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2019.5.26「私を遣わしてください」(イザヤ6:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、新潟山形宣教区の一斉講壇交換でした。
当教会では、前新潟福音教会牧師で、現在ニューヨーク日本人教会への派遣を控えておられる笹川雅弘先生をお迎えしました。
笹川先生から、説教のアップロードを許可していただきましたので、しばらく公開いたします。
説教の後半、パワーポイントによるプレゼンがありますが、カメラが壁面固定式なので音声しか入っていません。残念。
週報はこちらです。

聖書箇所 『イザヤ書』6章1−8節


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2019.5.19「賛美の祝福」(詩29:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、村上福音キリスト教会での説教奉仕のため、説教代理者として、新発田キリスト教会の田中敬子伝道師をお迎えしました。
当ブログの熱心な読者の方には、すでにおなじみですね。説教映像をアップするとどーんとアクセス数が跳ね上がります。悔しいわ。
じつは当日の礼拝に、先日天に召されました長谷部芳江姉のご遺族の方が出席してくださるという連絡がありました。
もちろん葬儀で顔を合わせているのですが、せっかく礼拝に来られてもお会いできないのは少し残念。
そこで週報の表紙は、芳江姉が好きだったというコスモスの花を選びました。
2019.5.19.jpg

週報の私物化?いいえ、牧会的配慮です
ちなみに田中先生にちょくちょく説教代務を依頼するのも、元奉仕神学生なので頼みやすいからではなく、牧会的配慮です
大切なことなので二回言いました。
「風つよし それより勁(つよ)し 秋桜」。芳江姉のご生涯にぴったりの俳句でした。
田中先生の説教、「賛美の祝福」も、心なしかこの句に合っているような気がします。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』29篇1−11節



posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.12「神の都を待ち望む」(黙21:22-22:5)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
高校から社会人時代にかけて、私の信仰を導いてくれた、元牧師夫人がさる5月9日深夜に急逝しました。満79歳でした。
ある事情で、半年前から豊栄教会の礼拝に出席していましたが、その背後にはとてつもなく深刻な事情があったことを聞いています。
どちらかというと口数の少ない人でしたので、誤解されることもあったでしょう。しかしその少ない言葉には重みがありました。
多くの教師たちが晩節を汚す言動を繰り返す中で、最後まで主にさばきをゆだねて自らは多くを語らない、立派な生涯でした。
葬儀は先日、私が司式をさせていただきました。いずれ、写真と共に詳しく報告させていただきます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの黙示録』21章22節−22章5節


1.
 客会員としてこの半年間、ご主人と一緒に礼拝に出席されていた長谷部芳江姉が、先週の半ば、天に召されました。
夜中にご主人から電話を受け、急きょ搬送先の病院に駆けつけましたが、すでに息を引き取られた後でした。
ご本人および遺族の要望により、私が葬儀の司式を行わせていただくこととなり、山の下福音教会の先生方からも了解を頂きました。
先週の日曜日には、いつものように礼拝に出席され、お気をつけて、また来週、と声をかけて送り出した姉妹の亡骸を前にしたとき、
もちろんそういうことは、人並みに生きていれば、必ず経験することなのですが、あまりにも突然すぎて、涙も出てきませんでした。
 以前、長谷部姉から、もし私が亡くなったときには、葬儀は近先生か、長女の夫である下山田先生に司式してほしいと言われました。
それは次女である長谷部愛実先生がまだ山の下の牧師であったときのことだったので、愛実先生でいいのでは、と冗談でかわしましたら、
愛実は情が深いのでおそらく号泣してしまって司式にならない、だから近先生か下山田先生が適任だろう、と言われました。
私も下山田先生も、情のない牧師に見られているのかと思いましたが、それが彼女のユーモアだったのだろうと思います。

 さて、イエスさまはかつて弟子たちに、「わたしの父の家には住まいがたくさんあります」と言われました。
このヨハネの黙示録の最後には、私たちに約束されている神の国がひとつのイメージとして示されています。
イメージ、と言ったのは、永遠無限の神にふさわしい都は、決して人間の常識や感覚で捉えきれるものではないからです。
それでもあえて計算してみるならば、この神の都は、一辺が約2200キロメートルの角砂糖のような形と記されています。
ここに地球の総人口よりやや多い、100億人が入ったら、一人あたりの居住スペースはどれくらいになるでしょうか。
計算したら、幅1キロ、奥行1キロ、天上までの高さ1キロのワンルームに住める計算になります。しかしこんな計算は意味がありません。
永遠無限の神にふさわしい都が、人間が計算できるような枠にとらわれることは決してないからです。
都の大きさにせよ、その城門や土台を彩るさまざまな種類の宝石にせよ、それは現実のものというよりも、ある一つの真理を伝えています。
神の都は、神の子どもとされた私たちのために、神があらゆる富を惜しみなく使って用意した、永遠無限の愛が溢れたところなのです。
そしてイエス・キリストを信じた者たちには、この永遠の都に入る資格が与えられています。
どんなに自分をこの都にふさわしくないと思っても、キリストが私の身代わりとなったゆえに、私たちは神の都の住民票が保証されているのです。

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posted by 近 at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.5「闇が闇でなくなる日」(詩139:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私のパソコンには「G-DATAインターネットセキュリティ」というウイルス対策ソフトが入っているのですが、最近ブログを更新しようとすると、
不正コードが含まれているのでアクセスをブロックしました」というメッセージが出て、操作ができなくなってしまいました。
それで「さくらのブログ」の運営会社が対応してくれるのを待っていたのですが、ウンともスンとも。
どうもG-DATAのほうの誤検出のようで、ただでさえ一週間遅れの更新がさらに遅くなってしまいました。
こんなブログでも更新を心待ちにしてくださっている全国10人くらいの方々(推測)、たいへん申し訳ありません。
「さくらのブログ」はたぶん無実ですので、とりあえず安心してご閲覧ください。
「ドイツ生まれの、世界が認めたG-DATA」(某電気カミソリのキャッチコピーみたい)という宣伝文句に惹かれて信じていたのですが、
まことの神様以外には頼ってはならないということでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』139篇1−12節


1.
 新しい元号(げんごう)に入りました。
「令和」ということばは万葉集からとったそうですが、じっとこの漢字を見つめていましたら、すごい発見をしました。おそらく私が日本で最初です。
まずメガネをとります。そうすると令和という文字が、なんと「全知」、すべてを知るという二文字に見えてくるのです。それだけです。
しかしどうせ元号を探すならば、日本人しかわからない、というか、日本人でもほとんど知らない万葉集ではなくて、
世界共通のベストセラー、聖書を通読してそこから元号をとればよいのに、と思わされます。とりあえず私の中では、今年は全知元年です。

 さて、今日の説教のテーマはもちろん「神の令和」ではなくて、「神の全知」です。
神の全知とは、「神はすべてを知っておられる」という、まことの神が持っておられる特質を表すことばです。そしてそれは祝福に満ちています。
たとえこれからどんなことが起ころうとも、神がすべてを知っておられるというこの事実は、私たちが平安を受け取ることができる基盤です。
人生にはなぜ、どうして、理解できない、そんなことが数多く起こりますが、私にはわからなくても、主はそのすべてを知っておられるのです。
クリスチャンでも、いな、クリスチャンだからこそ、神さまの守りを実感できないような孤独と疑いの中での戦いも経験します。
しかし神は次に起こることをすべて知っておられます。そして私たち、神の子どもとされた者たちを決してないがしろにすることはありません。
どんな苦しみも、そこには意味があります。地上に起こるいかなる事柄も、神にとって想定外、などということは一切存在しません。
「主はすべてを知っておられる」。この「全知」という二文字からなる神のご性質は、冷たい神学用語ではなく、血の通ったことばです。
どんなにお手上げの事態の中でも、神が私たちの知らないところで、とっくに御手を動かしてくださっていることを確信、期待することができます。
だからこそ、クリスチャンはどんなに絶望的な状況の中でも、安心して悩むことができます。心ゆくまで悲しむことができます。
三浦綾子さんだったか、遠藤周作さんだったか忘れましたか、「安心して絶望できる」という状況が確かにあります。
reiwa_zenchi.jpg並べて書くとこんな感じ。ちなみにフォントは龍神改。


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2018.4.28「賛美がのろいを飲み込んだ」(詩137:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日のニュース記事に「ホリエモンロケット、打ち上げ成功 民間単独で国内初」という見出しが躍っていました。おめでとうございます。
ホリエモンは青年時代にアニメ「オネアミスの翼」を見て以来、ロケットの打ち上げを夢見ていたと聞いたことがあります。
彼と同年代である私も高校生のとき、新潟市の映画館で5回これを観て、人生が変わったと言っても過言ではありません。
ただしホリエモンがロケット発射へのストーリーに注目したのに対し、私は別のところに影響を受けました。
ネタバレ注意ですが、主人公であるシロツグ(声:森本レオ)が路傍でリイクニという少女からいわゆるトラクトを受け取ります。
求道者を装いつつ、その子目当てに教会(?)に入り浸る中、ロケット打ち上げ計画に巻き込まれていく・・・・
(というか、彼女に良いところを見せようと自分から言い出しっぺになる)ストーリーが、当時の私にとって他人事と思えませんでした。
シロツグとリイクニはその後あれやこれやありましたが、結局、思いが結ばれることなく、危険な打ち上げへと向かいます。
信仰をカモフラージュしているように見えた彼でしたが、最後にはロケットの中で、人類に対する赦しと守りを「神」に祈るシーンが印象的です。
(といっても死んでしまうわけではなく、エンディングのラフ画からすると、ちゃんと帰還したようです)

音楽はあの坂本龍一、制作は後にエヴァンゲリオンで社会現象を起こした面々ですので、紛れもない名作です。
ふだんアニメなど見ないクリスチャンの方に一度は観て頂きたいと思いますが、感想には個人差があるでしょう。
しかし少なくともホリエモンと私はこの作品で人生が変わりました。勝手に友だちのように扱ってしまってすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』137篇1−9節


1.
 県外から友人が来たときに一番困るのは、新潟市の観光名所に連れて行ってくれと頼まれることです。
もと新潟市職員の私が言うのも何ですが、新潟市の名所って何だろ、と本気で悩んでしまいます。
マリンピア日本海、新潟ふるさと村、朱鷺メッセ、他にもいろいろありますが、平成になってできたものばかりです。歴史的名所とは言えません。
豊栄に住むようになって、河川蒸気というお菓子を知りました。そのパッケージに、川を悠々と進む蒸気船が書いてあります。
聞いたら、戦後しばらくまでは、こんな光景が新潟の川にはあったそうで、とくにむかし新潟市の中心部には、堀が張り巡らされていたそうです。
ところが昭和39年の新潟国体の前に、堀を全部埋め立てて、道路にしてしまった、と。なんと勿体ない。
堀を残しておけば、それだけでりっぱな観光資源になり、県外から来た友人も小舟に乗ってご満悦、となったのではないかと思います。
 じつはバビロンという町も、水路が張り巡らされた都市であったと言われています。
1節をお読みします。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。
異国の町、柳の木が植えられた水路のそばで竪琴を奏でる人々の姿、何かロマンチックな場面に思えますが、そこには痛みがありました。
エルサレムの人々は、このバビロン軍に町を滅ぼされて、このバビロンに強制的に移住させられていました。
そしてエルサレムから連れてこられたひとりであるこの詩人は、バビロンの人々から、故郷の歌を歌ってみろと言われたのでしょう。
しかしシオンの歌、つまりイスラエルの歌は神をほめたたえる賛美です。それは神にささげられるために作られ、歌われたものです。
決して宴会の余興で歌えるようなものではない。そこで詩人は、木に竪琴をかけて、歌を拒絶し、バビロンの人々は彼を嘲りました。
 しかし詩人は、彼らの前では歌うことを拒みましたが、その一方で、決して神への賛美を忘れまいと心に誓いました。
5節から6節にはこうあります。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。
もしも私がお前を思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」
イスラエルの人々は、故郷エルサレムとはまったく風土の違うバビロンという異国で、まるで奴隷のように明日の見えない生活を過ごしていました。
その中で、唯一彼らの心の支えになっていたものは何でしょうか。それは、エルサレムに対する、たぎる思いでした。
エルサレムという町そのものをほめたたえるのではありません。エルサレムを神の都として建ててくださった、神への賛美。神への感謝です。

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posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.21「復活−恐ろしさから喜びへ」(マルコ16:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週はブログを更新することを忘れていました。我ながらこのモティベーションの低さ。継続が危ぶまれます。
さて、もう明日に迫ってしまいましたが、今年もNBIバザーで茶会をやります。
今回のポスターは、フォントは「エヴァ文字」で有名なマティスEBを縦110%、横90%で雰囲気を出してみました。
茶会のイメージは、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」からです。許可をとっていませんが。
てなわけで、来てね。週報はこちらです。
2019tyakai.jpgコピーライトマークコーエーテクモホールディングス

聖書箇所 『マルコの福音書』16章1−8節



1.
 イースターおめでとうございます。「あけましておめでとうございます」ではありませんが、
いつか日本中でイースターおめでとうございますという挨拶が飛び交うようになればよいと思いながら、いつもこの時期を迎えていました。
しかし少しずつですが「イースター」という言葉が、日本でも知名度を上げて来たように思います。
数年前ですが、スーパーで妻がプリンを買ってきたら、かわいいウサギの絵が描いてあって、「イースター」と書いてありました。
何でも卵をウサギが運んでくるからだそうです。
じつは聖書の中ではウサギもたまごもほとんど出てこないのですが、まあ良しとしましょう。
ウサギはともかく、卵は、いのちがその中に詰まっているものであり、古来よりキリストのよみがえりの象徴とされてきました。
 イースターとは、キリストのよみがえりのことです。
そしてキリストのよみがえりは、キリストの十字架と表裏一体、どちらが欠けても救いは成り立ちません。
イエス様は、私たちが受けるべき罪の罰の身代わりとなって、十字架の上で私たちのために死んでくださいました。
私たちは「死」が当たり前の世界に住んでいるので、死の本質に気づかないかもしれません。
聖書は、死は罪の報酬であると言っています。
ひらたくいうと、私たちは生まれつき罪人であるがゆえに、生まれたときすでに死に囲まれています。
しかしキリストは死んで三日目によみがえり、墓の中から出てこられました。
それは、キリストが死を打ち破ったこと、ひいては死の根源である罪を打ち破ったことを意味しています。
きょうは、イースターであると同時に、私たちの教会にとっては、先に天に召された信仰者の方々をおぼえる日でもあります。
愛するあの方々は、確かに死んでいきました。私が葬儀をしたのです。
しかし肉体は死にましたが、信仰によって今も生きています。
 イースター、それは私たちが信じたイエス・キリストが、確かに十字架で罪を打ち破り、確かに復活で死を克服したことを表すものです。
そしてこのキリストを救い主として信じる者は、死んでも生きるのです。そのことを私たちは改めて信じましょう。

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2019.4.14「パラダイスはどこにある」(ルカ23:32-49)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝では、役員就任式・CS教師任命式・子ども進級式(祝福式)を行いました。礼拝後は恒例の記念撮影です。
DSC01232.JPG
こういうのって、目線入れたりとかモザイクかけるべきなんでしょうか。ちょっとわかりません。
外部から来ている子どもは含まれていないので、いいのかわるいのか。
一脚だけ誰も座っていない椅子が気になりますが、人によってはイエス様が見えるかもしれません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32−49節



序.
 遠藤周作の『沈黙』という小説を原作として作られた「サイレンス」という映画の中に、印象深い場面が登場します。
主人公である外国人司祭が、幕府の役人に捕らえられて、みずぼらしい牢屋のようなところに入れられてしまいます。
するとすでにそこにはやはり同じように捕らえられた日本人の信徒たちがいました。そしてその中のひとりが主人公にこう尋ねてくるのです。
「司祭様、私たちが殉教したあとに行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」
「パライソ」とは、「天国」を意味するポルトガル語です。
そしてこの言葉は、新約聖書に三回だけ出てくる、「パラダイス」というギリシャ語から派生した言葉です。
「パライソは素晴らしいところなのですよね?」と聞かれたとき、この外国人司祭は、しばし何と答えて良いかわからず、沈黙します。
なぜ彼はしばらく言葉が出なかったのか。それは、彼らはパラダイスを死んだ後に行くところとは教えていなかったからです。
パラダイスは、信じた者にすぐに起こる新しい生き方です。死んだ後ではなく、信じたときに生まれる、新しいいのちそのものです。
しかし日本人の信者たちはパラダイスを浄土真宗で言う「極楽」と混同して受け止めていました。
遠藤周作がこのやりとりの中に含めたメッセージは、たいへん辛辣なものであると言えるでしょう。
いまも日本のクリスチャンは、彼らと変わらないのではないか。パラダイスを死んだ後に行く世界と考えているのではないか。
むしろ信じたときに確かに起こる、人が内側から変えられる奇跡そのもの、それが「きょう、パラダイスにいます」という言葉のまことの意味です。


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2019.4.7「見よ、善きかな、楽しきかな」(詩133、134篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』133、134篇



1.
 「あなたにとって、日曜日にはどうしても欠かせないものは何ですか」と聞かれたら、当然ここにおられる方々は「礼拝」と答えるでしょう。
しかし巷では、サザエさんと答える方も多いようです。あるいは平成生まれの世代は「ちびまる子ちゃん」と答えるのでしょうか。
「サザエさん症候群」という、ストレス症候群があるそうです。
日曜日にサザエさんを見終わると、心の中にむなしい風が吹き、ああ、日曜日終わっちゃう、明日から学校かあ、会社かあ、いやだなあ。
そう考えずにはいられないというもの。ドキッとした方もいるのではないでしょうか。
月曜日のことを考えると憂鬱でたまらない現実の人々に比べると、サザエさんの登場人物は気楽でいいよなあ、と思いませんか。
しかしサザエさんを長年にわたって研究している、あるグループによれば、むしろ彼らの方がよほど大変だ、というのです。
この研究グループは、サザエさんの原作本に出てくるすべての会話を調べて、登場人物の年齢を割り出しました。
それによると、一家の大黒柱である波平さんは54歳、お母さんのフネは48歳だそうです。ところが長男のカツオは、まだ小学生。
60歳定年の頃に書かれたサザエさんにおいて、波平さんは子どもを大学に行かせるために、
定年になってもまだまだ仕事を探し続けなければならない、厳しい老後が待っているのだということです。
彼らの生活レベルの鍵を握っているのは、同居するフグ田家の存在。彼らがどれくらい援助してくれるかという、生々しい話が続きます。
 それでも、家族がみな同じ家で生活している、サザエさん、あるいは、ちびまる子ちゃんの世界に、私たちは惹かれます。
家族全員が、同じテーブルに座り、同じ食事をつついている、何気ないけれども今となっては貴重な姿がそこには現れます。
来年、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックが開かれます。前のオリンピックの時、東京にやってきた外国人記者たちは、
わずか20坪ばかりの、同じような形の家がずらっと並んでいる、長屋のような日本の住宅街を見て、ウサギ小屋と揶揄しました。
しかしどんなにささやかであっても、人々が自分の家を持とうとした理由、それは家族団らんこそが人生のしあわせだと信じていたからです。
それから半世紀、日本人のライフスタイルは変わりました。家族のすべての世代が、一緒に暮らし、一緒に食事をする家庭は少数派です。
しかしたとえ平成生まれの若い人でも、サザエさんやちびまる子ちゃんのような家族団らんの風景を知っている人がほとんどです。
だから家族がひとつに集まることは、いまの時代では困難なことはあっても、本来は普通のことなのだという感覚は、日本人に共通しています。
しかし、この詩篇の背景である、イスラエルにおいては、家族が共に集まるということは普通どころか、奇跡そのものだったのです。

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2019.3.31「主を待ち望む」(詩130、131篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』130、131篇


1.
 星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
若い頃、小学校の教師でしたが、不慮の事故により首から下の自由を失いました。人生に絶望し、何度も死を考えたそうです。
しかし数年間の苦しみの果てに、イエス・キリストを信じた富弘さんは、口に絵筆をくわえて花の姿を描くようになりました。
富弘さんが1981年に出した、はじめての詩画集のタイトルが、今日の聖書のみことばにもある、「愛、深き淵より」というものです。
その本のまえがきで、富弘さんがこう書いています。
「今、もう一度振り返ってみると、深き淵には、澄んだ美しい水が湧き出ていたような気がします。この本は新しい私の出発点です。」
聖書の中には、「深き淵」という言葉が繰り返し出てきます。そのほとんどが、神との断絶を表す、絶望を指しています。
富弘さんもまた、この詩人と同じように、深い淵から神を呼び求めました。
その中で、神が叫びに耳を傾けてくださる愛の方であることに気づかされたのです。
130篇の1節、そして2節をもう一度お読みします。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
この深い淵の中に満たされている水の黒さは、じつのところ、自分自身の心の中にある闇の色です。
苦しみの中で、私たちは自分自身の本当の心と出会い、そこにうごめいている、自分自身の罪と向き合うことになります。
しかしその経験があって、はじめて、神の愛がいかに底のないもので、私たちの想像を超えているほどのものだということに気づくのです。
3節をお読みします。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と。
「不義」とは「罪」と言い換えることができます。ある人は、自分にも罪はあるかもしれないが、あの人に比べたら少ない、と言うでしょう。
自分はまったく罪を犯したことがない、と言い張る人さえいるかもしれません。
しかし聖書は、私たちは生まれながらに罪人である、と言います。ただ自分では気づかず、見えないだけなのです。
罪は、私たちが考えている以上に、心の中にうごめいています。
そして罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。

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2019.3.24「主を恐れる者の幸い」(詩128:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教団から「異端警戒情報」ということで、某団体の集会チラシが送られてきました。(著作権の問題から、当初掲示していた画像を削除しました)
主催者は、韓国の異端である救援派(クウォンパ)の一派、喜びのニュース宣教会に属します。
ウィキペディアからそのまま引用ですが、以下のリンク先にて、その異端性が警告されています。
韓国新興異端がイベントに勧誘:クリスチャン新聞(2012.4.11)
韓国異端リーダーの大会案内に注意!:クリスチャン新聞(2013.9.11)
新興宗教の最高指導者だった韓国沈没船の実質的オーナー:やや日刊カルト新聞(2014.5.2)
韓国異端グループの勧誘活発化 集会案内に注意喚起!:クリスチャン新聞(2018.9.1)

開催地に新潟は含まれていませんが、また別の異端については新潟市内でも報告が入っております。
聖書的かそうでないか自己吟味できるようにするために、礼拝説教や聖書の学びが必要なのですが、
「本当のクリスチャン」という甘言につられて、成長に至るまでに絡め取られてしまう例も多くあります。
豊栄キリスト教会は正統的プロテスタント教会ですから安心ですよと言いたいところですが、
福音派もまた、時代の流れの中で急成長した群のひとつ。看板だけに頼っていたらいずれ堕落します。
あれ、また辛口だぞ。とりあえず、ウチが正統か異端かどうかは、ここに集めた三百あまりの説教から判断してください。
ちょっとアヤシイのもいくつか含まれていますけどね。それを探すのもまた一興。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』128篇1-6節 


1.
 以前、敬和学園のある先生が、「敬和学園は木を育てるように人を育てる」というタイトルで、次のように話されていました。
「人間にとって、生まれてから最初の5年間、どのように愛され受け入れるかということがたいへん重要である。
そしてその5年間は、「○○学校」ではなく、たとえば『乳児園』『保育園』『幼稚園』と、「園」という名前がついている。
それは、まさに木や草が園丁によって手塩にかけられて育っていくように、
人も人生の中で最も大事な時代、親を含めてまわりの大人たちから丹念に育てられ、養われていくことを意味しているのではないか。
敬和学園という名前の中に「園」が入っているのは、まさにここに導かれた子どもたちを私たちが丹念に育てるという教育者の決意である。
その意味で、敬和学園は、木を育てるように人を育てる。」

 この詩篇128篇は、神に祝福された人生を伝えています。その中では妻がぶどうの木に、子どもたちがオリーブの木にたとえられています。
どこか、先ほどの話と通じるものを感じませんか。神に祝福された生活とは何でしょうか。その中心にあるのは、家庭です。
じつは、家庭という言葉は日本だけのものです。英語のhomeやfamilyに、庭という意味の言葉は本来含まれていません。
home、あるいはfamilyを家庭と訳した最初の日本人は、もしかしたら聖書を読んでいた人だったのかもしれません。
日本語にも、家族を庭にたとえる考え方はなかったからです。しかし聖書には、家族を木々にたとえているところが多くあります。
いま、家族そして家庭が、その本来の意味を見失いかけています。
最近、「教会が子どもたちの居場所になるべきだ」という論調をよく聞きます。しかし彼らの本来の居場所は、家庭でなければなりません。
教会は、子どもたちにとって家庭が居場所として回復するためのお手伝いをするところです。
子どもたちだけでなく、親にとっても、祖父母にとってもそうでしょう。聖書は、家庭こそが祝福された人生の基であると教えています。

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