンや働き人が後を絶ちません。
彼らの内の一人は、「聖霊の力をいただけば、信仰生活に喜びが満ちあふれる」と言いました。
しかしその方の言う「聖霊の力」とは病気を治し、悪霊を追い出すという話だけでした。
そしてそれができないクリスチャンは、聖霊をいただいていないというのです。
そんな考え違いをしていたら、自分が神に喜ばれていない、名ばかりクリスチャンで、もっと伝道しなければ、もっと神に喜ばれる者にならなければ、という信仰の皮をかぶった、強迫観念の生活になってしまいます。
信仰とは、平安の実を結ばせるものです。
「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」と聖書にははっきり書いています。
私たちは聖霊の力をいただいたからこそクリスチャンになりました。
もっともっと、と自分で自分の尻を叩く生き方は、キリスト教よりも新興宗教に近いものです。
聖霊は神ご自身です。
人格を持った、分かつことのできないお方です。
救われたときに聖霊をいただいたけれど十分ではないからもう少し注いでください、ということはナンセンスです。
私たちが救われたとき、ご自身をすべて私たちの中に献げ切ってくださった方、それが聖霊なる神です。
しかし私たち自身が、自分の中に聖霊が生きていることを忘れて、聖霊の声が聞こえなくなってしまうことがあります。
そんなとき、聖書を読みたくなくなったり、読んでも心に入らなかったりするものです。
だから、聖霊に呼びかけながら祈ります。
どうかあなたが私の心を砕き、私の心を作り変えて、聖書を私に悟らせてください、と。
そのときに、聖霊と聖書が一つとなって私たちの生活を変えていくのです。
この一週間も、私たちはみことばと聖霊が自分の中に生きているということをかみしめながら、歩んでいきましょう。
2025.6.1「三年待ったソロモンの神殿建設」(U歴代3:1-17)
みなさん、おはようございます。
来週、いよいよ私たちは、
新しい会堂建設の着工に向けての臨時教会総会を行います。
一年前にも臨時教会総会を開催し、
そのときにほぼ今の計画と同じ建設プランを承認したのですが、
そのときにはまだ建設資金が十分ではありませんでした。
そこから半年間の献金と教会債の募集、
さらに残りの半年で建設プランを練り上げ、そこに一年をかけてきました。
振り返ってみますと、今から三年前、ここをときわ会堂と名付けて、
最初の一年間はかやま会堂とときわ会堂で同時に礼拝を始めました。
同時にといっても牧師はひとりしかおりませんので、
牧師の生説教と説教の録画映像を
二つの会堂でかわりばんこに行うというところから始めました。
電気と水道はあるけれどもお湯も出ない、ガスも通っていない、という場所で
冬を過ごせるかと心配したわけですが、何とか乗り切りました。
この経験が生かされて、次の年に、
かやま会堂のそばの医院と薬局の駐車場が借りられない、となったときに、
ではときわ会堂で礼拝を行いましょう、ということになって、
それから約二年間、ここで礼拝を守ってきました。
いや、私たちが守ってきたのではありませんね。
私たちが礼拝を続けることができるように、
神さまが守ってくださったのです。
来週の臨時教会総会に向けて、
私たちは改めて心を備えていきたいと思います。
今日の聖書箇所は、ソロモンがいよいよ神殿建設にとりかかる場面です。
そこは、アブラハムがイサクをささげたモリヤの山、さらには父ダビデが
神さまに悔い改めのいけにえをささげた場所でもありました。
まことに、これほど神殿を建てる場所としてふさわしいところがあるか、
というところでした。
しかしまず私たちは、2節の言葉に注目したいと思います。
「ソロモンが建築を始めたのは、
その治世の第四年、第二の月の二日であった」。
ソロモンにとって、神殿建設は父ダビデから引き継いだ最優先課題でした。
しかし彼はその治世の第四年、つまり王になってから三年間、
建設に取りかかるのをとどめていたのです。
なぜ三年待ったのでしょうか。
資材と資金は、すべて父ダビデが用意してくれていました。
工事の担い手として、七万人の在留外国人の動員も完了していました。
すぐにでも神殿建設に入ることができる中で、しかし彼は三年待ちました。
待ったというよりは、どうしても三年は必要だったのです。
その三年とは、この神殿建設がイスラエル人にとって、
信仰の発露であるということを共有するためでした。
つまり、これはひとり一人が信仰を働かせて神のために働くわざなのだ、
ということを民すべてに伝え、広がるまでに、三年が必要だったのです。
金銭や人材は十分そろっていても、
もし霊的一致がなおざりとなっていれば、主はその働きをとどめられます。
神のために大いなることをしたいと願う者は、
協力者と共に祈り備える時を十分に持たなければならない。
それをソロモンは私たちに教えているのではないか、と思います。
この三年間、いろいろな人から「まだ建たないの」と聞かれました。
時間をかけすぎてもよくないとは思っていました。
しかしまさに機が熟するまでは、物理的な時間もかかるのです。
教会によっては、「設計士にお任せ」という感じで、
あっという間に建ててしまうところもあります。
それが悪いとは言いませんが、「私は本当は反対だった」と、
建ってから何年も経ってから言われることもあるようです。
ソロモンにとって、この神殿は、ソロモンの個人事業ではなく、
イスラエル人による、信仰のわざでなければなりませんでした。
しかし実際の工事の担い手は、百万人のイスラエル人ではなく、
七万人の在留異国人です。
イスラエル人自らが実際に木を切ったり石を運ぶわけではありません。
そのような工事に信仰的な意味を見出すことの難しさを、
ソロモンはよく知っていたことでしょう。
言葉を尽くし、信仰を分かち合い、祈りを合わせる、
それゆえの三年間であったのではないでしょうか。
私たちの今までの三年間は、まだかまだかと気が焦ることもあった反面、
きっと後から振り返ってみたら、話し合いに三年を割くことができたことは、
私たちにとって必要な時間だったと思える時が来るはずです。
その三年の間に、私たちは自分の考えや願いを整理し、
この会堂建設に注いでいくことができました。
そしてソロモンもまた同じだったことが、今日のみことばからわかります。
神殿の設計図の一つ一つを細かく取り上げることはできませんが、
よく注意してみると、ここにはソロモンの賜物、信仰が注ぎ込まれています。
たとえば4節を見ると、玄関の幅は神殿の幅と同じ20キュビト、
だいたい10mくらいですが、玄関の高さが120キュビトになっています。
なんと高さ60m、ビルで言うと地上15階くらいです。
神殿そのものはせいぜい三階建ての高さなのに、
玄関だけ、異常に高くソロモンは作りました。
なぜそうしたのかは謎です。
謎と言えば、なんでここまで金ピカの神殿を作りたかったのかも謎です。
基本、木造なのですが、壁も天井も金で覆い、ケルビムの像も金ピカ。
豊臣秀吉が金ピカの茶室を作って千利休と対立したのは有名な話ですが、
ソロモンはそれ以上に金ピカづくしの神殿を作り上げました。
しかし神さまは、こういったソロモンのデザインをすべて受け止められました。
私たちからするとなんか悪趣味みたいに見えるものも、
それを神さまは信仰として受け止められました。
なぜならば、まさにソロモンが自分の知恵の賜物を総動員して、
どうやって神さまの栄光を表す神殿にしようかと考えて、
これが生まれているからです。
三年という私たちの準備期間も、その中で私たちは信仰を働かせて、
この建設プランを設計士の方と一緒に練り上げてきました。
これからもそうです。
信仰を働かせて、私たちはここを拠点として、
どのように宣教を進めていくかを考えていきます。
それは三年どころではなく、十年、二十年かけてもまだ完成しないほど、
宣教の働きは実を結ぶまで時間がかかります。
しかしだからこそ、やりがいもあります。
先週の礼拝説教でのみことばを借りるならば、
それぞれが与えられている一タラント、二タラント、五タラントを用いて、
私たちは最上のささげものを神さまにささげていくことができるのです。
どうかこれからの一週間、総会資料につぶさに目を通していただき、
総会に臨んでいただきたいと願います。
そして信仰をもって、新しい主の宮を建てる働きへと進んでいきましょう。
2025.5.25「与えられた賜物を生かして」(マタイ25:14-30)
みなさん、おはようございます。
まず14節をご覧ください。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
天の御国は、いわゆる天国のことではありません。
天国は、私たちが死んでそこに行くまで、実際に体験することはできません。
しかし天の御国は、すでに私たちが経験しているものです。
イエス・キリストを信じた者たちの中に生まれる、神への信仰。
しかしイエス様は、それを信仰ではなく、「御国」という言葉を使います。
その理由は、私たちがイエス様を信じたときに生まれる信仰は、まさに天の御国というほどに、果てしない、大きな喜び、期待、楽しさを味わわせてくれるものだからです。
ですから天の御国とは、本来、楽しくて楽しくてたまらないものです。
ちっぽけな私の中に、イエス様を信じたことで、果てしない神の国が生まれている、ということ。
これを聞いて、ワクワクしないということがあるでしょうか。
それを踏まえて、14節に戻りましょう。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
イエス様を信じた私たちの中には、無限の広さと深さを持つ、神の国が生まれました。
そこに神様は、ご自分の財産を預け、旅に出て行ったとあります。
預けた財産は、5タラント、2タラント、1タラント。
1タラントは現在の金額に直せば六千万円、5タラントならば三億円です。
しかし神様は、三億円を運用して六億円に増やしたしもべにこう言うのです。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。
三億円をわずかな物と言ってしまうのが、ここに出てくる主人、つまり神様です。
それに対してみなさん、いえ私たちは、三億円などわずかな物だと言えるでしょうか。
きっと言えないと思います。
しかし私たちひとり一人の中に、イエス様を信じたときに無限の神の国が生み出され、そこに神様はひとり一人に違った賜物を与えてくださり、それは三億円という金額さえも小さい小さいというようなものだと聖書は言っているのです。
私たちの中には無限の領域があります。
ひとり一人に無限の価値があると言い換えても良い。
キリストを信じた今、私たちは神様の目にそれほどまでに大きく、尊く、神様にふさわしいしもべとされていること、それを聖書は私たちに語っているのです。
次に15節をご覧ください。
「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた」。
「彼」というのは神様、タラントというのは、神様のお手伝いをするために私たちが与えられた賜物を指しています。
神は、平等に1タラントずつ与えてはおられません。
それぞれの能力に応じて、ある者は5タラント、ある者は2タラント、ある者は1タラントと変化をつけて与えられます。
不公平だ、と人は言うかもしれません。
しかし神がそれぞれを適材適所、神様がここぞと思う場所に私たちを遣わし、これぞと思う賜物を私たちに与えてくださったのです。
与えられた場所、与えられた賜物を十分に生かしていくことを神様は期待しておられます。
先ほど、5タラントを現在のお金に直すと、三億円と言いました。
2タラントであれば、一億二千万円になります。
しかし今日の聖書をよく読むと、5タラントのしもべも、2タラントのしもべも、神様は同じことばでほめています。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。
もう一度言いますが、5タラント預けられて5タラント稼いだ人も、2タラントの人も、まったく同じことばで評価されています。
これは、神様が、いくら預けていくら稼いだか、その数字の違いを見てはいないということです。
預けられたもの、つまり私たちそれぞれに与えられた能力を、とにかく神様のために生かして用いようとすること。
数字ではなく、預けられたものを神様のために用いようという、心の中の思いを見ておられるのです。
私は、自分で言うのも何ですが、書記や会計のような事務は比較的得意です。
説教は、内容はともかく、声だけは張りがあってよいとほめられます。
しかし個人伝道ははっきり言って苦手です。
しかし苦手だからこそ、努力します。
考えてみれば、熱いのが苦手な消防士だっているし、接客が苦手なラーメン屋の親父だっています。
苦手ということも含めて、私たちはそれぞれの場所で与えられた仕事に生きています。
どんな賜物が与えられているとしても、これを神様のために用いていきます、と決意していくならば、神様は喜んでそれを生かしてくださいます。
そして主人の喜びをともに喜んでくれ、と言われるのです。
与えられた賜物は違っていても、それを神様のためにいかに生かしていくかこそ大切なことです。
だからこそ、最後に出てくる、1タラント預けられたしもべの姿を警告としなければなりません。
1タラントは六千万円、私たちの会堂建設の総予算よりも多い金額です。
決してわずかではありません。
しかしこのしもべは、5タラント、2タラントというほかのしもべに預けられたものと比べて、この1タラントをわずかなものと考えました。
これを土の中に埋めて、主人が帰ってくるまで、そのままにしていたのです。
私たちは、他人と比較するときに、与えられているものの大きさも見えなくなってしまいます。
このしもべが、他人と比べるのではなく、神様だけを見上げていれば、その1タラントをどのように増やすかを考えたことでしょう。
どのようにして神様を喜ばせることができるだろうか、ということを考え続けたことでしょう。
彼は1タラントを失うことを恐れたのかもしれません。
しかし神のものは、神のために用いるならば、失われることはありません。
神から与えられたものが本当に失われてしまうのは、失敗を恐れて何もしなかったときです。
なぜなら、そのようなしもべは、持っていた物も神に取り上げられてしまうからです。30節にはこのようにあります。
「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。
これは恐ろしい言葉です。
しかしこれは、このしもべが役に立たないから、永遠の滅びに突き落とされる、という意味ではありません。
ですが、しもべにとって、主人のために働くことが喜びです。
その喜びを受け取る機会を取り上げられてしまうのです。
もし私たちクリスチャンが与えられた賜物を生かして神様を喜ばそうとしないならば、その信仰はうわべだけのもの、義務的なもの、喜びの感じられないものになってしまいます。
キリストがいのちを捨ててまで救ってくださったほどの者たちが、自分にゆだねられた賜物の大きさに気づかないほど、悲しいことはありません。
ですから、私たちは、自分に与えられた賜物がいかに尊く、豊かで、かつ私たちにふさわしいものであるかをおぼえながら、この賜物を神様の働きのために生かしていきましょう。
私たちの中には、イエス様への信仰によって、無限の神の国が生まれています。
決してこじんまりした人生では終わりません。
与えられた賜物を神様のために用いていきましょう。
私たちにはそれができるのですから。

