みなさん、おはようございます。
今日は、第二礼拝の中で、子ども祝福式を行う予定です。七五三の教会バージョンといったところですが、今日の詩篇127篇は、都上りの歌であると共に、子どもたちが祝福であるということを歌っているものでもあります。
子どもたちが祝福をもたらしてくれるのではなく、子どもたちそのものが祝福だと言っています。私は子どもがおりませんので子育ての苦労というのを語る資格はありませんが、話を聞くと、やはり大変だなということを思います。ワンオペという言葉がありますが、夫婦共働きの中で、さらにお母さんのほうだけに子どもの世話が集中するということもあったりして、つらい思いをしている方もいるそうです。しかしそこで、この詩篇のことばを聞いてほしいと思います。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは、むなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは、むなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは、むなしい。一見、空しいという言葉が連続し、とても人の心を励ますようなたぐいのものには聞こえません。しかし、詩人は、主を認めなければむなしいと語っています。逆に言えば、あらゆる人生の営みの中に、主を認めるとき、それはむなしいものではなく、それ自体に祝福がある、ということを語っているようです。
家を建てることも、町を守ることも、がんばって糧を得ることも、それ自体は決してむなしいことではありません。問題は、それを私ががんばった、私たちががんばった、で終わらせてしまうことです。私、あるいは私たちで頑張っているように思われるとき、いちばんがんばったのはじつは神さまです。頑張ったという言葉が不適切であれば、最善へと導いてくださったのは神さまであるということ、それを認めなければ、すべてはむなしいのです。
今日の詩篇は「ソロモンによる」とありますが、実際にはこの詩篇で使われている言葉の特徴などから、これはソロモンの時代から約五百年後、ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還し、エルサレムを建て直す時代に作られたものであると言われています。当時、エルサレムの町は廃墟となっていました。ソロモンが建てたと言われている神殿は、バビロン軍に壊されて瓦礫の山となっていました。エルサレムの町を取り囲んでいるはずの城壁も、打ち壊されたままでした。当時の人々は城壁の中に住んでいましたので、城壁が壊れているというのは、住む家がないということを意味します。自分の家さえ満足に建っていないのに、神殿を建て直すなど無理だ、という人々がいました。それでも神殿再建に立ち上がった人々も、家族みなが総出で、かわりばんこに寝ずの番をし、いつ襲われるかわからない緊張と不安の中で、神殿を再建しました。
それは何千年も前のイスラエルでの出来事ですが、今日の日本で言えば、自分ががんばらなければ家族が立ちゆかない、という必死な思いのなかで生きている方がたくさんいます。自分ががんばらなければ子どもたちを学校に行かせられない。自分ががんばらなければ、教会の赤字が収まらない。自分がしっかりしなければ、家族も町も守れない。確かにそうです。私たちの常識から言ったら、確かにそのとおりです。しかしこの詩篇は、私たちにこう伝えるのです。「主があなたのその働きをされるのでなければ、あなたがしていることはすべてむなしいのだ」と。
詩人は、建てること、守ること、勤勉な生活をすること、決してそれらすべてを否定しているわけではありません。問題はそれが主がなされ、主が備えられるということを無視して自分の力で進めようとすること、それがむなしいといっているのです。「主が建てるのでなければ」。私たちの力が必要ないという意味ではない。そして人間の努力そのものを否定しているわけでもない。しかし、私たちの想像を超えた、はるかな高みにおられる方。私たちの常識を超えた、すべてを変えることのできる力を持っておられる方。その主なる神が、私たち愛するもののすべての必要を知っておられる。そして、私たちが眠っている間に、すべてのことを備えてくださっている。
何という励ましでしょうか。このお方におゆだねすることができるのは、何という幸いでしょうか。信仰生活は「私が」ではないし、「私たちが」だけでもありません。すべてに先立つのは「主が」です。私たちの労苦のわざは、主がそれをなしてくださるという確信のゆえに喜びがあります。自分を第一とするのではなく、家庭を第一とするのではなく、教会を第一とするのでもなく、第一とすべきは、主なる神ご自身です。まず主を第一とするとき、ほかのすべては神が最善へと導いてくださいます。
この詩篇は、私たちにこう語りかけます。早く起き、遅く休み、苦しんで糧を得ようとする者よ。あなたの生活のすべてにおいて、主があなたの代わりになしてくださることを認めよ。そうすれば主はあなたに必要なものをすべて与えてくださるのだ、と。
最後に、後半部分を味わって、説教を閉じましょう。3節からは、子どもについての祝福が描かれます。見よ。子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である、と。人は愛する子どもたちのために、家を建て、町を守り、糧を得ようとします。確かに親は、子どもたちを養い育てる責任があります。しかし子どもたちそのものが、主が与えてくださるものなのだ、と。親が責任という重荷に押しつぶされることなく、子どもが与えられることを豊かな祝福として受け取っていく幸いを、ここに見ることができます。若い時に子をもうけ、育てるということは、とくに現代社会では大変なことです。しかし若いときに生まれた子どもたちの特権は、親と一緒にいろいろなことを経験できるということでもありましょう。この詩篇においては、親と子が一緒になって、城門で敵と向かい合い、町を守る姿が、幸いとして描かれています。教会は、まさにそういうところかもしれません。まだ幼子でも、信仰においてはじゅうぶんに立派な戦士として、自分の両親や祖父母の世代とともに賛美し、祈り、聖書を学び、他者に仕えています。その世代を超えた、共通の姿を通して、私たちは神がすべてを備え、与えてくださるという確かな信仰を世に証ししていきます。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きはむなしい。建てる者の働き、守る者の見張り、私たちのすべての労苦は、主なる神を自分の人生に認めてこそ、意味を持ちます。神が全部してくださるのならば、何もしなくてもよい、ということではありません。神が絶対的な主導権をもって、すべての働きを導いてくださるからこそ、どんな失敗も恐れずに挑戦していくことができるのです。そんな喜びと期待を胸にして、主の家を建てるわざ、主の町を守るわざに、私たちも加わっていきましょう。
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2024.11.17「われ無力なれど全力」(U歴代2:1-18)
おはようございます。
今日の午後に、会堂建設懇話会を行う予定ですが、そこでは具体的なことを話し合うというよりは、一人一人にとって、この会堂建設のために祈り、労してきたことに、どんな恵みが生まれたのかということについて分かち合いたいと考えています。たとえば、私たちはこの会堂建設において、教会債という聞き慣れないものを資金調達の一つとしてお願いしました。端的に言えば、教会員の方が、ご主人とか奥さんとか親御さんといった、普段はなかなか教会に来てくださらないご家族に、いま教会は新しい会堂を建てようとしているんだけれど、うちの家計から教会にお金を貸してもらえないかなと頼むことになります。このご時世、宗教がらみで十万、百万単位でのお金を貸すなどということは、おいおい大丈夫か、変な宗教じゃないだろうなという話になりかねません。私たちの教会で募集した教会債は1300万円です。教会員の人数や、置かれている経済状況などを考えると、これもたいへん高いハードルでした。
しかし募集に答えてくださった家族が多くおられ、ほぼ満たされております。その背後には、それぞれの教会員の方々の、家庭での信仰生活が、家族に対してどれだけよい証しを積み上げてきたかということが問われていたのだと思います。経済的に協力することができないという方も、代わりにどれだけ祈ってくださったことかと思います。懇話会では、そういう恵みの分かち合いをしたいのです。会堂建設は牧師の寿命を十年縮めると言いますが、むしろ何年か延ばしてくれたのではないかと、冗談ながら思うことがあります。神さまが私たちに志を与えてくださり、そしてそのとおりに道を開いてくださいました。皆さんの信仰に、牧会者である私自身も励まされました。そのような感謝を胸におきながら、本日の聖書箇所を一緒に味わっていきたいと願います。
この歴代誌第二の2章は、いよいよ、ソロモンが神殿建設に具体的に着手するところです。数週間前に開いた1章のところでは、ソロモンが神から知恵と富を与えられたことが書かれていました。しかし今日の前半の、ソロモンの言葉を読んで、こう思います。この世の知恵というのは、俺は何でも知っている、と人を高慢にさせるが、神がくださる知恵というのは、むしろ人を謙遜にさせるのだ、と。ソロモンは、ダビデの古い友人であるヒラムに、使者を送ってこう言わせました。5節、6節をご覧ください。「私が建てようとしている宮は壮大なものです。私たちの神は、すべての神々にまさって大いなる神だからです。しかし、だれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょう。天も、天の天も主をお入れできないのです。主のために宮を建てようとする私は何者でしょう。ただ主の前に香をたく者にすぎません。」
どんなに大きな建物を建てたとしても、それはとうてい神を迎え入れるほどのものにはなりえない。どんなに立派な神殿を建てても、それは神の栄光に比べたらカスのようなものだとソロモンは知っていました。そしてその神殿を建てようとしている自分も、何者でもなく、ただ主の前に香をたく者にすぎない、と彼は告白します。主の前に香をたけるのは祭司だけですから、ここでソロモンが言っているのは、私はただあなたを慕い求めている、礼拝者のひとりにすぎない、という意味です。しかしどんなに小さな者、いや、神に比べたらいかに無力な者であろうとも、私は神の宮を建てることにすべての力を尽くします、そういう決意がここにはあふれています。私たちも、それぞれが持っている賜物や、献げることができるものには個人差があります。しかしそれぞれがそれぞれにできることに力を尽くすときに、そこには必ず神が喜んでくださるという確信がついてくることでしょう。
いま、それぞれがそれぞれにできることに力を尽くすと言いました。これはとくに会堂建設という大きな予算が必要とされることにとりかかるとき、大事なことであろうと思います。たとえば三十人の教会員が三千万円で新会堂を建てる計画を立てたとき、それはひとりが百万円を出さなければならないとうことでは決してないということです。二百万円を献げる人もいれば、まったく献金できないという経済状況の人もいるでしょう。それ自体はまったく問題ではないのです。しかし、そのなかで自分にできることはなんだろう、自分にささげられるものはなんだろう、と一人一人がそれぞれの信仰に応じて自ら考え、神に向き合っていくときに、そこには最善が生まれます。「もう少しお金があれば」とつい口から出てくることが何度もありました。しかしお金がどれだけあっても教会は建たないということも知っています。お金よりも大事なもの、それは一人一人の献身、身をささげて、自分にできることを駆使していくということなのでしょう。その中に、神は働いてくださいます。ある教会では、私たちの教会からの献金要請が届いた後、専用の献金箱を作ってくださり、三ヶ月のあいだ、それを受付の一番目立つ所に置いてくださったそうです。他の教会でもそうなのですから、うちの教会の、見えない所で、一人一人が労してくださったことと思います。話せることもあれば、話せないこともあるかもしれません。しかし神は、見えないことにさえ、必ず報いてくださいます。
最後に、この神殿建設が、イスラエル人だけではなく、あらゆる外国の民も巻き込んだものであったことをおぼえたいと思います。ツロは偶像を神として拝んでいた国でしたが、ソロモンは神殿建設への協力をヒラムにお願いしている言葉は、信仰を大胆に伝えるものになっています。たとえば、私は、私の神、主の御名のために宮を建てる。この神は天地の神であり、天の天も、この方をお入れすることはできない。これらの言葉は、彼が父ダビデの古い友人であるヒラムに対して、ソロモンがまるで個人伝道をしているようにも聞こえます。対するヒラムの言葉は、外交辞令かもしれませんが、それでもこの申し出を喜び、「天と地を造られたイスラエルの神、主がほめたたえられますように」とあいさつを返しています。ソロモンは後に信仰から離れていってしまいますが、このときは父ダビデの信仰に倣おうとしていました。そしてそれはダビデの友人であったヒラムにとって、まことの神を信じていたダビデだからこそ、その子であるソロモンも、この父の信仰に倣おうとしているのだという証しとして映っていたのでしょう。
私たちは某団体のように、訪問伝道に自分の子を連れて行くという偽善的行動をする必要はありません。しかし私たちが友人に証しをするとき、そこに実際に家族はいなくても、私たちの背後に家族が見えているかどうかは重要ではないかと思います。神を愛する者は、家族を愛します。その愛が、家族以外の人間関係にもこぼれていくのが伝道です。教会を建てるということは神の家族を建てること、そこから神の祝福が周囲のあらゆる人々にもこぼれていくことをおぼえながら、これからの一週間に向かっていきましょう。
2024.11.10「希望のひとみ」(詩123:1-4)
おはようございます。今日の詩篇は、都上りの歌の4番目です。古来よりこの詩篇は、「希望のひとみ」という副題がつけられてきました。私はその日の説教題を何とつけるか、いつも悩むタイプですが、今回の説教はほとんど悩まずにつけることができました。「希望のひとみ」、美しいタイトルです。タイトルが美しくても説教の内容がそれに傷をつけることがないように、気をつけて語りたいと思います。
いま、この詩篇が古来より「希望のひとみ」という副題がつけられてきたという話をしました。そこには二重の意味がこめられています。ひとつは、私たちがどんなに苦しい状況の中に置かれていたとしても、天に向かってそのひとみを向けるとき、そこにはすべてを支配しておられる神が、天の御座に就いておられる姿を信仰の目によって見いだすのだ、ということ。そしてもう一つの意味は、逆に神ご自身が、私たちをいつもそのひとみで見つめておられ、私たちがどのような者であろうとも、そこに希望を見いだしておられるということです。先にこちらのほうからお話ししましょう。詩人は、この詩の後半の中で、私たちはさげすみで一杯です、安逸をむさぼる者たちの嘲りと高ぶる者たちのさげすみで一杯です、と告白しています。これを私たちに敵対する人々からの攻撃として考えることもできますし、実際にそれがこの詩篇が作られた時代の状況だったのでしょう。しかし私たち現代に生きるクリスチャンにとって、ここはまた別の意味で捉え直すことができるのではないでしょうか。それは、私たちの内側がさげすみで溢れている、というのは、他の誰でもなく、自分自身で、自分をさげすみ、身動きが取れないほどにがんじがらめにしてしまっている、ということです。
言い換えると、自分自身に価値を見いだすことができない、今日、多くの人々を苦しめている、見えない病の姿です。そして、その原因がどこにあるかと言えば、それは私たちが生まれたときからこの心に宿してしまっている、罪の原理にあります。罪は、内側からたましいを責め立てます。おまえは何をやってもだめなやつだと落胆させ、失望の刃を容赦なく突き立てます。自分自身の心の中にある罪が、私たち自身を責め立てるとき、神を知らない人々は、外側にはけ口を求めます。誰かの欠点をことさらに強調し、批判し、自分はその人よりもましだと自分に言い聞かせようとします。他人に責任を押しつけていられるあいだは楽なのです。「安逸をむさぼる者たち」は私のことではなく、他の人のことだとうそぶいていられる余裕があるうちは、まだ何も見えていないのです。信仰を持っていればそうはならないと決して言い切れないところに、私たちの罪の根深さがあります。しかしそれでもなお、私たちは、たとえ私たちがどのような者であったとしても、神は天の御座から私たちをそのひとみで見つめておられ、私たちに希望を持っておられるという約束を、この詩篇から信じることができます。なぜ神は私たちに希望を持っておられるのでしょうか。それは、実際にイエス・キリストを宿している私たちだからこそ言えます、私の中に、神の一人子イエス・キリストがいま、生きておられる、だからこそ私たちがどんな者であろうとも、神は私たちから希望を捨てないのだ、と。私たち自身の中に、何かよいものがあるということではなく、ただ私たちのために命を捨ててくださったキリストのゆえに、神は私たちの中に、この世界を罪から救い出す希望を見いだしておられるのだ、と。
そして「希望のひとみ」のもう一つの意味に戻ります。
神が私たちに希望を見いだしておられるように、私たちも、どんなときでも神に希望のひとみを向けています。新約聖書のヘブル人への手紙にはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者である、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」と。そしてこの詩篇123篇の作者は、神から目を離さない一つの例として、しもべたちの目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているというたとえを使っていることは注目に値します。
昔、こういう経験をしたことがあります。私が敬和学園の理事会に加えていただいたのは、今から十四、五年前のことでした。初めての理事会は、新潟市の万代シティにあります、某老舗のホテルの会議室で開かれました。めんどくさいなあと思いながら、会議に出ましたが、なんと本物のメイドさんが給仕してくださいました。秋葉原のメイド喫茶にいるようなアルバイトじゃないですよ。行ったことありませんが。本物のメイドです。当時、理事会の会議は二時間くらいでしたが、何人ものメイドさんが会議の間中、ずっと脇に立っていて、こちらが頼みもしないのに、的確なタイミングでコーヒーを注いでくださるのです。理事を引き受けてよかったなあと思いましたが、経費がかさんだのでしょうか、次の年からは大学の会議室で、セルフのインスタントコーヒーになりました。ただ思い出すのは、そのメイドさんたちは、私たちの動きを、こちらが意識しないように気をつけながら、ずっと見ていて、的確にコーヒー注いだり、いろいろとしてくださったのです。
私たちが神を見上げて生きるというのは、そのメイドさんたちのように見ていることを意識させないという必要はありませんが、彼女たちが常に、顧客が喜ぶことは何かということを考えながら仕事に努めていたことを参考になりました。私たちも、神を希望のひとみで見上げるということは、神が喜ぶことは何かを考えながら、神の御手を見つめ続けることかもしれません。私たちの人生には、もうすべてを手放し、逃げ出したいというようなことも起こります。しかし私たちは神の子どもであると共に、神のしもべであるということもおぼえておきたいと思います。苦しいとき、つらいとき、でもそれは神が私たちを整え、成長させ、組み合わせて、ひとつの教会を建て上げるために与えておられるチャレンジだとすれば、よくやった、よいしもべだ、と言われるように、神のために自分のすべてを働かせる者でありたいと願います。どんなに苦しくても、今私たちは神の御手の上にあるのだということを忘れることがありませんように。今週も私たちはこのひとみで神を見上げつつ、そして神が私たちをご覧になり、希望を抱いておられることをおぼえつつ、一人一人が置かれている場所で信仰の目をもって歩んでいきましょう。
2024.10.27「みんなとともに」(歴代誌第二1:1-17)
こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ちょっと前に、自作のキャラクター(ニャスモ)をAIでいじりまくった結果を披露しましたが、
今日、ハードディスクを整理していたら、なんと私たち夫婦のスナップ写真をAI化した画像が出てきました。
正直言って、まったく似ていません。なので逆に安心して、お目にかけることができます。
ちなみに元ネタとなっている写真は、同盟教団発行の「祈りのネットワーク」に掲載されています。
教団関係者の方は、そちらと比較してみるのも一興かと。この黒いスーツの人(私)、どこ見ているんでしょうか。

何度も言いますが、まったく似ていませんからね。
とくに牧師夫人のほうにときめいて来られても困ル ウワッナニスルンダヤメレー
スミマセンデシタ
ちょっと前に、自作のキャラクター(ニャスモ)をAIでいじりまくった結果を披露しましたが、
今日、ハードディスクを整理していたら、なんと私たち夫婦のスナップ写真をAI化した画像が出てきました。
正直言って、まったく似ていません。なので逆に安心して、お目にかけることができます。
ちなみに元ネタとなっている写真は、同盟教団発行の「祈りのネットワーク」に掲載されています。
教団関係者の方は、そちらと比較してみるのも一興かと。この黒いスーツの人(私)、どこ見ているんでしょうか。

何度も言いますが、まったく似ていませんからね。
とくに牧師夫人のほうにときめいて来られても困ル ウワッナニスルンダヤメレー
スミマセンデシタ
おはようございます。
私たちの教会では、8月から3ヶ月間、新会堂建設のための献金と教会債を募ってきましたが、いよいよ最後の週となりました。先週の日曜日、NBIスペシャルナイトという集会があって、そこで顔を合わせて多くの先生や信徒の方が「会堂献金、まだ受け付けていますよね」と声をかけてくださいました。それがもしリップサービスでなければ、来月にはドバーッと献金がささげられるはずです。しかし一応、10月末までが募集期間ですので、本日の会堂建設委員会、また来週主日の役員会で献金、教会債の最終報告をすることになります。しかしその結果がどうあろうと、必ず神のみこころは実現します。期待、あるいは失望するような現実の中でも、私たちの考えや常識をはるかに超える神の道が用意されています。これから毎月の最後の主日、礼拝説教ではこの「歴代誌 第二」の1章から7章までを約十回のシリーズで語りたいと考えています。そこには、古代イスラエルの王ソロモンが行った神殿建設について、つぶさに記されているからです。月一で、来年の夏くらいまでの説教計画です。
ソロモンもまた、決して完璧な人間ではありませんでした。そればかりか、神殿建設そのものが、後の彼が堕落する原因の一つとも分析できるくらいです。しかしそれでも神は、彼を通して建てられた神殿を受け入れてくださいました。人間の中には、例外なく、人の目には見えないほどの小さなゆがみが隠れています。しかしそれでも私たちが自分自身を神に用いてくださいと願うとき、神は私たちを受け入れられます。完全にきよい人間でなければ、神が用いられないということはないのです。ソロモンは神に知恵と富を与えられながら、堕落していきました。しかし彼が建設を志し、ささげた神殿は、神の恵みと慈しみを象徴するものとなりました。彼が手がけた神殿建設を通して、私たちもさらに励ましを受け取りたいと願っております。
さて、前置きが長くなりましたが、ソロモンが王となった後、最初に行ったことは、ギブオンに行っていけにえをささげたことでした。ここで大事なことは、彼が、すべてのイスラエル人と共に、いけにえをささげたということです。ギブオンにあった祭壇は、もともとは祭司が民の代表としていけにえをささげるためのものですから、決して大きくはないし、一個だけです。そこに全イスラエルが集まり、ソロモンが千匹のいけにえをささげたというのは、たとえると、今日の選挙で、鉛筆が一本しかない投票所に、数万人の有権者が長蛇の列を作るようなものです。千匹のいけにえをささげたとさらっと書かれていますが、とても一日で終わるようなものではなく、一日ぶっ続けでも二、三ヶ月かかるようなものだったかもしれません。しかしソロモンにとって、どれだけ時間がかかり、体力を使い果たしても、イスラエルの民みんなと一緒に、まず神の御前に集まり、まったき献身を表すいけにえをささげることが重要でした。すべての民が心をひとつにすることが神殿建設には不可欠でした。しかし聖書は、それ以上のことを私たちに教えてくれます。いけにえを献げた後、神はソロモンに「あなたに何を与えようか、願え」と、夢の中で尋ねられました。そのときにソロモンが答えた言葉に注目してください。10節をお読みします。「今、知恵と知識を私に授けてください。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします。さもなければ、だれに、この大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
最後のところで、「この大いなるあなたの民」という言葉が出てきます。「大いなる」は、神にもつながるし、民にもつながっている形容詞です。単に数が多いというだけではなく、まさに「大いなる」という形容詞がふさわしい、誇りと力にあふれた、あなたの民、という意味です。ソロモンは、民を尊敬していたのです。選挙の時だけは有権者に頭を下げますが、選挙が終わるとたちまち見下すような国会議員とは違います。彼はイスラエルの民を文字通り、慕っていました。尊敬していました。この大いなるあなたの民とは、彼の敬意と愛情を表現する言葉です。彼が知恵を求めたのは、若く、経験がなかったからではありません。一人一人が、神の誉れと栄光を表している者たちであるからこそ、あなたからの知恵がなかったならば、誰も彼らを治めることはできない、と言っているのです。教会をゼロから開拓し、約五十年かけて大教会へと育てた牧師が、引退の際に、牧会が長続きした秘訣を尋ねられ、こう答えました。「それは、私が常に信徒を尊敬し、信徒も私を尊敬してくださったからだと思います」。ソロモンはこのとき、二十歳そこそこの年齢であったと思われますが、彼は民を、神の似姿として尊敬し、仕えようとしました。そのために必要なものは、年齢でも経験でも、ましてや富や武力でもない、それはあなたからの知恵なのです」と神に願いました。神はソロモンの心に宿る謙遜さを喜び、知恵だけではなく、富と誉れも与えました。しかしその後のソロモンの転落を知っている私たちは、あえてここから警告を読み取りたいと思うのです。
彼が知恵を求めたことは、みこころにかなったことでした。しかし彼は父ダビデのように主に従い通すことができませんでした。神からの完全な知恵を与えられていながら、なぜそうなったのでしょうか。富を与えたのは神ご自身ですから、富が彼を迷わせたと単純に言い切ることはできません。彼が完全な知恵を得たにもかかわらず転落していったのは、知恵を自分自身の中で独占してしまったことにあります。
数十万の民を治めなければならないという点においては、ダビデもソロモンと同じでした。しかしダビデは、知恵を自分にではなく、自分の周りの人々にゆだねました。サムエル記や第一歴代誌には、ダビデが、いかに多くの人々の絆で生かされていたかが記されています。民を治める知恵については、預言者ナタン、祭司ツァドクやエブヤタル、賢人として知られたフシャイなど、ダビデの周りには、常に誰かが彼を支えていました。しかしそれに対してソロモンの記録には、彼が特定の人々の絆に支えられていたことを見つけることができません。確かに彼は民を大いなる者たちとして尊敬し、彼らにふさわしい王となるために知恵を求めました。しかしその知恵は、彼をむしろ孤独にしました。民を治めるために知恵を求めることは間違いではありませんでした。しかしダビデが自分にない知恵を与えられている人々を最後まで大事にしたのに対し、ソロモンははじめから助言者を不要としてしまい、孤独の知恵者として歩みました。その人生の終わりは、誰の意見も聞かず、誰も彼に意見しない、ひとりぼっちのライオンのような王の姿でした。
私たちはいま、こうしてみことばを聞いています。みことばは、神の知恵であり、神の力そのものです。しかしその力と知恵が、私の中だけで終わってしまうのであれば、それは人を生かすことはできません。信仰によって聞くみことばは、行いによって完成されるということを私たちは知っています。行いとは何でしょうか。それは、言うなれば、人との絆です。兄弟姉妹との絆、求道中の人々との絆、あるいは聖書を信じようとしない人々の間にも、私たちは絆を持ちます。人々を尊敬し、そこで自分が持っているみことばを働かせようと奮闘する中で、みことばは聞くだけのもので終わらず、血となり、肉となります。神がソロモンに知恵と富を与えました。それは、その知恵と富を自分のためにではなく、他の人と分かち合うため、知恵と富をお裾分けするためです。しかし彼は自分のために、自分の中だけで知恵と富を独占します。そんなつもりはなくても、結果としてそうなっていきました。
民は王を必要としていました。そして王も民を必要としていました。共に成長し、欠けを補い合う存在として、お互いに相手を必要としている、それが神の民であり、絆に生きるクリスチャンです。私一人ではない、みんなとともに。それが私たちが神さまから与えられた姿であり、そのために神は、それぞれ違った賜物を一人一人に与え、それを組み合わせて教会を建ててくださいます。みなが同じものを同じだけささげるという必要はありません。しかし何の賜物も与えられていない、という人も決しておりません。自分にはないけれども、他の人に与えられている賜物を通して、さらに自分の賜物が生かされていく、ということも、兄弟姉妹や人々との絆を大切にしていく信仰生活の中では起こります。感謝しつつ、これからの教会建設のためにも祈っていきたいと願います。
2024.10.13「祈りに限界なし」(詩篇120:1-7)
こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
明日10/19(土)の朝10:00〜12:00まで、ゲリラバザー&オープンチャーチをやります。
ゲリラっつうか、単にブログで案内するのを忘れていただけなんですけどね。
ご近所さんには、ちゃんと一週間前の朝刊折り込みでチラシ1800枚を配っています。
2時間しかやりません。良い品は開始10分で売れまくりです。よろしくお願いいたします。


明日10/19(土)の朝10:00〜12:00まで、ゲリラバザー&オープンチャーチをやります。
ゲリラっつうか、単にブログで案内するのを忘れていただけなんですけどね。
ご近所さんには、ちゃんと一週間前の朝刊折り込みでチラシ1800枚を配っています。
2時間しかやりません。良い品は開始10分で売れまくりです。よろしくお願いいたします。


おはようございます。今週から、礼拝説教では詩篇を扱っていきたいと思います。ずっと詩篇を最後まで、ではなくて、この詩篇120篇から136篇までの17篇、これらは通称、「都上りの歌」と言われております。モーセの時代、イスラエルが荒野をさまよった40年を終えて、カナンの地に定住したとき、神はイスラエルの民に、年三回の祭りを守るようにと命じられました。その三つの祭りを全部言える方がおられたら、よく聖書を学んでいる人ですね。春のパン祭り、じゃなくて、春は過越の祭り、その後すぐに初夏の五旬節の祭り、そして秋に行われる仮庵の祭り、です。それぞれの祭りの意味についてはいずれお話ししたいと思いますが、イスラエルの民はこの祭りの時期、村や家族ごとにツアーを組んで、全国からエルサレムへと上っていきました。「都上りの歌」とは、その旅を出発するときや、その途中、また神殿に迎え入れられる時などに、あるときは民自らが讃美し、またあるときには神殿の聖歌隊によって歌われたものでした。
私たち豊栄キリスト教会は、教会堂の建設を進めています。しかし忘れてはならないのは、教会堂とは礼拝堂であるということです。確かに今日の教会は、信者の交わりの場や、地域の人々の居場所としての場も求められています。しかし教会とは何よりも礼拝するところなのだという本質が薄められてはなりません。これからの時代、礼拝はより手軽な方法に変わられていくでしょう。オンラインで礼拝に参加することができるようになりました。大雪の日にまず自分の家の車を出せるように雪かきをし、教会に着いたら今度は教会の駐車場の雪かきをして、礼拝者を待つというような苦労をしなくても、家で礼拝を守ることもできるようになりました。しかし私たちは、イスラエルの民が年三回、あるいはそれすらもできずに、数年に一回、神殿に礼拝に行くのを人生最大の喜びとしていた彼らの姿をおぼえていきたいものです。
まず1節をお読みします。「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった」。この詩の作者は、過去、苦しみの中で神に叫び求めたとき、神に助け出された経験を持っていました。信仰生活の中で一度でもそのような経験がある人は、どんな困難の中でさえも必ず助け出してくださる主に信頼し、失望することはありません。では今までの信仰生活の中で、一度も助け出された経験のない人はどうしたらよいのでしょうか。しかし、助け出されていないクリスチャンなど、一人もいないのです。
「都上りの歌」がエルサレム神殿への巡礼のときに歌われたものであることはすでに語りました。それはいわゆる、景気づけの歌ではありません。礼拝にふさわしい者となるために、自分の過去を遡って、忘れられていた記憶の下の深みにまで思いをめぐらし、恵みを取り戻すための歌、それが都上りの歌です。今までの信仰生活の中で、経済的危機を脱したとか、家族の問題が解決されたとか、そういうものはなくても、十字架でイエスさまが私のために死んでくださったという恵みよりも大きな恵みというものはありません。つまり、あらゆるクリスチャンは、お金の問題が解決したとか、家族関係が良好になったとかいったこと以前に、救いを受け入れたあのときに、確かに神に助け出された経験を持っているのです。そしてその十字架の恵みをかみしめて、そこで改めて自分を苦しめている具体的な状況を見つめ直したとき、じつはさっきまで私の心を苦しめていた問題は、いま、自分が永遠のいのちを与えられているという特権に比べたら、まったく何物でもないことに気づかされるのです。
イエス様は、弟子たちに祈りを教えてくださいとお願いされたとき、「主の祈り」を教えてくださいました。今も私たちが信仰に入ったとき、使徒信条と並んで真っ先に覚えるもの、それが主の祈りです。主の祈りは、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけから始まります。イエス様が弟子たちにまず、天におられる私たちの父、という呼びかけを教えてくださったのは、天というだだっ広い空間に神がおられる、というイメージではありません。天よりも大きい、無限のお方が、父なる神です。「天におられる父」とは、天の真ん中に座っておられるお方という意味ではなく、私たちのいるこの地上をはるかに越えて、人の予想や想像を超えた、しかし私たちのために用意してくださっているありとあらゆる祝福を与えたくてたまらない、そんな父なる神が、イエス様の語られたお方です。私たちが自分の願いを神に祈るとき、確かにその祈りは聞かれています。しかしむしろ、私たちが願ったこと以上のことを神はとっくの昔に、私たちのために計画しておられます。私も、そしてみなさんも、今まで数え切れないくらい、神に祈ってきたことでしょう。その一つ一つを思い出すことは不可能ですが、私たちが祈ったこと以上のことを、神がしてくださったということはうなずくことができるのではないでしょうか。
私たちは、具体的な問題に対して、こうしてほしい、ああしてほしい、と神に祈ります。そしてその祈り自体は、自分が願ったような解決が与えられないことはあったとしても、その願い以上のことを神はしてくださったのだ、ということを、ずっと後から気づかされることがあります。信仰生活が何年、何十年経っても、相変わらずお金の問題では悩むし、人間関係ではしょっちょう土壇場に立たされますが、神はいつも私たちが想像する解決よりも斜め上のところから、考えもしなかった道へと導いてくださるのです。
次に2節をご覧ください。「私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から救い出してください」と詩人は祈ります。彼は回りの人々から、根拠のない中傷や批判を受けて苦しんでいたようです。しかし「救い出してください」という願いの後の、彼の言葉は、祈りというよりはのろいです。「欺きの舌よ、おまえに何が与えられるのか。それは勇士の鋭い矢、えにしだの炭火だ」と。「えにしだ」は当時、最高に長持ちする木炭を生み出す木として知られていました。つまり、決して燃え尽きることのない、終わりの日のさばきを表しています。まさに復讐を求める言葉であり、のろいの詩篇であり、およそ都上りの歌にはふさわしいようには見えません。しかし私たちの祈りの言葉には禁句はないのです。もちろん礼拝の公の祈りの中で、「あの人をさばいてください」とは祈りませんが、個人的な、神との密室の祈りにおいては、私たちは祈りを制限する必要はありません。どんなことでも祈ってよいのです。それが私たちと神様とのあいだに生まれている、父と子どもとの関係です。
創世記の中に、ヤコブという人が夜通し神の使いと格闘した物語が出てきます。多くの説教者が、それは私たちの祈りの象徴であると語っています。祈りはスマートである必要はないのです。神と殴り合うくらいであってもいいのです。私たちは、人にはとうてい聞かせられないようなものでさえ、神にだけは吐き出すことが赦されているのです。人間同士のやりとりの中でそんな話ばかり聞かされていたら、やがてまいってしまいますが、神は私たちの不平不満も永遠に聞き続けてくださるお方です。祈りというのは、タブーがありません。祈りの中で、あらゆることを神に訴えることができる、それがクリスチャン、神のこどもに与えられた特権です。
最後に5節をご覧ください。「ああ嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留しケダルの天幕に身を寄せるとは」。メシェクは、イスラエルからはるか北にある、現在のウクライナあたりにいた民、一方ケダルは逆にイスラエルよりも南にあたる、アラビア人の一部族です。メシェクとケダルはまったく別の所に住んでいる人々ですから、この詩人が実際にそこに住んでいたわけではありません。ここでは、同じ場所で生活を営んでいながら、自分が敵と見なされ、中傷や批判を受けながら生活していることを表しています。どんなにこちらが平和を望んでも、返ってくるのは敵対心だけ、そんな環境の中で彼は生きていました。もしかしたらそれは外国人に囲まれていたのではなく、同じイスラエル人でありながら、神を嘲って生きていた人々の中で暮らしているということであったのかもしれません。
なぜこのような詩篇が、都上りの歌、つまり巡礼歌に含まれているのでしょうか。それは、彼らはこの詩篇を歌いながら、かつてはそのような困難の中で都上りができなかった自分たちが今、エルサレムに向かうことができる恵みをかみしめたのでしょう。あるいは、今もそのような状況の中で、一緒に都に上ることができない同胞の痛みをおぼえたのでしょう。都上りが、私たちにとっての礼拝を表すとすれば、自分たちが礼拝に出席できることを感謝するとともに、出席したくてもできない人々のためにとりなすこと、また出席しようとしないクリスチャンの心が変えられるように祈りたいと思います。都上りから戻ってきた巡礼者たちは、上ることのできなかった者へ恵みを持ち帰ることで、彼らの困難な生活に霊的な励ましを与えたと言われます。私たちも、礼拝を通して受け取った恵みを、人々に分かち合っていく一週間でありますようにと願います。
2024.10.6「主の居場所を用意せよ」(マルコ6:45-56)
おはようございます。今日は「主の居場所を用意せよ」というタイトルで、弟子たちが湖で漕ぎあぐねていたときの出来事から、みことばをともに分かち合っていきたいと思います。
さて、今日の聖書箇所に出てくる湖は言わずと知れたガリラヤ湖、面積は約166平方キロあります。この166平方キロがどれくらいの大きさかといいますと、新潟市の北区、東区、中央区を全部合わせたのと同じくらいだそうです。いわば西区にお住まいの兄弟姉妹は、ご自宅から教会までが、ガリラヤ湖を向こう岸へ渡るのと同じくらいの距離、と考えることもできそうです。もしその真ん中にぽつんと一艘の小舟で取り残され、しかも日も薄暗くなった頃に突然の嵐に襲われたとしたら、一体どのような不安をおぼえるでしょうか。
イエスさまの弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭うのは、じつはこれが初めてではありませんでした。このマルコの福音書の4章には、彼らがこのガリラヤ湖で嵐に遭い、舟が沈みそうになる経験をした様子が描かれています。しかしその時は、舟の中にはイエスさまが一緒に乗っておられました。しかし、今回は舟の中にイエス様はおられません。47節にはこうあります。「夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた」。
私たちの人生にも、突如嵐がわき起こることがあります。それは経済的な問題であったり、人間関係や家族関係の問題であったりします。信仰を持っていれば何が起きても大丈夫と言いたいところですが、そうもいきません。人生の嵐の中で、私たちは「イエスだけが陸地におられた」という気分になります。つまり、私がこの嵐の湖の中で苦しんでいるのに、神さまはこんな私を見捨てて遠いところに行ってしまった、という孤独感に襲われてしまうのです。
しかし48節を見ると、弟子たちが知らないところで、イエスさまが確かに行動をされていたことがわかります。イエス様は、彼らが漕ぎあぐねているのを見ておられました。そして湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。神は、私のことなど見捨ててしまった、と私たちが絶望するとき、すでに神はそんな私たちに目を注いでおられます。私がこんなに大変なのに、神は一体どこにおられるのか、と文句をたれているとき、すでに神は私たちに近づいておられるのです。しかし同じ48節には、同時にとんでもないことも書かれています。最後のところです。「そばを通り過ぎるおつもりであった」。
助けてくれるのかと思いきや、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった、と。なんだよ、ひやかしかよ、と言われそうなほどの不可解な行動です。しかしこのことは、私たちに大事なことを教えています。それは、神に助けを求めようとしないならば、神もその人の前を通り過ぎるということです。
聖書には、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねていた、ということが記録されています。弟子たちの中にはもともと漁師をしていた者が何人もいました。その彼らが漕ぎあぐねるほどの風ですから、相当な激しいものだったのでしょう。私たちが、親や学校から受けてきた教えの中には、「困難が人を強くする」というものがあります。マンガの世界でも、部活での指導でも、社会に出たあとに上司からも「困難に耐えよ」と言われます。しかし聖書は、私たちがただ歯を食いしばって困難に耐えるならば解決、あるいは成長するとは教えていません。「困難の時には、わたしの名を呼べ」というのが神が語られたみことばです。困難そのものが人を強くするのではありません。困難の中で、自分の力で解決しようとする誘惑を断ち切り、神の御名を呼び求める人こそが、困難を決して無駄にしない、有益な人生を歩むことができるのです。
神に頼るのは弱い人間の証拠だという人々がいます。私たちクリスチャンはそんな人を見て眉をしかめますが、実際にはそれとよく似た生き方をしています。この程度のことならば、祈る必要もない。自分の力だけで何とかできる。あるいは時間がたてば、自然とよくなっていくだろう、と。イエス様は、そのように考えている人々の横を通り過ぎて行かれます。もともとイエス様は、弟子たちの苦しみを見て、彼らを助けるために舟に近づいてこられました。しかし舟に近づくにつれ、イエス様に見えてきたものがありました。それは何でしょうか。舟の中にはイエス様が乗り込む場所がなかったということです。実際のスペースのことではありません。弟子たちがあくまでも自分の力で何とかしようとしているがゆえに、イエス様がイエス様だとわからないのです。彼らが幽霊だと叫んだのは、心の中に主を受け入れる余地がなかったからです。主を認めず、主に期待せず、主に叫ぼうとしなかったのです。
弟子たちを助けるために来たのに、通り過ぎなければならなかったイエス様。私たちは同じ痛みをイエス様に味わわせてはなりません。どんな困難であっても、脱出の鍵は、自分の心にイエス様を受け入れるスペースを造ることです。弟子たちは、オールや帆柱、かじを引っこ抜いてでも、イエス様が乗り込めるスペースを造るべきでした。オール、帆柱、かじ、それは人生の船を自分で乗り切ろうとする生き方の象徴です。しかしそれらは嵐を鎮めることはできません。嵐が静まるためには、私たちの心にイエス様が乗り込んでくださらなければなりません。ただ主に叫ぶこと。助けてください。救ってください、と。
自分の力でなんとかしよう、それはじつは一番楽な方法です。信仰が必要ないからです。しかしどんな小さなことでも主の名を呼び求め、心の中にキリストの居場所を用意すること。そこに困難を乗り越える鍵があります。聖書に学びましょう。聖書は弟子たちについてこう述べています。52節、「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」。心が固く閉じていたからこそ、神に助けを叫べなかった。心が固く閉じていたからこそ、水の上を渡って来てくださった神を、幽霊と間違え、おびえてしまった。心が固く閉じていたからこそ、彼らを助け出そうとされた神の愛が、わからなかった。それに対して、54節以降では、弟子たちが心の中で見下していた群衆の姿が描かれています。それは弟子たちとはまったく対照的な姿でした。イエスを幽霊だと勘違いした弟子たちと反対に、人々はすぐにイエスだと気がつきました。病める人々を広場に寝かせ、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるように願いました。それだけ人々は必死でした。彼らは病を自分たちでなんとかできる、とは決して考えなかった。時間が来れば自然にいやされる、とは決して思っていなかった。ただイエス・キリストだけがいやすことのできるお方なのだ、と信じていた。彼らの行動は、弟子たちから見たら、みことばよりも癒やしを求めている、不完全な信仰に見えたかも知れません。しかしそんな荒削りの信仰であっても、神はあわれんで恵みを与えてくださいました。「さわった人々はみな、いやされた」のです。
私たちもまた、彼らの信仰に学ぶべきでしょう。余計なプライドや遠慮は捨て去り、どんな困難であっても主の御名を呼び、イエス様を受け入れるとき、私たちは決して裏切られることはないのです。困難を解決するためだけに信じるのは御利益信仰です。しかし損得ではなく、ただ神の恵みに答えようと主を信じた者は、どんな困難の中にあっても失望することはありません。どうかひとり一人が、イエス様が素通りしてしまうような心ではなく、喜んで入ってくださるような砕かれた心をもって、今週も歩んでいきましょう。
2024.9.29「赦され、緩く、ゆっくりと」(使徒9:26-31、15:35-41)
みなさん、おはようございます。
私のスマホには、その日が何の記念日かを教えてくれるアプリが入っているのですが、今日9月29日は接着剤の日だそうです。なぜかおわかりでしょうか。きゅう、にい、きゅう、「くっつく」だそうです。数字の二をここだけなぜか「ツー」と英語読みさせているところなど、いささか無理矢理感が漂いますが、覚えておくとよいかもしれません。世に接着剤と名のつくものはたくさんありますが、教会から生まれた接着剤があります。商品名では「ポストイット」といいますが、日本では「ふせん」というほうがなじみがあるかも知れません。小さなメモ用紙の裏に、はがしやすい糊がついていて、つけたり、貼ったりが何度もできるので、私も説教の準備のために本を調べるときにはよく用います。
この付せんのどこが教会から生まれたのかというと、じつはこの付せん、もともとはアメリカの3Mという会社が、絶対にはがれない接着剤を作ろうという内部プロジェクトから始まったものでした。研究チームは数え切れない実験を重ねましたが、絶対にはがれない接着剤などそう簡単に作れるものではありません。研究所には、接着剤の失敗作が山積みとなりました。
しかし研究を始めてから5年後、ある転機が訪れました。研究チームのうちの一人が、あるキリスト教会の聖歌隊の一員だったのですが、毎日の激務で疲れていたのか、その日曜日にかぎって、歌集に挟んでいたしおりを特別讃美の最中に何度も下に落としてしまうというミスを犯しました。しかし何回目かに拾い上げたとき、ふっと思いついたそうです。あれ、あの失敗した接着剤をしおりの裏に塗れば、くっついたりはがしたり、聖歌隊にぴったりじゃないか、と。ところがそれが社長の目にとまり、絶対にはがれない接着剤より、つけたりはがしたりのほうが便利じゃないかという話になったそうです。やがてこれが日の目を見て、今では世界中に広がる大ヒット商品となりました。
つけたりはがしたりが自由自在の、いわば「ゆるい接着剤」が教会の聖歌隊から生まれたというこのエピソードは、教会そのものの本質を表しているようにも思います。上から命令されて、それに一方的に従うというのが教会ではありません。かといって、ひとりひとりがてんでばらばらで一向にかまわない、というわけでもない。みんながひとつのこころで神のみこころを行うのだけど、それは義務でも強制でもなく、喜びと感謝の中で行われていくという、ある意味、がっちりした結合ではなく、ゆるい結びつき、それが教会であります。
もちろん神と私たちの絆はがっちりしているのですが、だからといって兄弟姉妹お互いの関係もがっちりというわけではない。言われたからやらなければいけない、とかそういうことはないのです。極言すれば、礼拝出席も自由ですし、献金も自由です。伝道や交わりも自由です。教会の中には、これをやらない人は教会員の資格を取り上げます、というようなものは一つもありません。すべてが自由を原動力とし、すべてが恵みへの感謝が息づいている、それが私たちです。それこそきゅうにいきゅうみたいにこじつけに思えるかもしれませんが、まさにゆるい接着、だけど決して接着力を失わない、そういうものが教会であると言えます。
今日の聖書箇所は、初代教会で活躍したバルナバという人が登場する箇所を二つあげています。バルナバは十二弟子のひとりではありません。パウロやペテロのように手紙を書き残しているわけでもありません。言うならば、知名度においてはあまり振るわない人です。しかしもしこのバルナバがいなければ、教会の歴史は変わっていたことでしょう。
今日の聖書箇所の前半は、もともとは迫害者であったパウロがイエス・キリストに直接出会った後の話です。エルサレム教会は、それまでさんざんクリスチャンたちを捕まえて牢に投げ込んでいたパウロを信用できなかったと書かれています。それを仲立ちしたのが、バルナバだったのです。
また今日の聖書箇所の後半では、それから何年か経った後のパウロが、親友バルナバと一緒に二回目の伝道旅行へ出発しようとしたときのことが語られています。しかしパウロは、一回目の伝道旅行の途中で挫折して帰ってしまったマルコは連れて行くべきではないと考えました。このときのパウロはまだ若く、厳しい人であったようです。そこでもバルナバはマルコのためにとりなしをします。しかしパウロがそれを受け入れなかったため、結局彼らは別れて、別々のルートから伝道旅行に向かうことになりました。
マルコは伝道旅行の途中でドロップアウトしてしまった自分は伝道者として失格だとすでにしょげていたことでしょう。パウロに言われなくても、自分が伝道旅行にふさわしい者ではないことはよくわかっていたはずです。しかしそれでも彼を拾い上げてくれる人がいるならば、彼は自分の失敗に押しつぶされずにまたチャレンジができる、そのだれかこそが、バルナバでした。教会には、彼のような人が必要なのです。
誤解しないでいただきたいのですが、パウロのようにしっかりとした原則に立つ、ある意味強い人も教会には必要です。しかし同時に、強い人と弱い人を繋げる、ゆるい接着剤のような人も必要です。私たちの教会も、パウロのような人もいれば、バルナバのような人もおり、もしかしたらマルコのような人もいるかもしれません。それぞれが、イエス様のあわれみによってつなぎ合わせられているところ、それが教会なのです。
さらに言えば、それは豊栄キリスト教会という教会の中の話だけでなく、逆に他の教会との関係においてもそうなのです。日本全国に、プロテスタントの教会は約八千、新潟にはそのうち約90の教会があります。カトリックを入れれば、もっと多いでしょう。教派も違い、神学も異なります。私たちは礼拝の感謝祈祷で誰かが祈っている間、他の人も自由にアーメンと言えますが、ある教会ではそれはしないようにと指導されます。このような違いを挙げていけば、枚挙にいとまはありません。でも違っているからこそ、そこには神の恵みが満ちているのです。教会の一致とは、すべての教会がまったく同じになることではありません。本当の一致とは、それぞれが違ってていいのだと認め合うことです。あなたはあなた、わたしはわたし、でも明らかに違っている者たちが同じイエス・キリストにあって兄弟姉妹とされている。違っていることを認めながら、お互いが相手を自分よりもすぐれた者として敬っていく。そして自分の抱えている欠点や弱さを決して隠さない。隠さないから、向き合っていける。そのときに、自然と生まれてくるもの、それが一致です。
これは教会同士の関係だけでなく、教会員同士にも当てはまります。私たちの教会には、求道者も含めて、だれひとりお客様はおりません。それぞれにとって、ここは「私の教会」と言えるところです。だから自分にできることを探していきましょう。「何もできない」という人は、世の中に一人もいないのです。人の目には無力ではみ出し者であっても、神の目には決してそうではありません。その人にしかできないことがあり、神はその、その人にしかできないことも、あらかじめ備えてくださっています。どうか、ひとり一人がそれを見つけていく一週間でありますように。
2024.9.22「善く祈り、善く休め」(マルコ6:30-44)
30節をお読みします。
「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した」。
それはいわゆる反省会ではなく、恵みの分かち合いであったことでしょう。不安と恐れを抱きながらそれでも神の宣教のみわざに加わった中で、不安は消え、恐れは砕け散り、多くの魂が救われていったことを、弟子たちを我先にと語り、イエス様はそれを静かにうなずいている、そのような光景が目に浮かびます。しかしそうしている間にも、数え切れないほどの人々がイエス様のもとにやってきていました。このときイエス様は、弟子たちに「あなたがただけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と命じられた、とマルコは記しています。
神様は、何のとりえもない私たちを、神のみわざの協力者として加えてくださいます。そのとき私たちは、このときの弟子たちのように、神に用いられる喜びを体験します。しかし良いことばかりではありません。その恵みの体験が大きすぎるがゆえに、ある者は自分が優れているから神に用いられるのだと高ぶり、またある者は疲れ切ってしまいます。良き働きを続けていくためには、適度な休息が必要です。とくにクリスチャンの場合は、体を休める以上に、たましいを休ませる必要があります。確かに礼拝も恵みです。しかし礼拝は、神に向き合う場ですが、同時にまわりの人々のことも考えなければならない時です。それもまた訓練と言えますが、そのような礼拝とはまったく別に、神様と自分とのあいだに、他に何もないような、密接な祈り、密室の祈りも必要です。礼拝には何年も熱心に出席していた人たちが突然、教会に来なくなる姿を何度も見てきました。それはなぜかと考えると、礼拝には一生懸命であっても、その他の六日間での個人的な、祈りの時間が薄いからです。
弟子たちは、イエス様から宣教旅行に遣わされる前、悪霊を追い出す権威、病をいやす権威、みことばを伝える権威を与えられていました。しかしたとえどのような素晴らしい権威を与えられても、神と自分とのあいだに正直な祈りの時間を持たない者は、必ず疲れ果ててしまいます。弟子たちは疲れを引きずったまま、イエス様の前に押し寄せる群衆の前に現れました。するとどうでしょうか、イエス様が「羊飼いのない羊のように」彼らをご覧になり、あわれまれたのに対し、弟子たちは彼らを「私たちが自腹を切って彼らのために食べさせなければならないのか」という目で見てしまったのです。霊的な疲れに対しては、十分な霊的休息を確保しておかないと、神のために十分に働くことはできません。神とのあいだに十分な交わりの時、みことばの前に安らぐ時を持ちましょう。
さて、イエス様は弟子たちに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」と言われました。それに対して弟子たちはこう答えます。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか」。よくよく考えてみると、なぜ弟子たちはこんなことを言ったのかなあと思うんですね。だってこの人たち、お金はないのです。ここでいうべき言葉は、「私たちが出かけて行って、五千匹の魚を釣り上げて、彼らに食べさせるのですか」ではないでしょうか。だってこの人たち、くさっても漁師なんだから。それがなぜ二百デナリのパンと言っているかというと、はじめから無理という前提で答えているからです。二百デナリのパン、と言っても群衆の数から計算したわけではありません。彼らの感覚からして、まず容易に調達できない金額、それが二百デナリです。私たちが会堂建築一億円と聞くとウエッとなるのと同じですね。
しかしイエス様はパンを買ってこいとは言っておられません。「何か食べるものを上げなさい」と言われたのです。魚を釣ってきてもいいし、山でイノシシを捕ってきてもいいし、やり方は任せるけれども、あなたがたが、というのが強調点です。そんなことをイエス様から言われたときに、最初に行うことは何でしょうか。祈りですね。彼らは、宣教旅行のときには祈ったでしょう。しかし祈りは、常に祈るからこそ意味があります。どんなときもまず祈る習慣をつけましょう。またみことばは、はじめから拒絶してしまうならば、何も変えることができません。みことばを信じること。たとえそれが私の目には好ましくない命令に見えたとしても、神のみこころを信じて従うこと。
私たちの肉の目には、パンをくださいと願っているのに石が降ってくるように見えることがあります。しかし神は、私たちの小さなふたつの目に入りきらないお方です。目の前の現実よりも、はるかに大きな、幸いな計画をお持ちです。もし私たちがそれを知りたいと願うならば、なすべきことはひとつです。肉の目で現実を見るのではなく、霊の目で見ること。目に見えぬ悪霊さえも追い出す権威を与えられた者が、どうして目に見える現実の前に失望することができるでしょうか。目に見えるものに動じない力が私たちキリスト者には与えられているのです。その力は決してはるか遠いものではなく、聖霊と共に働く、みことばと祈りの中にあります。それはたとえるならば、キリストのからだなる私たちの骨と血です。みことばは私たちの生活を形作り、骨のように支えます。祈りは私たちの生活にくまなく血のように駆け巡ります。この力により頼むとき、私たちは目の前に見える苦難が、神の計画の中ですでに取り除かれていることを知るのです。
イエス様は、弟子たちにパンの数を数えに行かせました。彼らは自分たちの荷物だけでなく、手分けして群衆の間を駆け巡りながら、ひとつの現実を直視させられました。「五つです。それと魚が二匹です」。約一万人に対し、たったのパンが5個と魚が二匹!しかしイエス様は、その絶望的な事実に対しては一言も触れません。代わりに、弟子たちに一万人の群衆を50人、百人の組に固めるよう命じられました。なぜわざわざグループにする必要があるのでしょうか。それは弟子たち自らに、人々の間を走り回らせ、固まらせ、座らせていく中で、これだけの人々に食事を与えなければならないという現実をより自覚させる意味があったのでしょう。神は私たちに、肉の目ではなく霊の目をもって歩むようにと求められます。しかしそれは地上の現実を無視せよということではありません。あなたの目の前にある現実を見よ、と。だがあくまでも霊の目をもって見よ、と。たとえどれだけ絶望的な現実が目の前に広がっていても、すでに神の介入が始まっていることを信じる。そして自分を用いてくださいと、私自身を差し出す。それが私たちの歩むべき姿です。
弟子たちは最後にパン切れを取り集め、十二のかごに背負いました。その重さを肩にずっしりと感じながら、イエス様が何をなされたかを思い巡らしたことでしょう。イエスは神です。無から有を生み出し、どんな現実も切り崩してくださるお方です。しかし、それだけではない。すぐに無力感に陥ってしまうような私たちさえも用いてくださるお方です。この神であり、救い主であるイエスを信じましょう。信じ続けましょう。私たちキリスト者は、聖霊のバプテスマによって救いの証印をいただいています。福音をゆだねられた者、宣教のために遣わされた者として、命果てるまで歩み続けていきたい、と願います。
2024.9.15「親が子どもにできること」(マルコ6:14-29)
こんばんは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の冒頭、「全米が泣いたCM」を紹介しているのですが、その元版がYouTubeにあったので、リンクを貼っておきます。
細かい部分でだいぶ記憶していたものと違っていましたが、大筋ではだいたい合っているので、よしとしましょう。
おっと、ハンカチを用意せねば。
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今回の説教の冒頭、「全米が泣いたCM」を紹介しているのですが、その元版がYouTubeにあったので、リンクを貼っておきます。
細かい部分でだいぶ記憶していたものと違っていましたが、大筋ではだいたい合っているので、よしとしましょう。
おっと、ハンカチを用意せねば。
おはようございます。少し前に、アメリカで実際に放送されたというCMを見る機会がありました。CMそのものがクイズ形式になっていますので、みなさんにも答えを考えていただきたいと思います。
ある人が、インターネットに求人広告を出しました。「とてもやりがいのある仕事です。くわしくは面接のときにお話ししますが、やる気のある方はお問い合わせください」。何人かの方が応募してきました。最初に応募してきた男性はこう質問しました。「給料はどれくらいですか?」面接官が答えます。「給料は出ません」。あっけにとられる男性。CMの画面は、二番目に応募してきた女性に切り替わります。彼女はこう質問します。「勤務時間はどれくらいですか?」「週七日、24時間です」。三番目の応募者は、面接官に食ってかかります。「お金も出ない、休みもない、こんな仕事、誰も引き受けるはずがないだろう」。「いいえ、今までも引き受けてくれた方がおられますよ」。「馬鹿な、いったい誰が?」面接官がその答えを言うと、最初の人から三番目の応募者が画面に一斉に映し出されて、怒っていた人でさえ、みんな微笑むのです。お金も出ない、休みもない、しかしその仕事を引き受けてくれた人の名前を言うと、誰もが微笑む、正確に言うと、感謝する、その仕事は何でしょうか。
正解は、「あなたのお母さんです」。じつはこのCM、母の日の意識啓発のためのCMだったそうです。これはアメリカで放送されたものですが、実際、そのようなCMが作られる背景には、アメリカでもそれまでにあった、母と子との関係が壊れ、失われているという状況があります。そしてそれは日本でも、いま実際に起きていることでしょう。しかし聖書は、時代に関係なく、いつも私たちにガイドラインを与えてくれます。今日はひとつの家族の姿を通して、私たちの家庭、家族についても考えていきたいと思います。
今日の聖書箇所に出てくる家族を紹介しましょう。父親はヘロデ・アンティパス。彼はかの、幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子の一人です。母親はへロディア。彼女はもともとヘロデ・アンティパスの異母兄弟ピリポの妻でしたが、不倫と離婚の末、ヘロデ・アンティパスの妻に収まりました。そしてへロディアの娘。彼女は新約聖書ではただ「へロディアの娘」としか記されていませんが、ここではあえて当時の歴史書に記されているサロメという名前で呼ぶことにします。サロメはヘロデのじつの娘ではありません。母へロディアと、前の夫ピリポの間に生まれた子どもです。母へロディアの不倫の代償として、血のつながった父であるピリポは、サロメを引き取ることを拒みました。いわゆる連れ子としてサロメはへロディアとともに、ヘロデ・アンティパスのもとへやってきます。
しかし母へロディアとサロメとのあいだには、先ほど紹介した母の日のCMのように、どんなに犠牲を払っても犠牲とは思わないような母と子の絆は、どうしても感じることができません。踊りの褒美に何が欲しいかと言われて、母親に尋ねに行くサロメの姿、それに対して「バプテスマのヨハネの首」とただ一言だけ答えるへロディア。そこには、愛情があるとかないとかをはるか飛び越えて、わが娘に、願いとしてヨハネの処刑を言わせる狂気を見ます。そしてその母親の言葉を絶対的に、あるいは自然に受け止めていくサロメもまたその狂気に取り込まれています。この家庭の中で、暴君ヘロデ・アンティパスでさえ、人間としての感情が垣間見えるだけ、ある意味まともに思えます。しかし彼もまた、自分のプライドを守るために、バプテスマのヨハネの命を引き換えにするのです。
もちろん彼らにも、彼らなりの愛情関係はあったのかもしれません。しかしどんなに控えめに語っても、自分の血を分けた娘に「バプテスマのヨハネの首」などと要求するへロディアを、それでもサロメにとってはいい母親だったなどと言うことはできません。彼女の姿を見て、最近聞く「毒親」という言葉を思い出しましたが、この言葉のもとになっている本の著者は、こう語っています。「小さな子どもにとって、親とは神のようなものである。親がいなければ、子どもは自分を愛してくれる人を他に見つけることはできない。外の世界から身を守ることも、住む場所も食べ物も手に入れることもできない。親がいなければ、絶え間ない恐怖の中に過ごさなければならない。子どもにとって、親とは全能の神に等しいものなのだ。だが子どもは、たとえ親が間違っていても、それが間違いだと知る方法がない。気まぐれで落とされる雷に対しても、それは自分が間違っているから当然なのだと信じこむしかない」。それは小さな子どもに限ったことではありません。幼子の心に刻まれた印象は、成長した後も、心の奥底に残り続けるからです。サロメがこのときいくつだったとしても、彼女が母へロディアの要求そのままに「バプテスマの首を」と願ったことは、まさに母親の言葉が絶対の世界に住んでいたということを表しているのでしょう。子どもにとって、親とはそれほどまでに絶対的な存在であるとすれば、親もまた絶対的な導き手が必要です。みことばに導かれなくてはなりません。たとえみことばに従うことが、自分の生活にとって不都合を生み出すことがあったとしても、心から耳を傾け、従っていくこと。(スーザン・フォワード著、玉置悟訳『毒になる親』毎日新聞社、1999年、1章「神様のような親」要約)
これはいま幼子を抱えている若い親御さんに限ったことではないのです。本人はすでに老境にさしかかり、子どももまた壮年の域に達していたとしても、長年の親子関係の中で積み重ねられてきたものが、知らずして手かせ足かせのように、子どもから自由を奪ってきたのかもしれない。私にとってそれはあり得ない、と考えるその心を試し、砕くのも、またみことばであり、みことばと共に働かれる聖霊であるということを忘れずにいきたいと思います。
最後に、私たちはバプテスマのヨハネの最後の姿から学びたいと思います。ヘロデ・アンティパスとへロディアが、律法に逆らって不倫の罪を犯したことを、ヨハネは大胆に語り、悔い改めを迫りました。それによって彼は投獄され、へロディアの企みにより、処刑されてしまいました。聖書は、このような形で人生を終わることになった、ヨハネの嘆き、最後の言葉について、一切語りません。語る必要がないのです。ヨハネにとって、地上の命は問題ではありませんでした。彼が信じていたのは、永遠のいのちでした。そして、永遠のいのちを受け取る道は、どのような時でもみこころを行い続けることであり、彼にとってみこころとは、悪を悪として告発し、決して黙ってはならないことだったのでしょう。その生き様、いや、死に様に影響を与えたのは、ヨハネの父ゼカリヤ、母エリサベツの信仰であったに違いありません。親は偉大です。子どもがどう生きていくのか、それを教えるのは、良くも悪くも、親なのです。そしてここには、みことばを信じる親がおり、子どもがおります。永遠のいのちを得るために、私たちは親として、子として生かされていることをおぼえながら、歩んでいきたいと願います。

2024.9.8「あなたとともに」(マルコ6:6b-13)
おはようございます。たまにはマルコじゃなくて旧約聖書から説教して、皆さんの飽きがこないようにと思ってはいるのですが、じつは水曜、木曜の祈祷会では旧約聖書から説教をしています。祈祷会は仕事や家庭の事情で、出席したくてもできないという方も多いので、今、そちらに出席してくださっている方が、出られない方々に、旧約聖書からの恵みも分かち合っていただけたら感謝です。主日礼拝では、またマルコになりますが、ともにイエス様のみことばから恵みをいただいていきましょう。
さて、今日の聖書箇所は、イエス・キリストが使徒たちを宣教旅行に遣わしていく場面です。7節をご覧ください。「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」。なぜイエス様は二人一組で十二弟子を派遣したのでしょうか。
昔、私が新潟市の高齢者福祉課に勤めていた頃のことです。当時、新潟市内に老人憩の家というのがありまして、新潟市が地域の老人クラブに運営を委託していました。正月三日間の休みが明けての、私の初仕事は、この老人憩いの家を先輩と二人で一日で回るというものでした。北は松浜から南は巻あたりまで、30箇所くらいでしょうか、軽自動車で各地の憩の家を回って、老人クラブの会長さんから契約書に印鑑を押してもらう。こちらとしては一日で回り切るためにははんこだけもらってさっさと次の所に行きたいのですが、老人クラブの会長さんというのはみんな話し好きで、なかなか帰してくれません。しかも休み明けなので、ちょっと田舎に行くと道路の除雪も適当だったりするので、運転していると危ない目にも会うし、1月4日は小学生にとっての9月1日くらい、いやな日でした。
つまり何が言いたいかというと、二人組で回るよりも、一人で回った方がよっぽど早く回ることができて、効率がいいじゃないか、ということなんです。しかしイエス様は、十二弟子をそれぞれ単独で遣わすということはありませんでした。宣教のために必要な力と権威も授けられたから、二人でなければならないということはなかったでしょう。しかしそれでも、あえてコンビを組ませられたのです。それは弟子たちを訓練するためでした。
杖とはきもののほかは、何も持っていってはいけないという過酷な旅です。パンもだめ、お金もだめ。ある時には人々から冷たくあしらわれ、時には罵声を浴びせられることもある。しかしそのような過酷な旅の中でこそ、十二弟子たちは、すべてを備えてくださる神だけに信頼することを学んだ、いや、学ぶように導かれたのです。そして神だけに信頼するということを学ばせられるとき、じつは私たちは同時に人を信頼することも学んでいくのです。
コンビ、バディ、パートナー、いろんな言い方がありますが、同じ困難に直面する中で、弟子たちは、人を心から信頼し、助け合っていくことを学んでいきました。人に信頼するというのは、相方との関係だけではありません。訪れた町や村で、多くの場合は厳しい仕打ちを受けながら、しかしそれでも自分たちをキリストの弟子だということで、水一杯を与え、その日の宿として部屋を貸してくれるような人にも出会ったことでしょう。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい」とあるように、その家の人との信頼関係が、数日間かけて培われていくような出会いでした。ここから私たちが学ぶことは、神への信頼が確かなものとされていくときに、その神が、自分の仲間や、見ず知らずの人の中に働いて、必ず助けてくださるのだというもう一つの確信が生まれていくのだということです。
ここで私たちは、「神を信頼する」ということから、二つの教えを受け取っていきたいと思います。まず一つめの教えは、神を信頼するというのは、人を一切信頼しないということではない、ということです。神を信頼しているからこそ、神がどんな人の中にも働いてくださるお方であることを信じ、その神が人々を通して、私たちに愛と恵みを注いでくださるのです。「らみい」という子どもたち向けの月刊誌の中にある質問コーナーにこういうものがありました。「お友だちを教会に誘っても来てくれません。どうしたらいいでしょうか」。それに対する先生の答えは、「神さまがそのお友だちの心の中に、時にかなって働いてくださいます」というものでした。「だから教会に誘うのをあきらめないでください」と。まず先に神への信頼があり、それが信仰によってしっかりと人間関係の中に息づいているときに、いまは答えてくれないお友だちもいつか必ず答えてくれるという、人への信頼が確かに生み出されていくのです。
そしてもう一つの教えは、神を信頼することなしに、神の代わりとして人を信頼すべきではないということです。人の心は移り変わるものです。この人であれば、と信頼した人から裏切られることも、人生の中では決して珍しくありません。本来、人というのはそれほどあやふやなもの。しかし私たちが神に信頼するとき、どんな人の中にも神は働いてくださることを知ります。神を認めずに人を信じるならば、それは依存です。しかし神を認め、その神が人を通して働かれることを信じるとき、それは私も、相手も生かします。
人は一人では生きていけないと言いますが、教会生活に疲れた、教会での人間関係がわずらわしい、そのような理由で教会生活から離れてしまう方々もいることは確かに現実です。しかしなぜイエス様が二人一組で弟子たちを送り出したのか、考えてみると、現実は現実でも、その現実は変えられる現実であることがわかるのです。教会は天国ではありません。地上に置かれた、罪人たちの集まりです。その一員であるがゆえにうける傷や痛みもあります。しかし私たちは相棒であり、戦友であり、兄弟姉妹です。人間だから、気の合わない同士もいるでしょう。
私は今日の箇所を読みながら、あのイスカリオテのユダと相棒としてうまくやっていけた人なんているんだろうか、と思いました。しかしイエス様は、ユダを含めて、十二人の弟子たち一人一人のことをすべて知った上で、二人組で遣わしました。みなさんとユダを並べることは失礼かもしれませんが、神は、私たちの欠点もすべて承知の上で、この豊栄キリスト教会という家族の関係にしてくださいました。家族の中でひとり一人が訓練され、相手の弱いところを覆うために。自分の弱いところを満たしてもらうために。お互いに赦し合い、仕え合う神の家族として、私たちをここに導いてくださったのです。
十二弟子は派遣の前に、汚れた霊を追い出す権威を与えられました。しかし今の私たち、すなわち教会には、その時の弟子たちがまだ示されていなかったことも語ることができる権威が与えられています。それは何でしょうか。イエス・キリストが十字架で私の罪のために死んでくださったこと、そして三日後によみがえり、信じるすべての者に永遠のいのちを与えてくださるという福音です。今週も、一人一人が与えられた人間関係や賜物を通して、イエス様を証しする生活を喜んでいきましょう。