聖書箇所 『マルコの福音書』6章1-6節
1イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。2安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。3この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。4イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」5それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。6イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。私が牧師になる前に学んでいた神学校の、一年先輩にTさんという方がおりました。いま、同じ同盟教団の牧師をしておりますので、あえてイニシャルにしておきます。この方は生粋の大阪人(おおさかじん)でして、相手の懐に入っていくのが大変上手な人でした。千葉県にあるその神学校は、下は18歳から上は50歳くらいまで約百人くらいの学生が、男子寮女子寮それぞれで共同生活を送っていました。当時私は30手前でしたが、18歳となると一回り離れているので、正直言って何を話してよいかわかりません。新潟では、言葉にしなくても言いたいことを察してくださいという空気の中で生きていましたが、県外に出るとそうはいきません。何か話しかけなければいけない。でも何を話したらいいんだろうと、寮生活はかなり大変でした。
で、そのTさんなんですが、大阪人ってうらやましいなあと思いました。相手が年下であろうが年上であろうが、「どや、最近」でいけてしまう。新潟にも「なじらね」のようなあいさつはありますが、県外の人には通じません。かといって私が「どや」とか言うと、芸人に影響されたにわか関西人みたいになってしまいます。ですから「どや」を自然に出せる大阪人に生まれたかったなと思ったことがありました。しかしすぐにその考えが変わりました。ある晩、私が部屋に帰ったら、そのTさんが私のベッドで寝ているのです。そして「おかえり。遅かったな」と言うのです。鍵をかけていなかったのはこちらの落ち度ですが、勝手に部屋に入らないでくださいと言ったら、「なんでやねん。わいらの仲やないか」とか言う。親しみを持ってくれるのはうれしいけど、ただベッドを分かち合うほどの仲ではありません。まあこれは大阪人というよりは、彼の性格によるものですが、大胆に相手の懐に入っていく姿は、外から見ている部分には面白いのですが、当事者になってしまうと、ちょっときつかったです。
一応、同じ教団の牧師なので、これ以上はやめておきますが、人間関係は適度な距離感も大切ですね。そして今日の聖書箇所に登場する、郷里の人々や家族は、イエス様との距離が近すぎるがゆえに、イエス様が救い主であるという事実を見失ってしまったと言えます。3節をもう一度お読みします。
「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまづいた。
郷里とは、ガリラヤ地方にあるナザレ村のことです。イエス様は30歳になる頃まで、この村で過ごされたという記録が残っています。人々は、イエスさまが幼かったときから、彼の成長ぶりを見つめ、よく知っていました。父ヨセフが死んで「マリアの子」と呼ばれていることも、弟すべての名前も、その妹たちが誰に嫁いでいるかもよく知っていました。それはナザレ村の一員として、イエスもその家族とも親しかったという証しであるかもしれません。しかしそこまでイエス様と極めて近いところにいたのに、彼らがイエスを信じることができなかったのはなぜでしょうか。彼らは、自分たちが昔から知っている、人間イエスの残像に引きずられて、今のイエスをまっすぐに見ることができなかったのです。村の人々も、家族も、イエスを小さい頃から見てきました。大工として汗にまみれ、家族に仕えていた姿を見てきました。しかし彼らが見ていたもの、知っていたものは、本来のイエス・キリストのごく一部でしかないのです。本当のイエスは、生まれてきたときから十字架の宿命を背負い、成長と共にますます神の子という自覚をもってみこころを求めていたイエスでした。しかし人々は、自分たちが見てきた人間イエスにこだわり、救い主であり、神ご自身でもあるイエスを受け入れようとしなかったのです。
メッセージの最初で紹介した、私の母校は、神学校はもちろん、四年制大学の方も、学生はみんなクリスチャンです。それはすばらしいことですが、そこで入学面接を行っていた教授が、こんな話をしてくれたことがありました。学生たちにイエス・キリストを短い言葉で説明せよという問題を出すと、「どんなときも私を慰めてくださるお方」「私の友であり、決して見捨てることのないお方」という答えがもっぱら返ってくる。それは決して間違いではないが、聖書からというよりも、極めて個人的、主観的なイエス像で終わってしまっているのだ、と。
確かにイエスは永遠の友であられ、救い主であられます。しかしイエスは同時に神ご自身である、と聖書は記しています。父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神が共通して、この世界を造られた方であり、この世界を保っておられる方です。そしてキリストは、次にこの世界に来られるときには救い主ではなくさばき主、審判者として再臨されます。そのとき、キリストを救い主として信じていた人々はよみがえり、永遠のいのちの祝福にあずかるが、そうでない者たちはよみがえった後も、永遠の滅びの中に投げ込まれ、それこそ永遠に苦しみ続けると、聖書は約束しています。人としてキリストを知っていることと、神であり人であるお方としてキリストを信じることは、じつは天と地ほどの圧倒的な開きがあります。私たちが毎週守り続けているこの礼拝も、救いに感謝する喜びの時である以上に、すべてを支配しておられる神を恐れ、御前に心からひれ伏すという場なのです。私たちがキリストを愛するということは、無節操な親しみではなく、キリストを恐れつつ、その栄光を崇める、厳かな恵みが忘れ去られてはならないのです。
故郷の人々は、イエスの教えを聞いたときにこうつぶやきました。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。」
「この人」「どこから」「その手で」。彼らは、人としてイエスを見ることしかできません。イエス様に最も近いところにいながら、結局はイエスを神と認めることができなかった人々の姿を見たイエス様は、「彼らの不信仰に驚かれた」とも書いてあります。私たちはそうであってはなりません。神である方が、私たちのために人となって、この地上に来てくださったのです。神である方が、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださったのです。そしてイエス様は、人ではなく神の御力によってよみがえり、弟子たちの前に現れました。それは、このイエスを信じる者もまた、イエスと同じように、死に勝利しているという証しです。
神であるイエス・キリストは、やがてさばき主としてこの地上に来られます。その時、私たちの家族や郷里の人々はどこにいるのでしょうか。キリストを信じる者たちの中にいるのか、それともその輪の外にいるのか。ですから、語っていきましょう。私たちが勇気と忍耐をもって家族に語っていくとき、神は必ず答えてくださいます。聖書の別の箇所には、確かに次のような約束が書かれています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」。その約束をかたく握りしめながら、今週もイエス・キリストと共に歩んでいきましょう。
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2024.8.25「恐れないで、ただ信じて」(マルコ5:21-24,35-43)
こんばんは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日の新潟ニュースで、「1000万円超の過大支給が判明 新潟市の会計年度任用職員の報酬 日割り支給を事務処理誤り97人に全額支給」と、まるで鬼の首を取ったようなタイトルで報道されていました。ヤホーのコメント欄では相変わらず手厳しい批判が飛び交っていましたが、そんなもん、本人たちがすぐに気づいて発表したんだから、そこまで責めなくてもいいのに、というのが私の感想です。
なぜそこまで寛容であるかというと、今から29年前、同じことがあったから。
忘れもしない、新潟市役所に入社した最初の年の夏のボーナスが支給された日のことでした。庶務のサクマさんから、ボーナスの明細帳票が入った袋をいただき、同じ高齢者福祉課で唯一の同期であったエノモトくんと「どうだった?」「どうだった?」と確認し合いました。同期ですから、ボーナスの金額は同じはず。ところが何と私のボーナスの金額がエノモトくんの二倍もあったのです。落ち込むエノモトくん。
「まあ、人の二倍、努力してきたから。今までも、これからも。」と私は答えましたが、納得のいかない彼は隣の障害福祉課に行って、そこのやはり同期の子の給与明細も確認して、「やっぱりおかしい!」と言い出しました。そこでサクマさんに調べてもらうと、じつは新卒者のボーナスは本来0.5を乗じる計算なのですが、どうやら会計課のほうで私だけ、まるまる1.0倍で出してきたそうです。
一応、一件落着。「みじけえ夢だったなあ・・・」(ナウシカのクロトワ風に)とポツンとつぶやいた私に、翌日、新潟市長ハセガワヨシアキの名前で一枚の書類が届きました。タイトルには「返納命令書」という大きな文字が。
いや、まちがえたの、そっちだし。命令って何?
今だったらこっちが慰謝料を要求するご時世ですが、市長が大好きでこの職場に入ったので、喜んで返納させていただきました。ええ、喜んで。・・・・・
かのエノモトくんも、今では課長級のエースとしてがんばっているそうです。一度くらい教会に来なさいよ。
本日の新潟ニュースで、「1000万円超の過大支給が判明 新潟市の会計年度任用職員の報酬 日割り支給を事務処理誤り97人に全額支給」と、まるで鬼の首を取ったようなタイトルで報道されていました。ヤホーのコメント欄では相変わらず手厳しい批判が飛び交っていましたが、そんなもん、本人たちがすぐに気づいて発表したんだから、そこまで責めなくてもいいのに、というのが私の感想です。
なぜそこまで寛容であるかというと、今から29年前、同じことがあったから。
忘れもしない、新潟市役所に入社した最初の年の夏のボーナスが支給された日のことでした。庶務のサクマさんから、ボーナスの明細帳票が入った袋をいただき、同じ高齢者福祉課で唯一の同期であったエノモトくんと「どうだった?」「どうだった?」と確認し合いました。同期ですから、ボーナスの金額は同じはず。ところが何と私のボーナスの金額がエノモトくんの二倍もあったのです。落ち込むエノモトくん。
「まあ、人の二倍、努力してきたから。今までも、これからも。」と私は答えましたが、納得のいかない彼は隣の障害福祉課に行って、そこのやはり同期の子の給与明細も確認して、「やっぱりおかしい!」と言い出しました。そこでサクマさんに調べてもらうと、じつは新卒者のボーナスは本来0.5を乗じる計算なのですが、どうやら会計課のほうで私だけ、まるまる1.0倍で出してきたそうです。
一応、一件落着。「みじけえ夢だったなあ・・・」(ナウシカのクロトワ風に)とポツンとつぶやいた私に、翌日、新潟市長ハセガワヨシアキの名前で一枚の書類が届きました。タイトルには「返納命令書」という大きな文字が。
いや、まちがえたの、そっちだし。命令って何?
今だったらこっちが慰謝料を要求するご時世ですが、市長が大好きでこの職場に入ったので、喜んで返納させていただきました。ええ、喜んで。・・・・・
かのエノモトくんも、今では課長級のエースとしてがんばっているそうです。一度くらい教会に来なさいよ。
聖書箇所 『マルコの福音書』5章21-24、35-43節
21イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日の聖書箇所は、25節から34節のあいだが省略されていますが、ここが先週語った、長血の女性のいやしの物語となります。今日はその前後にある、この会堂司ヤイロの娘のよみがえりについて一緒にみことばをかみしめていきましょう。ヤイロの娘のよみがえりと言いましたが、娘本人についてはほとんど語られず、物語はむしろその父親ヤイロの姿を克明に描いています。まず22節をご覧ください。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください」。
ヤイロについて、彼は会堂司の一人であったと書かれています。聞き慣れない言葉ですが、会堂司について説明します。当時のユダヤでは、至る所にユダヤ教の会堂があり、人々はそこで礼拝を行っていました。会堂司は、中央のユダヤ教当局から、各地の会堂の管理を委ねられた者です。とはいえ、単に会堂の戸締まりや掃除をする人ではありません。当時の礼拝は、いわゆる説教者がおらず、参加者がその場で巻物を朗読したり、勧めをしたりする、いわば超自主的な礼拝だったのですが、そこで問題のある人物が勧めをしたり、礼拝の進行を牛耳ったりしないように管理する人々、それが会堂司でした。ですから、説教などはしませんが、今日の牧師に近い立場であると言えるでしょう。
すでにこの時、中央のユダヤ教指導者たち、聖書ではパリサイ人とか律法学者と呼ばれる人々は、イエス・キリストを危険人物とみなし、どうやって葬ろうかと計画を練っていました。各地の会堂司たちも、パリサイ人たちの考えに従い、イエスとその弟子たちと距離を置き、会堂から締め出すことになっていました。
しかしその中で、ヤイロの心は揺れていました。立場としては、彼は会堂司の一人としてイエスを敵としなければなりません。しかし今、12歳になる自分の娘が死にかけています。そしてこのイエスだけが、その娘をいやすことができる、たとえどれだけパリサイ人から憎まれようと、その力は本物だと、ヤイロは信じていました。ヤイロの心は、会堂司としての自分と、一人の娘の父親としての自分とのあいだで、振り子のように揺れ動いていました。しかしヤイロは苦しみ悩んだあげく、周りの人々が驚くような行動に出ました。会堂司でありながら、イエスの足もとにひれ伏したのです。そして地面に額をこすりつけ、こう願いました。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてください、と。
ヤイロ。それは会堂司としての地位を失うことになっても、娘を助けることを決心した一人の父親の名前です。ヤイロ。それは娘を助けるためであれば、地位もプライドも捨てることもかまわないと腹をくくった男の名前です。ヤイロ。それは私たちに、救いを得るためには何を捨てなければならないかを教えている名前です。「信じるだけで救われる」というキリスト教についてのキャッチフレーズは真実ですが、誤解も生んでいる言葉です。「信じるだけで」とありますが、その「信じる」ということひとつに、私たちは自分の人生の中で積み重ねてきたものもすべて引き換えにするほどに、この「信じる」という一事にしがみつくとき、その人は約束のものを手に入れることができるのです。聖書はヤイロという名前を通して、私たちにこう問いかけます。あなたはそこまでして、イエスにしがみついているか、と。
今日の聖書箇所は、35節から後半部分になりますが、そこで不思議に感じることがあります。それは、このヤイロという名前が後半部分ではまったく出てこないことです。代わりに彼は「会堂司」とだけ、ひたすら語られます。たとえば35節、「会堂司の家から人々が来て言った」。36節、「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた」。38節、「彼らは会堂司の家に着いた」。前半部では繰り返し出てきたヤイロという名前を、まるでわざと出すのをやめたように感じるほど、不自然な筆運びとなっています。
しかしじつはここに一つのメッセージが込められています。娘のためにあらゆるものを犠牲にしようとしたヤイロですが、例の長血の女とのやりとりが起きた中で、彼が一番聞きたくなかった知らせが届きました。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」。「先生」とはイエス様のことですが、むしろこの言葉はこういう意味です。娘は亡くなりました。あなたがこれ以上、会堂司の地位を失いかねないほどに、このイエスに関わって煩わされるべきではありませんよ。ヤイロとイエスをつないでいた一本の絆は、娘の死によってブチブチと切れていきました。娘が死んでしまった以上、何を求めることができるのか。ヤイロも家の者たちも、イエスが病をいやすことはできても命をよみがえらせることができるとまでは信じていません。先ほどまで熱く燃えていたヤイロの心は娘の死の知らせを境に冷え始めました。イエスのためにすべてを捨てようとした男ヤイロから、イエスを危険人物とみなして会堂から閉めだす会堂司に戻ろうとしていました。ヤイロという名前がこれ以降消えてしまうのは、彼の心の中の葛藤を表しています。
彼は娘の死という絶望の中で、神にしがみついていた手を離そうとしていました。しかし救いは人間の努力ではありません。救われるためには、信じることが必要であり、信じることは幾多の乗り越えなければならない犠牲も必要とします。しかしそれは私たちの努力によるのではありません。ヤイロがイエス様の衣をつかんでいた手を離そうとしたとき、イエス様のほうがその手をつかみ、決して離そうとはしませんでした。主は会堂司にこう言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」。その声は、絶望のただ中にあった会堂司の声に届いたのでしょうか。聖書はこの呼びかけに対する会堂司、つまりヤイロの反応を記していません。しかしただ事実だけを語っています。それは、イエスが会堂司の家に着いたとき、ヤイロは奇跡をまのあたりにしたということです。40節で、聖書は彼のことをヤイロとも会堂司とも呼んでいません。「子どもの父」と呼んでいます。子どものためにすべてを犠牲にしようとしたヤイロ。子どもの死を聞き、イエスにしがみついていた手を離そうとした会堂司。そのような信仰の葛藤の戦いを経て、最後に彼が目にしたものは、イエスを信じる者は、決して失望させられることがないという事実でした。一人の子どもの父として、愛するこどもが死からいのちへとよみがえった姿を、彼は妻と共に目撃しました。信じ続ける者には、確かに報いが約束されているのです。
私たちはどんなに絶望的な状況の中でも、神の約束を忘れないで歩んでいきましょう。「恐れないで、ただ信じていなさい」という言葉は、今の私たちにも確かに語られています。すでに私たちの人生はイエスによって買い取られました。それは、私たちの人生の先に何が待ち受けようとも、神がその最終責任をとってくださるということです。ですから恐れないで、信じ続けましょう。イエス・キリストが私の救い主であり、私の人生を勝利へと導いてくださることを。
2024.8.18「顔と顔を合わせて」(マルコ5:25-34)
聖書箇所 『マルコの福音書』5章25-34節
25そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。26彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。27彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。28「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。29すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。30イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」31すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」32しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。33彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。34イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」2017 新日本聖書刊行会
今日の物語は、イエス様が会堂管理人ヤイロという人の娘をよみがえらせるという別の出来事の中に挟まれている記事です。二つの出来事をまとめて語るよりも、それぞれの出来事をクローズアップしてお話ししたいと思いましたので、今日はこちらの、12年のあいだ、長血をわずらっている女の人のいやしの物語を一緒に学んでいきたいと思います。
長血というのは、血がとまらない病気で、女性特有のものでありました。当時の医学では、この病気を治療することは困難であり、さらに当時、医者を名乗っていた者たちの中には、迷信じみた治療法を高額で患者に押しつけたりというようなことも少なくなかったようです。しかしこの女性を傷つけていたのは医者ばかりではありません。当時の社会そのものから彼女は傷つけられていました。どういうことかというと、この長血の病気は、神にのろわれた者のしるしであり、この患者に触れてしまったならば、同じように汚れたものになってしまう、という偏見があったのです。
ですから27節にある、「彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て」とは、姿や素性を隠して、群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエスの衣に触れたということです。もし彼女の知り合いが群衆の中にいて、騒ぎ出したとしたら、彼女は石を投げつけられて殺されかねない、それほど長血の病は、偏見と敵意に苦しめられていたものでした。でも、彼女は、イエス様だけがこの病をいやしてくれる、そう信じていました。このことは、どれだけ評価しても評価しすぎるということはありません。人は、他人の目や、世間の批判を恐れて、あきらめてしまいやすいものです。しかし彼女は、勇気を振り絞り、イエス様の後ろにまでやってきました。それはまさしく、彼女の人生を変えるために、神が彼女に与えてくださった信仰であったのです。
しかし今日、私たちは、本当のいやしとは何なのかということをこの物語が教えていることをおぼえましょう。この女性は必死でした。12年のあいだ、あらゆる希望を裏切られてきました。医者からも世間からもひどい目に遭わされてきました。この病をいやしてくれるのは、もうイエス様しかいない、そう考えて、後ろからイエス様に触りました。そしてすぐに血の源が乾いていくのを感じた、つまり自分自身でもはっきりと感じるほどに、病気が治りました。
しかしイエス様が与えてくださる本当のいやしとは、病気が治ることだけを言っているのではないのです。病気が治ったとしても、12年間、彼女を苦しめてきた過去は戻ってきません。いいかげんな医者や、心ない人々から向けられてきた傷はそのままです。12年間、あらゆる人々に傷つけられ、避けられてきた人生そのものが回復しなければなりません。それまで病と中傷で傷つけられてきた12年間さえも、あらゆることが感謝でしたと心から受けとめることができる、完全な回復が、聖書の語るいやしです。体だけではなく、心、たましい、人間を形作っているものすべてが回復する、それが本当のいやしです。いかに多くの人々が、からだのいやしだけで満足していることでしょうか。
この女性も最初、そうでした。後ろから触って、病気が治る、それが彼女の思い描いていたすべてだったのです。しかしイエス様にとっては違っていました。病気が治るだけだったら、衣のふさに触るだけでよいでしょう。しかしイエス様の願いは、ご自分に近づく者たちのたましいの救い。そしてたましいの救いは、イエス様と顔と顔を合わせて、この方と一対一の関係が生まれたときに起こるのです。
ですからイエス様は、「だれがわたしの衣に触ったのですか」と周りにたずねました。それは弟子たちがあきれ、女がおそれおののくほどの勢いでした。でも、イエス様にとってこの「だれが」が大事だったのです。顔と顔を合わせて、そこに生まれる、神との新しい関係の中で、私たちのたましいの中に、癒やしが起こります。
一つの病気が治っても、また別の病気がやってきます。からだだけが治っても、それはいやしではありません。しかしたましいがいやされた者は、からだが病に冒されたとしても平安がとどまります。イエス様の前に出て行くこと。その御顔を仰ぎ、自分のすべてが受け入れられていることを確信するとき、私たちの心は平安で満たされ、たましいは生き返ります。そのような完全なるいやしを私たちはいただいたし、またこれからもいただけるのです。
33節をご覧ください。「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。」。今ここにこの女性は本当の救いを得ます。たとえ血の源がかれて、ひどい痛みが直ったとしても、彼女の失われた12年間は決して戻ってきません。多くの医者からひどい目に会わされ、世間から抹殺されてきた心の痛みはいやされません。しかし彼女が後ろからそっとではなく、イエスの正面に出て、そこで彼女を今まで苦しめてきた真実をすべて打ち明けたとき、彼女の12年間は意味あるものとして戻ってきたのです。イエス様は優しく声をかけられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」と。
救いに至る信仰は、いつでも神の前から逃げ出して大勢の中へ隠れることができる、安全な所からは生まれません。彼女が群衆に紛れてイエス様に近づいてきたのはすばらしいことでした。しかし彼女は自分の中から血の源が涸れたことを感じたときに、そこから逃げだそうとしました。それをイエス様は引き留めてくださったのです。そして彼女は決心しました。「私は主の前から逃げ出さない」、そのような決断をもってイエス様の前に現れたこと、それが彼女を救った信仰です。
イエス様の表情も見えないぎりぎり遠くからそっと手を伸ばしていた彼女が、イエス様の正面に出て来てひれ伏し、顔と顔を合わせてすべてを打ち明けた、それが本当の意味での「あなたの信仰」です。イエス様が彼女に「娘よ」と呼びかけたのは、まさに娘を捜し回っていた父のように、イエス様は優しい目を彼女に向けられます。その時、彼女は気づきます。この12年間、自分は一人ではなかった、神が私を捜し回っておられたのだ、と。
あなたも、この女性のようにイエス様の前に出ませんか。この日本で、教会の礼拝に出席するということそのものが一つの勇気を必要とすることでしょう。しかし救いを与える信仰に至るにはそこからもう一歩、歩み出さなければなりません。いつでも神から逃げ出すことのできる場所から踏み出すのです。イエス様の真っ正面に飛び出すのです。イエス様にあなたの人生をすべて打ち明けて、罪を告白するのです。私は救われたいのです。私を救ってくださいと叫ぶのです。そうすれば、イエス様はあなたの罪をすべて赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。なぜならば、イエス様が十字架の上で身代わりとなってあなたの罪を引き受けてくださったからです。どうか、ひとり一人の心の中に聖霊さまが働いてくださり、決断へと至ることができるように。
2024.8.11「鎖解き放たれた人生」(マルコ5:1-20)
聖書箇所 『マルコの福音書』5章1-20節
1こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。3この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。4彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。5それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。6彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」8イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。10そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。11ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。12彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」13イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。14豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。15そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。16見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。17すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。18イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。19しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」20それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所は、イエス様が「さあ、向こう岸へ渡ろう」と呼びかけて、弟子たちが嵐の湖を乗り越えて向こう岸へたどりついたときの出来事です。さんざん苦労して湖を渡ったんだから、向こう岸ではどれだけ歓迎されるんだろうなあと弟子たちは期待したかもしれません。しかし彼らを迎えたのは、群衆の歓喜の声ではありませんでした。なんと墓場から、汚れた霊に取り憑かれた人が現れたというのです。ひきちぎった鎖をじゃらじゃらと音を立てながら、自分で自分のからだを傷つけて、血だらけの姿で弟子たちの前に現れたのですから、さぞ弟子たちは肝を冷やしたのではないかと思います。この人にとりついていた汚れた霊は、自らをレギオンと名乗りました。レギオンとは、当時のローマ帝国の軍隊用語で、六千人の大部隊のことを言います。本当に悪霊が六千も詰まっていたのかはわかりませんが、たくさんの悪霊がこの人一人の心の中に住み着き、人間として社会で生活できず、我を失って墓場で叫び続けていたのでありましょう。
あるクリスチャンのグループが、明らかに精神障害者の範疇に入る人に対して、「悪霊にとりつかれた人」として、二重の意味でその人や家族を傷つけていたことがありました。重度の精神障害や、ある種の依存症の人々が、妄想にとらわれたり、心の中にその人をけしかける声が聞こえたり、あるときには感情を抑えきれずに暴力を振るう、ということは確かにありますが、それは悪霊にとりつかれているのとは違います。ですから私たちは、聖書の中で、このような悪霊につかれた人の記事を読むとき、二つの極端に陥らないように気をつける必要があります。一つの極端は、いま言ったような、精神障害を悪霊と結びつける過ち。そしてもう一つの極端は、このような悪霊に取り憑かれた人などいるわけがないと考えて、そこで終わってしまうことです。
おそらく99パーセントの人々は、この後者のほうの極端にとらわれています。このようなレギオンなど古代人の迷信であって、現代の私たちには一切関係ないと決めつけてしまいます。しかし、弟子たちが驚いたのは、墓場から悪霊が出てきたことだけではありませんでした。このレギオンたちが、イエスが神の子であることを知っており、震えながら、その前にひれ伏したことに、弟子たちは今更ながらに驚くのです。ここに聖書は、99%の人間に、こう警告するのです。悪霊でさえ、イエスが救い主であることを知っており、イエスを心から恐れている。しかしあなたがた、99%の人間たちは、イエスを神の子として見ようとしないばかりか、悪霊よりもぞんざいな態度で、イエスを取り扱っている。確かにあなたがたは一般人としての生活を送り、家庭や社会で生きている。しかし「無知」という一点では悪霊以下ではないか。
本当の自分の心を知らない。自分の心の中を見つめようとしない。おぞましさに蓋をして、何食わぬ顔をして生きている。妬み、悪意、憎しみ、虚栄に満ちている心を見ようとせずに、悪霊を迷信扱いし、聖書を古文書扱いしているならば、いつまでもあなたの人生は、やがて来たる死の恐れから解放されることはない。聖書は、人々にいつもそう語りかけてきました。
しかしこの世界は、イエス・キリストが与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。二千年も前から、イエスは人々に救いの道を示し続けてくださっているのに、人々は自分で考え出したストレス解消法や、百人いれば百通りの方法があるカウンセリング技法などで自分をごまかしているのです。目には見えないが、世の人々の姿を観察している悪霊たちは、そのような人間たちの姿を見て、ほくそ笑んでいることでしょう。
しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。なぜでしょうか。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。彼ら悪霊にとっては、イエスの名は自分を滅ぼす者です。だから彼らは恐怖しかおぼえません。しかしすべての人間にとって、イエスの名は自分を救う者です。あなたにとって、イエス・キリストをどのように受けとめるかは、あなたの人生のすべてよりも大切なことがらです。あらゆる問題からの解放が、ただこのイエス・キリストの御名にあるのです。
この人にとりついていたレギオンたちは、豚の群れの中へ自分たちを移してほしいと頼みました。キリストがこの地においでになった以上、もうこの人の中にとどまることはできないと考えた悪霊たちは、自分たちにふさわしい場所として、汚れた豚の中に潜り込もうとしました。イエスはそれをお許しになり、お命じになると、たちまち豚の群れは湖にとびこみ、死んでいきます。悪霊にとりつかれた人の最後が、そのような滅びが待ち受けていることを暗示しています。しかしそれを見た人々は、この人が悪霊から解放されたことを喜ぶどころか、この地方から離れてくださるように願った、というのです。これ以上イエスにここにいてもらっては、一体どんな損失が起こるかわからない。それが人々の心の現実でした。レギオンたちがこの地方から追い出さないでくださいと願った理由がわかります。悪霊にとって、まさに居心地のいい人々の集まりでした。
一人の人が悪霊から救われるのと、豚二千頭と、どちらが大切なのか。しかし彼らにとっては、人一人のいのちよりは、二千頭の豚のほうが重かったのです。これがこの世界の論理です。私たちはそんなもののために命と人生を費やすべきではありません。本当に命を燃やすべきものは、イエスと共に生きる人生にあります。イエスは、一緒に行きたいと願ったこの人に命じられました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」イエスと共に生きる人生、それは私たちの中にイエスが生きてくださり、私たちはそれぞれが置かれている場所で輝くことができます。イエス・キリストは、人々が近づこうとしなかった一人のたましいを救うために、嵐の湖を渡ってこられました。あなたに差しのばされた御手を握りしめて、イエスと共に歩んでいきましょう。
2024.8.4「永遠という恵みの中で」(イザヤ48:10)
聖書箇所 『イザヤ書』48章10節
10見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。2017 新日本聖書刊行会
昔、教会には通っていたけれどまだ信じていなかった頃、ある牧師先生から聖書の学びをいただいたことがありました。「イエス・キリストを信じた者は、罪が許されて、永遠のいのちを受け取ります」というテキストを読んでいたときに、その先生が言われました。「永遠のいのちってわかりますか」。まあなんとなく、と答えたところ、「いや、絶対わかるわけない」と、逆にこちらが驚くような返事がありました。「だって、永遠なんて誰一人経験したことがないんだから、理解も想像もできるわけないでしょ」。なるほどなあ、と思いましたが、誤解を防ぐために申しますと、この先生が言いたかったことは、永遠を理解するのは、頭や体験ではなくて、ただ信仰によるということです。そして私たちが信仰によってイエス・キリストを受け入れるときに、永遠のいのちは、実際の体験となって、私たちの中で現実のものとなるのです。
しかし、信仰によって永遠を常に経験しているはずのクリスチャンでさえ、毎日の忙しい生活の中で、目先の時間にとらわれてしまうことがあります。もう二十年以上前に聞いた話ですが、インドネシアで長いあいだ働いている宣教師が、日本に一時帰国して、全国の教会を巡回していました。ある大都市にある教会で奉仕したときのこと、駅に出迎えにきてくれた牧師がこう言ったそうです。「先生、JRではなくて地下鉄で行きましょう。乗り換えがうまくいけば、10分は短縮できます」。当時その宣教師が働いていたインドネシアでは、都市部であっても、時間通りバスが来ることなどなく、二、三十分遅れることも当たり前でした。「10分くらい待ちますよ」と言ったそうですが、「いえ、日本ではその10分が大事なのです」と返されたそうです。そして翌日、礼拝メッセージの前に、その先生はこう言われました。「先生、メッセージは20分以内でお願いします。伸びたとしても10分までで」。皮肉にも、その日の説教のタイトルは「永遠のいのち」でした。永遠のいのちを語るのに、10分を気にしなければならないことに、宣教師は思わず苦笑したとのことです。
すでに永遠を与えられているはずのクリスチャンが、教会の中でも、5分、10分の節約のためにせわしなく動き回り、かえって平安を失っているということはないでしょうか。そして時間を気にしすぎると、私たちはさらに大きなものを見失っていきます。それは、生活の中で起こる、さまざまな出来事について、それが永遠の神のご計画の中ですべてが組み合わされていることを忘れてしまうということです。例えば、ある困難が起きたとき、一日経っても変わらない、一週間経っても好転しない、一ヶ月経っても解決しない、という風に、時間という制約の中で、幸か不幸かを判断する。でも神の計画は、そんなに単純ではないし、即効性の薬のようなものではありません。一つの出来事がいったい神の計画の中でどのような意味があるのか、それがわかるまでには気が遠くなるような時間がかかることもある。それでもなお、私たちは、神が与えてくださるものはすべてがよいという約束を信じます。永遠のいのちを与えられた者にふさわしく、永遠という枠の中で、いま、自分に起きていることを見つめ直します。そのとき、永遠に比べたらごく短い時間の中で、これはプラス、これはマイナス、と勝手に判断している、自分の過ちに気づくことでしょう。
今日の聖書箇所は、極めて短いものですが、神が私たちに与える試練さえもプラスであることを教えてくれます。「見よ。わたしはあなたを錬ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。」
鉱山から掘り出したばかりの銀は、不純物がたくさんこびりついていて、それらを一つ一つ取り除いていたのでは、コストがかかりすぎます。そこで、古来より、面白い方法が使われていました。高温に熱した炉の中に、銀の鉱石を入れて、さらに鉛のような不純物も投げ込むのです。そうして熱していくと、銀にこびりついていた不純物が、新しく投げこんだ鉛のほうと結合して、蒸発していきます。そして最終的には、純粋な銀だけが残るのです。つまり、無数の小さな不純物を取り除くために、あえてもっと大きな不純物を炉に投げ込むのです。それは一見、とんでもない回り道に見えます。純化するのではなく、より不純なものにするのですから。しかしその回り道が、銀を精錬するためにはどうしても必要なことでした。
「わたしはあなたを熱したが、銀のようにではない」という言葉の意味は、鉛のような不純物の代わりに、苦しみという一見マイナスに見えるものをあなたの人生に投げ込んで、あなたを純粋な金銀のように整えるということです。「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」と私たちが考えるとき、そこには神が永遠の計画の中で、私たちを純化しようとしているのだということを信じなければなりません。神は、私たちを金や銀よりも尊いものとして見ておられます。銀が鉛のような不純物で精錬されるのであれば、私たちはなおのこと、もっと不純で、汚く思えるものを突然、自分の生活に投げ込まれて、そこで苦しむことになります。しかしそれが私たちを純化するために必要なことなのです。
私たちが生きるとき、問題のない人生など、あり得ません。それは信仰を持っていても、持っていなくても同じです。しかしクリスチャンには、問題の本質を見抜くことができる目を、みことばによって与えられていることは感謝です。私たちは、四方八方から追い詰められたとき、「どうやってここから抜け出すのか」と考えるよりも、これが神から与えられたものであり、必ず脱出の道が備えられていることを忘れないでいきたいと思います。私の生活、性格の中に含まれている不純物を取り除くために、神が私を苦しみの炉の中に投げ入れたとすれば、解決の道は、炉が十分に熱せられることを待つことです。苦しみの炉の中で、そこから逃げ出すことを考えるのではなく、神が私をどのような者へと精錬してくださるのかを期待し、生きていくこと。私たちと共に永遠に生きてくださるイエス様がおられることをかみしめながら。
こんな私のために、こんな私の身代わりとして十字架に着いてくださった方、イエス様がおられます。私が苦しい時、不安な時、悲しみの時、いつも私と共に苦しみ、悩み、悲しんでくださる方。イエス様は、私たちが受けるべき罪のさばきをすべて引き受けてくださいました。だから私たちは何も恐れなくてもよい。この方にすべてをゆだねることができるのです。永遠のいのちが与えられている恵みをもう一度かみしめながら、歩んでいきましょう。
2024.7.28「信仰は嵐の中で試される」(マルコ4:33-41)
聖書箇所 『マルコの福音書』4章33-41節
33イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。34たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。
35さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。37すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。38ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」41彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」2017 新日本聖書刊行会
阿賀野市と新発田市のあいだに、焼山という山があります。教会員の中には、地元の方もいるかもしれません。私は登ったこともありませんが、焼山という名前の割には、静かで緑豊かな山だそうです。しかし新潟県のずっと南の妙高市に、同じ名前の山、正しくは新潟焼山という山がありまして、こちらのほうはまさに今も焼けている山です。今からちょうど50年前の1974年7月28日の未明、突然噴火を起こし、山にいた大学生3人が犠牲になったという記録が残っています。新潟焼山という名のとおり、その後も常に小規模な火山活動を行っており、気象庁が地震計やカメラを設置して常に監視しているのですが、山頂付近は常に雲がかかっていて、カメラもあまり役に立たないということでした。ですから地元の人は、いつ何が起こってもすぐに避難できるように、警戒を怠らないそうです。
これは火山の話ですが、今日の聖書の舞台である、イスラエルにあるガリラヤ湖も、熟練の漁師たちでさえ予測できないような、突然の嵐が起こることがありました。嵐が来ることを知っておられたのかどうかはわかりませんが、イエス様は夕方になって、弟子たちを強いて船に乗り込ませました。35節をご覧ください。「さて、その日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた」。
「その日」という言葉を、どうか忘れないでください。その日、何があったかはその直前、33節から34節に記されています。「イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた」。
その日、イエス様は多くのたとえ話を群衆に話されました。しかし弟子たちにだけは、そのたとえ話の中に隠されている霊的な真理を解き明かされたとあります。私が子どもの頃、洗剤のコマーシャルに、「その日の汚れ、その日のうちに」という言葉が早口で流れるというのがありました。学校の先生も悪乗りして、「その日の宿題、その日のうちに」とか言って、教室が盛り上がったこともありました。イエス様もそうだったのです。群衆にはたとえを用いて語った教えが、弟子たちの中でしっかりと吸収されているかどうかを、その日のうちに、嵐の中で、実際に試されました。それが「向こう岸へ渡ろう」の意味です。
先ほどの洗剤のキャッチコピー、「その日の汚れ、その日のうちに」は、今流れているCMでは使われていないようです。代わりに、年末になると、「今年の汚れ、今年のうちに」という、だいぶハードルが下げられたキャッチコピーが流れています。しかしみことばは、時間が経ってしまうと、忘れてしまいます。あるクリスチャンの家庭では、日曜日の夕方には、どんなに忙しくても、家庭礼拝の中でその日の礼拝のメッセージを分かち合うと聞きました。たいへん良い習慣だと思います。もうあたりが暗くなり、危険さえ伴う夕方になって、イエス様があえて弟子たちを船に乗り込ませた理由、それはその日のことをその日のうちに学ばせるためでありました。晴天の下で聞いたみことばは、そのままではただの知識や教訓に終わります。しかし闇と嵐の中で、そのみことばが実際に試され、体験させられるときに、それは決して忘れられることのない、生きた筋肉に形を変えていきます。死を覚悟するような激しい嵐の中で、彼らはイエス・キリストのみことばにしがみつくのか。それともみことば以外のものに頼るのか。それを私たちは、自分自身にも当てはめながら、この弟子たちの姿から学んでいるのです。
信仰は、心で信じるものです。しかし心で信じた信仰は、実際の経験を通して試されなければなりません。科学者が一つの理論を、数千、数万回の実験を通して確認するように、神さまは、私たちの信仰が形だけのものになっていないか、実際の試練を通して確認されるのです。アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たち、ヨブやダビデといった人々、あるいは炎のかまどへ投げ込まれたシャデラク、メシャク、アベデネゴ。神からの試練によって信仰が試された人々の例を、私たちは数え切れないほど知っています。そして神が愛する者をそのような方法で成長させられるということも知っています。ならば、私たちがその例外となるはずがありません。私たちの平穏な生活に突然起こる苦しみも、夕焼けのガリラヤ湖に突然起こった嵐も、同じく神が与えたもうた試練です。その試練の中であなたは何と叫ぶのか。「主よ、助けてください」とイエス・キリストにしがみつくのか、それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨めしさを口にするのか。この時の弟子たちの姿は、私たちを映し出す鏡となるでしょう。そこに映っている姿は、信仰者として決してほめられたものではありません。しかしそれがこうして聖書の中に書き残されているのは、私たちが同じ失敗の中にとどまることがないようにするためです。
弟子たちは嵐の中で、いくつかのことを見失いました。まずひとつは、イエス様が与えてくださった約束の言葉を見失いました。イエス様は、彼らを湖に連れ出すときに、何と言われたでしょうか。「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。それは、わたしが一緒なら、途中に何が起ころうともあなたがたは必ずたどり着くことができるという確かな約束でした。私たちが試練の中で主を見失ってしまうとき、まず最初に陥るのはみことばの約束を忘れてしまうということです。私は何があってもあなたを見捨てない、と、神は聖書を通して約束してくださっています。忙しさの中でみことばを忘れることがあるでしょう。あるいは不安や恐れの中で、つい神の約束から目を離してしまうこともあるかもしれません。主の約束を見失わないために、私たちは朝起きたらまずみことばをいただき、夜休む前には、いただいたみことばが、その日の暮らしの中でどのように実現したかを振り返る時を大事にしていきたいものです。
さらに弟子たちは、主がどのようなお方かということも見失いました。船の中にイエスがおられることは忘れていなくても、このお方がどれほどまでに自分たちを愛しておられるのかを忘れてしまっていたのです。彼らはイエスのからだを揺り動かして、こう言います。「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」。そんなことがあるわけないのに。このときの状況を頭の中で想像してみてください。イエス様はどのような表情で眠っておられたでしょうか。揺れる小舟は神のゆりかご、空から聞こえる轟音は神の子守歌、イエス様にとってはそうなのです。どんな嵐、どんな試練の中でも、私たちには平和が満ちていることを教えてくださっています。
イエス様は天地の主です。あなたを決して見捨てないと約束しておられるお方です。そして、あなたを決してどうでもいいなどとは思っておらず、常にあなたの人生に関心をもって、平安を与えてくださるお方です。どんな試練の中でも、この方を見失わないようにしましょう。この一週間も、イエス・キリストから目を離さずに歩んでいきましょう。
2024.7.21「異罵(ことば)ではなく言葉(ことば)を」(ヤコブ3:1-12)
聖書箇所 『ヤコブの手紙』3章1-12節
1私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。2私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。3馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。4また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。5同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。6舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。7どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。8しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。9私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。11泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。12私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。2017 新日本聖書刊行会
ある女性が、子どもが大きくなり手がかからなくなったので、近所のスーパーでパートに勤めることになりました。働く初日、顔合わせの時に自己紹介があったのですが、つい魔が差して、本当は35歳なんだけど30歳と言ってしまったそうです。それ以降、いつも緊張が抜けない日々が始まってしまいました。休憩時間などで、干支の話題が出れば、5年のずれがばれないように頭の中でさっと計算しなければなりません。中学校の頃に見ていたテレビ番組の話をすれば小学生なのにそんなの見てたのと言われます。いまの夫と結婚した年、年齢差、子どもが生まれた年、あらゆることを頭の中でさささと計算して、話にぼろが出ないように気をつけなければなりません。結局、最後には白状して終わりになったのですが、うそをつき続けた数ヶ月を振り返ってみたとき、「女の人って、なんでいつも年齢に関係のある話ばかりするんだろう」と思ったそうです。
今日の聖書箇所で、ヤコブは、ことばや舌について警告を発しています。しかしただ単純に、「クリスチャンなんだから嘘をついてはだめだよ」と言っているのではありません。むしろ「ことばで過ちを犯さない人がいたら、それは完全な人だ」という表現を通して、イエス様以外に、ことばで過ちを起こさない人などはいない、ということを語っています。だから、多くの者が教師になってはならない、とも言っています。それは教師がことばで人を教える人だからです。そしてどんな教師でも、ことばで失敗しない人はいません。ことばで失敗したとき、それを取り消すことはできません。しかしもしその教師が、信徒と信頼関係を築くことができていれば、一つの言葉の失敗で、すべてががたついてしまうという最悪の事態は防ぐことができるかと思います。だからといって何を語ってもいいということではありませんし、肝心の、その信頼関係の構築というのは、時間をかけて、また寛容や誠実といった、あらゆる御霊の実が注ぎ込まれて、ようやく培われていくものです。だから多くの者が教師になってはならない、と言われているのでしょう。
しかしことばに生きる教師であるからこそ厳しいさばきがあるとわかっていても、それでも私は、一人一人が教師という仕事の大切さ、すばらしさをおぼえていただきたいと願います。今から約170年ほど前、アメリカはボストンの教会に、エドワード・キムボールという信徒がいました。彼の名前をインターネットで検索しても、ほとんど出てきません。しかしこの名前と、ドワイト・ムーディーという名前を合わせて検索すると、ようやく一件だけ、ヒットします。ご存じの方もいるかもしれませんが、ドワイト・ムーディーとは、19世紀にアメリカで霊的リバイバルが起きたときに、その中心にいた大伝道者です。大伝道者というとビリー・グラハムが有名ですが、彼もこのムーディがいなければ、生まれなかっただろうと言われるほど、ムーディはアメリカの教会、いや世界の歴史そのものを変えた人でした。では、最初に出した、そのエドワード・キムボールという信徒は彼とどういう関係があるのか。彼は、ムーディが通っていた教会学校の、教師でした。当時のムーディーは、靴屋で住み込みで働いていましたが、福音には無関心であり、とても後に大伝道者になるとは思えないような人でした。しかしこのキムボールは忍耐強く、ムーディーに聖書を教え、彼のために祈り、関わり続けました。その結果、やがてムーディは信仰決心に至り、後には伝道者として歩むのです。いまはインターネットでさえ、このキムボールの名前は埋もれてしまい、出てきません。しかしどんなに無名な人物であろうとも、彼がいなければ私たちに福音が届くこともなかったでしょう。だれもが教師になるべきではありません。しかしだれもが教師を目指してほしい。なる、ならないは神が定められているものであるとしても、そして牧師、宣教師ではなく、教会学校の教師というものであったとしても、その働きは決して小さなものではありません。
私たちはことばで失敗しやすいものです。しかしその失敗をできるだけ避ける方法はあります。それは心に、神との平和を持つということです。人は、自分以外の人間が、自分がしてほしいように動いてくれないときにいらだちます。夫にも子育てにも協力してほしいのに上げ膳据え膳で動いてくれないから妻はいらだつ。部下がいちいち指図しなくても、自分で判断して行動してほしいのにそれがないから上司はいらだつ。ひとつのことばの失敗の下には、十個の怒りがあり、さらにその下には百個の、あの人は私のためにこう動いてくれるべきなのだという要求があります。ではそれを断ち切るためには、人には一切何も期待しない、求めない。・・・・そんな仙人みたいなことができる人はいません。人に何かを求めるのは私たちの性であるとしても、人と人とを結ぶところに、神との平和を置くこと。それは具体的には、いつもみことばによって始める、みことばを心にとどめ続けておく。人に求め、人に怒り、言葉を爆発させる前に、みことばを自分の目の前に置いて、歩んでいくということ。それが、私たちが舌をコントロールし、のろいではなく祝福の言葉が人に向けられていくための道です。
ヤコブは、馬とくつわ、船とかじ、森を燃やす炎とちいさな火などをたとえに用いて、私たちにことばの力を教えています。「火から炎へ災いへ」という消防署の啓発スローガンがありましたが、まさにことばは小さな火が炎となり、災いを生んでいくほどの力を持っています。しかしそれはことばそのものが悪ではなく、方向性が間違っているときにそうなります。もしことばがよい方向へと用いられていくならば、どんなに小さな言葉も世界を変え、どんなにささやかな慰めのことばも、死せるたましいを生き返らせることができます。実にそのために私たちクリスチャンはみことばによって救われ、みことばを与えられているのです。ヤコブはこのように語ります。9節、「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません」。
そうです、そのようなことがあってはなりません。やってはいけない、という意味ではなく、両者の共存はありえないのです。「甘い水と苦い水」。これは、真水と塩水のことですが、真水と塩水を同時に噴出させる泉は存在できません。私たちは、みことばそのものであるイエス・キリストをいつも心の真ん中に置きましょう。あなたの心の中におられるイエス様は笑っておられますか、泣いておられますか。喜んでおられますか、悲しんでおられますか。私たちのことばが人を傷つけてしまうとき、あるいは誰かの言葉が私たちを傷つけたとき、イエス様もまた涙を流され、悲しまれるのでしょう。でも私たちのことばが逆に人々にとって祝福であり、恵みの言葉となるように、イエス様は内側からいつも力を与えてくださいます。みことばをいつも心にとどめながら、私たちもことばを語るものでありたいと願います。これからの一週間も、守られますように。
2024.7.14「信仰は行いによって完成される」(ヤコブ2:14-26)
聖書箇所 『ヤコブの手紙』2章14-26節
14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。15兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、16あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。17同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。18しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。19あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。20ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。21私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。22あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。23「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。25同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。26からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。2017 新日本聖書刊行会
今年の4月に亡くなられた、星野富弘さんの「花の詩画展」が、10月から豊栄公民館で行われるそうです。よく知られているとおり、星野さんは中学校で体育の指導中に大けがをして、首から下が動かなくなりました。その後口に筆をくわえて花の絵を描くようになりますが、それまでの約二年のあいだは、いつも死ぬことばかりを考えていたと言います。じつは私が学んでいた神学校で旧約学を教えてくださっていた先生が、星野さんを足繁く訪問していた牧師の友人であり、当時の様子を授業で語ってくれたことがありました。
病院で寝たきりになった星野さんをその牧師は訪問し、慰めますが、最初、あんたに何がわかるという感じで、冷淡な対応だったそうです。しかしその牧師は、何度も病院に通い、何かしてほしいことはないかと星野さんに尋ねました。するとある日、彼が天井を見上げながら、たった一言、「ラーメンが食べたい」と言ったそうです。それは本当に食べたかったのかどうかわかりません。病院にラーメン持ってこられるか、寝たきりのおれに食べさせることができるか、という思いだったのかもしれません。
ちなみに星野さんが大けがをしたのが昭和45年、日本で最初のカップラーメンが発売されたのがその翌年、昭和46年です。今のようにお湯を注げば簡単に食べられるラーメンはまだ普及していない時代でした。しかしどうやったかはわかりませんが、この牧師は星野さんのもとに温かいラーメンを持ってきたそうです。いい話ですね。これで彼の態度が変わったかというとそうでもなく、その後も色々めんどくさいことを持ち出して、この先生を困らせたということでした。しかし少しずつ星野さんの心は開かれ、大けがをしてから約4年後、病院で洗礼を受けたそうです。星野さんも、障害を乗り越えて、偉いなあと思いますが、この先生も偉いなあと思います。まさにこの牧師の姿は、信仰と行いが手を結んで、生きていたと言えるのではないでしょうか。
ヤコブは、たとえ信仰があると言っても、その人に行いがないなら、むなしいものだと言います。確かに私たちは、行いによって救われるわけではありません。しかし信仰によって救われた者には、必ず行いへと導かれていくのです。ここでいう行いとは、あれをやってはいけない、これをやってはいけない、という生活の束縛ではありません。自分がしてほしいように、他の人にもしてあげたい、という愛からにじみ出る行いです。
「私たちにはその行いがあるでしょうか」。私はそのように尋ねることはいたしません。救われた者には、必ずその行いが伴うからです。しかし一言で行いと言っても、できることもあれば、できないこともあります。だれもが、星野さんのようにはなれないし、この牧師先生とまったく同じことをする必要はありません。しかし、イエス・キリストが私のためにいのちを捨ててくださったのだ、ということを私たちが信仰によって信じたとき、神様は一人一人に、その人にしかできない行いを備えてくださったのです。
その人にしかできない、と言った言葉の意味は、能力ではなくて、その人が置かれている環境や立場のことです。あなたの家族に対して、最も有効な証しができるのはあなたです。あなたのことを知っている人々のあいだで、あなたのなす、どんな小さな行いも、それは神のわざを伝えるものとして用いられていきます。ですから私たちは、行いと信仰という二つの関係を考えるとき、私には行いが伴っていないというあきらめや失望を持ってはなりません。どんなに小さな行いさえも、神は私たちを今ある場所に置いてくださることを通して、ご自分の栄光を表すために用いてくださるのです。
パウロは、「人はイエスを信じる信仰によって、義と認められるのです。行いによるのではありません」と、ローマ人への手紙に書き送りました。しかし24節でヤコブはこう語っています。「人は行いによって義と認められるのです」と。これは矛盾でしょうか。いいえ、ヤコブが伝えたかったのは、信仰ではなく行いによって、人は義と認められるということではありません。信仰によって義と認められた人の生き方は、必ず行いという実を結ぶ、ということだったのです。 この真理を伝えるために、ヤコブは旧約聖書の出来事を紹介しています。アブラハムは、イサクをささげる三十年以上前に、信仰によって救われました。しかしその後のアブラハムは、決して信仰一筋というわけではなく、たびたび、神の御名を汚すような行いをしてしまいました。ある時には異教徒の王から「あなたは何ということをしたのか」と批判され、ある時には彼の行いが原因で家族が離ればなれになりました。しかしそのような中でも、神は彼の信仰を少しずつ成長させてくださり、その信仰は、自分の息子イサクを、神のためにささげるという、ひとつの行いによって完成されたのです。
クリスチャンとして歩んでいる中で、自分の信仰には行いが伴っていない、と考えて自分を責める人もいるかもしれません。しかし聖書は、私たちを責めるためではなく、励ますために書かれました。あれができない、これをしていない、という小さなことが信仰生活の中にあっても、いつか必ず私たちは、自分の信仰が本物であることを示す一つの機会が訪れます。そのとき、私たちがどう行動するかによって、信仰が公に表されます。アブラハムにとって、それがイサクをささげる時でした。カナン人であったラハブにとっても同様です。同胞であるカナン人が敵視しているイスラエルの使者たちを、自分の命をかけて守り抜いたとき、彼女の信仰は確かな行いとして、実を結びました。
最後に、星野さんの話をもう一つ紹介します。じつは星野さんは、大けがをする前、大学生の時に、すでに教会と関わりがあったそうです。大学生時代、彼が体操を指導していた高校の体操部が、夏になると地元の教会を合宿場所として利用していました。教会は会堂を貸し出す代わりに、部員たちが礼拝に出席するという条件を出していたそうです。ずっと後になって、星野さんは、教会の裏に立っていた墓にみことばが刻まれており、その言葉の意味を当時、考えたことがあった、と回想しています。
その墓は、生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんのために、両親が建てた墓でした。そして刻まれていたみことばはマタイ11章28節、すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい、私があなたがたを休ませてあげます、でした。この墓については、子どもを生まれてすぐに亡くした親たちが、当時の牧師に「なぜ自分たちの子どもを、神はこんなに早く天に召したのか」と聞いたとき、牧師は「わかりません」と答えることしかできなかったということです。しかしその墓に刻まれたみことばが、大学生時代の星野さんの記憶に残りました。そして彼が大けがをして人生の意味を見失ったときも、そのみことばは彼の心の奥底でともしびとなりました。そして彼が残した詩画の数々は、今までもこれからも、多くの人々を慰め、励ましていくことでしょう。
そう考えると、その赤ちゃんの死も、星野さんをはじめとして、あらゆる人の救いにつながっていたと言えるでしょう。私たちが信じている神のみわざは、何と奥深いことでしょうか。そしてこの神が、私たちを通して行わせようとしている計画は、何と期待に満ちていることでしょうか。一人一人、与えられた信仰と、そこから生まれる、行いという義の実を見つめながら、この一週間を歩んでいきましょう。
2024.7.7「キリストのからだなる教会」(第一コリント12:12-26)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、新会堂の基本設計案が臨時教会総会にて承認されました。今月中に献金お願いチラシを作って、主に同盟教団を中心に、全国の諸教会に発送します。設計士の方から完成予想図をいただいたので、許可をいただいてチラシの表紙に入れようと思ったのですが、諸般の事情により、画像を絵画風に加工することにしました。それができるソフトをネットで検索したところ、Cyberlink社のPhotoDirectorを推す声が多くあり、ちょうどセール期間だったのでサブスクリプション契約で購入してみました。
しかし「絵画調」ボタンを色々試してみたものの、納得できる仕上がりにはほど遠く、あきらめました。
せっかくウン千円も払ったのに、どうしよう、返金申請しようか、とパソコンの前でしばし脱力していると、なんでしょう、「AIアニメ化」というボタンがあります。どうやら、最近はやりのAIで、画像を大胆に調整できるようです。しかしブログで結果を報告するためには、元絵をさらさなければならず、どっかから持ってきた画像だと著作権にひっかかる可能性があります。かといって私と妻のツーショットの写真をさらしてAIで美男美女化するのも何だかなと考えていたら、そうだ、オリジナル画像があったじゃないかということに気づきました。
そうです、先週皆さんの前に披露したニャスモです。100%、近伸之のオリジナル作品なので、誰にも後ろ指さされません。

とりあえず、「サクラ」と書いてあるボタンを押してみます。棒グラフのようなものが出てきて、数秒待つように言われました。
そして棒グラフが伸びきって、100%になったとき、驚くべきものができあがりました。

ま、まじか・・・・サメの帽子がおかっぱ頭になっとる。よく見ると右下にあった文字の断片も、赤座布団とおまんじゅうみたいなものに。
AI、自由すぎるぜ。こうなると他にも試してみたいのが人情というもの。次は「クール」と書いてあるボタンを試してみました。

今度はサメの帽子がそのまま生かされて、良い感じです。しかし福音派の牧師のブログなのに、ボインちゃんになってしまいました。
最後に、「サイバーパンク」を試してみます。

・・・・AIとは、げにおそろしきかな。肝心の教会堂の完成予想図を加工するという目的はどこかへ行ってしまいました。
長くなりすぎたので、今日はこのへんで。
先日、新会堂の基本設計案が臨時教会総会にて承認されました。今月中に献金お願いチラシを作って、主に同盟教団を中心に、全国の諸教会に発送します。設計士の方から完成予想図をいただいたので、許可をいただいてチラシの表紙に入れようと思ったのですが、諸般の事情により、画像を絵画風に加工することにしました。それができるソフトをネットで検索したところ、Cyberlink社のPhotoDirectorを推す声が多くあり、ちょうどセール期間だったのでサブスクリプション契約で購入してみました。
しかし「絵画調」ボタンを色々試してみたものの、納得できる仕上がりにはほど遠く、あきらめました。
せっかくウン千円も払ったのに、どうしよう、返金申請しようか、とパソコンの前でしばし脱力していると、なんでしょう、「AIアニメ化」というボタンがあります。どうやら、最近はやりのAIで、画像を大胆に調整できるようです。しかしブログで結果を報告するためには、元絵をさらさなければならず、どっかから持ってきた画像だと著作権にひっかかる可能性があります。かといって私と妻のツーショットの写真をさらしてAIで美男美女化するのも何だかなと考えていたら、そうだ、オリジナル画像があったじゃないかということに気づきました。
そうです、先週皆さんの前に披露したニャスモです。100%、近伸之のオリジナル作品なので、誰にも後ろ指さされません。

とりあえず、「サクラ」と書いてあるボタンを押してみます。棒グラフのようなものが出てきて、数秒待つように言われました。
そして棒グラフが伸びきって、100%になったとき、驚くべきものができあがりました。

ま、まじか・・・・サメの帽子がおかっぱ頭になっとる。よく見ると右下にあった文字の断片も、赤座布団とおまんじゅうみたいなものに。
AI、自由すぎるぜ。こうなると他にも試してみたいのが人情というもの。次は「クール」と書いてあるボタンを試してみました。

今度はサメの帽子がそのまま生かされて、良い感じです。しかし福音派の牧師のブログなのに、ボインちゃんになってしまいました。
最後に、「サイバーパンク」を試してみます。

・・・・AIとは、げにおそろしきかな。肝心の教会堂の完成予想図を加工するという目的はどこかへ行ってしまいました。
長くなりすぎたので、今日はこのへんで。
聖書箇所 『コリント人への手紙 第一』12章12-26節
12ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。14実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。15たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。16たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。18しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。19もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。20しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。21目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。22それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。23また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、24格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。26一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
私の母校である敬和学園高校は、約30年前当時、演劇部がありませんでした。毎年、フェスティバルという全校行事があって、そこでは1年生から3年生までの混合チームで演劇の発表会がありますので、上手な人はたくさんいましたが、そのフェスティバルで燃え尽きてしまうので、一年を通しての部活としての演劇部はなかったのです。そこで私と何人かの仲間で、演劇部、最初は部ですらなく、愛好会と呼んでいましたが、そのようなものを立ち上げることになりました。学生時代にサークルの部長を経験した人もおられるかもしれませんが、部活動の運営というのは、まるで牧会のようです。メンバーを奮い立たせたり、落ち込んでいるメンバーを励ましたり、時には厳しく指導することもあります。とくに演劇志望の学生なんて、アクの強い人ばかりです。舞台に立ってお芝居がやりたいと言って入会してくるわけですが、お芝居を作るためにはみんなで大道具や小道具を作らなければいけないよというと、そんな地味なことはいやだと言います。そんな人たちをなだめすかして、演劇は協力と忍耐の連続だよということを教えたりしました。3年生の時に立ち上げて、学内で簡単な発表会を一回だけやって、後は卒業となったのですが、それから30年以上経った今では、敬和の演劇部は関東大会の常連校となっていると先生から聞いて、自分のことのようにうれしく思います。最初の箱だけ、何とか形にできれば、後は次の人たちが盛り上げてくれるのです。もしかしたら教会の会堂建設も同じかもよというのは、楽観的すぎるでしょうか。ただ心配ばかりしていると楽しいものも楽しくなくなります。先週、教会総会も無事に終わりましたので、今自分にできることをやっていこうというスタイルで行きたいなと思います。
演劇では、舞台に立つ人は脚光を浴びますが、裏方の人々は当然、観客の目には触れません。教会においても、やりがいのある奉仕もあれば、あまり引き受けてもらえない奉仕などもあります。二千年前のコリント教会では、異言を語るような賜物はもてはやされ、逆に目につかないような奉仕は見下されたりすることがありました。しかしまず私たちは、あらゆる奉仕は「私が仕えるのではなく、私の中に生きておられるキリストが仕えておられるのだ」ということを忘れてはなりません。週報を見ると、礼拝司会、集会当番、音響と、色々な奉仕が書いてあります。それはおのおのが与えられた賜物を用いて奉仕しているわけですが、さらに言うならば、それはその人の中にいま、確かに生きておられる神が、その人を通して働かれているということでもあります。神が司会をされます。神が集会当番をされます。神がトイレ掃除をされます。奉仕とはそういうことなのです。それゆえ、私たちのほうから、これは私にふさわしい奉仕だとか、自分にはできない、と言うことはできません。私ではなく、神が私を通して仕えられるのだという思いをもって、教会を建て上げていくことが必要です。
コリント教会の中には、異言を語ったり、解き明かしたりする人々は、自分たちが特別な賜物を与えられていることを誇りました。しかしパウロは、「からだの中で比較的に弱いとみられる器官がむしろなくてはならないものだ」と語りました。それぞれがみこころに応じて賜物を与えられていることを感謝し、その賜物を自分のためにではなく、まわりを生かすために用いていけば、そこには多様性と一致がしっかりと結び合わさった教会が生まれていくのだということをパウロは伝えています。
牧会にはバランスが大事です。一致一致とばかり言っていると教会の雰囲気が窮屈になりますし、かといって放置一辺倒では、ばらばらな群れになってしまいます。しかし、パウロはこの12章でクリスチャンの多様性から語り、そして13章のテーマである愛へと繋げていることは重要です。多様性と一致とのバランスをとるために必要なのは、愛です。愛は、キリストにあって私は教会のからだの一部とされているのだという意識と感謝を生みます。感謝は、あの人も私と同じようにキリストのからだの一部なのだという愛を強めます。13章で詳しく語られますが、愛は、他人の賜物をうらやんだり、ねたんだり、自分には賜物が与えられていないと自己卑下することから私たちを守ります。また、教会という神の家族の中で、あの人が必要としているものは何だろうと想像力を働かせて、その人の役に立ちたいという願いを生み出します。ひとり一人の多様性が、愛という糸で結び合わされて、教会を一致へと導きます。
パウロは、その真理をわかりやすく伝えるために、人間のからだをたとえで用いました。目、耳、鼻、口、手、足、内臓、それらは器官としては違いがあっても、同じ細胞の集まりです。その細胞ひとつ一つに、優れているとか劣っているという違いはありません。しかし異なる目的を果たすために、ある者は目に、ある者は耳に、ある者は心臓に、と作り変えられていきます。それぞれが長所もあれば、短所もあります。目は、見えるけれども匂いを嗅ぐことはできない。口は、ことばを話せるけれども、見ることはできない。それぞれが欠けた所を補い合い、優れた所を分かち合うために、神はそれぞれを異なる者として作ってくださいました。まさにパウロが言うように、私たちは誰一人として、他の人に向かって、「私はあなたを必要としない」などと決して言えないのです。
私たちは、それぞれが支え合いながら生きています。不必要な人など、誰ひとりおりません。パウロはこうも書いています。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」。「また私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」と。劣っていることは悪ではありません。劣っているから切り落とすという考え方は、イエス・キリストの中にはありません。主にあってひとつとされた私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官をことさらに尊びます。それは、神が弱さのうちに働かれるお方であるからです。ある人が言いました。「弱いという漢字の中には、羽という文字が隠れている」と。弱さを見つめる者は、そこに羽ばたきの音を聞くことでしょう。自分の力で羽ばたくのではない。神が弱さの中におられ、神が空へと引き上げてくださるのです。
あなたは家族の中で、社会の中で、あるいは教会の中で自分をどんな存在として見ているでしょうか。自分などいなくても会社は回る、自分よりも優れた人たちがいるのだ、その人たちに比べれば自分なんて。だが次のことは忘れないでください。あなたはあなたであってあなたでないということを。キリストがあなたの中に生きておられる。そしてあなたを通して働かれます。私なんか必要ない、と言うならば、それはキリストなんか必要ないということです。あなたのために、キリストは十字架の身代わりの死をも拒まれなかった。あなたのために、キリストはいのちを捨てることを恥としなかった。何のために。あなたの中に生きるためです。ひとり一人は、決してなくてもいい器官なんかじゃありません。今、キリストが生きておられる、そのからだの部分なのです。今週も、私たちは弱さを見つめながら、共に歩んでいきたいと思います。
2024.6.30「筋肉質な教会」(ルカ14:25-35)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日、パソコンの中の画像を整理していたら、面白いものが出てきました。

何年前か忘れましたが、宣教区で「国外宣教委員会」を立ち上げることになりました。
そのままの名前だと教団の国外宣教委員会とかぶるので「名前を募集します」というコンテストが、そうだ、あった、あった。
どうやら私が「にゃせんこ」というのを思いついて、いろいろとアイディアを書き殴ったようです。四十の男が書くものではありませんが。
たしかにゃせんこの「にゃ」は「Niigata-Yamagata」を縮めたもので、あと宣教(せん)と国外(こ)だったかなあ?
ごめん、ぜんぜん思い出せない。
どうやら同時にマスコットキャラクターも思いついて、それはなぜか「ニャスモくん」という名前になったらしいですね。
将来の夢は同盟教団の国外宣教師(一応お約束)、好きな聖書の人物はニコデモ(ネコデモ救われるから)、
好きな食べ物はタイの名物料理トムヤンクン(ただし猫舌なので冷めたものに限る)、好きな本はもちろん聖書(にゃん語訳)。
しかも同盟教団本家の国外宣教スローガン「JAWS21」とタイアップするためにサメのかぶりものまで用意されているという徹底ぶり。
相当ヒマじゃないと考えつかないですね。タイムマシンで当時の私を連れてきて部屋の掃除でもさせたいくらいです。
ただ左下に変なロゴっぽいものが書いてあります。これ、確か東京オリンピックのときに盗作騒ぎで話題になったやつではないでしょうか。
なんでここに書いてあるんだ。あわわ、これ以上触れない方が良さそうです。
でもキャラクターの造形としては、いいとこいってんじゃないすか〜と思ったので、特別にトリミング。

じっと見ていると、もふもふしたニャスモくんの肌触りが感じられませんか。
だれか作ってくれないかな。材料費だけだったら払います。あとサメのかぶりものは着脱可能でお願いします。
今日、パソコンの中の画像を整理していたら、面白いものが出てきました。

何年前か忘れましたが、宣教区で「国外宣教委員会」を立ち上げることになりました。
そのままの名前だと教団の国外宣教委員会とかぶるので「名前を募集します」というコンテストが、そうだ、あった、あった。
どうやら私が「にゃせんこ」というのを思いついて、いろいろとアイディアを書き殴ったようです。四十の男が書くものではありませんが。
たしかにゃせんこの「にゃ」は「Niigata-Yamagata」を縮めたもので、あと宣教(せん)と国外(こ)だったかなあ?
ごめん、ぜんぜん思い出せない。
どうやら同時にマスコットキャラクターも思いついて、それはなぜか「ニャスモくん」という名前になったらしいですね。
将来の夢は同盟教団の国外宣教師(一応お約束)、好きな聖書の人物はニコデモ(ネコデモ救われるから)、
好きな食べ物はタイの名物料理トムヤンクン(ただし猫舌なので冷めたものに限る)、好きな本はもちろん聖書(にゃん語訳)。
しかも同盟教団本家の国外宣教スローガン「JAWS21」とタイアップするためにサメのかぶりものまで用意されているという徹底ぶり。
相当ヒマじゃないと考えつかないですね。タイムマシンで当時の私を連れてきて部屋の掃除でもさせたいくらいです。
ただ左下に変なロゴっぽいものが書いてあります。これ、確か東京オリンピックのときに盗作騒ぎで話題になったやつではないでしょうか。
なんでここに書いてあるんだ。あわわ、これ以上触れない方が良さそうです。
でもキャラクターの造形としては、いいとこいってんじゃないすか〜と思ったので、特別にトリミング。

じっと見ていると、もふもふしたニャスモくんの肌触りが感じられませんか。
だれか作ってくれないかな。材料費だけだったら払います。あとサメのかぶりものは着脱可能でお願いします。
聖書箇所 『ルカの福音書』14章25-35節
25さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。29計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、30『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。32もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。33そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。34塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。本日は午後から、会堂建設に関わる、臨時教会総会を開催することになっております。ようやく私たちはこの地に根を下ろして、一つの会堂をここに生み出し、そこを拠点としてこの町と共に歩んでいく、準備ができました。教会総会では、何かを決めたり、承認することも大事なことですが、そこに一人一人が集まるということがそれ以上に大事なことです。私たちクリスチャンが集まるとき、それは異なる者たちがひとつの場所で、同じ空気を吸いながら、一人一人が同じキリストのからだなのだということをかみしめます。午後の教会総会が、神の栄光を表すものとなるために、まず私たちはこの礼拝で、神のことばを真剣に受け取っていきたいと願います。
さて、クリスチャンがイエス様のもとにこうして集まるとき、私はキリストの弟子であるというひとつの決意が、それぞれの心に生まれます。しかし今日の聖書箇所の冒頭、そこには大勢の群衆がイエスと一緒に集まり、その後ろについていましたが、彼らの心はばらばらでした。ある者は、イエスに、その日のパンを求めていました。ある者は、イエスがローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれるようにと願い、ついてきました。ある者は、イエスが行ってきた、めざましい奇跡を自分の前で行ってくれることを願っていました。確かに彼らはイエスと一緒に歩いていたのですが、本当の意味で、一緒に歩いているとは言えなかったのです。そのとき、イエスは振り向いて、群衆にこう語られました。26、27節をお読みします。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」。
イエス様は、たとえどんなにたくさんの人が一緒に歩いていたとしても、それだけで喜ぶような方ではありませんでした。イエス様は、弟子を求めておられました。弟子と群衆の違いは何でしょうか。群衆は、イエスが私に何かを与えてくれることを期待するだけの人々です。願いが満たされればそれ以上は一緒に歩きません。また願いが満たされないとわかれば、あっという間に離れていきます。しかし弟子とは、イエスから何かを求める人々ではなく、むしろイエスが私に求めておられることに、懸命に従っていこうとする者たちです。まさにクリスチャンとは、そのような者たちなのです。
弟子ということに関連して、今までの会堂建設の歩みが思い起こされます。二年前の今ごろ、私たちは、礼拝堂の広さはこれがいい、キッチンの形は、休憩室のディテールは、といろいろと集まって話し合っていました。それは今振り返ってみるとほとんどが今回のプランにて満たされておりますが、しかしそこに至るまでに、会堂建設委員会では、何度も何度も話し合いを繰り返しました。たとえると、それぞれの願いが書かれた積み木の一つ一つを、予算という限られたひとつの木箱の中に何度も何度も入れたり出したりしながら詰め込んできました。信仰があれば、予算はいくらでも増やすことができるという考え方もありますが、それを否定はしなくても、少なくともバランスは必要です。余裕のある建物が建てられたら一番よいでしょう。しかし必要な部屋や施設は何か、それは本当に必要なものなのか、そして本当に必要なものに対しては惜しみなく信仰を働かせます。そういう中で、設計士の協力を得てできあがった基本設計案は、言うならば筋肉質な建物です。決して十分な広さではないかもしれないが、余計なところは何もありません。
振り返ってみると、この会堂のかたち、まさにこれが私たち自身なのだと思うのです。つまり、ひとりの信徒として、そこにはお客様のような人はいない。お客様というのは、自分が利益を受けることばかりを教会に求めている人のことです。私たちはお客様ではなく、教会のからだであり、一人一人が筋肉のように自分の力を精一杯働かせて教会を動かしていく者たちです。それぞれが必要であり、それぞれがかけがえのない者たちであり、新しい教会堂は、そんな私たち教会員自身のあり方も体現している、筋肉質なものとなりました。
私たち一人一人は、ただ救われた者ではなく、弟子であることをイエス様は求めておられます。家族一人一人を憎まない者は私の弟子にふさわしくないとは、なんと厳しいことばでしょうか。しかしそれは「わたしのもとに来て」という言葉が大前提です。イエス様のもとに来て、その恵み、その慈しみを味わっていながら、なおかつイエス様よりも家族の方を大事にするならば、その者は弟子にふさわしくない、ということです。私たちは家族を愛します。救いを願います。しかし家族への愛は決してイエス様にまさるものであってはなりません。まず、私のいのちを救ってくださったイエス様をあらゆるものにまさって愛します。そのうえで、私たちは家族に対して、イエス様の愛を広げていきます。しかし家族からしてみれば、イエス様よりも自分たちのほうが下であるということには不満があるでしょう。だから軋轢が起こります。しかし、その軋轢のなかで、それでも家族を愛しつつ、イエス様を第一として生きていくとき、それが十字架を背負う道となります。そこには犠牲もあります。痛みもあります。しかしそれでもなお、イエス様に従い続ける者たち、それが弟子であり、私たちはキリストの弟子として生きるとき、そこに喜びが沸き起こります。
イエス様は、このあと、二つのたとえを使って、私たちを教えようとしています。塔を建てるとき、費用を計算しない者がいるだろうか。敵国と戦うとき、相手と十分渡り合える兵がいるか、考えない者がいるだろうか。最初のたとえは、まるで会堂建設のことを言っているのかとさえ思いますが、じつはここで言われているのは、私たちが費用を計算するとか、私たちが座ってよく考えるということではありません。「あなたがたのなかで」と言われてはいますが、これは、イエス様のことなのです。神の国という塔を建てるため、あるいは神の国を広げていく戦いのために、イエス様は私たちという、塔のための資材、あるいは戦いのための兵士を用意されました。もし私たちが、自分はキリストの弟子であるという確信があるならば、その次の確信は、神は必ず私を用いて、塔を建て、戦いに勝利されるということです。私たちは弟子です。神が永遠の計画をもって定め、備え、神の国を勝ち取るための必要不可欠な者たちとして遣わされる、真の弟子なのです。
最後の、塩のたとえは説明の必要はないでしょう。私たちの代わりは、どこにもいません。一人一人が、かけがえのない弟子です。塩は防腐剤の役割を果たします。しかしもうひとつ、イスラエルでは作物を成長させる肥料として、塩が用いられていました。もちろん撒きすぎたら逆効果ですが、適度な塩が、作物にいのちと力を与えるのです。適度ということをおぼえてください。クリスチャンは数の力では勝負しません。一人でも二人でも、わずかな者たちを、神は組み合わせて、この世界を救うために用いてくださいます。この町の人々に福音の麗しさを紹介するために十分な会堂を、神は最善をもって用意してくださることでしょう。期待と喜びをもって、一人一人が、イエス様の弟子として、しっかりとイエス様を見つめながら、歩んでいきましょう。