みなさん、おはようございます。
まず14節をご覧ください。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
天の御国は、いわゆる天国のことではありません。
天国は、私たちが死んでそこに行くまで、実際に体験することはできません。
しかし天の御国は、すでに私たちが経験しているものです。
イエス・キリストを信じた者たちの中に生まれる、神への信仰。
しかしイエス様は、それを信仰ではなく、「御国」という言葉を使います。
その理由は、私たちがイエス様を信じたときに生まれる信仰は、まさに天の御国というほどに、果てしない、大きな喜び、期待、楽しさを味わわせてくれるものだからです。
ですから天の御国とは、本来、楽しくて楽しくてたまらないものです。
ちっぽけな私の中に、イエス様を信じたことで、果てしない神の国が生まれている、ということ。
これを聞いて、ワクワクしないということがあるでしょうか。
それを踏まえて、14節に戻りましょう。
「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです」。
イエス様を信じた私たちの中には、無限の広さと深さを持つ、神の国が生まれました。
そこに神様は、ご自分の財産を預け、旅に出て行ったとあります。
預けた財産は、5タラント、2タラント、1タラント。
1タラントは現在の金額に直せば六千万円、5タラントならば三億円です。
しかし神様は、三億円を運用して六億円に増やしたしもべにこう言うのです。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。
三億円をわずかな物と言ってしまうのが、ここに出てくる主人、つまり神様です。
それに対してみなさん、いえ私たちは、三億円などわずかな物だと言えるでしょうか。
きっと言えないと思います。
しかし私たちひとり一人の中に、イエス様を信じたときに無限の神の国が生み出され、そこに神様はひとり一人に違った賜物を与えてくださり、それは三億円という金額さえも小さい小さいというようなものだと聖書は言っているのです。
私たちの中には無限の領域があります。
ひとり一人に無限の価値があると言い換えても良い。
キリストを信じた今、私たちは神様の目にそれほどまでに大きく、尊く、神様にふさわしいしもべとされていること、それを聖書は私たちに語っているのです。
次に15節をご覧ください。
「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた」。
「彼」というのは神様、タラントというのは、神様のお手伝いをするために私たちが与えられた賜物を指しています。
神は、平等に1タラントずつ与えてはおられません。
それぞれの能力に応じて、ある者は5タラント、ある者は2タラント、ある者は1タラントと変化をつけて与えられます。
不公平だ、と人は言うかもしれません。
しかし神がそれぞれを適材適所、神様がここぞと思う場所に私たちを遣わし、これぞと思う賜物を私たちに与えてくださったのです。
与えられた場所、与えられた賜物を十分に生かしていくことを神様は期待しておられます。
先ほど、5タラントを現在のお金に直すと、三億円と言いました。
2タラントであれば、一億二千万円になります。
しかし今日の聖書をよく読むと、5タラントのしもべも、2タラントのしもべも、神様は同じことばでほめています。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。
もう一度言いますが、5タラント預けられて5タラント稼いだ人も、2タラントの人も、まったく同じことばで評価されています。
これは、神様が、いくら預けていくら稼いだか、その数字の違いを見てはいないということです。
預けられたもの、つまり私たちそれぞれに与えられた能力を、とにかく神様のために生かして用いようとすること。
数字ではなく、預けられたものを神様のために用いようという、心の中の思いを見ておられるのです。
私は、自分で言うのも何ですが、書記や会計のような事務は比較的得意です。
説教は、内容はともかく、声だけは張りがあってよいとほめられます。
しかし個人伝道ははっきり言って苦手です。
しかし苦手だからこそ、努力します。
考えてみれば、熱いのが苦手な消防士だっているし、接客が苦手なラーメン屋の親父だっています。
苦手ということも含めて、私たちはそれぞれの場所で与えられた仕事に生きています。
どんな賜物が与えられているとしても、これを神様のために用いていきます、と決意していくならば、神様は喜んでそれを生かしてくださいます。
そして主人の喜びをともに喜んでくれ、と言われるのです。
与えられた賜物は違っていても、それを神様のためにいかに生かしていくかこそ大切なことです。
だからこそ、最後に出てくる、1タラント預けられたしもべの姿を警告としなければなりません。
1タラントは六千万円、私たちの会堂建設の総予算よりも多い金額です。
決してわずかではありません。
しかしこのしもべは、5タラント、2タラントというほかのしもべに預けられたものと比べて、この1タラントをわずかなものと考えました。
これを土の中に埋めて、主人が帰ってくるまで、そのままにしていたのです。
私たちは、他人と比較するときに、与えられているものの大きさも見えなくなってしまいます。
このしもべが、他人と比べるのではなく、神様だけを見上げていれば、その1タラントをどのように増やすかを考えたことでしょう。
どのようにして神様を喜ばせることができるだろうか、ということを考え続けたことでしょう。
彼は1タラントを失うことを恐れたのかもしれません。
しかし神のものは、神のために用いるならば、失われることはありません。
神から与えられたものが本当に失われてしまうのは、失敗を恐れて何もしなかったときです。
なぜなら、そのようなしもべは、持っていた物も神に取り上げられてしまうからです。30節にはこのようにあります。
「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。
これは恐ろしい言葉です。
しかしこれは、このしもべが役に立たないから、永遠の滅びに突き落とされる、という意味ではありません。
ですが、しもべにとって、主人のために働くことが喜びです。
その喜びを受け取る機会を取り上げられてしまうのです。
もし私たちクリスチャンが与えられた賜物を生かして神様を喜ばそうとしないならば、その信仰はうわべだけのもの、義務的なもの、喜びの感じられないものになってしまいます。
キリストがいのちを捨ててまで救ってくださったほどの者たちが、自分にゆだねられた賜物の大きさに気づかないほど、悲しいことはありません。
ですから、私たちは、自分に与えられた賜物がいかに尊く、豊かで、かつ私たちにふさわしいものであるかをおぼえながら、この賜物を神様の働きのために生かしていきましょう。
私たちの中には、イエス様への信仰によって、無限の神の国が生まれています。
決してこじんまりした人生では終わりません。
与えられた賜物を神様のために用いていきましょう。
私たちにはそれができるのですから。
最近の記事
(08/08)[重要]ブログ移転の報告
(08/01)2025.7.27「悲しむ者の幸い」(マタイ5:1-10)
(07/25)2025.7.20「祝宴の主役はあなた」(ルカ15:20-32)
(07/18)2025.7.13「待ち続ける神」(ルカ15:11-24)
(07/12)2025.7.6「一人が欠けたら世界はむなしい」(ルカ15:1-10)
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2025.5.18「上着と共に捨てたもの」(マタイ10:46-52)
みなさん、おはようございます。
約二十年前、新婚旅行で北海道に行きました。
旭川の三浦綾子記念館だとか、今は世界遺産になっている小樽の倉庫街とか、いろいろな所に行きましたが、個人的に一番面白かったのは登別のクマ牧場でした。
恐ろしいヒグマたちが見事に餌付けされていて、観光客に向かって手を振るわ、どこで覚えたのか大開脚のポーズをとって自己アピールするわ、両手をお祈りの形で組んでお願いするわ、そこまでやらなくてもいいのに、と思うほどです。
今日の週報の表紙は、そのときに私が撮った写真です。
少々ピンボケ気味ですが。
クマたちは、客がいないときはもっぱら寝そべったりしているのですが、客の姿を認めるとやおら起き上がり、自己アピールを始めます。
人間の注目を少しでも多く惹きつけたものがエサを投げてもらえることを知っているのです。
今日の聖書に登場するバルティマイも、クマと一緒にするのは失礼ですが、同じでした。
イエス様が通られると聞くと、突然大きな声で「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び始めました。
どんなにたしなめられても、イエスのおられるかもしれない方向に向かって叫ぶことをやめませんでした。
彼は目が見えない物乞いであったとあります。
物乞いは、ふだんは声を上げません。
ただ黙って、道行く人がいくらかの銅貨を投げ込んでくれるのをひたすら待っています。
今日もバルティマイは、そのようにだまり込んだまま、人々のあわれみにすがりながら一日を過ごすはずでした。
しかし彼は、今目の前を歩いている集団の中に、ナザレのイエスが混じっているということを耳にしました。
そして今までの沈黙が嘘のように、ひたすら「ダビデの子よ、あわれんでください」とひたすら声を上げて叫び続けたのです。
登別のクマたちは、親が見たら泣くような大開脚ポーズで、まさにヒグマのプライドを捨ててまで観光客の注目をひいて餌にありつこうとします。
目の見えないバルティマイには、前を歩いている人々のどこにイエスがおられるのかわかりません。
だからひたすら、あらゆる方向に向かって大声で叫び続けました。
それはなんとかしてイエスの注目をひくためです。
しかしクマとバルティマイは明らかにひとつの点で違っていました。
クマは、観光客が投げるエサを巡っての競争に敗れても、次の機会があります。
しかしバルティマイは、この機会を失ったら、自分の人生を変えるチャンスはないということを知っていました。
だから彼は死に物狂いで叫び続けたのです。
人生を変えたいと考えている人々はたくさんいます。
しかし本当に変えることができた人は多くありません。
なぜならば、叫ぶべき相手を間違えているからです。
生活の問題や、具体的な課題を訴えることは決して間違っていません。
しかし親に叫ぼうが、行政に叫ぼうが、善意ある人々に叫ぼうが、それは一時しのぎでしかないのです。
システムを変えるには、責任者を呼ばなければなりません。
人生を変えたいならば、人生の責任者に対して叫ばなければなりません。
そして私たちの人生の責任者は、じつは私たち自身ではなく、この社会そのものでもなく、私たち一人ひとりを作られた神さまです。
バルティマイは、生まれたときから目が見えない者として、過酷な現実の中で生きてきました。
しかし彼は本当に叫ばなければならない方がどなたかということを知っていました。
人生を変えたいならば、神に向かって叫ばなければなりません。
自分の力を尽くして、神に叫ばなければなりません。
しかしバルティマイは、ナザレのイエスが人生を変えるお方であるということは知っていても、そのイエスがどこにいるのかはわかりませんでした。
目が見えなかったからです。
だから彼はあらゆる方向に向かって大声で叫びました。
しかし私たちは神がどこにいるか、救いがどこにあるかを知っています。
神はこの、(聖書を手に取って、パンパンと叩く)聖書の中に生きておられます。
ここに入るほどの小さな方だという意味では決してありません。
永遠に変わらない、聖書のことばを通して、私たちを救いに招き、信仰の醍醐味を与えてくださるのです。
だから、もし私たちが「私を救ってください」という心の叫びをもって、この聖書と取っ組み合うならば、必ず新しい人生が見つかります。
しかしじつはバルティマイが叫ぶ前から、イエス・キリストはこのバルティマイを救いへと選び、目を留めておられました。
みなさんに対しても、そうです。
神はこの世界が作られる前からみなさんひとり一人を選び、救いへと定めておられます。
しかし神があなたに目を留めておられるというのは、私たちが何もしなくても、神のほうから手を差し伸べてくださるということではありません。
バルティマイは叫びました。
私の救いはナザレのイエスにしか与えられない。
だからこの時を逃してはならないのだ、という必死な思いで、声をからして叫び続けました。
そんな彼を喜び、イエス様は招いてくださいました。
そのとき、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。
目の見えない物乞いが上着を脱ぎ捨てる行為、それは生活の支えを捨てる、ということに他なりません。
バルティマイにとって、上着は生活の基盤を象徴するものでした。
しかし彼は、生活基盤よりももっと大切なもの、それはナザレのイエスそのものだということを知っていたのです。
今までの人生において、幾度となく自分に失望し、人間関係に疲れ、人生に絶望したという人もいるでしょう。
しかしそのような経験のひとつひとつさえ、私を救うことのできるのは人ではなく、ただ神であるという希望に繋がります。
だとしたら、人生に無駄なものなど何一つありません。
あらゆるものが、神からのプレゼントとして感謝をもって受け止めることができます。
このバルティマイのいやしの出来事は、イエス・キリストが十字架での死に向かう直前の出来事でした。
バルティマイが上着を捨てて、喜び踊りながらイエスの後ろについていった道の終着駅は、イエスが罪人の代わりに死なれた十字架の丘でした。
もし彼がその十字架への道からそれていったならば、聖書の中に「バルティマイ」という固有名詞が記録されることはなかったでしょう。
しかし彼の名前がはっきりと残されていることは、彼がクリスチャンとしてその後も信仰を捨てずに歩んでいったことを指しています。
いやされた者は、喜んでイエス・キリストについていきます。
そしてその道は、いつまでもキリストとともに歩むことのできる、幸せな道なのです。
キリストを信じたらいろいろと大変ではないか、と恐れている者よ!すべてを捨てる決断ができない者よ!信じたとき、私たちは古い自分から新しい自分に生まれ変わる、と聖書に書いてあります。
恐れる者から恐れない者へ。
目の見えない者から目の見える者へ。
憎む者から愛する者へ。
逃げる者から従う者へと変えられていきます。
どうか一人ひとりが、このイエス・キリストを救い主として受け入れて、永遠のいのちの道へと歩むことができるように、お祈りします。
2025.5.11「苦しみの中から生まれるいのち」(第一サムエル1:1-20)
みなさん、おはようございます。
今日は母の日です。
母の日がいつ始まったかについて、こんな話があります。
1907年、アメリカの教会で、アンナという女性が亡くなった母のために追悼会を開きました。
そのとき、母が好きだった白いカーネーションを参加者に配ったそうです。
これがやがてアメリカ全国に広がり、七年後の1914年、その母の亡くなった5月の第二日曜日を母の日として、国民の休日にするということが決まりました。
母の日が日本でも祝われるようになったのはそれから二十年以上後のことですが、そのきっかけになったのは、森永製菓が東京の豊島園になんとお母さん20万人を無料招待して森永母の日大会というイベントを開催したことだそうです。
もちろんお母さんだけ集まったのではなく、子どもたちも来て一緒に楽しんだそうですから、すごい人数だったのでしょう。
森永製菓の創業者で敬虔なクリスチャンであった森永太一郎はこの大会の四ヶ月前に亡くなっていますが、母の日はアメリカでも日本でも、キリスト教会と深い関係があると言えるでしょう。
そんなわけで、今日の礼拝説教では、旧約聖書に登場する一人の母の姿を取り上げたいと思います。
その母の名前はハンナ。
偶然かもしれませんが、母の日のルーツとなった女性の名前もアンナ、英語のアンナはヘブル語のハンナから来ています。
しかしこのハンナは、決して幸せな女性ではありませんでした。
ハンナの夫は、エルカナという人です。
ここではエフライム人と記されていますが、正しくは、彼はエフライムの町の中に住んでいたレビ人でした。
レビ人というのは、イスラエル十二部族の中でも、神に仕えるために特別に選ばれた部族です。
今日の牧師のようなものと考えていただいてよいかと思います。
しかしどうでしょうか。
もし牧師である私が、奥さんを二人持っていたら、みなさんはどう思われますか。
ハンナが生きていた時代は、そういう時代だったのです。
つまり、神に仕えるレビ人でさえ、妻を二人持っていても罪悪感を感じることがないほどに、神のことばがないがしろにされていた時代です。
あまり意識しないで読むと、エルカナさん、優しい旦那さんね、という印象を受けるかもしれません。
確かに優しかったのでしょう。
しかしハンナが苦しんでいるのは、エルカナがハンナとペニンナ、二人の奥さんを持ってしまっているからです。
ただでさえもう一人の妻との関係で苦しんだハンナですが、さらに神ご自身がハンナの胎を閉じていた、つまり子どもが生まれなかった。
レビ人でさえ多重婚を悪いと思わない時代、その中でもう一人の妻ペニンナとの関係に苦しみ、さらに神ご自身が私の胎を閉じてしまっているという現実。
人に対しても、神に対しても、いったいどこに私の居場所があるのだろうかというハンナです。
しかしこのハンナから、イスラエルを闇から光へと変えていくサムエルという人が生まれてきます。
PTSDという言葉を聞いたことがあるでしょうか。
深い心の傷を負ってしまった人が、その苦しみの大きさのゆえに不眠症や摂食障害、情緒不安定などに陥る症状を指します。
しかし最近の研究で、このPTSDから回復した人々の9割が、心の傷を負う前よりも人生に前向きになり、他者の感情に配慮できるようになるということがわかったそうです。
つまり、回復というとまた以前の状態に戻るという印象がありますが、このPTSDの場合、以前と同じではなく、もっと人生の深みにまで成長していくというのです。
信仰の目でこれを逆から見た場合、神は私たちを成長させるために、あえて深い心の傷さえも与えるお方なのだと言えます。
そこから回復できるかどうかはその人次第、では決してありません。
必ず回復するという計画の中で、神は私たちを苦しみの中に投げ込まれます。
人からは不幸と呼ばれても、じつはその中には、私たちを成長させるために神が与えてくださるもので満ちています。
ハンナは何重もの痛みの中で、必死に神にしがみつきました。
そして心から神へ祈りを絞り出しました。
それは単に子どもがほしいという祈りではなく、もし子どもが与えられたら、その子をあなたにささげます、という祈りです。
生まれてくる子どもを取引に使っているのだと誤解しないでください。
そうではなく、「私のためにではなく、神のために我が子を用いてください」という祈りです。
この世界を変えるために、この時代を変えるために、人々へ救いをもたらすために、我が子を用いてください、と。
祈り終えたとき、彼女の顔はもはや以前の顔のようではなかった、と記されています。
苦しみの中から生まれた、祈りの力。
それは何と美しいものでしょうか。
神はハンナの信仰がここまでたどり着く日を待っておられました。
そして神はすぐにハンナの胎を開かれ、そこから時代を変える預言者サムエルが生まれてくるのです。
今から25年も前のこと、2000年5月3日、高速バスがひとりの高校生にバスジャックされた事件が起こりました。
高校生は刃渡り40cmもある万能包丁を運転手に突きつけ、高速道路のパーキングエリアにバスを止めさせた後、車内で三人の乗客を刺しました。
一人が死亡し、二人が重傷を負いました。
負傷者二人のうちひとりは、高校生の娘二人を持つお母さんでした。
少年は彼女の顔を切りつけ、罵声を浴びせながら倒れた背中を踏みつけました。
一瞬、意識が薄れそうになった中で、彼女の脳裏には娘たちの顔が浮かんできたそうです。
でもその顔は、この少年と同じように怒りに歪んでいました。
どうしてこんな顔をしているんだろう?そうだ、私は二人がずっと学校に行かないのをいつも責めていた。
あの子たちに与えた痛みは、私を切りつけた子の中にある痛みと同じなのだ。
ごめんなさいと謝りながら、気を失いました。
やがて少年は警察に逮捕され、彼女も病院で治療を受けましたが、顔には一生消えない、真一文字の傷が残ってしまったそうです。
しかし事件から数ヶ月たってから、彼女は娘さんたちの様子が明るく変わっていることに気づいたそうです。
「あなたたち、変わったわね」と声をかけました。
しかしその時、彼女たちはこう答えました。
「お母さん違う。
私たちが変わったんじゃない。
お母さんが変わったんだよ」と。
これもまた、一人の母親が、ハンナのように苦しみを通して、変えられていく例と言えるかもしれません。
しかし苦しみに意味があるということに気づきはしても、それがまことの神様が救いを与えるために与えられたものだということは、苦しみに寄り添ってくれるクリスチャンの存在が不可欠です。
私たち一人一人が、そのようにだれかに寄り添うことができますように。
とくに、自分の母親に感謝し、とりなし、寄り添う一週間となりますように。
2025.5.4「あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:15-25)
みなさん、おはようございます。
復活節第三週のメッセージは、よみがえったイエス様が、弟子ペテロに対して語られたみことばをともに味わっていきましょう。
「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛していますか」。
イエス様は、ペテロに同じ質問を三回繰り返しました。
それは彼を責めるためではなく、彼の傷をいやすためです。
かつてペテロは、大祭司の庭で「イエスなど知らない」と三度繰り返しました。
その苦々しい記憶は、三回繰り返される「あなたを愛します」という告白によって、神さまの前に上書きされました。
ペテロが「あなたを愛します」と口にするたびに、ペテロの中では、かつてイエスを知らないとまで言ってしまった自分自身の弱さが、まるでじくじくした生傷のように思い出されたことでしょう。
しかしペテロにとっては生傷であっても、神は、もうそれは過去のこと、わたしはあなたの失敗をすべて塗り直した、と語ってくださっているのです。
神が塗り直したものは、サタンでさえ、それをほじくり返して私たちの心を責めるということはできません。
ペテロも、そして私たちも、数え切れない失敗があったとしても、神はそれらをすべて塗り直してくださって、私たちを、神の働きのために用いてくださいます。
続いてイエス様が語られた言葉は、ペテロの死に方を予告するものであったと書かれています。
「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。
しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。
この二ヶ月ほど、私はいわゆる五十肩で、服を着替えるのもなかなか容易ではありません。
優しい妻が着替えを手伝ってくれるのですが、ちょっと手順を間違えると、痛い痛いと叫んでしまって、妻があきれ顔になります。
「若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩けた」というのが、いかにありがたいことでしょうか。
伝説では、晩年のペテロはローマ帝国に捕らえられて、逆さ十字架につけられて殺されたそうです。
そのような自分の死を予告されたとき、ペテロは何を思ったでしょうか。
聖書はそれを記していません。ただこう書き残されているだけです。
「こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい』」と。
「わたしに従うこと」、それはわたしの十字架を背負って生きる、ということに他なりません。
それは、たとえイエス・キリストのために傷つけられ、殺されることがあったとしても、それでも十字架を背負い続けるということです。
それは牧師にだけ課せられたものでしょうか。
だとしたら、十字架は牧師だけが背負うものになります。
しかしイエス様は、別のところでこう語られていました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
「だれでも」とあるからには、それは特定の職業にではなく、すべての人に対して向けられている言葉であるわけです。
つまり、あらゆるクリスチャンにあてはまる言葉なのです。
先週の召天者記念会で、改めて思いました。
クリスチャンの人生は、それがどんなものであろうとも、神の栄光を表す。
世の人々は死を恐れ、ひとりで死にゆくことを嫌い、葬式を飾り立てて死を隠します。
しかしクリスチャンは、死を通してでさえ、神の栄光を表すことができる。
死さえも、私が神よりいただいた永遠のいのちに何の手出しもできないことを人々に向かって明らかにすることができる。
これはクリスチャンの特権です。
イエス様はペテロに力強く命じました。「わたしに従いなさい」。
それはペテロだけへの命令ではありません。
主は、他ならぬあなたに向かって言われています。「わたしに従いなさい」。
たとえあなたの人生の終わりがどのようなものであったとしても、あなたがなすべきことはただひとつ、「わたしに従うこと」だけだ、と。
でも、私たちは弱い者です。
従いたいと願いながら、ついイエス様から目を離してしまう弱さを持っています。
ペテロも同じでした。
「私に従いなさい」という、イエス様のまっすぐな瞳から、彼は視線をそらせてしまいます。
彼の目に飛び込んできたのは、イエスが愛された弟子、すなわちヨハネの姿でした。
ペテロは主に尋ねました。「主よ。この人はどうですか」。
ペテロに限らず、私たちはどんぐりのような生き物です。
つまり、どんぐりの背比べという言葉そのまま、しょっちゅう人と比較します。
ある方がこんなことを言っていました。
若い頃は他人が気になって仕方なかった。
年を重ねてようやく他人を気にしなくなったと思いきや、今度は、あの頃は何でもできたのに、と若かった頃の自分を比較している、と。
私たちは他人であれ、自分自身であれ、今の自分と何かを比べずにはいられないのかもしれません。
しかしイエス様は、みことばを通して私たちに言われるのです。
「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と。
イエス様が求めていることはただ一つ、「わたし、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」ということ。
十字架を背負って、目の前を歩いているイエス様の背中を見つめながら、決して目を離すことなく、自分の十字架を背負い続けていくならば、私たちは約束されている栄光の冠を受け取ります。
神は、ご自分の愛する者たちには、それぞれに、違った人生を用意しておられます。
ペテロはヨハネにはなれないし、ヨハネもペテロにはなれません。
同じように、私はペテロになる必要はないし、他の誰かの複製品のようなクリスチャンになる必要はありません。
尊敬し、ああなりたいと思いはしても、実際には同じものにはなれないし、なる必要もないのです。
イエス様がペテロに語った、「年を取ると、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行く」という言葉は、ペテロが最後には拷問を受けて死んでいった姿を表しています。
一方ヨハネは、最後にはパトモス島という島に流されて、そこで生涯を終えました。
しかし彼は、そこで記したヨハネの黙示録の中で、「私は神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と書いています。
彼にとって、権力者に捕らえられ、島流しにあったことも、それは神の恵みと証しのためでした。
ペテロとヨハネは、与えられた人生は違いましたが、二人ともイエスから目を離さず、イエスに従ってこの地上を去っていったのです。
そして神は、私たち今日に生きるキリスト者にも同じことを求めておられます。
他の人の信仰をまねたりうらやんだりする必要はない。
私たちがまねるべきお方はただイエス・キリストのみ。
見つめ続けるお方はただイエス・キリストのみ。
イエス様は今日も、私たちに呼びかけます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。
最後に、パウロの言葉を紹介して、説教を終わります。
「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。
私たちは誰のために生きて、誰のために死ぬのでしょうか。
あなたの人生をただキリストに置くときに、あなたも、あなたの家族も救われます。
キリストから目をそらさずに歩んでいきましょう。
2025.4.27「新しい夕が来た」(ヨハネ20:19-29)
みなさん、おはようございます。
復活節第二週の礼拝となりました。
今日の礼拝説教は、教会学校で取り扱っているのと同じ箇所から語ります。
イエスがよみがえられた日曜日の夕方から物語は始まります。
日本では一日は夜明けから始まりますが、昔のイスラエルでは、逆に日没から一日が始まりました。
創世記の1章に天地創造の記事がありますが、そこでは一日ごとに「夕があり、朝があった」と語られています。
「朝があり、夕があった」ではないんですね。
日本の朝の風物詩、ラジオ体操はこんな歌で始まります。
「新しい朝が来た、希望の朝だ」。
もしイスラエルにラジオ体操があれば、「新しい夕が来た、希望の夕だ」となるのでしょう。
しかしこの時、弟子たちの心には希望などありません。
新しい一日がこれから始まるというのに、彼らは扉に鍵をかけて、お互いにため息をついていました。
それは、ユダヤ人を恐れていたからです。
イエス・キリストを十字架につけて祭司長や律法学者が、今度は自分たちを捕らえるためにローマ兵を送りこんでくるのではないか。
その恐れから、彼らは扉に鍵をかけていたのです。
しかし振り返ってみてください。
この朝、すでにイエス様はよみがえられたのです。
女たちが墓で御使いに出会い、ペテロやヨハネは墓に走って行って、墓には、イエス様の亡骸を包んでいた亜麻布しか残っていなかったことを確認しました。
それから半日も経っているのです。
しかしイエス様がよみがえられたにもかかわらず彼らは恐れに支配されていました。
なぜでしょうか。
イエス様がよみがえられたことを信じなかったからです。
そして彼らはイエス様のよみがえりを信じない代わりに、別のものを信じていました。
それは、ユダヤ人が今度は自分たちを捕らえるかもしれないという恐れです。
じつは祭司長や律法学者たちには、弟子たちを捕まえる権威などありませんでした。
さらに言えば、ユダヤ人たちにはもともとイエス・キリストを捕らえる権威もなかったのです。
だから彼らは群衆を使ってピラトを揺さぶり、自分たちではなくローマ総督が自分の権限でイエスを十字架刑にするように仕向けたのです。
少し話が難しくなってきましたが、要するに、弟子たちは、恐れなくてもよいものを恐れていました。
本来は弟子たちを捕らえることなどできないユダヤ人たちを恐れて扉に鍵をかけていました。
これはたいへん象徴的です。
私たちは、まことの神様、あるいは救い主イエスという、本当に恐れなければならない方を恐れないときには、恐れなくてもよいものを恐れるようになってしまうのです。
なぜかというと、人間は何かを恐れなければ生きていけない、弱い生き物だからです。
本来恐れる必要などないユダヤ人たちを恐れ、本来恐れるべきである、よみがえられたイエス様を恐れない。
それがこのときの弟子たちの姿でした。
何とあわれな姿でしょうか。
力がないからあわれなのではありません。
力に気づいていないからあわれなのです。
よみがえったキリストを信じる者には、世界を変える力も与えられたことに気づかず、自分を無力だと決めつけている弟子たちの姿は、この世で最もあわれです。
しかしそのあわれは、一瞬にして終わりを告げます。
鍵のかかった家の中に、突然、イエス様が現れました。
イエス様は彼らに語りかけます。
「平安があなたがたにあるように」と。
そしてこのあいさつの後、主はご自分の手と脇腹を弟子たちに示された、とあります。
そこにあったのは光輝く肌ではありません。
釘と槍に突き通された穴がぽっかり開いている、痛々しい生傷です。
イエス様はそれを弟子たちに見せながら、「平安あれ」と語られました。
私たちも、聖書を開くとき、そこで同じ経験をします。
聖書の言葉は、その多くが厳しい言葉です。
私たちの罪をえぐり出します。
しかしだからこそ、そこには本当の平安があるのです。
矛盾しているようですが、私たち自身は聖書を通して自分の罪、欲望、愛の限界を思い知らされます。
しかし人間としての私たちはそうであっても、私たちはもうひとつ、イエスを救い主として信じた神の子どもでもあります。
罪の悲しみだけで終わりません。
人間としての自分自身の姿を突き抜けて、私のすべてをまるごと覆ってくださり、御国に着くまで背負い続けてくださるイエス・キリストの慈しみを、私たちはみことばを通して経験します。
弟子たちはまさにそれを経験しました。
イエスの手とわき腹は彼らの恐れを映し出す鏡でした。
しかし恐れに支配され、イエスを見捨てた彼らをイエスは再び弟子として認め、声をかけてくださったという喜びがそこにあったのです。
このとき、イエスは弟子たちに「聖霊を受けなさい」とも語られました。
これはこの時から七週の後に起こるペンテコステを言っているのではなく、いまこのとき、聖霊を受けなさいという意味です。
私たちがイエス・キリストを信じたとき、必ず心の中に聖霊が入ってくださいます。
というよりも、心の中に聖霊が入ってくださらなければ、イエス・キリストを信じることはできません。
だから私たちは自分の中に聖霊が生きておられることを疑う必要はありません。
あらゆるクリスチャンの中に聖霊が生きておられます。
しかしその聖霊を自分の中に閉じ込めて身動きさせないようにしてしまってはいけません。
言うならば、自分の心の中を信仰以外のものでおおばらにして、聖霊がすみっこで縮こまっているようにしてはいけないということです。
信仰以外のもの、それが、この場にいなかったトマスが抱えていたものでした。
トマスだけがこの場にいなかったため、彼は他の弟子たちにこう言いました。25節をご覧ください。
「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」。
英語でトマスという言葉は「疑い深い人」を指します。
それほどまでに悪いイメージがついてしまっているトマスですが、私はむしろトマスはだれよりもまじめな人だったのだろうと思っています。
イエスを見捨ててしまった自分自身を簡単に許すことができないという生真面目さが、このような彼のかたくなな態度と激しい言葉を生んでいるように思えます。
しかしまじめであることは美徳ですが、それでももしそれが私たちの心をかたくなにしてしまうのであれば、神様ご自身に取り扱っていただかなければなりません。
そして、イエス様は実際そのようになさってくださった方です。
八日後、イエスはトマスの前にも現れてくださいました。
そしてこう言われました。27節をご覧ください。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
このときイエス様は、トマス一人のためだけに現れてくださいました。
他の十人はその証人です。
イエス様は、トマスの心から余計なものを放り出してくださいました。
そして彼はもう一度信仰に立ち返りました。
「私の主。私の神」と叫んだのです。
神は、信じる者を必ず救い出してくださるお方です。
求道者だけではなく、トマスのように、あるいはその八日前の弟子たちのように、信仰のぐらついた者たちに対しても、必ず救い出してくださいます。
一人一人が、このイエス・キリストをいつも心の真ん中において、歩んでいきましょう。
2025.4.20「恐ろしかったでは終わらない」(マルコ16:1-8)
みなさん、おはようございます。
今日は復活節、イースターです。
約六週間にわたる四旬節、レントと呼ばれますが、イエス様の苦難をおぼえる40日間が明け、いよいよ今日はイエス様がよみがえられたみことばをいただきます。
午後には子どもたちと一緒に卵探しなどのお楽しみ会も予定されていますが、まずはこの礼拝の中で、みことばを味わっていきましょう。
1節をもう一度お読みします。
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」。
なにかほのぼのとした始まりに聞こえますが、じつはこれは危険と隣り合わせでありました。
マタイの福音書によれば、このとき、イエスを十字架につけた祭司長たちは、弟子たちがイエスの死体を盗んでよみがえったと言うかもしれないから、墓に見張りをつけてくださいと総督ピラトに依頼し、ピラトも兵士たちを墓の前に派遣していました。
もしローマ兵に見つかれば、彼女たちも無事ではすみません。
しかし知ってか知らずか、それでも彼女たちは向かったのです。
確かにイエス様は十字架で死なれた。
でも私たちは、最後にイエス様の亡骸に油を塗って差し上げたい。
そんな思いで、安息日の次の朝が明けるや、彼女たちは墓に向かったのでしょう。
3節では、彼女たちが「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていることが記録されていますが、そっちのほうの対策を先にしてから行ったほうがいいのに、と思わないでもありません。
でも、長嶋茂雄監督がよくこう言っていました。
「想念は現実化するんです」。
初めて聞いたときは意味がまったく分かりませんでしたが、確かに想念は現実化するんです。
要するに、「求めなさい、そうすれば与えられます」ということですね。
確かに、人生はあきらめることの繰り返しという部分もありますが、あきらめてもよいどうでもよいことと、あきらめずに強く求めることを見分けることは大事です。
彼女たちはその大事なほうを選びました。
石のふたを誰が開けてくれるか、兵の見張りをどうクリアするか、あまりそういうことは深く考えません。
とにかくイエス様に会いたい。
最後の油を塗って差し上げたい。
その強い求めを、天の神はすべて知っておられました。
そしてあらゆる障害をあらかじめ取り除いてくださっていたのです。
4節にはこうあります。
「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。
石は非常に大きかった」。
見張りの兵士もいなくなっています。
不思議に思いつつも彼女たちがイエスの墓に入ってみると、そこにいたのは純白の衣をまとった青年でした。
彼女たちが非常に驚くと、青年は「驚くことはありません」と、まるでこちらの反応をあらかじめすべて知っているかのようです。
それもそのはず、この青年は神からの特別な使いでした。
御使いは彼女たちにこう語りかけました。
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。
ここにはおられません。
ご覧なさい。
ここがあの方の納められていた場所です」。
この二千年間、数え切れない人々が、イエスの復活は、本当はなかったのだと主張してきました。
ある者はイエスは十字架で死んだのではなく死にかけていたのであり、墓の中で意識を取り戻した彼は自分で墓を抜け出したのだと言いました。
またある者は弟子たちがイエスの死体を盗み出して復活の出来事を作り上げたのだと言いました。
集団幻覚だったとか言う人もいましたし、女性たちは隣の墓と間違えたのだとか、冗談か本気かわかりませんが、そのように主張した学者もいました。
しかし二千年間、誰ひとりとして、復活はなかったことを証明することはできませんでした。
イエスが墓で仮死状態から息を吹き返したとして、女性たちが三人がかりでも開けられない石の扉を、死にかけた人間がどうして開けられるでしょうか。
もし復活が弟子たちが作りあげた嘘であったとすれば、なぜなぜ彼らは自分で考えたうそのために命をすてることができたのでしょうか。
このような反論をひとつ一つ挙げていったらきりがありません。
復活は、タイムマシーンでもない限り、あったか、なかったかを証明することはできません。
ただ信じるか、信じないかのどちらかしかありません。
しかし確かなことは、復活を信じた者たちは、確かに人生が喜びへと変わっていった、ということです。
8節をご覧ください。
「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。
震え上がり、気も動転していたからである。
そしてだれにも何も言わなかった。
恐ろしかったからである」。」
あれ、家に帰ってふとんにくるまってガクガクブルブル。
どこが喜びの人生やねん、と思わず関西弁で突っ込みたくなりますが、実はマルコの福音書はここで終わっています。
その後、さすがにこれはいかんと当時のクリスチャンが考えたのか、いくつかの文章が付け加えられていますが、少なくともマルコに関しては、「恐ろしかったからである」で、この福音書を書き終えています。
この女性たちにとって、イエスがよみがえったことは、文字通り、恐ろしいことだったのです。
一度完全に死んだ者がよみがえる。
それは私たちの常識を越えた出来事です。
しかもイエスの死に際して、弟子たちは逃げだし、女性たちは遠くから見つめることしかできなかった。
そのイエスの死を、いまさらなかったことにすることはできません。
まさに「恐ろしかった」としか言わざるを得ない、イエスの復活です。
しかし大切なことは、福音書の言葉は「恐ろしかった」で終わっていても、それ以降の弟子たちや女性たちの行動は、確かにその恐怖を乗り越えて、むしろ本当によみがえられたという喜びをもって、イエスを伝えていったということです。
もし「恐ろしかったから誰にも言わなかった」で本当に終わっていたら、福音はそこで終わっていたことでしょう。
しかし、歴史が証明しています。
復活を目撃した者たちは、恐怖を乗り越えて復活を信じる者となりました。
そして復活を信じた者たちは、死を乗り越えて、永遠のいのちを世界の至るところへと伝えていったのです。
よみがえったキリストを信じるときに、私たちの中には決して取り去られることのない喜びといのちが生まれます。
だから信仰に向かって一歩踏み出すのです。
あるいは一歩踏み出すことを伝えるのです。
復活は決して遠い出来事ではありません。
私たちが一歩を踏み出せば、そこに復活の恵みが満ちあふれています。
この喜びをかみしめながら、イースターの一週間を歩んでいきましょう。
2025.4.13「主に死に変えられた者たち」(マルコ15:33-47)
みなさん、おはようございます。
6回にわたり語ってきた十字架への道の説教も今日が最後になりました。
いよいよ来週には復活週、イースターとなりますが、その前に私たちは、世界を暗闇と沈黙が襲ったという十字架のできごとについて、今日は一緒に迫っていきたいと願います。
まず33節をお読みします。
「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」。
イエス様が十字架につけられたのが午前9時、息を引き取られたのが午後3時、と考えると、約6時間の十字架上での苦しみのなかで後半の三時間、皆既日食が起こったということになります。
しかしじつはこの暗闇は、ただの自然現象ではありません。
この三時間の暗闇は、約一週間続く、イスラエルの大事な年中行事である過越の祭の最後の三時間に起こりました。
過越の祭とは、かつてイスラエル人がエジプト人の奴隷として過ごしてきたとき、神がイスラエル人を奴隷から解放してくださったことを記念するお祭りです。
旧約聖書によれば、闇がエジプトを覆う真夜中、エジプトのあらゆる家はさばきが襲ったが、子羊の血を家の門柱と鴨居に塗るように言われていたイスラエル人の家はさばきが過ぎ越した、と書かれています。
つまり二千年前の過越の祭りの最後の三時間、世界を暗闇が覆うなかで、イエスが息が引き取られるというこの出来事は、イエスの十字架が、今度はイスラエル人ではなくてすべての人間を奴隷から解放するための、過越であることを象徴的に表しています。
しかし奴隷と言ってもエジプトの奴隷ではありません。
もっと深刻で、もっと本質的な、罪の奴隷からの解放を、イエス様は私たちに与えるために、十字架にかかってくださったのです。
聖書は言います。
あらゆる人は罪を犯したため、神からの栄誉を受けることができない、と。
あらゆる人は、生まれながらにして、アダムとエバが神に逆らって人の中に入った、罪の原理を引き継いでいます。
まるで天使のような愛らしい笑顔で生まれてくる赤ちゃんが、初めから罪の原理を宿しているということは、およそ私たちには信じられず、受け入れがたいことでありましょう。
罪を持っているというのは、赤ちゃんがあんな顔をしてじつは心の中で邪悪なことを考えているとかいう意味ではありません。
しかし私たちの中には生まれたときから知らずして、この存在の中に罪の原理を宿しているのです。
それは人格とか徳といったこととは関係なく、私たちの中に潜んでいます。
それゆえにあらゆる人間は、神の前に罪人であるのです。
そしてその行き先には、地上の死の先にも続く、永遠の死があると聖書は警告しています。
イエス様は、そのような最後を私たちに与えないために、ご自分が十字架にかかられました。
私たちの罪のさばきを身代わりとして引き受けるために、神からのろわれたものとなりました。
私たちを罪の奴隷から解放するために、神の子羊として、ご自分の血潮を十字架で流されました。
世界を暗闇が覆った最後の三時間、全地が沈黙しました。
空の鳥ははばたきとさえずりをやめ、家畜や野の獣たちも身動きせずいななきをやめた。
すべての生き物たちは十字架についたイエス・キリストのあまりの苦しみに息をのみます。
御子を十字架に渡された父なる神の痛みの大きさに口をつぐみます。
すべての被造物が沈黙し、静寂だけが地上を覆います。
そのような押しつぶされるような三時間が終わる頃、それまで沈黙を守っていたイエスさまは全地に響き渡るような大声で、こう叫ばれました。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。
わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
この言葉は、一見すると、イエス様が父なる神に泣き言を言っているように聞こえます。
しかしこの言葉があるからこそ、本来、私たちが受けるべきであった、神ののろいが、イエス様を信じる者たちからは取り去られていることを確信することができます。
イエス様は、確かに見捨てられました。
聖書にははっきりと書いてあります。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださった」。
私たちのかわりに見捨てられました。
私たちのかわりにのろわれました。
私たちがかぶるべき、いばらの冠を。
私たちが打ちつけられるべき、手足の釘を。
私たちが吐きかけられるべき、つばきとあざけりを。
そして私たちが叫ぶべき、「神に見捨てられた」という絶望者の叫びを、イエスは代わりに引き受けてくださったのです。
どうか忘れないでください。
あなたの罪、それは過去・現在・未来にわたって永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、キリストの十字架によって完全に打ち消されたのだということを。
恵みは何があっても決してあなたを離れることはありません。
あなたが変わっても、神は変わりません。
あらゆる人の力、情熱、環境、それは変わっても、神の愛は決してあなたから離れることはありません。
あなたが叫ぶべき罪の痛みは、すべてイエスが十字架で叫んでくださいました。
そしてご自分が罪から人々を取り返したことを確信するかのように、イエスは十字架で息を引き取られました。
その堂々とした死に様は、本来イエスを嘲っていたローマの百人隊長でさえ、「この方は本当に神の子であった」と告白するほどでした。
イエスの正面に立っていた百人隊長だけではなく、このイエス様の死に様を弟子である女性たちが遠くから見つめていました。
40節にはその名前がこう記されています。
マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメがいた、と。
その中のひとり、サロメに注目してみたいと思います。
彼女は、ほかの福音書ではゼベダイの子らの母と呼ばれています。
ゼベダイの子らとは、イエスの十二弟子のひとり、ヤコブとヨハネの兄弟を指しています。
かつてこのサロメは、ヤコブとヨハネを連れてイエスにこう直訴したことがありました。
「イエス様、あなたが御国の王座に着かれるときには、私の二人の息子をひとりは右に、ひとりは左につけてあげてください」。
それは母としては愛のしるし、しかし弟子としては盲目のしるしでした。
イエスは言われました。
「あなたがたは、私がこれからしようとしていることがまったくわかっていないのだ。
私が受けようとしている苦しみの杯をあなたがたは飲むことができるのか」。
今、十字架を前にしてサロメは何を思ったでしょうか。
イエスは御国の王座どころか、犯罪人として十字架につけられました。
その右と左の十字架には、息子たちではなく名も知れぬ強盗たちがつけられました。
しかしそこで彼女はイエスに失望しませんでした。
むしろ彼女は、ここで本当に目が開かれたのです。
これがイエスの言われた苦しみの杯なのだ、と。
イエスの十字架は、信じる者たちを変えていきます。
ゼベダイの妻、サロメは、もっとも地上の栄光とは遠いように見える、イエスの十字架を通して、逆に自分自身の信仰を作り変えられていきました。
私たちも、クリスチャンとしてすでに何十年も歩んでいるかもしれません。
しかし十字架はいつでも私たちの心と生き方を作り変えることのできる、神の力です。
その真理を、もう一人の人も証ししています。
それは、アリマタヤのヨセフです。
彼はキリストの弟子ではありましたが、ユダヤ人を恐れて、弟子であることを隠していた人でした。
しかし42節では、その彼が、「勇気を出して」ピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た、とあります。
彼を変えたのは何だったのでしょうか。
これもまた、イエス様の十字架がもたらした、神の力でした。
すでに夕方になり、あらゆる仕事をしてはならない安息日が始まろうとしていました。
ヨセフは考えたでしょう。
もし自分が動かなければ、イエスの遺体は丸二日、十字架の上にさらされたままになる、と。
今までの彼は、そのようなことは他の弟子に任せていた者でした。
しかし今は違います。
彼は急いで亜麻布を買い、自分の墓としてとってあった、新しい墓にイエスを納め、入り口に石のふたをしました。
ヨセフは夢中でした。
彼は自分がユダヤ人を恐れ、真実を隠している中途半端な弟子であることを思いながら、それでもイエスのために夕方の薄闇の中を走り回りました。
そしてそこで、キリストのためにあからさまに走り回ることが、自分の立場を守るためにこそこそ逃げ回る生き方よりはるかに楽しいことに気がついたのです。
「死」は、人びとが最も触れたくないものと言えるかもしれません。
しかし神は、イエスの死を通して、かえって人びとの心に触れられました。
それが二千年前に起こった出来事であり、そして今日も起こりうることなのです。
イエスの死、すなわち十字架が語られるとき、すでにそれを信じているはずの私たちクリスチャンの中にも霊的な新生が起こります。
古いものが新しくされ続けていきます。
ましてや、私たちが勇気を出して十字架を語るならば、それを聞いた人の中に、最初はさざ波のように、しかしやがては救いに至る悔い改めが起こるのです。
いよいよ、来週はイエス・キリストの復活を祝うイースターです。
これからの一週間、私たちの証しの日々が導かれていきますように。
2025.4.6「十字架以外に救いはない」(マルコ15:16-32)
みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、福音書の中でも、最も人の罪の醜さが表れている場面と言えるでしょう。
しかし最も美しい神の愛は、最も醜い人の罪の中にこそ現れます。
目を背けずに、みことばをひもといていきましょう。
まず16節をお読みします。
「兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた」。
「全部隊」、すなわち、エルサレムに駐屯するローマ兵すべてが官邸に集められたのです。
イエスを安全に死刑場にまで連れていくためにでしょうか。
興奮する群衆からイエスを守るためにこれだけの兵士が必要だったのでしょうか。
答えは逆です。
彼らはイエスを守るためにではなく、イエスをあざ笑うために集まってきたのです。
ユダヤの王をあざけり、唾をはきかけ、せせら笑う、ただそれだけのために。
官邸に集まった兵士たちは紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせました。
そして彼らの「礼拝」が始まったのです。
もちろんその礼拝は、ひとかけらの真実も持ち合わせていない、偽りに歪んだ礼拝です。
兵士たちは黄色い歯をむき出し、下品な冗談をたたき合いながら、主の前にひざまずきます。
神への尊敬に代えて彼らは葦の棒で主の頭をたたきます。
神への賛美に代えて、次々とその顔に、衣に、唾を吐きかけます。
ハレルヤの叫び声に代えて、彼らはこう叫びました。
「ユダヤ人の王さま。ばんざい」。
この言葉は、英語の聖書では、「王よ、どうか長く生きられますように」という文になっています。
目の前のイエスがこれから死刑にされることを知ってのうえで、彼らはいけしゃあしゃあと「いつまでも生きられますように」と叫ぶのです。
いったい主イエスは、どのような思いでそこに座っておられたのでしょうか。
怒りでしょうか。恥辱でしょうか。悲しみでしょうか。
この出来事より数時間前、ゲツセマネの園で、槍や棒を手にした群衆に囲まれたとき、イエスは弟子たちに言われました。
「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」。
そうだ、イエスをあざ笑い、打ちたたいているすべての兵士たちが一瞬にして溶け去るような、御使いの十二軍団を遣わしてくださることもできたはず。
もし御使いたちがこの総督官邸でのイエスの姿を天から見つめていたとしたら、彼らは言うでしょう。
こんなおぞましい礼拝をなぜ我らの主は我慢しておられるのか。
こんな愚かな人間どものために何を主は耐えておられるのか。
しかし主は沈黙し続けました。
兵士たちの嘲りを、顔にかけられるつばを、打ちたたかれるほおをそのままに、ひたすら耐えられました。
それは、イエスが向かおうとしておられる十字架、イエスが背負おうとしておられる十字架、ただそれだけが、人を罪から救うことができるからです。
兵士たちはそのような、イエスの十字架に対する覚悟など知るよしもありません。
この後、彼らはイエスの十字架を、田舎から出てきたシモンという男に代わりに背負わせます。
兵士たちにとって、十字架はただの処刑の道具であって、だれが背負おうがかまわないものでした。
しかしイエスにとっては違いました。
まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって十字架にかけられる。
これより他に救いはありません。
神のひとり子が十字架にかけられること以外に、父なる神の怒りをなだめることはできません。
この苦しみの杯を飲み干す以外に、人々の罪を贖うことはできません。
ただ十字架だけが、罪にとらわれた人々を解放することができるのです。
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」
イエスはその狂った群衆の叫びの中、ゴルゴタの丘にまで連れてこられました。
イエスは、すべての服をはぎとられて、地面に置かれた十字架の上に横にさせられました。
何人ものローマ兵の腕が伸び、イエスの御手を、その御足をそれぞれ横木と縦木に押さえつけます。
兵のひとりが手首を乱暴に押さえつけ、主の五本の指を無理矢理に広げます。
そして他の兵士が左手に釘をつかみ、主の手のひらの真ん中に押し当てつつ、右手の金槌を何度も振り下ろします。
肉の裂ける音、血の飛び散る音。
イエスは釘が打ちつけられる瞬間、どのような声をあげられたのでしょうか。
それとも歯を食いしばって声を殺されたのでしょうか。
あまりの痛みに目を閉じられたのでしょうか。
それとも苦しみの杯を飲み干すために目を見開かれたのでしょうか。
その痛みがどれほどのものであったのか、私たちには想像するしかありません。
しかし確かなことは、この肉体が割かれる痛みがどれほどのものであったとしても、イエスにとって、もっと大きな十字架の苦しみは、「木にかけられた者はのろわれた者である」という旧約聖書のみことばのとおり、イエスが父なる神からのろわれた者とされることであったということです。
それは、はじめから神との関係が破綻した罪人として生まれてくる私たち人間には決して理解できない苦しみです。
その意味では、私たちもまた、ここに出てくる、さまざまな人々と同じです。
兵士たちが、祭司長たちが、律法学者が、道行く者たちが、共に十字架につけられた犯罪人たちが、イエスの十字架は他人事でした。
私たちも、十字架を他人事としか受け止められませんでした。
二千年前のエルサレムに私は生きていない。なぜ二千年前の出来事が自分に関係があるのか。
十字架などというものが今の自分の生活と何の関係があるのか、と。
しかし、十字架はあなたのためでした。
十字架で死なれたイエスを、自分とは関係のない昔の人としか受けとめられない、あなたのためにイエスは十字架で死んでくださいました。
イエスを十字架につけた後、着物をくじでわけた兵士たち。
十字架の一番そばにいながら十字架が見えていない人々の中に、あなたもいました。
「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。
むしろ自分こそ救いが必要だということを知らずにあざける人々の中に、あなたもいました。
「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。
目に見えるものしか信じようとしない愚かさを自ら言い表す人々の中に、あなたもいました。
イエスの十字架の右と左で彼をあざけった犯罪人たち。
自分が罪人であることがわからない彼ら自身こそ、かつての私たちの姿でした。
しかし今は違います。神は私たちの目を開き、十字架の真実を教えてくださったからです。
それは私の罪のためだったのだ、と。
自分ではどうやっても解決することのできない罪へのさばきを永遠に消し去るために、イエス様は私の身代わりとなって十字架にかかってくださったのだ、ということを私たちは知っています。
だからこそ、私たちも自分の十字架を背負いながら、イエスの後についていくのです。
この世界は、今も救いを必要としています。
そして神は私たちを救いのメッセンジャーとして用いていくために、この時代において、まず私たちを救ってくださいました。
十字架は、決して万人受けするような話ではありません。
多くの人々には馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれません。
しかしもし私たちが、自分自身が十字架によって救われたことをまっすぐに語るならば、そのときに神は誰かの心を開いてくださって、救いを広げてくださいます。
ですから、語り続けていきましょう。
これからの一週間、ひとり一人の上に、主の導きが与えられますように。
2025.3.30「正しいと知りながら拒んだピラト」(マルコ15:1-15)
みなさん、おはようございます。
四旬節も後半に入りました。
今日の礼拝メッセージは、ローマ総督ポンテオ・ピラトの姿から、信仰について学んでいきたいと思います。
これはいささか誤解を生みやすい表現かもしれません。
少なくとも今日の箇所から、ピラトの中に信仰を見いだすことはできないからです。
彼は頭のよい人でした。
ユダヤ人たちが、ローマの権威を利用してイエスを十字架につけようとしていることを知っていました。
そして、ある程度はひとりの政治家、法律家として、イエスを守ろうとした姿も見受けられます。
しかし彼は最後まで、イエスを救い主として見ることができませんでした。
「ユダヤ人の王」と皮肉交じりに語ってはいますが、本当の王だとはもちろん思っていません。
彼がどんなに頭が良く、社会的に高い地位にあったとしても、信仰に届かなければ、それは意味がありません。
それを私たちは改めて心に刻みつけなければならないのです。
私たちが毎週の礼拝で告白している使徒信条、その中に、人間の名前が二人記録されています。
ひとりはキリストの母となった処女マリヤ、そしてもう一人がこのポンテオ・ピラトです。
私たちはどちらの生き方を選ぶのでしょうか。
貧しいながらもキリストの母として信仰によって生きたマリヤでしょうか。
それとも己の立場やプライドを守るために、キリストが正しいことを知っていながらユダヤ人に引き渡したピラトでしょうか。
どうかピラトではなく、マリヤの道を選びたいと思います。
かつてマリヤは御使いの前でこう告白しました。
「私は小さなしもべです。どうか神のおこころどおりになりますように」。
それに対して、ピラトは、ローマ総督という立場とプライドを失うまいとし、イエスにここまで近づいていながら、最後まで目の前のイエスを神として見ることができなかったのです。
日本ではクリスチャンの数はたいへん少ない、1%未満ですが、しかし人生においてまったく福音に触れたことがないという人はいないでしょう。
お年を召した方であったり、教会のない地域に住んでいたりということはあっても、それでも何らかの機会に、福音に触れたことがあるのです。
しかしそれはある意味、一生に一回か二回か、ということもざらではありません。
そしてせっかく福音に触れても、この世の価値観や生き方に心が支配され、目がふさがれてしまっているならば、救われる機会を逃してしまいます。
もちろん救いは神さまのご計画ではありますが、そこで人間の態度や責任がまったく問われないということではないのです。
ピラトの姿から私たちはそれを現代の日本人の姿にも当てはめることができます。
イエスは罪がない者であることがわかっている。
キリスト教の福音も正しいことを教えているように思われる。
しかし、しがらみの中で、正しいものを選び取ろうとする勇気がない。
人生や生活に閉塞感を感じながらも、家族の手前、近所の手前、周りに合わせ、福音を聞いてもそれはまた今度という人々であふれています。
パウロがアテネで説教した時、人々は言いました。
「このことについては、またいつか聞くことにしよう」。
しかし「いつか」はなかったのです。
また同じパウロが総督ペリクスに福音を語った時も、聖書はこう記録しています。
「パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。
しかしペリクスはパウロを呼び出さないまま、二年後には総督を解任され、福音を選び取る機会を失いました。
ピラトが、イエス・キリストを無実だと感じたことは間違いがありません。
「あなたは、ユダヤ人の王なのか」「あなたがそう言っています」。
その短い会話のあと、どれだけ自分に不利な証言をされても何も答えようとしないイエス。
総督の立場を得るために、言葉や策略を尽くして自分に有利な状況を作り上げてきたピラトにとって、ここでまったく反論も自己弁護もしないというイエスの姿は、驚きしかありませんでした。
ピラトの心に起こった感情や、言葉を拾い出してみましょう。
5節、「それにはピラトも驚いた」。
10節、「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである」。
14節、「ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか」。
ピラトは確かに気づいていました。
最初の驚きは、最後にはこのイエスという男に罪はない、という確信に変わっていったのです。
しかし彼の心ははっきりとそう気づいていたのに、彼は結局その道をまっすぐ進もうとしませんでした。
15節、「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
ピラトがイエスを十字架につけるために引き渡したことは、聖書の四つの福音書すべてに記録されています。
しかしその時の彼の心の中身にまで触れているのは、このマルコ福音書だけです。
そしてそれは「群衆を満足させようと思い」と書かれています。
この「思い」と訳されているギリシャ語は、新約聖書の中で約40回使われている言葉ですが、そのほとんどが「願い求める」あるいは「決める」と訳されている言葉です。
単に思い浮かんだのではありません。
自分の選択がどのような結果を生むのかを知っている、という意味です。
ピラトにとって、それはたいしたことには思えなかったでしょう。
しかし彼の選択は、彼から永遠のいのちを受けるチャンスをまさに永遠に奪ってしまったのです。
私たちクリスチャンは、世の人々に懇願します。
ポンテオ・ピラト、そして彼と同じようにこの二千年間、永遠のいのちに至る決断を保留したまま世を去った数え切れない人々のように、あなたはならないでください、と。
なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。
それは、後の時代の人々への警告です。
ピラトのようになってはならぬ、と。
福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。
まだ信じていない人々に信仰を強制することはできません。
しかしイエスを正しい人と認めながら、結局彼を拒み、永遠のいのちを失ってしまったピラトみたいに、私たちの家族や友人にはなってほしくありません。
だからこそ、祈りつつ、祈り続けつつ、私たちは福音を伝えます。
どうか、私と関わりのある人々が福音のすばらしさに目を開かれ、その喜びにあずかることができるように、と。
今週、私たちが出会う人々に、どのような形であっても、私たちが信じている福音を証ししていくことができるように、祈りましょう。
イエス・キリストは、私たちにいのちの喜びを与えるために、十字架へと向かってくださったことを、私たち自身の中にある喜びを通して、証ししていきたいと願います。
一人ひとりのこれからの一週間が、神さまによって豊かに用いられますように。
2025.3.23「悔い改めという希望」(マルコ14:47-54,66-72)
みなさん、おはようございます。
四旬節第三週になりましたが、今日の説教箇所は、ペテロがイエスのことを三度知らないと言った、これもまた有名な箇所からです。
しかしその前に、ゲツセマネの園でイエスと弟子たちが群衆に取り囲まれたとき、ひとりの弟子が剣をもって大祭司のしもべの耳を切り落とした場面から見ていきたいと思います。
ここで剣を抜いて大祭司のしもべに斬りかかり、その耳を切り落としたという、「そばに立っていた一人」とは、じつはペテロであったことがわかっています。
しかしここであえて名前が伏せられている理由、それは、自分よりも弱い者を攻撃することで溜飲を下げるという弱さが、この聖書を読んでいるひとり一人の中にあるのだということを気づかせるためです。
大祭司のしもべは、剣も持っていない、いかにも弱そうな男だったのでしょう。
言うなれば、ペテロにとっては、怒りをぶつけるのにふさわしい、反撃されそうもない相手でした。
感情で動いているようで、じつは打算を含んでいる、こういうみにくい人間の姿は、私たちの中にも隠れているものです。
霊的な問題が起こったとき、それを祈りとみことばによって戦うよりも、もっと楽で時間のかからない方法を選びます。
聖書で「剣」とはこの世的な解決手段を指します。実際に私たちは剣を手に取ることはなくても、世間の常識、自分の経験、自分の努力、私たちが祈りと聖書だけに信頼しようとすることを妨げるあらゆるものが、剣となり、手近な解決手段となります。
しかしそれは本質的な解決は生み出しません。
なぜなら問題の本質は、自分自身のかたくなな心であり、それが砕かれない限り、解決にはならないからです。
そしてこの世で最もかたくなな私の心は、この世の剣で砕くことはできません。
ただ祈りとみことばだけが砕くことができるのです。
イエス様は、剣を振り回して活路を開くやり方を認めませんでした。
ペテロが切り落とした、しもべの耳を元通りにいやし、ただこう宣言しました。
「こうなったのは、聖書が成就するためです」と。
この言葉は、「聖書を成就させよ」という命令形に訳することもできます。
剣を構え、無難な敵を選んで斬りかかるようなマネは、神の子どもたちにはふさわしくない。
「みことばを実現させよ!」
たとえわたしが捕らえられたとしても、それはみことばが実現されるためである、とイエスは凜として語られました。
私たちも、あらゆる問題に対して、この世の剣を用いるのではなく、みことばによって戦うのです。
しかし剣を振るった張本人であるペテロは、まだ自分の高慢に気づきません。
彼は一度その場から逃げ出した後、イエスを追いかけ、大祭司の庭に潜り込みます。
しかもたき火にあたりながら、イエスが尋問されている様子を眺めていました。
するとある人が話しかけてきました。
「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」。
隙をついてイエスを助け出すためのペテロの計画は、そこからガラガラと崩れていきます。
そのきっかけを作った人物は、ローマ兵でもなく、ゲツセマネにいた群衆のひとりでもなく、彼と面識もない、「大祭司の召使いの女のひとり」でした。
神は、ご自分の計画を果たすために、小さな者を用いられます。
ペテロもまた、そのような小さな者のひとりでした。
ガリラヤ湖の、無学な漁師にすぎなかった彼が、イエスに弟子として選ばれたのです。
それは、神が小さな者を用いられるという真理を、ペテロ自身に経験させ、彼を神の器として整えるためでした。
しかしペテロはいつのまにか、自分を小さな者ではなく、大きな者と考えるようになっていました。
たとえすべての弟子がイエスを見捨てたとしても、自分だけはイエスを助け出すと豪語するような人間になっていました。
神が用いるのはそんな高慢な者ではなく、へりくだった者です。
私には何かできると、神に自分を売り込む者ではなく、私には何もできない、しかし主がお入り用であれば、と自分を差し出す者。
そういう者を主は用いられます。
その真理をいつのまにかペテロはどこかへ置き忘れてしまっていました。
神はその忘れ物を取り戻させるために、大祭司の女中のひとりという小さな者を、ペテロに対するさばきの器として用いられたのです。
想定外の出来事に、ペテロは混乱します。
「何を言っているのか分からない。理解できない」。
ペテロはそう答えるのがやっとでした。
しかし召使いの女は、そこで終わらずに騒ぎ出し、周りの人々はペテロのガリラヤなまりに気づきました。
「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」。
もはや恥も外聞もない。
のろいの言葉さえ口に出して、イエスを知らないとペテロは言い張ります。
その時、二度目の鶏の鳴き声が闇を切り裂きました。
ここでペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」という言葉を思い出しました。
逆に言えば、それまでは忘れていたのです。
みことばを忘れていたゆえに、ペテロは大祭司の庭に、自分を過信して飛び込んでいきました。
みことばを忘れていたゆえに、神が小さな者をも用いられることを忘れ、召使いの女の告発の前に我を失いました。
そしてみことばを忘れていたゆえに、のろいの言葉を持ち出してまで、イエスなんて知らないと繰り返したのです。
しかし神のあわれみは何と深いのでしょうか。
これらのことを通して、神はペテロにみことばを思い出させてくださいました。
どん底に落ちたとき、私たちはそこで一筋の光のみことばを聞くのです。
それが聞こえたならば、悔い改めて心を開くこと。
それが私たちに向けられた、神さまからのメッセージです。
ペテロは外に出て、泣き崩れました。
知らない、知らない、知らない、と三度繰り返した、ふがいない自分に対する涙。
しかしこの時、ペテロのかたくなで高慢な心が、涙でぐしょぐしょにふやけて、流れていきます。
彼はようやく気づきました。
自分は神のために死ねるような強い人間ではない、と。
言葉だけは勇ましいが、実際は約束を裏切り、いざという時には保身に走る。
しかしその涙は、彼を絶望から希望に生かす悔い改めの涙となりました。
悔い改め、という言葉はある人々にとっては、非常に後ろ向き、消極的な響きに聞こえるでしょう。
もし罪を後悔するだけなら、確かに後ろ向きでしょう。
しかし私たちは後悔するのではなく、悔い改めるのです。
同じことを繰り返さないという決意をもって、やり直すことができます。
昨日までの私がどんな失敗を繰り返したとしても、神はそれを忘れてくださり、新しい人間に変え続けてくださいます。
人生はまだ間に合う、という希望があるからこそ、悔い改めることができるのです。
言い換えれば、悔い改めは、あなたが生きている証しです。
希望もなく、死にゆく者は、後悔することはできても悔い改めることはできません。
自分で自分の人生を総括し、手遅れとみなして自ら死を選んでいくのです。
それが、自分の罪を認めながらも、自ら首をくくって死んでいったあのユダと、ここから変えられていったペテロとの違いです。
悔い改めることを恐れずに生きましょう。
悔い改めの涙をこぼすことを忘れずに生きましょう。
まだ人生は間に合う。
明日は改めることができる。
それが悔い改めという希望です。
ひとり一人が自分の罪や弱さに正面から向き合いながら、悔い改めを与えてくださった神様に感謝して生きることができるように。

