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(06/19)2022.6.19主日礼拝説教「御名を信じる信仰のゆえに」(使徒3:1-16)
(06/14)2022.6.12主日礼拝説教「聖霊がみことばを説き明かす」(使徒2:14-24、37-39)
(06/10)2022.6.5主日礼拝説教「聖霊があなたの中に生きている」(使徒2:1-13)
(06/04)2022.5.29主日礼拝説教「試練は完成」(創世記22:1-18)
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2022.4.17主日礼拝説教「空っぽの墓にいのちがある」(ルカ24:1-12)
聖書朗読は13:15〜 説教は20:00〜
2022.4.10主日礼拝説教「主が見捨てられたからこそ」(マルコ15:22-34)
説教は15:30前後から
週報のPDF版はこちらです
前 奏1私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)22彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。23彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。28【本節欠如】
29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
33さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。2017 新日本聖書刊行会
1.
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」狂ったように叫ぶ群衆の怒り声、兵士たちに突き飛ばされながら、イエスはゴルゴタの丘にまで連れてこられました。兵士たちは乱暴にイエスの衣を剥ぎ取り、別の兵士たちは地面の上で十字架を組み立てました。そしてイエスの手を、足を、それぞれ十字架の横木と縦木に押さえつけました。兵のひとりが手首を乱暴に押さえつけ、主の五本の指を無理矢理に広げます。そして他の兵士が左手に釘をつかみ、主の手のひらの真ん中に押し当てつつ、右手の金槌を何度も振り下ろす。肉の裂ける音、血の飛び散る音。イエスは釘が打ちつけられる瞬間、どのような声をあげられたのか。それとも歯を食いしばって声を殺されたのか。あまりの痛みに目を閉じられたのか。それとも苦しみの杯を飲み干すために目を見開かれたのか。
しかし、じつはこれらのことは聖書には一切書いてありません。イエスの十字架こそが福音の中心であるにもかかわらず、福音書はどれも十字架につけられる瞬間については、たった一言でしか語っていないのです。マルコの福音書では、24節にあっさりとこう書かれています。「それから、彼らはイエスを十字架につけた」。他の三人の福音書記者、マタイ、ルカ、ヨハネ、すべてこの調子です。彼らが書き残しているのは、「イエスは十字架につけられた」というたった一言のみです。どれだけ屈辱にまみれた瞬間だったのか。どれほどの苦痛であったのか。肉をえぐられ、骨を削られるその痛みについて、一切、記していないのです。十二弟子の一人、マタイのように逃げ出してしまった者であれば見ていないから書けない、ということはあるかもしれません。しかし同じ十二弟子であるヨハネは、十字架の間近でその瞬間を目撃していた者でした。それでもヨハネも、十字架を淡々としか記していません。このマルコを含めて、なぜどの福音書記者も、十字架を淡々としか記そうとしないのか。
2.
それは、福音書記者たちは、この十字架に至っては、罪人の視点で描くことに徹しているからです。あらゆる人間にとって、イエスの十字架はしょせん人ごとでしかありません。兵士たち、祭司長たち、律法学者たち、道行く者たち、共に十字架につけられた犯罪人に至るまで、イエスの十字架が自分のためなのだと考えた者はひとりもいませんでした。彼らにとってイエスの十字架は自業自得でしかありません。神を自称し、それゆえに十字架にかけられて殺されたのだ、と。預言者イザヤが700年前に預言したとおりでした。そしてさらに二千年経った今日においても、人は、イエスの十字架の出来事を聞いたとしても、それを他人事と受けとめていることは何も変わっていません。
人々は言います。二千年前のエルサレムに私は生きていない。なぜ二千年前の出来事が自分に関係があるのか。十字架などというものが今の自分の生活と何の関係があるのか。人は十字架の出来事を、カビの生えた大昔の出来事としか見ようとしません。しかし、十字架はあなたのためでした。十字架で死なれたイエスを、自分とは関係のない昔の人としか受けとめられない、あなたのためにイエスは十字架で死んでくださいました。イエスを十字架につけた後、着物をくじでわけた兵士たち。十字架の一番そばにいながら十字架が見えていない人々の中に、あなたもいました。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。むしろ自分こそ救いが必要だということを知らずにあざける人々の中に、あなたもいました。「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。目に見えるものしか信じようとしない愚かさを自ら言い表す人々の中に、あなたもいました。イエスの十字架の右と左で彼をあざけった犯罪人たち。もしキリストがあなたのために死んでくださらなければ、あなたもまた、やがて神のさばきを受けなければならなかったのです。
3.
ある哲学者が言いました。赤ん坊が泣き叫びながら生まれてくるのは、これから自分の人生に待ち受けている苦しみを知っているからだ、と。その言葉が事実かどうかはともかく、私たちはこの世界を知れば知るほど、そこには想像もできないような深い泥沼が広がっていることに気づきます。それに気づかないことそのものが罪の縄目なのです。しかし気づいた人々はそこから抜け出そうとします。しかしどんなにもがいても、人の力では泥沼から抜け出すことはできない。泥が目をふさぎ、泥水が口に入り込む。もし救い主が本当にいるのなら、この泥沼から引き上げて欲しい。しかし誰もが自分のことで精一杯で、他人を助けることなど誰にもできません。「どうして自分がこんな目に会わなければならないのか。神がいるなら、どうして私をこんな泥沼に見捨てたままなのか」。この叫びをわかってくれる人はいないのか。この苦しみをわかってくれる人はいないのか。
だからキリストはこう叫びました。叫ばずにはいられなかった。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ!」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。救い主にもっともふさわしくないように聞こえる叫びです。神よ、なぜわたしを見捨てたのか。しかし、この叫びこそ、私たちの罪の身代わりとなった方に最もふさわしい叫びでした。私たちはどれだけもがいても、罪によって縛られ続ける人生でした。なぜ私は見捨てられたのか。見捨てられ続けるのか。その叫びを、私たちの代わりに引き受けてくださった方、それがイエスです。もしイエスが十字架にかけられなければ、私たちはいつまでも見捨てられた悲しみと叫びを続けるしかなかったことでしょう。しかし主は、すべての痛みと悲しみ、そしてさばきを、私たちの身代わりとなってすべて引き受けてくださったのです。
結.
イエス様は、見捨てられそうになったのではありません。本当に見捨てられたのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは泣き言のように聞こえるかもしれません。うらみ節のように聞こえるかもしれません。しかし実際には、勝利の叫び、いや、罪と死に対する圧倒的勝利につながる叫びなのです。パウロはガラテヤ教会に書き送った手紙の中で、こう書いています。
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」
主は、私たちの代わりに見捨てられました。私たちの代わりにのろわれました。私たちがかぶるべき、いばらの冠を。私たちが打ちつけられるべき、手足の釘を。私たちが吐きかけられるべき、つばきとあざけりを。そして私たちが叫ぶべき、「神に見捨てられた」という絶望者の叫びを代わりに引き受けてくださったのです。この方を救い主として信じるならば、私たちは決して、見捨てられた、と叫ぶような人生を味わうことはないのです。
どうか忘れないでください。あなたの罪、それは過去・現在・未来にわたって永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、キリストの十字架によって完全に打ち消されたのだということを。恵みは何があっても決してあなたを離れることはありません。あなたが恵みを忘れることはあっても、神はあなたを忘れることはありません。どんなことがあっても、神の愛は決してあなたから離れることはないのです。あなたが叫ばなければならなかった嘆きは、すべてイエスが十字架で叫んでくださったのですから。どうかこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちの中に飛び込みましょう。報 告1.主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死によりてぞ我は生きぬ 我何をなして主に報いし
2.主は御父のもとを離れ わびしき世に住み給えり かくも我がために栄えを捨つ 我は主のために何を捨てし
3.主は赦しと慈しみと 救いをもて降(くだ)りませり 豊けき賜物 身にぞ余る ただ身と霊(たま)とをささげまつらん アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.4.3主日礼拝説教「選ばないという選択」(マタイ27:11-26)
説教の最後で、ピラトが最後にたどり着いたという伝説が残っているピラトゥス山(スイス)に触れています。
「選ばないという選択」をして永遠のいのちを得る機会を永遠に失ってしまったピラトの霊が、いつもどこかの水場に現れては赦しを求めながら手を洗っているという悲しい伝説が残っている山だそうですが、現在では完全にリゾート地です。
伝説の真偽はともかく、一度は行ってみたいですね。ピラトゥス・リゾート提供のプロモーション動画をお楽しみください。
「選ばないという選択」をして永遠のいのちを得る機会を永遠に失ってしまったピラトの霊が、いつもどこかの水場に現れては赦しを求めながら手を洗っているという悲しい伝説が残っている山だそうですが、現在では完全にリゾート地です。
伝説の真偽はともかく、一度は行ってみたいですね。ピラトゥス・リゾート提供のプロモーション動画をお楽しみください。
23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」12しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。17それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。19ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」20しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。21総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」23ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」24ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」26そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。2017 新日本聖書刊行会
序.
私たちが毎週告白している「使徒信条」に出てくる、いくつかの人名の中には、ウクライナに関係している人がおります。イエス様?それともおとめマリヤ?いいえ、ポンテオ・ピラトです。ポンテオとは、黒海の南側にあるポントゥス地方のことです。黒海。黒い海と書きますが、実際には青い色をした美しい海です。クリミア、オデッサ、など今回の戦争のニュースの中でたびたび出てくる地名は、すべてこの黒海沿岸にあります。当時のローマ帝国の領土の中では、まさに辺境、悪く言えば田舎、ざいごです。ローマ帝国の田舎に生まれながら、エルサレム総督にまで上り詰めたポンテオ・ピラトにとって、ここまで血がにじむような努力をして勝ち取った総督の地位は、どんな手段を使っても失ってはならない、というものだったでしょう。しかしその総督の立場を揺るがしかねない一つの事件が起こりました。それが、ユダヤ人たちが連れ込んできたイエス・キリストであったのです。
1.
ピラトは頭の切れる人物でした。そして二つのものに挟まれたとき、どちらにつけば得なのかを瞬時に判断できる、野性的なカンの持ち主でした。それによって彼はローマ総督にまで上り詰めることができたのです。しかしここでピラトは悩みます。祭司長、長老、律法学者、さらには全議会を敵に回してまでイエスを無罪とするならば、エルサレム中を巻き込んだ反乱が起こるのは目に見えていました。かといってもし罪を犯していない人をあまつさえ十字架刑にかけてしまえば、それがローマ本国に知られたとき、彼の責任が問われることにもなる。
私たち自身もこのような状況を経験するのではないでしょうか。あなたの前に、ふたつの選択肢があります。自分の良心、あるいは信仰に照らしてどちらが正しいか、それはよくわかっている。しかし正しいものがわかっていても、それは正しいと簡単に言えない世界に私たちは身を置いています。あなたを真実から遠ざけるものは何でしょうか。ある時は、人間関係のしがらみでしょう。家族の手前、上司の手前、近所の手前、正しい選択を知っていながらあえて周りに合わせる、そのようなこともあるでしょう。ひとつの問題にぶつかるとき、あなたはそこにいくつもの選択肢を見いだし、どれを選ぶか悩むかもしれません。しかし実際には、選択は二つしかない。あることを選ぶか、選ばないか。それがいくつも積み重なって、選択肢を無限に見せている、それだけです。やるか、やらないか。人生はその選択の積み重ねです。しかし私たちは選択を避けたがる。パウロがギリシャ最大の都、アテネで説教した時、復活を信じていなかったギリシャ人たちはあざ笑いながら、こう言いました。「そのことについては、いずれまた聞くことにしよう」(使徒17:32別訳)。しかし「いずれまた」の機会は永遠に過ぎ去ってしまったのです。そしてパウロがその後にローマ総督フェリクスに福音を語ったときも、総督は神に対する恐ろしさを感じながらも、こう言いました。「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶこととする」(使徒24:25)。しかしやはり「また」の呼び出しは、永遠に来なかったのです。
2.
ピラトが、イエス・キリストを無実だと感じたことは間違いがありません。「あなたはユダヤ人の王なのか」「あなたがそう言っています」。その短い会話のあと、どれだけ自分に不利な証言をされても何も答えようとしないイエス。ピラトの心に起こった感情や、言葉を拾い出してみましょう。14節、「それには総督も非常に驚いた」。18節、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」。23節、「ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか」」。ピラトは気づいていました。最初の驚きは、最後には確信に変わっていたのです。このイエスという男に罪はない、と。しかし彼の心ははっきりとそう気づいていたのに、彼は結局その道をまっすぐ進もうとしなかった。26節、「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
じつのところピラトは、選択を避けたつもりだった。彼は群衆の目の前で手を洗い、「この人の血について私には責任がない」と宣言した、とあります。ユダヤ人の側にも、イエスの側にも、どちらにも私はくみしない、彼はどちらも選ばない。そう言って、彼は選ばない、という選択を選びました。どうかみなさんは忘れないでください。たとえ選ばないという道を選んだつもりであっても、それは事実、選ばないと宣言する道を選んでしまっている、ということなのです。ピラトも、アテネの人々も、総督フェリクスも、そして現代の多くの人々も、福音を聞くとき、その話はまた今度、とはぐらかします。しかし選択を先に延ばすことは、じつはすでに選択してしまっていることに他なりません。そしてどんな選択にも、必ず結果が待ち受けているのです。
結.
彼は永遠のいのちを求めることよりも、手を洗う水の器を求めた。キリストのみ声を待ち望むかわりに、キリストの声が届かないところにまで主を追いやった。神を喜ばせるよりも、群衆のきげんをとろうとした。私は、みなさんに懇願します。ポンテオ・ピラト、そして彼と同じようにこの二千年間、永遠のいのちに至る選択を保留したまま世を去った数え切れない人々のようにならないでください。なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。それは、後の時代の人々への警告です。ピラトのようになってはならぬ、と。福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。今日、確かに福音と出会ったならば、今日、信じるということ。選択を保留することは、すでに選択をしてしまっていることなのです。今日のところは、私には福音はいりません、と。いったい二千年のあいだに、どれだけの人々がそう考え、永遠に救いの機会を失ってしまったことか。地獄に落ちたたましいが、その失敗を取り戻せるものならと、業火の中で歯ぎしりしている声が聞こえるでしょうか。
聖書の中には、ピラトがその後どうなったかは記録されておりません。しかしローマの歴史書によれば、彼はこのときから数年後に、ローマ総督の地位から罷免されたことがわかっています。そしてスイスには、ピラトの名前がつけられている山があり、ピラトの幽霊が毎日、どこかの水面に姿を現しては、いまだに両手を水につけて赦しを求めているという伝説さえ残っています。それは伝説にすぎませんが、私たちが選択すべき時と選択すべき道を間違えることがないようにという警告です。イエス・キリストを信じましょう。永遠のいのちを選びましょう。その祝福は、信じた今日から始まるのです。報 告1.血潮したたる主の御頭(みかしら) とげに刺されし主のみかしら 悩みと恥にやつれし主を 我はかしこみ君(きみ)と仰ぐ
2.主の苦しみは我がためなり 我は死ぬべき罪人(つみびと)なり かかる我が身に代わりましし 主の御心はいとかしこし
3.懐かしき主よ 計りしれぬ 十字架の愛にいかに応えん この身と魂(たま)をとこしえまで 我が主のものとなさせ給え
4.主よ主のもとに帰る日まで 十字架の影に立たせ給え 御顔を仰ぎ御手によらば いまわの息も安けくあらん アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.27主日礼拝説教「あなたはキリストですか」(マルコ14:53-65)
前 奏8イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。9この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。10ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。11次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。12耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。13私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」2017 新日本聖書刊行会
1.小羊をば ほめたたうる 妙なるものの音 天(あめ)に聞こゆ いざみ民よ 恵みの主に 栄えの冠(かむり)を ささげまつれ
2.み使いらも うち伏すまで わが主の御傷は照り輝く いざみ民よ 救いの主に 栄えの冠を ささげまつれ
3.戦いやみ 矢叫び絶え 祈りと歌との声は響く いざみ民よ 平和の主に 栄えの冠を ささげまつれ
4.空の極み 地の果てまで みいつの光は照り渡りぬ 父と共に しらす君に 栄えの冠を ささげまつれ アーメン役員就任式(第二礼拝)・教会学校教師就任式(第三礼拝)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)53人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。54ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。55さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。56多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。57すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。58「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」59しかし、この点でも、証言は一致しなかった。60そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」61しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」62そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」63すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。64あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。65そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。2017 新日本聖書刊行会
1.
四旬節第四週に入りました。十字架の苦しみをおぼえる四旬節は全体で6週間続き、今日はその4週目にあたります。今週の礼拝説教は、イエスが十字架にかかる前に待ち受けていた、ユダヤの最高法院による不正な裁判と、その中で神の子として信仰を貫かれるイエスの御姿を見ていきましょう。
裏切った弟子、イスカリオテのユダの手引きによって群衆に捕らえられたイエスは、大祭司のもとへと連れてこられました。夜明けまで数時間、まさに真夜中でありましたが、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集められてきた、と聖書は記録しています。しかしその「みな」の中には正しい裁判を行おうという者は一人もいませんでした。あるいは、わずかにいたとしても、その言葉はまったく記録されていません。それも仕方のないことかもしれません。何しろ、弟子のペテロでさえ、イエスを捕らえた下役たちと一緒になって火にあたっていたほどです。ペテロとしては、チャンスを伺ってイエスを取り戻すためと考えていたかもしれませんが、あまりにも緊張感が欠けています。
すべての常識、すべての正義が狂っていました。無実の人をさばくことに対する恐れも、ためらいも、そして真実も、何一つこの裁判からは香りません。代わりにあったものは偽りであり、殺意であり、狂気でした。偽りの証言が次から次へと現れ、議員たちはイエスのあら探しに夢中になっています。暗やみにともされた庭のかがり火が、彼らのよこしまな笑顔を照らし出す。彼らは無実な人を有罪にすることに対し、何の恥も感じない。ためらいも感じない。良心の痛みも感じない。
2.
私たちは、こんな人々と自分は違うと思いたい。しかし私たちは、聖書の前でしばし立ち止まるべきです。彼らの姿は、もしかしたら自分自身とよく似た姿を表してはいないでしょうか。どこが。どうして私が。それは、みことばを聞いているし、知っている。しかしそれを正しく用いることができない者たちの姿です。58節をご覧ください。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」もったいない、と思います。イエス様が実際にこれを語ったとき、「人の手で造られた」とか、「人の手で造られたのではない」とは、一切、語っていません。それは弟子たちでさえも、イエスが復活されたあとで悟ったことでした。つまり、この偽りの証言者たちは、弟子たちでさえまだ悟っていなかった、「人の手で造られたのではない別の神殿」こそ、イエスが建てようとしておられたものだということに気づいていたのです。彼らはここまで真理に近づいていながら、イエス様の言葉を使ってこの方をおとしめることしか考えていない。あえて私たち自身の姿と照らし合わせてみましょう。あなたは聖書のことばを知っているかもしれません。知っているだけではなく、理解もしているかもしれません。しかしその聖書のことばに従っていますか。むしろ聖書を、自分自身の行動を正当化させるために利用していませんか。私たちが罪から離れる決意を持ってみことばを聞くならば、みことばは私たちを変えてくれる神の力となります。しかし今の生活を変えたくないという肉の思いを捨てることなく、みことばを聞くならばどうでしょうか。現状維持を神が認めてくださっているかのようにみことばが聞こえてくるのです。聞くだけでオーケー、行動を変えることまでも求めない、そんなメッセージを聞いて、恵まれました。私は皆さんにそんなえせクリスチャンになってほしくない。
3.
みことばを使って、逆にみことばから離れさせる。それはサタンの常套手段です。エデンの園で、エバに話しかけた言葉、荒野でイエス様に語りかけた言葉、現代の異端が人々を誘う言葉、どれもサタンはみことばを使って惑わします。より正確に言うと、悪魔に都合良いところを切り貼りした、みことばの適用によって惑わします。しかしそれは、聖書を知らない、あるいは知っていてもよく学んでいないと、違いが見抜けません。ひとり一人の信者が、みことばをしっかりと自分のものにしなければなりません。ヨーロッパにある、石造りの伝統的な教会の写真を見ると、なぜか教会の門扉とか屋根の上といった目立つ場所に翼を生やした悪鬼の像が飾られているのを不思議に思ったことはありませんか。それは、闇の眷属は隙あらば教会に入り込もうとしており、それに対してみことば、祈り、賛美、交わり、礼拝、あらゆる霊的武装をもたなければならないという信仰告白を建築物を通して表しているのです。
罪とは、常にみことばに対する反抗、反逆です。私たち人間は、人生という荒海に乗り出していくひとつの小船のような存在です。その中で「みことばに生きる」とはどういうことか。それは、私の小船を私が動かしていく舵として、神の言葉を用いていくことではない。この荒海よりもはるかに大きな造り主が、必ず私を陸地へと導いてくださると信じ、舵から手を離し、進路を神の視線に合わせていくこと、それが「みことばに生きる」という生活です。聖霊なる神は、聖書を通して私たちの罪を教えます。聖書が私たちの心の中の罪をえぐり出すとき、たとえそれが不快な経験であったとしても、私たちをそれを受け止めなければなりません。そこを通らなければ、私たちの信仰生活は自己満足にすぎず、みことばに導かれたものとは言えないのです。
結.
どんなに偽りの証言を積み重ねてもイエスに罪を見いだせなった大祭司は、業を煮やしてイエスに直接尋ねました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」。これは質問ではなく、罠です。自分がキリストであるとさえ言えば、この男を十字架にかけることができる。神に最も近づくことができるはずの大祭司でさえ、悪意と偽りの虜になっていました。しかしイエス・キリストは重く閉ざしていた唇を開きました。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」。ここで沈黙を貫けば、罪に定められなかったのに、どうして口を開いてしまったのか、と考えたこともありました。しかし、ここで口を開いたからこそ、イエスはまごうことなき神なのです。別のところにあるみことばにこうあります。「私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである」。全能の神にも、自分自身を否むことだけはできません。ひとりの悪しき大祭司が神ご自身に尋ねた。「あなたはキリストですか」。その問いに隠れた悪意にむせかえりそうになりながらも、主は答えられた。「わたしが、それです」と。だとしたら、もしあなたが真実な求めをもってイエスにこう尋ねるとき、彼が答えてくださらないことがあるでしょうか。「イエス様、あなたは本当に救い主ですか。本当に私を罪と滅びから救うことのできるお方なのですか。私がどんな人間であっても、あなたは救ってくださるのですか」。イエスは、数え切れないくらい殴られ、打たれ、腫れ上がった頬を緩ませて、こう答えてくださるでしょう。「わたしこそ、それです」と。「疲れた者よ、苦しんでいる者よ、永遠のいのちを求める者よ、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と。罪を赦し、十字架ですべての罪を贖ってくださったイエス・キリストを心に受け入れましょう。報 告1.イエスよ十字架に われを引きて 絶えずみもとに保ちたまえ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
2.十字架によりて われ世に死し 十字架によりて 世われに死す 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
3.君の御跡を 踏みて進まん 十字架の悩み 日々覚えつ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
4.憂き悲しみも 御名のために 忍ぶわが身は楽しきかな 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.20主日礼拝説教「目を覚まして祈り続けよ」(マルコ14:32-42)
私が小学生の頃に読んだマンガ、故・石ノ森(当時は石森)章太郎先生の代表作『サイボーグ009』3巻(ベトナム戦争編)に、作者のコラム(読者からのお便り紹介)として、不思議な詩が紹介されていました。今回のウクライナとロシアの戦いを連想させるもので、40年ぶりにもう一度読み直そうとヤフオクにて送料込みで480円で入手しました。もともとの定価は220円でした。時代を感じます。


そこに書かれていた「読者からのお便り」にはこのようにあります。
そこに書かれていた「読者からのお便り」にはこのようにあります。
これは今、サイゴンで流行している童話です。(注:昭和40年当時)私は、この童話が大変気に入りましたが、おかしなことに、いったい何をいっているのかわかりません。ベトナム戦争について語っていることくらいしか。先生には、わかりますか。この童話をベトナム戦記から見つけ出しました。・・・(中略)・・・先生に、お願いがあります。「(サイボーグ)009」たちがベトナムにいった時のようなマンガを、もう一度かいてほしいのです。ベトナム人民の苦しみを、よくあらわしたすばらしいマンガを、できればカエルとサソリの童話の意味も書き入れてください。(新潟市 H.M)ロシアという大国がもつサソリの尾は、かつて同じ祖国の一部であったウクライナの人々の命を幾千も奪っています。しかし同時に、ロシアの普通の兵士たちの中にも、一生癒えることのない傷をもたらすのでしょう。もし石ノ森章太郎先生がご存命なら、このウクライナでの悲劇をどのようにかいたでしょうか。
前 奏8身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。2017 新日本聖書刊行会
1.天地(あめつち)の御神をば ほめまつれ人の子よ われらが主の御殿(みとの)こそ 照り輝け いや栄(は)えて
2.光をば衣(ころも)とし 黒雲を車とし 雷(いかずち)してさきおわせ よろず治(し)らす かしこさよ
3.いとくすし主の律法(おきて) 雪と敷き雨と降り 谷を走り野に流れ 風とそよぎ花と咲く
4.塵(ちり)ひじに生(な)りし身は 主に頼るほかぞなき 代々(よよ)変わらぬ御恵みや わが御神よ、わが父よ アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」39イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」2017 新日本聖書刊行会
1.
「お祈りください」「祈っています」。クリスチャンの間では当たり前のように使われているやりとりです。私たちは「祈り」が現実を変えることのできる神の力であることを本気で信じています。たとえ世の人々にとっては愚かに見えても、私たちにとってはそうではありません。どんな小さな者の祈りも、神の国の石垣の中に組み込まれています。そしてイエス・キリストがゲツセマネの園で弟子たちに命じられた言葉からも、その真理を学ぶことができるのです。
十字架が刻一刻と迫る夜、イエスは、オリーブの木が生い茂るゲツセマネの園に向かわれました。そして弟子たちの中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの三名を特別に選び、彼らを連れて園の奥に入っていかれました。なぜ主はこの三人を選ばれたのでしょうか。それは、この三人をまことの弟子とするためには、彼らが自分自身の姿を知らなければならないことを教えるためであったのかもしれません。ペテロは、イエス様のためなら命を捨てると言いました。ヨハネとヤコブは、イエス様から「わたしが飲もうとしている杯をあなたがたは飲めますか」と聞かれたとき、「飲めます」と答えました。しかし彼らは自分たちの弱さを知らない。ペテロは土壇場でイエスを知らないと言って逃げ出します。ヨハネとヤコブも、十字架の杯に口をつけることもなく、やはり逃げ出します。
私たちは、自分の本当の姿を知らないままでは、神に本気になって頼ろうとはしません。口先では神を信じていると言っても、心の中では自分で何とかできると考えます。本当の自分は、自分が思っているような人間ではないと打ちのめされて、初めてそこからまことの弟子としての一歩が始まるのです。だからこそ主はこの三人を選ばれました。イエスのためなら命を捨てると言いながら、わずかな時間さえも祈り続けることができない、屈辱にまみれた姿を体験させました。
2.
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」。イエス様は自分の弱さを見せることも恥となさいませんでした。それは自分が強いと過信する者に対して、本当の強さは自らの弱さを認め、父なる神にゆだねきった者の中にあることを教えるためでした。「恐れ」「もだえ」「悲しみ」「死」・・・およそ王の王、主の主にはふさわしくない言葉が園に響きました。その叫びの主は、それまで三人が知っていたイエスとはまるで違います。あの凛とした神の御子が、弟子たちの前に弱さをさらけ出しています。恐れが顔に浮かび、その震える指先は、彼の苦悩を示します。その唇からは「悲しみ」、あまつさえ「死」という言葉さえ飛び出した。そして主は三人に懇願します。「ここを離れないでくれ」。「目をさましていてくれ」。わたしと一緒に、目をさまして祈っていてください。
十字架は、まことの神であり、まことの人であるイエスにしか背負うことのできないものです。人は、自分が罪人であることを受け入れようとしません。そして受け入れたとしても、その罪の事実を小さく扱い、罪意識を薄めます。「みながやっているんだから」「仕方がなかったんだ」という具合にです。しかしイエスは、人間がみな罪の奴隷となっている現実から決して目をそむけません。だからこそ、イエスは弟子たちの前に、人としての弱さをさらけ出します。「私は悲しみのあまり死にそうです」と。全人類の罪のために、今自分が身代わりとなる時がやってきた。この地上の誰も、その苦悩を理解できるものはいない。全人類の身代わりとして父なる神から引き離されてしまうという悲しみ。十字架の上で愛する父からのろわれた者となる悲しみ。弟子たちは、その苦しみの深さはまったくわからない。しかしキリストは、それでも弟子たちに懇願するのです。どうか目を覚ましていてくれ。私をひとりにしないでくれ。一緒に祈っていてくれ。あなたがたの祈りが、今の私には必要なのだ。
3.
イエス・キリストは弟子たちから目を上げて、高く目を天に向ける。闇空を春の月が煌々と照らし、穏やかな風が吹いている。しかしこの瞬間、キリストには聞こえていたでしょう。この穏やかそのものに見える世界の裏側で、今よみの門が重い扉を開き始めた音を。罪も死も一切関わりのないはずのお方が、いま全人類の罪を背負い、死というさばきを受けるために、十字架に向かおうとしている。その戦いは、神の子イエスでさえ、この杯を取りのけてくださいと願わずにはいられないほどの恐怖との戦いでした。イエスはすべての人間の身代わりとなられましたが、イエスの身代わりになれる人はだれもいません。たった一人の孤独な戦いです。そして誘惑者であるサタンは、イエスが最も祈りの支援を必要としておられるその時、弟子たちを見事に眠りこけさせることに成功しました。サタンは勝ち誇ってこうささやいたかもしれません。「キリストよ、あなたはひとりぼっちだ。あなたのために命を捨てると言った弟子たちもあなたを見捨て、そして十字架の上で神もあなたを見捨てるだろう」。
しかしイエスは、決して祈ることをやめることはありません。十字架への道から逃げることはありません。ひたすら父なる神に祈り、叫び、何度も弟子たちのもとにやってきて、こう語られました。誘惑に陥らないように目をさまして、祈っていなさい。私の祈りの姿を目に焼き付け、私の祈りの言葉から学びなさい。そしてイエスの祈りの言葉は、私たちがどんな状況にあっても忘れてはならない言葉です。「しかし、わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と。
結.
私たちの祈りは、小さな祈りです。しかしそんな私たちの祈りを、今も主は必要としておられる。私たちの願いが叶えられるために祈るのではなく、みこころが実現するために私たちは祈ります。弟子たちは眠りこけているばかりでしたが、しかし最後に彼らの目には祈りがもたらす姿が映し出されました。イエスが祈りの後、たてがみを震わせて大声で叫ぶ獅子のように立ち上がり、十字架に向かっていく姿を彼らは目にしたのです。42節、「立ちなさい。さあ、行くのです」。罪を繰り返し己の弱さを嘆く者は、主の祈りの姿に学びましょう。現実の戦いの中で疲れ果てた者は、主の祈りの言葉を口ずさみましょう。そしてあらゆるクリスチャンは、どんなに小さな者の祈りをも必要としておられる主をほめたたえましょう。主は勝利されました。ゲツセマネでの祈りを通して、十字架を確かに選び取ったとき、イエス様はすでに悪魔に対して圧倒的な勝利をされたのです。私たちも、祈りを通して勝ちゆく者たちです。目を覚まして、みこころが実現するために祈り続けましょう。報 告1.御国をも御座(みくら)をも 後に捨てまして 降りにしイエス君を 受くる家あらず 住み給え君よ ここにこの胸に
2.御使いは声高く 御名をほむれども 神の子はうまぶねに 生まれ給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
3.狐にも穴はあり 鳥に巣はあれど 人の子は地の上に 眠り給いけり 住み給え君よ ここにこの胸に
4.つながれし罪人を 放ちます君を カルバリに苦しめし 人のつれなさよ 住み給え君よ ここにこの胸に アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.13主日礼拝説教「礼拝を奪われた怒り」(ルカ19:41-47)
アーノルド・シュワルツェネッガー氏が反戦を呼びかけた動画が話題です。
本来の動画は9分を超える長さで、ここでは前半が省略されていますが、そこでは14歳のときにロシア人の重量挙げ選手ユーリ・ウラソフに憧れて身体を鍛えるようになり、俳優、そして政治家に至った人生について語られています。(映像の0:17部分でちらっと映る青色のコーヒーカップは、ずっと後になってウラソフからもらったものだそうです)全文の翻訳は、毎日新聞社のニュース記事シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画から読むことができますので、ご覧ください。ウクライナとロシアとの戦争が始まって以来聞いた多くのメッセージの中で、これほど簡潔でわかりやすく、さらにウクライナ人だけでなくロシア人に対しても温かさを失なわないメッセージを私は知りません。戦いが一日も早く終わり、ロシアとウクライナが心の底から和解できる日が訪れるように祈りましょう。
本来の動画は9分を超える長さで、ここでは前半が省略されていますが、そこでは14歳のときにロシア人の重量挙げ選手ユーリ・ウラソフに憧れて身体を鍛えるようになり、俳優、そして政治家に至った人生について語られています。(映像の0:17部分でちらっと映る青色のコーヒーカップは、ずっと後になってウラソフからもらったものだそうです)全文の翻訳は、毎日新聞社のニュース記事シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画から読むことができますので、ご覧ください。ウクライナとロシアとの戦争が始まって以来聞いた多くのメッセージの中で、これほど簡潔でわかりやすく、さらにウクライナ人だけでなくロシア人に対しても温かさを失なわないメッセージを私は知りません。戦いが一日も早く終わり、ロシアとウクライナが心の底から和解できる日が訪れるように祈りましょう。
前 奏3【主】に連なる異国の民は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4なぜなら、【主】がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6また、【主】に連なって主に仕え、【主】の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。2017 新日本聖書刊行会
1.たたえよ救い主イエスを くすしき愛をば宣べ 崇めよ御使いと共に 尊きイエスの御名をば
か弱き我ら羊を 飼い主イエスはいだく たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く
2.たたえよ人の罪ゆえに 十字架につきし君を 君こそとこしえの岩よ 変わらぬ我が望みよ
心の病ことごと 癒やされ安き受けぬ たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く
3.たたえよ栄えあるイエスを 御国の門(かど)揺るがせ ときわに統べたもうイエスに 冠(かむり)をささげまつり
まもなくイエスは来たりて あまねく地をば治めん たたえよ たぐいなきみいつ たたえよ声も高く アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)41エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。43やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、44そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
45それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、46彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」47イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、48何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。2017 新日本聖書刊行会
序.
四旬節の二週目に入りました。四旬節の「四旬」とは、40日を指します。聖書では40日は苦しみを象徴する期間とされていますが、イエス様が十字架で私たちのために死んでくださった苦しみを、私たちは実際の40日間、約6週にわたる礼拝の中でとくにおぼえつつ、そして今年は4月17日にあたる復活の日、イースターを迎えるのです。礼拝説教においては、イエス様が十字架へと一歩一歩向かっていく姿を何週間かにわたって一緒に見ていくことを考えています。
1.
さて、過越の祭が一週間後に迫った中、イエス・キリストは、人々の大歓声を受けながら、エルサレムへと近づいておられました。イエス様は救い主の象徴である、ろばの子にまたがり、人々は棕櫚の枝や、自分たちの上着を赤絨毯のように敷いて、エルサレムの城門まで花道を整えました。人々の歓声や、喜ぶ表情を見ながら、イエスの弟子たちは誇らしい気持ちで一杯だったでしょう。しかしイエス様の思いはどうだったでしょうか。聖書はこう記しています。「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いた」と。ここで「泣いた」と訳されている言葉は、声をあげて激しく泣き叫んだという意味です。エルサレム、それは過去も、現在も、未来も、どこを切り取っても、神を悲しませるもので満ちていました。
過去。数千年のあいだ、神は預言者たちを通して、エルサレムに罪の悔い改めを語ってきました。しかしこの町の人々は悔い改めるどころか、預言者たちを捕らえて殺してきたのです。
現在。神はイエス・キリストという人として地上にお下りになり、みことばと奇跡を用いてエルサレムを再び悔い改めに導こうとされました。しかしエルサレムは、救い主を受け入れようとしません。イエスを歓迎しているのは、エルサレムの人々ではなく、ガリラヤや、外国から過越の祭のために集まってきた人々です。そして彼らもやがてイエスを見捨て、十字架につけろと叫ぶようになります。ましてやエルサレムの人々は、イエスを歓迎するどころか、むしろイエスを捕らえて殺そうとしている者たちさえいました。
そして未来。悔い改めを拒み続けたエルサレムは、紀元70年、ローマ皇帝の軍隊に包囲され、美しかった神殿は焼かれて崩されて廃墟となり、エルサレムの人々は老人から赤子に至るまで、数万、数十万人の犠牲者を生み出します。
2.
イエス様は、かたくなな心から決して離れようとしないエルサレムのために、声をあげて激しく泣き叫びました。「それは、神の訪れの時をお前が知らなかったからだ」と。イエス様の叫びは、私たちひとり一人に対する慟哭でもあります。自分自身を見つめることなく、心をかたくなにしていたのは私たち自身でした。神を悲しませてきた自分の生き方に気づくことなく、自分は正しいと信じ込んで、かえって神も人も傷つけて生きてきたのは私たちでした。イエス様がエルサレムに対して流された涙は、私たちに対するあわれみの涙でもあります。二千年前にエルサレムの町の外に立てられた十字架は、私たちの心に立てられるべき十字架でした。そしてエルサレムの人々がイエスを信じることができなかったのに、私たちが信じることができたのは、ただ神さまのあわれみです。あわれみによって救われた私たちひとり一人だからこそ、改めて今日、みことばによって心を砕かれて、イエス様を愛する者とさせていただきたいと願います。
イエス様はエルサレムに入ると、真っ先に宮に向かわれました。そしてここから、「宮きよめ」と呼ばれる、有名な出来事が始まります。ここに描かれているイエス様の姿は、私たちが知っている柔和な救い主のイメージからはかけ離れているかもしれません。しかし、神の怒りは、神の愛と表裏一体です。イエス様が商売人を追い出し、いすを打ち倒しているその怒りの激しさは、神が涙を流しながら失われた人々を探し回り、救おうとしておられる愛の激しさの裏返しです。なぜイエス様は、ここまでお怒りになったのでしょうか。それは、これらの商売人や両替人、そして彼らと結託していた祭司階級、彼らの欲望のために、神を心から求める人々の礼拝が奪われていたからです。
3.
いけにえを売る者たちや、両替人たちは、神殿の中に陣取っていたのではなく、前庭にあたる「異邦人の庭」で売り買いをしていました。その異邦人の庭は、イスラエルのまことの神を信じるようになった改宗者たちが、みことばを聞くことのできる唯一の場所でした。外国人は、たとえ改宗したとしても、神殿の中に入ることはできなかったのです。彼らにとって、その異邦人の庭こそが、神を礼拝することができる神殿そのものでした。しかし「私の父の家を強盗の巣にした」とイエス様に言われた人々は、外国人にとって、神を礼拝することができる唯一の場所である、異邦人の庭を奪ってしまったのです。
現代の教会は、社会が求める現実的なニーズに答えていく責任があります。給食事業や学習支援など、それはこれから私たちの教会も協力することができるでしょうし、そのために新しく広い場所が与えられたとも感じています。しかし同時に、教会というところはいつでも祈り、礼拝をささげ、聖書を開くことができる場所であるべきです。イエス様が神殿の現実に激しく憤られたのは、神に出会うべき異邦人の庭で売り買いや両替の場となっており、異邦人たちの礼拝が妨げられていることでした。では金儲けでなければよいのでしょうか。否、たとえどんなに人々に喜ばれる働きであっても、礼拝が妨げられるようであれば同じです。私たちは礼拝と聞くと日曜日を連想しますが、それは主日礼拝という一つの形だけを指しています。教会は礼拝をささげるところという定義がまことであれば、それはだれでも、どんなときでも、教会に来て礼拝や祈祷をささげることができるということです。教会が地域の方々のニーズに応えるものであると同時に、それとはまた違う、神の前で祈りたい、整えられた場所で礼拝をささげたい、と求める人々もまた、いつでもお迎えできるような、そのようなビジョンを求めていきたいと願っています。
結.
異邦人の庭から商売人たちを追い出した翌日から、イエス様は十字架までの一週間、毎日、神殿でみことばを教えました。ユダヤ人に対しては神殿の中で、異邦人に対しては神殿の庭で語られたのかもしれません。イエス様にとって、地上での最後の一週間、まさにライフワークは、みことばを語ることであったことがわかります。みことばが語られるとき、私たちの心の中に救いの喜びが沸き起こります。しかしそのために必要なことは、私たち自身の心の中が、神を礼拝するための異邦人の庭のように、整えられているということです。あなたの心の中は、イエス様が宮をきよめる前のような、家畜の鳴き声や、貨幣をじゃらじゃらという雑音に覆われてはいないでしょうか。イエス様は、あなたの心の中から雑音や雑念を放り投げてくださるお方です。祈りの家でささげられる礼拝にふさわしく、私たちもまた最後にそれぞれで祈りましょう。この豊栄キリスト教会が、町の人々にとって必要な場所となると同時に、いつでも祈ることができる場所として整えられていくように。そのために今取り組んでいる新会堂建設においても、神が豊かに導いてくださるように。そして私たちひとり一人の心が、求道者もクリスチャンも、神のことばがよく聞こえるまっさらな場所として、イエス様が整えてくださるように。報 告1.馬槽の中に産声(うぶごえ)あげ 木工(たくみ)の家に人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ
2.食する暇もうち忘れて 虐げられし人を訪ね 友なき者の友となりて 心砕きし この人を見よ
3.すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで 十字架の上に上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現れたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.6主日礼拝説教「祈りはすべての人のために」(第一テモテ2:1-7)
11回目の3.11の日がやって来ました。今も故郷に帰ることのできない方々や、ご家族を震災で亡くされた方をはじめとして、ひとり一人の上に主の慰めがありますようにと祈ります。地震やウイルスは人間の力を超えたものですが、戦争は人が始め、人が止めることのできる、いや止めなければならないものです。ウクライナ戦争が始まって二週間が過ぎました。ともに祈りをあわせていきたいと願います。
日本同盟基督教団・理事会からウクライナのための祈りの呼びかけ
日本同盟基督教団・理事会からウクライナのための祈りの呼びかけ
前 奏23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)1そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。2それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。3そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。7その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。2017 新日本聖書刊行会
1.
かつてイエス・キリストはこう語りました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と。パウロもまた同じです。実際にクリスチャンを苦しめていた王や為政者を含めて、すべての人のために祈りなさい。祈りは神が教会に与えたもうた、唯一の武器である。そしてあらゆる困難は、この祈りの力によって最善へと変えられていく。パウロはこの手紙を書いた数年後、ローマ皇帝ネロによって拷問の末に殺されたと言われています。この皇帝ネロは、たびたび映画にもなりましたが、ローマの町に自ら火をつけて、宮殿の上から、眼下の燃えさかる人々を見つめながら狂喜乱舞し、その放火の罪をクリスチャンになすりつけたという伝説が残るほどの悪名高き王でした。
しかしパウロはそのような人々のためにさえも祈りなさい、というのです。それは、パウロが心の底から祈りの力を信じていたからです。かつて教会を迫害する者であったパウロさえも抵抗できなかった、神の大いなる力、それが私たちの祈りの中に確かに込められている。祈りは私たちを救いへと導く神の力です。祈りは、地上に生きるどのような人々をも神のもとへ誘う力を持っている。王であろうが奴隷であろうが関係ない。男も女も関係ない。ユダヤ人だろうがギリシャ人だろうが関係ない。パウロはテモテに対して命じます。すべての人のために、願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。これは最近の新しい訳ですが、以前の翻訳では「ささげられるようにしなさい」となっていました。そしてそちらのほうが正しい訳だと思います。テモテだけが祈りをささげるのではなく、牧会者であるテモテは、教会員に対して「ささげられるようにしなさい」と、祈りの力を整えていく責任がある。教会が、教会全体の使命として、すべての人のためにとりなしの祈りをささげること、それは時代や状況が変わろうとも、私たちがまずはじめにしなければならないことです。
2.
どんなに祈っても、政治家たちは変わらないように思えます。どんなに祈っても、救われる人は数少ないように思えます。しかし目に見える現実は厳しくても、神のみこころは明らかです。4節、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」。この言葉は、それ以前の文脈に照らしてみるならば、神がすべての人が救われて真理を知るようになるために用いられる手段は、私たちの祈りなのだ、ということです。
ある日本人牧師が、スコットランドを旅行した折、彼の地の教会の祈祷会に出席しました。そこでは人々が、宣教師からの手紙を片手に、日本の教会のために祈っていたそうです。「シャイラトリダーイ」という教会の、「キュドー」さんといった言葉が聞こえました。きっとどこかの「しらとり台」の「工藤」さんのことなのだろう。行ったこともない外国の、読み方も正確ではない教会や個人のために一生懸命祈っている姿に、「日本人がこのようにはるか遠くの町の名前を挙げ、見知らぬ外国人の名前をひとり一人おぼえて、心と涙を注ぎ出して祈る日が来ますように」とその牧師もまた祈らずにいられなかったそうです。
今から40年前に発行された本の中にあるエピソードです。インターネットや電子メールがない時代です。今、私たちはどんなに遠く離れた地の情報も知り得る時代に生きていますが、むしろ多くの教会で聞かれるのは、祈祷会の衰退です。時代が変わり、生活が変わったと理由をつけることはできるかもしれませんが、結局の所は、祈りの力に全幅の信頼を寄せることができていない、私たちの信仰の衰えに行き着くのです。私たちのどんな小さな集会でのどんな小さな祈りさえ、神があらゆる人々を救うために用いられるのだという霊的真理に、絶大なる信頼を寄せていきたい。祈りは、神が私たちに与えてくださった特権であり、責任でもあるのです。
3.
神はすべての人が救われることを望んでおられます。それを表すしるしが、キリストがすべての人の身代わりとして、十字架で死んでくださったことでした。父なる神のみこころ、イエス・キリストのみこころ、そして私たちの願いが一つになるところ、それが十字架であり、すべての人が救われるようにという祈りです。このたびのウクライナ戦争を見るにつけ、今から約20年前の出来事を思い出します。当時、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器、つまり核ミサイルを隠し持っているという情報から、戦争への秒読みが始まっていました。結局、それは最後まで見つかりませんでしたが、追い詰められたフセイン大統領が核のボタンを押すかもしれないという不安もありました。
そのときに日本の教会は祈ること以外には、何もできませんでした。しかし同じ時期に開かれていた同盟教団の総会の中で、ある牧師がこう語りました。世界中の人々が行動を起こしている。ある者たちは義勇兵に志願し、ある者たちはデモに参加している。しかし私たちには祈ることしかできない。だとすれば、心から祈り切った、もうこれ以上は祈れない、と言えるほどの、決然とした祈りをささげようではないか、と。私はロシア軍がウクライナに攻め込んだとき、たとえロシア軍が数日でウクライナを占領しても、かの国の子どもたちはやがて大人になり、ロシアに復讐するだろうと思いました。しかしこの数日の状況を見ると、それに加えて、ロシアの子どもたちも、世界への復讐心を持つようになるのだろうと思っています。戦争には勝者も敗者もなく、関わったすべての者に、耐えがたい傷を残します。そのような世界で、私たちは何ができるのでしょうか。祈ることしかできません。しかし祈ることだけはできます。それならば祈り続けましょう。すべての人々が救われるように。キリストの平和がこの世界を覆い尽くすように、祈り続ける者となりましょう。報 告1.緑も深き 若葉の里 ナザレの村よ 汝(な)がちまたを
心清らに 行き交(か)いつつ 育ち給いし 人を知るや
2.その頭(こうべ)には 冠(かむり)もなく その衣には 飾りもなく
人の住まいを ととのえつつ 主は若き日を 過(す)ぎ給えり
3.人の子イエスよ 君の御名を み使いたちの ほむる時に
恵みに匂い 愛に香る 御足の跡を われはたどらん アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.27主日礼拝説教「何かを得るとは何かを失うこと」(マタイ4:18-22)
ウクライナ戦争がますます泥沼化しています。お祈りください。
「今回の戦争の背後には、東部の親ロシア派住民に対する虐殺行為があった」「プーチンが望んでいることは、ロシアとNATO加盟国との間に緩衝地帯を作ること」といった一部論調があります。私は大学時代に近代ドイツ史が専門でしたが、このような論調は、まさにヒトラーがチェコスロバキアを攻撃したときとまったく同じでした。当時、チェコは「ドイツの下腹にささった短剣」と言われる地理的条件にあり、またドイツとの国境地帯、ズデーテンラント地方には親ドイツ人が住んでいました。ヒトラーはオーストリアを併合した後、ズデーテンラントを割譲すればこれ以上の領土拡大は必要ないと主張して、結局はその後、チェコ全体を併合、さらにポーランドに攻め込み、第二次世界大戦を引き起こしたのです。
プーチンは「昭和の人」です。(私も昭和生まれです)ソ連崩壊のきっかけとも言えるベルリンの壁崩壊は1989年、日本ではちょうど平成に入った年でした。プーチンの理想とする国家は、昭和時代の強いソ連です。ですから彼の夢はウクライナ東部住民を守るとか、緩衝地帯を設けるといったもので終わるはずがありません。彼はこれからも、核ミサイルのボタンを常に握りしめながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。それは彼以外の80億人にとっては悪夢でしかありませんが、彼にとっては正義なのです。
彼は80億人の命を人質に、これからも要求を出していくことでしょう。しかし地上での人の悪にも関わらず、神のみこころは地上でもその栄光を現されます。私たちは今は祈ることしかできませんが、祈りが教会に与えられた唯一の武器であることを認めなければなりません。
「今回の戦争の背後には、東部の親ロシア派住民に対する虐殺行為があった」「プーチンが望んでいることは、ロシアとNATO加盟国との間に緩衝地帯を作ること」といった一部論調があります。私は大学時代に近代ドイツ史が専門でしたが、このような論調は、まさにヒトラーがチェコスロバキアを攻撃したときとまったく同じでした。当時、チェコは「ドイツの下腹にささった短剣」と言われる地理的条件にあり、またドイツとの国境地帯、ズデーテンラント地方には親ドイツ人が住んでいました。ヒトラーはオーストリアを併合した後、ズデーテンラントを割譲すればこれ以上の領土拡大は必要ないと主張して、結局はその後、チェコ全体を併合、さらにポーランドに攻め込み、第二次世界大戦を引き起こしたのです。
プーチンは「昭和の人」です。(私も昭和生まれです)ソ連崩壊のきっかけとも言えるベルリンの壁崩壊は1989年、日本ではちょうど平成に入った年でした。プーチンの理想とする国家は、昭和時代の強いソ連です。ですから彼の夢はウクライナ東部住民を守るとか、緩衝地帯を設けるといったもので終わるはずがありません。彼はこれからも、核ミサイルのボタンを常に握りしめながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。それは彼以外の80億人にとっては悪夢でしかありませんが、彼にとっては正義なのです。
彼は80億人の命を人質に、これからも要求を出していくことでしょう。しかし地上での人の悪にも関わらず、神のみこころは地上でもその栄光を現されます。私たちは今は祈ることしかできませんが、祈りが教会に与えられた唯一の武器であることを認めなければなりません。
前 奏44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。47また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。48網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。2017 新日本聖書刊行会
1.父の神よ 夜は去りて 新たなる 朝となりぬ われらは今 御前に出でて 御名を崇む
2.万有の主よ 御顔仰ぐ しもべらを 強くなして 天つ国の 尽きぬ恵みを 得させ給え
3.三つにまして ひとりの神 御救いは 尊きかな 御名の光 照り輝きて 世にあまねし アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)18イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」20彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。21イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。22彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。2017 新日本聖書刊行会
序.
北京で開かれていた冬季オリンピックが閉幕しました。日本人選手は18個のメダルを獲得し、これは歴代最多の快挙であったそうです。この冬季オリンピックで行われた競技のひとつに、ノルディックスキー複合というものがあります。欧米では「キング・オブ・スキー」、スキー競技の王様という面白い名前がついています。どこらへんが王様かというと、この競技はクロスカントリースキーとスキージャンプの二つの競技が組み合わされているのですが、一方は持久力が必要、もう一方は瞬発力が必要とされており、この二つはあたかも綱引きのような関係にあります。つまり、持久力をつけようとすれば瞬発力が下がり、逆に瞬発力を上げようとすれば、持久力が落ちる。今回、この競技で日本に銅メダルをもたらした渡部暁斗(わたべ・あきと)選手が、こんなコメントを残しています。ジャンプだと、体重が軽ければその分、滞空時間は伸びますので、有利に働きます。でも、一方のクロスカントリーに置き換えると、パワー不足。スピードが出せない。なので、一方を求めるとなれば一方を諦めなきゃいけない。あれもこれもは無理なんです。足し算のスポーツではないんですよ。精神的にも、日々何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返しです。1.
「何かを得ると同時に何かを失うことの繰り返し」。この言葉は、信仰生活にも当てはまります。私たちがイエス・キリストを信じたということは、渡邉選手の言葉を借りるならば、足し算ではなくて、引き算です。それまで自分が大切にしていたものを失い、新しくイエス・キリストというものを受けたのです。別の言葉で言い換えるならば、「あれもこれも」ではなくて「あれかこれか」です。
しかしもう少し説明を加えるならば、それはヘビースモーカーのお父さんが禁煙という二文字を大きく書いて、歯を食いしばってタバコを我慢する、といったものとは違っています。イエス・キリストの十字架の贖いが、頭ではなくて魂の中に聖霊によって注ぎ込まれるとき、私たちは自分が心地よさを感じる居場所を変えられていくのです。つまり、それまでは生活の中でこれがなければ人生楽しくない、と思っていたものよりも、はるかに心が安らぎ、喜びが沸き起こってくるものを与えられたとき、それまで大切にしていたものにさえ興味を失い、このイエス・キリストが自分自身の居場所となっていく。それが私たちが救いを得たことによって、何かを失う、ということです。
逆に、もし私たちがイエス・キリストを信じるということを、何も失うことなく、ただ今まで自分が持っていたものの上にイエスを追加する、上乗せすることだという考えにとどまっているならば、ある程度までは信仰とそれまでの楽しみを両立できても、時間・仕事・人間関係、こういったものが切羽詰まってきたときに、キリストを捨てるか、それともそれらのものを捨てるか、に直面したとき、信仰が激しく揺れ動く、ということが起こります。しかしそれが起こること自体が罪ではありません。自分の信仰がそこで試されていくということです。そしてそこで初めて自分にとって何が一番大切なのか、内なる御霊が示し、心の中に改めて喜びが沸き起こってくる、ということも起こるでしょう。
2.
聖書の中には、何かを得るために、何かを捨てた人々の話が数え切れないくらい出て来ます。畑に隠された宝を見つけた人は、全財産を売り払ってその地所を手に入れました。極上の真珠を見つけた商人もまた、全財産を売り払い、その真珠を手に入れました。惜しいと思わないのです。すべてを売り払っても手に入れたいもの、それがイエス・キリストにある永遠のいのちです。ペテロやヨハネといった人々も、まさに同じ思いで、自分の人生を差し出したのです。
イエスに出会い、イエスを信じた者たちは、何かを捨てなければなりません。信じる前は、誰もがそれにおびえるのです。捨てることはできない、と。しかし自分のために命を捨ててくださった方、イエス・キリストが、私たちの心の中に入ってきてくださったときに、それまで盲目的に、あるいは機械的に、これこれが人生に必要なものなのだ、何よりも大切なものなのだとすり込まれてきた心が、内側から生まれ変わります。そのすりこまれたこれこれは、人によって異なるでしょう。お金であったり、生きがいであったり、家族であったり、仕事であったり、ゲームソフトであったりします。しかしイエス・キリストはそれらのどれよりも価値があるものです。いや、むしろこの方が確かに生きておられるからこそ、私たちの中に価値が生まれると言うべきでしょう。
もしこのイエスに出会うことがなかったならば、そしてこの方を信じることがなかったならば、私たちの人生も、私たち自身も、むなしいものです。しかし神は、私たちがむなしいままでいることを決して望んでおられません。ましてや私たちが永遠の滅びに向かっていることに耐えられない、それが神の愛です。私たちがこの愛に応えるとき、神は私たちの中から何かをそぎ落とされます。しかしそれはなくても困らないものです。むしろそれに執着し続けているがゆえに、平安がないまま、生きている人々があまりにも多いのです。
3.
マタイは、今日の聖書の中で、あくまでもイエス様の目線を中心に書いています。つまり、ペテロとアンデレが網を打っていた、という書き方ではなく、ペテロとアンデレが網を打っているのをイエスはご覧になった、と書いています。ヤコブとヨハネの兄弟に対しても同じです。彼らが網を繕っているのを見ると、彼らをお呼びになった、と書かれています。イエスのまなざしが、この物語の真ん中にあります。これは何を意味しているのでしょうか。
キリストはご自分に従う者を知っておられます。そして彼らを見つめておられます。彼らは自分自身をよく知っています。自分は漁師しかできない、家族の面倒を見なければならない、生活の糧を得るために網を繕わなければならない・・・しかし主はすべてご存じです。そしてその上で、私に従いなさいと言われます。あなたの心配は、あなた以上にわたしが知っている。わたしがあなたをつくり、あなたを選んだのだから。だがあなたは網を捨てよ、舟を捨てよ、あなたの力だけで人生を支えていこうとする努力をやめよ、あなたの重荷を私にゆだねよ、あなたをずっと見つめてきた私が、あなたの人生を導いていくのだから、と。
「何かを手に入れるためには、何かを捨てなければならない」。それは私たちすべての人間にあてはまる真理です。もし救いを手に入れたいのであれば、今まで偶像に縛られていた生き方を捨てなければなりません。もし動かない平安を手に入れたいのであれば、不安を呼び起こしている、生活の中のさまざまなカスを捨てていかなければなりません。しかしそれは、私たちの力で変えていくのではない。私を生かす御霊なる神よ、私の中に満ちてください、そして私を導いてくださいと呼び求めていくのです。変えるのではなく、変えられなければならない。ひとり一人が、捨てることにおびえないように。変えられていく勇気と決断をもつことができるように。報 告1.われらは来たりぬ はるけき国より 星に導かれ 野山越えて
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
2.わが持ち来たれる 貴き黄金(こがね)を メシアの冠(かむり)の 飾りとなさん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
3.わが持ち来たれる 乳香ささげて いと高き御神 共にたたえん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
4.わが持ち来たれる 没薬ささげて 御苦しみの日に 備えまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに
5.よろずを統べます メシアは生まれぬ ハレルヤ ハレルヤ たたえまつらん
ああ くしく輝く 星の光よ われらを導け 御子のみもとに アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.20主日礼拝説教「引き継ぎ、引き継がれ」(マタイ4:12-17)
イギリスの古いことわざに「一番ひどいのは負けいくさ、次にひどいのは勝ちいくさ」というものがあるそうです。戦争は何も生み出しません。勝者も敗者もおらず、すべてが敗者であり、加害者である国の中にも多くの被害(者)をもたらします。ましてや一方的に被害者とさせられた国の中には復讐と怨嗟が生まれ、やがて次の世代の者たちは加害者の側に回ります。「神がいるならどうしてこのような蛮行を許すのか」と天に向かって叫ぶより先に、この地上で罪の中をうごめき、まったく変わらない、否、変われない、人類の愚かさを悔悛しなければなりません。
どうかこれ以上の犠牲がとどめられ、愚かな行為から立ち返ることができるように。犠牲となった人々の上に、主の慰めがありますように。憎悪の連鎖を断ち切ることができるように。
どうかこれ以上の犠牲がとどめられ、愚かな行為から立ち返ることができるように。犠牲となった人々の上に、主の慰めがありますように。憎悪の連鎖を断ち切ることができるように。
前 奏19人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。
1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。2闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。2017 新日本聖書刊行会
1.輝く日を仰ぐとき 月星 眺むる時 雷(いかずち)鳴り渡る時 まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
2.森にて鳥の音(ね)を聞き そびゆる山に登り 谷間の流れの声に まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
3.御神は世人(よびと)を愛し ひとりの御子を降(くだ)し 世人の救いのために 十字架にかからせたり
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
4.天地(あめつち)造りし神は 人をも造り変えて 正しくきよき魂(たましい) 持つ身とならしめ給う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
5.まもなく主イエスは来たり われらを迎え給わん いかなる喜びの日ぞ いかなる栄えの日ぞ
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。13そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。14これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。16暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」17この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」2017 新日本聖書刊行会
1.
12節をお読みします。「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」。荒野でサタンの誘惑を受けたイエスは、その後にエルサレム地方でみことばを語っておられました。しかしそこで、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられたということを聞いたのです。そのときイエス様は何を思ったでしょうか。ヨハネが捕らえられたとすれば、次はわたしだ。敵がひしめいているエルサレムにとどまっていたら危ない。急いで実家のあるガリラヤへ帰ろう。いいえ、そんなことをイエス様が恐れたはずがありません。神の子が死ぬところは十字架の上しかなく、そして十字架の時はまだ来ていない。イエス様はすでにそのような確信を持っていたからです。イエス様がヨハネが捕らえられたことを聞いて、ガリラヤへ立ちのかれたのは、ヨハネが始めた宣教の働きを引き継ぐためでした。イエス様はカペナウムでこう叫ばれました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。
このイエス様の宣言は、もともとヨハネが語っていた言葉とまったく同じものです。ここに私たちは、イエス・キリストにあって、私たち人間の働きというものは必ず引き継がれていくということを見るのです。イエス様は私たちの働きの先駆者でもあります。みことばを宣べ伝えたい、人々に神の愛を体験していただきたい。罪許されて救いをその心の中に受け取っていただきたい。あらゆる宣教の働きは、イエス様から始まっており、私たち信じる者たちに引き継がれたものです。しかし同時に、私たちがこの人生の中で、神のために働いたわざもまた、天で報われるだけではなく、この地上においてイエスはそのバトンを受け取ってくださって次の世代へと必ず引き継いでくださいます。
今から約150年前、明治維新が起こると、文明開化の波とともに、欧米から次々と宣教師が来日し、日本にキリスト教の大きなうねりが訪れました。この新潟に最初にやってきた宣教師が、パーム夫妻という一組の宣教師でした。明治維新から7年後、1875年に現在の中央区にある日本基督教団の東中通教会、これがパーム夫妻によって生み出された、新潟県初のプロテスタント教会と言われています。東中通教会を生み出した後、パーム宣教師は新発田、長岡、水原、(当時、水原は新潟でも最も人口が多い場所でした)などの都市部だけではなく、佐渡、亀田、そして葛塚と、新潟県内の13の地域を巡回して伝道に励みました。ちなみに東中通教会の次に生まれたのが村上教会、その次が中条教会です。新潟教会や長岡教会はその数年後でした。いかに当時の阿賀北地方が伝道有望地として見られていたかがわかると思います。
私たち豊栄キリスト教会は、パームバンドと呼ばれるその流れとは別のものですが、それでも150年も前に葛塚にも宣教の手は広げられていたのです。教会の新会堂用地を得た常盤町はちょうどその150年前頃に開かれた町です。今の言葉で言えばニュータウンにあたるあそこにも、パーム宣教師による福音は宣べ伝えられていたのでしょう。それから150年経って、豊栄キリスト教会がそこに土地を得たというのも不思議な思いがするのです。パーム宣教師の働きは、直接教会を生み出すことはなく、70年を待たなければなりませんでした。1945年、終戦と同時に、アメリカから宣教師チームが来日し、いまの新潟福音教会が形成され、そこのクリスチャンたちがジープやトラックに乗せられてこの葛塚で福音を伝え、そこから家庭集会が生まれ、そしてやはり当時のニュータウンであったこの嘉山にまず幼稚園、そして教会になったのです。
私たちの教会はパーム宣教師の働きとは直接関わってはいないとはしても、そのその祈りと働きが引き継がれていると言えるのではないでしょうか。どんなに人が熱心に働いたとしても、その働きが自分の死と共に引き継がれずに終わってしまうならば、どんな結果もむなしいものです。しかしヨハネの働きを評価し、それを引き継ぎ、同じ言葉をもってカペナウムで叫ばれたイエス・キリストを、聖書がそこから宣教が始まった、と記していること、それは今の私たちの労苦も、決してこの時代で終わってしまうのではなく、必ず引き継がれていくということです。人が引き継ぐのではなく、神が引き継ぎ、そしてそのために主は人を用いてくださるのです。
2.
さて、聖書にはこの出来事が旧約聖書のイザヤ預言が成就するためであった、と記しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
「異邦人のガリラヤ」、「暗やみ、死の地と死の陰にすわっていた人々」。おそらく、暗いものを想像するでしょう。しかし実際は、ガリラヤ地方はイスラエルの中でも最も豊かで、人口が集中していた地域であったのです。イスラエルは南にいくと石ころばかりの荒野ですが、北にあるこのガリラヤ地方はたいへん土壌が豊かな土地であり、作物が育てやすい場所でした。農業が潤うと、それを扱う商業も発展し、人が集まります。有数の農業地帯ガリラヤの、さらにその中心であるカペナウムは、イスラエル随一の商業都市でした。
またこのガリラヤ地方は、ツロ・フェニキア・シリア・ペリシテといった、イスラエルと敵対関係にある国々と接しており、歴史上、異邦人に奪われたり、取り返したりが繰り返された場所でもありました。異邦人に支配されて混血が進んだことで、イスラエル人からは異邦人として差別される苦しみを経験する一方で、外国の文化に触れ続けることで新しいものを積極的に取り入れていく空気が生まれていました。イエス様が、ご自分の出身地であるナザレを出て、カペナウムに拠点を定めたのは、この町に多くの人々が集まり、また保守的な考えに囚われない柔軟さを持っていたからでもありました。
しかし、そのような町の発展と、伝統に縛られない空気にもかかわらず、イザヤのみことばは語っています。彼らは暗やみの中にすわっていた、死の地と死の陰にすわっていた、と。どんなに生活が潤い、新しい文化や考え方にも積極的であったとしても、ガリラヤ人の心は、まことの神から離れていました。イザヤの時代から連綿と続く、外国から入ってきた偶像の神を拝みながら、それでも自分たちは真の神を信じているユダヤ人の一人だと主張していました。物が溢れていても、それを手に入れることのできる経済力も持っていても、決して心は満足せず、幸せを受け取ることができない、それがガリラヤ人を囲んでいた暗やみであり、その先には死が待ち受けていたのです。
イエス様がこのカペナウムを選ばれたのは、人口が集中しているからでもありましたが、それは同時に、神を忘れ、神から離れている人々がひしめいていたからでもありました。そのすべての人に、みことばを伝えなければならない。ヨハネが語った、罪を悔い改めよ、天の御国が近づいたから。イエス様はそのメッセージをもって、ご自分の宣教の始まりとされました。
私たちも、この豊栄に生きる人々に対して語るべき言葉の本質は、ここにあります。悔い改めなさい、天の御国が近づいたから。それは、時代が変わっても、変えてはいけないメッセージではないでしょうか。もちろん悔い改めよと言われて素直にうなずく人はいないでしょう。しかしまず悔い改め、つまり、人生の方向転換を決断し、なくなるものからなくならないものへ、滅ぶべき偶像からまことの神イエス・キリストへ、それは決して変わることのない、たましいを救うための唯一の処方箋です。イエス様を一人でも多くの人々に宣べ伝えること、それは人生を賭けるにふさわしい、神が必ず後代へと引き継いでくださる、すばらしい働きです。すぐに報いが目に見える形で現れることはありません。しかし私たちが地上を去った後、必ず実を結び、むなしく地面で朽ち果てることのない働きです。それは、私たちひとり一人に神さまがゆだねてくださったものなのです。主から引き継ぎ、また主が引き継いでくださって世界に命を取り戻していく、福音宣教を私たちにとってのライフワークとしていきましょう。報 告1.いとも尊き 主はくだりて 血の値(あたい)もて 民を救い きよき住居(すまい)を 造り立てて その礎と なり給えり
2.四方(よも)の国より 選ばるれど 望みも一つ 業(わざ)も一つ 一つの御糧(みかて) 共に受けて ひとりの神を 拝み頼む
3.数多(さわ)の争い み民を裂き 世人(よびと)そしりて 悩むれども 神は絶えざる 祈りを聞き 涙に代えて 歌を賜わん
4.世に残る民 去りし民と 共に交わり 神を仰ぎ 永遠(とわ)の安きを 待ち望みて 君の来ますを 切に祈る アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.2.13主日礼拝説教「ただ一つのことに向かって走る」(ピリピ3:12-16)
前 奏1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。2017 新日本聖書刊行会
1.主の真実(まこと)はくしきかな 迷い悩むこの身を とこしなえに変わらざる 父のもとに導く
大いなるは主のまことぞ 朝に夕に絶えせず 御恵みもて支え給う たたえまつらんわが主を
2.春も秋も夏冬も 月も星もすべては 主のまことと憐れみと 尽きぬ愛を表す
大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を
3.罪人らを憐れみて 救い給う御恵み 喜び満ち望みもて 仕えまつるうれしさ
大いなるは 主のまことぞ 朝に夕に 絶えせず 御恵みもて 支え給う たたえまつらん わが主を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。15ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。16ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。2017 新日本聖書刊行会
1.
13、14節をお読みします。「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」
このみことばは、今年度の教会目標聖句として示されたものでもありますが、パウロがここで語っているのはマラソンではなく、戦車競走であったと言われます。戦車と言っても、自衛隊が乗っているような戦車ではもちろんありません。古代の戦車は、人一人が立つのがやっとの車輪付き荷台をを四頭がけの馬に引かせるというものでした。それはただ突っ立っていれば馬が勝手に走ってくれるというものではありません。バランスを保ち、馬を制御するために上体を前方に曲げ、全神経と筋肉を緊張させていなければなりません。パウロが「前のものに向かって身を伸ばし」という言葉は、四頭の馬の手綱を握りながら、バランスを保っていく競技者の姿を表しているものです。この戦車競技は古代オリンピックの花形競技の一つでしたが、スポーツとはいえ、しょっちゅう転倒事故が起こる、命がけのものでした。パウロが信仰人生をこのような危険な競技にたとえたのは、私たちが緊張感を失わないためです。
しかしパウロが言おうとしていることは、信仰生活は緊張感を失ってしまったら転げ落ちてしまう、ということではありません。キリストによって捕らえられたからこそ、緊張感を失うことなく、走り抜くことができるのです。神にすべてをゆだねることができる安心があるからこそ、そこにあぐらをかいて立ち止まることがありません。キリストによって捕らえられた者は、少しでもキリストに近づかずにはいられません。命令されたから走るのではなく、キリストに近づきたいがゆえに、走らずにはいられないのです。
2.
信仰生活の喜びは、このイエス・キリストだけを見つめ、この方のようになりたいと願い続けるところから生まれます。後ろでも隣でもなく、前を見つめ続けるのです。今までこれだけのことをやってきた、と後ろの実績で判断しない。あの人はあれだけやっているけど、自分は足りない、と隣を見て比べない。キリストに一歩でも、一センチでも近づきたい、と前を見つめ続ける。クリスチャンが自分をはかるための唯一の基準は、イエス・キリストです。そしてイエス・キリストがどういうお方はこの聖書の中にすべて記されており、私たちは聖書を日々食べることにより、イエスにますます近づいていくことができます。御霊の人は自分とキリストを比べますが、肉のままの人は自分と他人を比べます。自分とキリストを比べれば、私たちのだれもが、他人をさばく資格などないことに気づかされるでしょう。パウロが見つめていたのは、後ろや隣から追い迫る人や出来事ではなく、ゴールの先におられるイエス・キリストでした。
走らなかったらさばかれる、ということはありません。救いは、私たちの努力ではなく、キリストの犠牲によるものだからです。しかし救いへの感謝がこみ上げるとき、自分の力を尽くしてキリストの元へ走らずにはいられないのです。この世の競技では金メダルは一人分しか用意されていませんが、天国では全員の分が用意されています。しかし用意されていても受け取ることができるのは、神に任せられた賜物を存分に生かして走り通した者だけです。メダルを得るために必要なものは、選択と集中の二つです。最も大切なことは何かを選び取り、そのたった一つの大切なことのために、自分の時間、体力、知識、あらゆるものをつぎ込んでその日のために練習を繰り返す。オリンピック選手の姿は、それをわかりやすく教えてくれます。目標に向かってひたすら走る人は、結果がどうあろうとも後悔することは決してないのです。
3.
昨年、私たちは臨時教会総会を経て、葛塚の朝市通に面する場所に260坪余りの土地を購入しました。それは信仰がなければたどり着けなかった決断でした。そして今までここで宣教に励んできた教会が、新しい場所で宣教をさらに豊栄全体に拡大していく決意でもあります。教会は今までの働きを継続、あるいは再開しながら、それに加えて新しい働きも生み出されていくことでしょう。しかし会堂が生まれなければ、土地の広さも、立地も生かすことはできません。二つの拠点を同時に管理しながら何年も続けていくことは時間、人材、経済、あらゆる点で力を消耗します。選択と集中、それが私たちに必要なことです。委員会、役員会、教会全体での話し合いをまんべんなく行いつつ、しかし与えられている時間は多くないことをおぼえるべきでしょう。
このたびの教会総会で、準備委員会が提案した目的宣言文を、これからの教会が目指していくものとして正式に承認を図ります。会堂建設とは、その目的宣言文を絵に描いた餅に終わらせず、現実化していくための拠点となるものです。これからの一年は、この会堂建設を討議する十分な時間を確保するために、主日礼拝のかたちを変えていくことになります。具体的には、牧師が週代わりで二つの会堂を巡回、一方はこうして生で、他方はその中継動画を共有するというかたちで、同時に礼拝をささげます。奇抜な方法のように聞こえるかもしれませんが、今までも多くの教会でこれに似たことがされていました。会堂で密になる状況を避けるために、会堂に入りきれない方はホールや食堂など別室で礼拝を守ることをしていました。豊栄はそのスペースもないので、三回に分けて礼拝をせざるを得なかったのです。しかしこれからも朝から夕方まで礼拝をささげ、その後から会議という形を続けていくならば、会堂建設はますます長引いていくことになるでしょう。
今まで午後に行ってきた教会学校と第三礼拝を、朝市通での仮会堂で午前中に行うことで、この一年間の日曜午後を会堂建設の計画を作り上げていくために用いていきます。しかし第三礼拝に出席している方々だけに、毎週、向こうの場所でリモートで礼拝に出てくださいということはよくありません。ですから牧師が、第二礼拝の時間帯を週代わりで嘉山と朝市通それぞれで説教をすることになります。コロナ禍でなければそこまで行う必要はないでしょう。しかしコロナが終わるまで会堂建設は待ちましょうという余裕もないのです。一年を計画に費やし、次の一年を工事に費やし、あと残り二年が適切な時間です。その中心になるのは会堂建設準備委員会ですが、「ただ一つのことに向かって走る」のは委員会だけではなく、教会全体もそうです。選択と集中こそ、神から与えられたレースを勝利する秘訣であることをおぼえましょう。確かに払うべき犠牲はありますが、それをまさる祝福があると信じます。どうか客員・求道者の方を含めて、ひとり一人が心に刻みつけて、これからの一年間を歩んでいきましょう。報 告1.神は独り子を 賜うほどに 世人を愛し給う 神は愛なり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
2.罪をば犯して 神に背き 敵とう我さえ なお愛し給う ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
3.罪赦さんために 我に代わり イエス君十字架に 死に給えり ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり
4.いざとく来たりて 神の愛に 汝が身を委ねよ 救わるべし ああ神は愛なり 汚れ果てし 我さえ愛し給う 神は愛なり アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン