聖書箇所 詩100篇1〜5節
<感謝の讃歌。>
1全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。
2喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民。その牧場の羊。
4感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5【主】はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
本日、片山讃美さんが、父・子・聖霊の御名において、神の子どもとなる洗礼の日を迎えたことを、心から感謝いたします。先ほど讃美さんが証しをされたように、彼女の心の中には、私は神の子どもであるという思いと共に、教会の中だからこそ経験する特別なプレッシャー、その二つが混在していました。しかしその葛藤の中で、昨年の夏、見えない力に押し出されるように、彼女は聖ヶ丘で行われたキャンプに参加しました。そこで講師の先生が語ってくださったのは、あの有名なザアカイの話であったと言います。かつて、牧師家庭に生まれながらも思春期になると神を信じることができなくなっていたという、村上宣道先生が、やはりザアカイのメッセージを聞いたとき、それまで何度も聞いていたのにその時に、まったく新しいみことばとして心に迫ってきたと言いますが、それと同じ経験を、讃美さんも経験しました。そして洗礼を決意し、冬のあいだ、約十回にわたって牧師との学びを続けてきました。もしかしたら、讃美さんが洗礼を受けるのを最近になって初めて知った、もっと早く言ってくれたらよかったのに、という方もいるかもしれませんが、思春期特有の恥ずかしさと理解してください。しかし彼女は、福音については決して恥としてはいません。先週の礼拝後に行われた洗礼試問会では、「自分の中で洗礼をとどめておく理由が、もうなくなった」と力強く語り、役員たちを感動させました。今までは、讃美さん、あるいは讃美チャンと呼んでいましたが、これからは讃美姉となります。とはいっても私たちは神の家族でありますから、常にかしこまって讃美姉と呼ぶ必要はありません。讃美さん、と気軽に呼びかけていただきたいと思います。
今日のメッセージは、先ほどの証しの中で、彼女が座右のみことばとして選んだ、詩篇100篇から、語らせていただきます。この詩篇は、巡礼者たちが神殿に入ってきたとき、聖歌隊であるレビ人たちがそれを迎えてささげる讃美歌であったと言われています。おしゃれなバーやレストランに行きますと、(行ったことありませんが)、ウェルカムドリンクと言って、初めてのお客さんに無料で飲み物が振るわれることがあるそうです。この讃美は、いわばウェルカムソングです。一年に一回、エルサレムまでのぼり、礼拝をささげる巡礼者たちに、礼拝で一番大切なものは何かを教える讃美です。1節、2節をお読みします。「全地よ、【主】に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」。
喜びが繰り返されています。礼拝とは喜びです。喜びそのものです。喜びのない礼拝というのはあり得ません。とはいえ、私たちは、いつも喜んでいられるわけではない。大きな心の重荷を抱えながら礼拝に来る人もいる。罪の悔い改めと共に、すがりつくように礼拝の席に座る人もいます。しかし、たとえそれが悔い改めのゆえの悲しみであったとしても、私たちはこの礼拝にあずかって、悲しみのままではいられないのです。神がこの礼拝に私たちを招かれるのは、私たちを喜びに変えようとしておられるのです。悔い改めは必要ですが、礼拝が終わってもいつまでも悔い改めの涙に留まる必要はありません。礼拝の中で涙は主ご自身が拭いてくださる。この喜びの礼拝の中で、讃美をささげる。感謝を表す。みことばを心に刻みつける。交わりに励まされる。こうして私たちは御霊によって変えられていきます。そして礼拝に来た時とは別の人間になる。御霊により新しく造り変えられた者として、改めて神が自分に用意された一週間へと送り出されていくのです。
讃美さんとの洗礼前の学びの中で、「人生山あり谷ありグラフ」というものを作ってもらいました。これは、自分の今までの生涯であった、良いこと、悪いことをいくつか思い出して、そのときの思いをグラフにしてもらうものです。当然、人生が順調なときにはグラフは山になり、悲しいとき、辛いときには谷になります。しかしそれだけでは終わらないのが、このグラフを作るときに見えてくるのです。讃美さんは、ある時から教会に来るのがいやになった時期があったと言います。しかしどんな時であっても、神は私たちを支えています。人生山があり、谷がある。そしてどんな谷を歩んでいる時にも、主は、じつは私たちに最上のものを用意しておられるのです。この詩篇はその理由をこう歌っています。「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」だからである、と。
イエス・キリストは、ご自分を、良い羊飼いであると言われました。そして良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、と。このイエス・キリストが羊である私のために命を捨ててくださった、と讃美さんははっきりと信じました。賛美さんの今までの人生、約15年のあいだには、辛いこと、苦しいこともあったでしょう。しかしそれらもすべて山あり谷ありの中での光景のひとつにすぎません。すべてが用いられ、すべてが賛美と感謝に変わっていくのです。
讃美さんとの学びの中で、もう一つ、やや意地悪なクイズを出したことがありました。ジェンガというのをご存じでしょうか。小さな木片を積み重ねて、高くしていくというゲームです。高く積み上げたジェンガが崩れないように、どれか一本だけ柱を抜きたい、どれを抜けば崩れないか、と讃美さんに質問しました。彼女は少し考え込みましたが、やがてすぐに、答えはないということに気がつきました。つまり、どの柱を抜いてもジェンガは崩れてしまう。そしてこれが何のたとえかわかる?と聞いたらわかると彼女は言いました。
言うまでもなく、これがたとえているのは教会です。どの人が抜けても、教会はガラガラと崩れてしまいます。私たちはちょうど一年前にそれを経験しました。連動して誰かが離れることはありませんでしたが、イエス様に羊を委ねられた羊飼いである私の中では、今も葛藤は続き、この意味を教えてくださいと神に問い続ける日々は終わっていません。しかしだからこそ忘れてはいけない、教会員一人ひとりは、誰であってもそこから引き抜かれたら教会そのものがガラガラと崩れていく、かけがえのない柱なのです。
洗礼を受けるというのは、そのような教会の姿そのものを自らも背負う者となるということです。そして讃美さんは、先ほどのクイズに正解を出したことで、教会がキリストのからだであることを正しく受け止めておられます。これから高校生として歩む中で、学業、人間関係、部活、信仰生活、いろいろな葛藤を経験するでしょう。しかし主がいつも共にいてくださいます。そして私たちも彼女の信仰を支えていきます。また私たち自身も讃美さんの信仰を通して励ましを受けていくに違いありません。
一人ひとりが今日の恵みを感謝しつつ、讃美さんのこれからの信仰生活の祝福を祈っていきましょう。この詩篇は最後にこう告白しています。「主は慈しみ深く、その恵みはとこしえまで。そのまことは代々に至る。」私たちを常に導き、支えてくださる、主なる神に、喜びと、感謝と、讃美をもって従っていきましょう。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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2023.3.5「あなたの助けはどこから来るのか」(詩121:1-8)
聖書箇所 詩121篇1〜8節
<都上りの歌。>
1私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。2私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。3主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。4見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。7主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。8主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所は、たいへん有名なみことばであると同時に、私たちの心になんとも言えない感動を与えてくれるものです。この天地を作られた神の偉大さ、雄大さ、そしてその神が私たちをいつも守って下さるという平安、そういったものがこみ上げてきます。先週、数年前に村上教会の会堂建設に関わったエピソードについて話しましたが、現在の村上教会がある場所は、村上市のシンボルである臥牛山、地元の人のあいだではお城山と言われていますが、そのすぐ近くにあります。元豊栄の教会員だった高橋兄が車で案内してくれて、ある方が寄付して下さるというその土地に行ったとき、鬱蒼とした木に取り囲まれて、狭い道の先に廃屋が建っているような場所でした。第一印象はあまりよくなかったのです。しかし後ろを振り返って、空を見上げると、新潟では珍しい青い空に、青々としたお城山がそびえていて、たいへんよい眺めでした。そのとき、このみことば、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天地を作られた神から来る」、それが心の中に響いたことを昨日のように思い出します。振り返ってみますと、たくさんのトラブルに囲まれていた村上の会堂建設をそれでもあきらめずに最後まで行うことができたのは、そのみことばが与えられて以来、ここが神が与えられた場所であるという確信を失うことがなかったからだと思います。そしていま、私たち豊栄キリスト教会の会堂予定地についても、神が与えられた場所であるという確信を与えられています。どんなことが待ち受けていたとしても、すべてを神は益に変えてくださり、新しい主の宮を通して、私たちの宣教を祝福してくださるでしょう。
ただ、今日のみことばについて、もしかしたら私たちは日本人の感覚で解釈することで、本来のみことばの意味を誤解していないか、と思うことがあります。つまり、「私は山に向かって目をあげる」という言葉を、頂上は万年雪が、峰は青々と美しく、山裾が霞に揺れている、そんな美しい光景を連想して、その美しい自然の背後に生きておられる神をほめたたえる、ということはないでしょうか。自然の背後に生きておられる神をほめたたえることは間違っていませんが、実際にこの詩篇121篇でうたわれている「山」、それは日本でよく見かけるような山ではなく、イスラエルの山々です。人をよせつけぬ岩山、ごつごつとした塊が立ち並び、雪も緑もない、赤茶けた山々、それがここで歌われている山々です。しかし詩人は、この赤茶けた山々を見上げながら、歌うのです。「私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」。
数年前、新幹線を乗り継いで、静岡県の掛川というところに行ったことがありました。東京まで約二時間、そこで新幹線を乗り換えてさらに二時間乗るとようやく着くのですが、新幹線の窓から、富士山が本当によく見えるのです。小さく富士山が見えるとかではなく、麓を走っているような感覚です。まあ普段から新幹線に乗り慣れている人は、富士山くらいでいちいち声を出したりしません。そういうのは地方から出てきたおのぼりさんだけです。私ですか?窓におでこをこすりつけて、大きな声を上げてしまいました。しかし私の向かいにいたおばあちゃんはもっとすごかった。座席の上にぴょこんと正座して、富士山に向かってナンマンダブと拝んでいました。ただ、私もイエス様を信じていなかったら富士山を拝んでいたかもしれません。
富士山に限らず、日本にはそのような美しく、壮大な山がたくさんあります。しかしこの詩篇でうたわれている山は、じつは、日本の山とは対極にあるような、赤茶けた山々です。自然に恵まれている日本人は、古来より自然に守られているという感覚をもって、自然そのものを神として拝んできました。しかしイスラエルにおいては、自然はむしろ神の恵みとは対照的な、荒々しい姿で、人々の生活を追い詰めていきました。しかしそれにもかかわらず、聖書を信じるイスラエル人たちは、信仰によってこう告白したのです。「私の助けは、この天地を造られた主から来る」と。赤茶けた山々を正面に見ながら、彼らは神をほめたたえます。それが私たち日本人に聖書が伝えようとしている本物の信仰です。それは日本の山々の、目に見える美しさゆえにその背後に神をほめたたえる私たち日本人が知らなかった信仰です。赤茶けた山々だけが広がり、自然が牙をむいているような過酷な現実があっても、その背後には、神が確かに生きておられるのだ、と告白する、それがまことの信仰です。
私たちひとり一人の目の前にも、山があります。不毛の山です。赤茶けた山々です。家族・上司、同僚、友人、あるいは自分自身。その心のかたくなさが、あなたには見えます。あなたはそれを変えようとします。山の岩肌に拳を打ちつけ、砕こうとします。だが何度打ちつけても、ひびも入らず、拳を痛めるだけ。そんな中であなたはあきらめ、関わりをやめようとします。だが本当の問題は、山そのものではありません。その山々さえも造られた神を見ることをせず、目の前の山ばかり見ていることに問題があるのです。目の前の山を打ち崩すことではなく、その山を含めてすべてを支配しておられる神を見つめましょう。間違えないでください。私たちの助けは山から来るのではありません。あなたの助けは、主から、天地を造られた神から来るのです。
詩人は告白します。「主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない」と。この詩篇は何千年もの間、多くの人々によって口ずさまれてきました。なぜでしょうか。その告白が事実だからです。天地を造られた方が確かにおられるのです。岩肌をむき出している山々のように苦渋に満ちた人生です。しかしそのあらゆるところで、あなたを守ってくださる方が確かにおられるのです。天地を造られた方、それは神でありながら人として生まれた方、イエス・キリストご自身のことです。
キリストを信じる前、私の心の中にはいくつかの山がありました。自分の人生から永久に消し去ってしまいたい記憶の山々が。だがキリストを信じたとき、私は、その山々をも造られた方がキリストなのだと知りました。そして、私とキリストを出会わせるためにその山々があったのだと気づきました。キリストを信じるとき、私たちの人生は光を取り戻します。過去の痛みさえも、喜びと感謝に変わります。過去の傷さえもそう変わるのですから、まだ見えない明日にさえ、希望を持つ事ができます。それはただイエス・キリストだけになし得る奇跡です。イエスは神でありながら、私たち罪人の身代わりとして十字架にかかってくださいました。十字架において、すべてが逆転します。痛みが喜びに、傷が感謝に、失望が希望に、そして自分のためだけに生きていた人生が、神と隣人のために生きる人生へと変わっていきます。
どうか、今日あなたの心にキリストとの出会いがあるように。そして聖書の言葉が心に刻まれますように。
「私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」と。
2023.2.26「金貨も銀貨も銅貨も」(マタイ10:1-10)
聖書箇所 マタイ10章1〜10節
1イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。5イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。9胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。2017 新日本聖書刊行会
いまNHKで、徳川家康の生涯を描いた「どうする家康」という大河ドラマを放送中です。残念ながら作り話が多すぎて、絶賛放送中とはいかないようですが、これから話すのは、別の本で読んだ、家康のエピソードです。
家康が大阪城を攻め落としたとき、彼はいささか卑怯な手を使いました。外堀を埋めるだけという条件で一旦豊臣方と和睦した後、約束を翻して内堀も埋めてしまい、翌年に改めて大阪城を攻めて、豊臣方を滅ぼしたのです。いくさの後、豊臣方の生き残った武将たちが、家康の卑怯な作戦を非難しました。すると家康は彼らにこう答えたそうです。「これは自分が考え出した策略ではない。そなたらの主君、亡き秀吉の教えに従ったままである。大阪城が完成したとき、秀吉は我らの前でこう言った。ここは力技では落とすことはできないから、いったん和睦して堀を埋め、二度にわけて落とすべきだ」と。そのときに、そなたらも一緒にいたではないか。これが、気をつけて聞く者と、そうでない者との間に生まれる差なのだ」。
マタイの福音書を記したマタイ、彼は十二弟子のひとりにして、元取税人という経歴の持ち主ですが、うっかり者が多い十二弟子の中では珍しく、彼は「気をつけて聞く者」であったようです。それは9節にある、イエス様が語った言葉に表れています。「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません」。同じイエス様の言葉を、マルコやルカも書き残していますが、マルコが「小銭」、ルカが「金」としか記していないのに対し、マタイだけは「金貨も銀貨も銅貨も」と記しています。何でしょうか、この細かさは。ちなみにこの時代、すでに銀行はありましたが、紙幣はまだ発明されておりません。
マタイがわざわざ「金貨も銀貨も銅貨も」と書き残しているのは、イエス様が事実そう言われたからでしょうが、それはマタイ自身が一番心をえぐられた言葉であったからでしょう。他の福音書記者が「金」や「小銭」と一言でくくってしまうものを、彼だけは「金貨も銀貨も銅貨も」と、まるでそれぞれの枚数さえも頭の中で数え上げているかのように記しました。
人は、自分が関心を寄せているものに対しては、耳をそばだて、感覚が鋭くなるものです。マタイは、自分自身が胴巻きの中にある残高をいつも気にしていることに気づかされたのでしょう。
主は弟子たちに言われました、私はこれからあなたがたをイスラエルの失われた羊たちのところに遣わす。みことばを伝え、病をいやし、死人を生き返らせ、悪霊を追い出しなさい。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。生活のことは何も心配せずに、町々を回りなさい、と語られました。それを聞きながらマタイは思ったのです。
「だが自分自身は、胴巻の中の金貨、銀貨、銅貨の枚数を常に気にしながら生きている。主がすべての責任を取ってくださると約束しておられるのに、そこにゆだね切ることができない」と。
十二弟子の中で、最もおのれに正直だった男がここにいる。それがこのマタイだ。しかし主は、このマタイを通して、金貨も、銀貨も、銅貨もいらない。自分の胴巻の中身を自分で知る必要はない。それは主が与え、主が取られる、神が私たちの必要に応じて与えられるものの一つでしかない、と私たちに語っておられるのです。
ヨハネ福音書には、イスカリオテのユダが弟子たちの金入れを預かっていたと書いてありますが、会計は二人体制で、という教会会計の原則に照らすと、おそらく会計補佐はマタイではなかっただろうかと言ったら、少しふざけて聞こえるでしょうか。元取税人であったマタイは、数字に強い、会計にはうってつけの人物だったでしょう。もう胴巻には二十デナリしかない。大食いのペテロのヤツが人の二倍食べるからだ。ああ、銀貨が二枚しかない。だが銅貨はまだ十枚残っている。金貨は靴の裏に一枚隠してあるが、これは本当に万一の時のために死守しなければ。
少し想像が走りすぎですが、マタイの心にイエス様は語りかけました。「金貨や、銀貨や、銅貨を持っていくな」と。他の弟子たちが、その言葉を「金を持っていくな」という程度にしか受け止めなかった中で、マタイは違っていました。その言葉は、彼の心、そして生活をえぐり出すものだったからです。彼はイエス様の言葉をもう一度かみしめます。
「あなたがたの胴巻には、金貨が何枚入っている?銀貨が何枚入っている?銅貨が何枚入っている?それを正確に把握しているあなたを、この世の取税人たちはほめるだろうが、私はそうではない。なぜなら、あなたの宝があるところに、あなたの心があるからだ。財布に金貨、銀貨、銅貨が何枚入っていて、あなたがそれを数えてみたところで、何も得るところはない。何も持たずに、人々のところへ行け。着るもの、食べるもの、住むところ、神の国のために働く者は、神からそれらを与えられるのだ」と。
今から30年以上前、「レインマン」という映画がありました。そこに登場するある知的障害者を演じていたのが、名優ダスティン・ホフマンでした。彼が演じる男性は、重度の知的障がいを持つ一方で、驚異的な能力をいくつか持っており、床に落ちた大量の爪楊枝の数を一瞬で記憶してしまうのです。しかし実際のところ、自分の財布や通帳の中身だけは、抜群の記憶力でいつも把握している人たちがたくさんいると言ったら怒られるでしょうか。彼らは自分を健常者だと考えていますが、いつも病的な不安に囚われています。老後のために二千万円を蓄えておかなければならない。子どもたちのために相続税対策をしておかなければならない。自分に何かあったときも、家族が路頭に迷うことがないように、財産を残しておかなければならない。確かに、この地上では何が起こるかわかりません。イエス様がたとえ話で語られたように、ある農夫が、大きな倉を建てたその晩に、神が彼の命を取られるということも現実に起こります。しかしイエス様がそのたとえ話で言おうとしたのは、だから残される者のために蓄えておきなさいではなく、あなたの富は地上ではなく、天に蓄えなさいということでした。天に蓄えるといっても、天に銀行があるわけではありません。天に蓄えるとは、伝道者の書が「あなたのパンを水の上に投げよ」と言うように、この地上で、自分の財産をだれかに分け与えるということです。会堂建設のための献金も、神のためであるとともに、やがてこの教会に導かれて救われる人々のために、未来に向かって富を投げるということです。自分が生きているあいだには、それが実を結ぶかどうか、わからない、ということもあり得ます。しかしこの地上で、だれかのために、ひいては神のために、私たちが自分の持っているものを差し出すとき、それは決して無駄にはならず、神が豊かに用いてくださるということは約束できます。
数年前に、村上の会堂建設を経験しました。それまで村上教会は、即身仏つまりミイラがあるお寺の隣にあり、ボロボロの借家でした。そして当時の牧師先生がある事件の責任をとって辞任され、その後を私が引き継ぎました。ただ、そんな状態だったのに、ある方が、いまの村上教会が建っている三百坪近い土地を寄付すると言われたのです。教会員とかクリスチャンではなく、県外に住んでいた未信者の方です。しかし牧師住居を含んだ教会堂が建っていない状態で、新しい牧師を招聘することはできません。理事会と何度も話し合い、そこまで整えて、次の牧師に引き継げる体制を作るのが私の仕事になりました。土地は無償で寄付していただきましたが、蓄えが一切ありません。しかし教会は建ったのです。建っただけでなく、新しい牧師を迎えたら、何と四年後に隣にもっと広い教会堂を無借金で建てました。献堂式の説教を頼まれて訪問したら、思わず苦笑しました。四年前に無我夢中で建てた16畳の礼拝堂が、お茶飲みのスペースになっていたからです。しかし村上のみなさんから、この建物がなかったら、今の新しい会堂もまた生まれなかったと言われて、神さますげえなと思いました。村上教会に関しては、もっといろいろありますが、またいずれ話すこともあるでしょう。ただ、私たちがこの地上で富を投げて、それが無駄になるということは絶対にありません。私たちは、自分の胴巻に金貨、銀貨、銅貨がいくら入っているかを勘定します。しかしそれらをすべて失っても、キリストはそれ以上のものを必ず備えてくださいます。胴巻の中にある財産を数えるよりも、主が与えてくださった恵みを一つ一つ数えましょう。それらの主の恵みに対して、私たちは何をもってお返しできるでしょうか。とてもお返しできません。代わりにこう告白しながら、歩んでいきましょう。「私は、神が愛する者にはすべてを備えてくださることを信じます」と。
2023.2.19「向こう岸へ渡ろう」(マタイ8:16-27)
聖書箇所 マタイ8章16〜27節
16夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
18さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。19そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」20イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」21また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」22ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
23それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。24すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。25弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。26イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。27人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日の説教題「向こう岸へ渡ろう」は、今年の最初の主日礼拝のメッセージと同じ題名ですが、今年の教会目標聖句でもありますので、あえてもう一度取り上げてみます。一月一日の礼拝説教では、マルコの福音書からでしたが、今日はマタイの福音書のほうから見ていきましょう。
マルコもマタイも、夕暮れになってイエス様と弟子たちが舟で向こう岸へ渡るという出来事から語っていることは同じですが、マタイの場合には、そこにいくつかの出来事が付け加えられています。まず最初に目にとまるのは、夕暮れになってから、悪霊につかれた人々が大勢みもとに連れて来られた、というところです。なぜ昼間ではなく、夕暮れに連れてくるのでしょうか。ご近所に見られたくなかったのでしょうか。いいえ、おそらくですが、それはこの日が安息日であったからでしょう。モーセの時代、神は十戒の中で安息日を定められました。一週間の最後の日、安息日は仕事をしてはならない。それは、その日一日を、神にささげ、礼拝に専念する日とするためでした。しかしイエス様の時代の宗教指導者たち、パリサイ人や律法学者は、病気を治すことも仕事のうち、悪霊を追い出すことも仕事のうち、だから安息日なのに人々をいやし、悪霊を追い出しているイエスは律法を破っている、と批判していました。ですから人々は、パリサイ人たちの目を恐れて、安息日の夕方、つまり安息日が終わる時に、悪霊につかれた人々をイエス様のもとに連れてきたのでしょう。
イエス様は悲しかったでしょう。病気がいやされ、悪霊から解放されることさえも、社会から縛られている現実を、悲しく思われたことでしょう。神は私たちに、底なしの自由を与えてくださいました。しかし人は、自らが作った決まりごとで自分自身を縛ってしまうのです。そのような群衆の姿のただ中において、イエス様は弟子たちを向こう岸に渡るように命じられます。
向こう岸へ渡るのは、絶え間なく押し寄せてくる群衆から逃げるためではありません。むしろ逆です。助けを必要としている人々が、ここにいる人々のほかにもたくさんいる。そのような人々を助けるために、あなたがたは向こう岸へと向かうのだ。
すでにあたりは夕暮れを飛び越えて夜のとばりが下りていたことでしょう。それでもいやしを求める人々、悪霊からの解放を願う人々はどんどん集まっています。人間的な視点で言えば、自分たちの働きがどこまで続くのか、終わりも見えないなかでの、向こう岸へ渡れという命令です。その向こう岸に、何が待っているのかははっきりとわかりません。確かなことは、そこにも、助けを求めている人々がいるということです。いったい、誰がこのような終わりの見えない道に留まることができるでしょうか。それを示すために、マタイは、ここで、二人の人物を書き留めています。一人は、弟子にしてくださいとイエス様に願ってきた律法学者、もう一人は、すでに弟子であったが、あなたについていく前に、父親の葬儀を行わせてくださいと訴えた者。しかしそのどちらにも、イエス様は厳しく答えられました。一方には、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」。もう一方には「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と。
これらの言葉は、だれでもイエスと共に向こう岸に渡れるわけではない、という厳しさを表しているかのようです。命を捨てて従ったはずの十二弟子でさえ、嵐の中で信仰を見失うほど、弟子としての道は厳しいものです。しかし私たちがイエスを信じたとき、弟子としてふさわしい信仰もすでに与えられています。そのうえで、私たちは改めて、向こう岸へ渡ろうという、神の命令をしっかりと受け止めて、歩んでいきたいと願います。
さて、この四月から、主日礼拝、教会学校、祈祷会をはじめとする教会の諸集会をときわ会堂へ移行する計画について話します。昨年末のことですが、お向かいの医院の先生からお電話があり、この4月から駐車場をお借りできなくなることが知らされました。この説教はネットでも配信されているので、理由についてはここでは語りませんが、何か私たちの側に不手際があったということではありません。そして電話を切った後、私にはこれが神さまからの呼びかけのように思えました。なぜなら、すべてが繋がったからです。
もし新会堂用地が与えられていなかったら、もしその場所に一時的ではあっても礼拝堂として活用できる民家を残していなかったら、もし昨年そこで礼拝を行うという経験をしていなかったら、いろんな「たら」が頭に浮かびました。神は、あらゆることを働かせて、祝福と成長を与えてくださるのです。これからあの場所に新会堂を作るためには、私たち自身を知ってもらわなければ、信頼関係を築くことはできません。そのために、神はあえて背中を押す形で、ときわ会堂に教会員が集まって礼拝をささげる道を備えてくださったのだと確信しました。
もちろん、ときわ会堂で約三十人を受け止めるということになれば、トイレや冷暖房の問題など、不自由さを感じる部分はあるでしょう。しかし全員がそのときわ会堂に集まることを通して、私たちはあそこに新しい会堂が立つのだとまさに肌で感じながら、建設に向けての決意を全員が共有することができるでしょう。さらに今回の教会総会では、このときわ会堂への移行だけでなく、新会堂の設計・建設を依頼する業者、また建設に関わる予算についても話し合いますが、これについては、総会資料をよく読んでくださり、来週の総会に臨んでいただきたいと願います。
それらはまさに暗やみが近づく夕暮れに、まだ誰も知らない向こう岸に渡るという、この弟子たちが経験したことにも繋がります。そのあいだに横たわる湖の上では、かつて経験したことがない嵐が起こるかもしれません。いや、必ず起こるでしょう。神は、愛する者を訓練するために嵐を用意されるからです。それは避けることができない嵐であると共に、神の子どもたちには必ず脱出の道が用意されている嵐です。ならば、避けることを願うべきではありません。むしろその中でも、イエス・キリストが私たちを守り導いてくださることを確信しながら、向かっていきたいのです。
夕闇と、激しい風と、高波、不安をかき立てるものに囲まれたなかで、弟子たちは、主が与えてくださる平安を見失っていました。しかしイエス様が嵐の舟の中でも眠っておられたのは、神の子どもは父なる神にすべてをゆだねることができるという幸いの模範です。新しい教会堂を建設するということがいよいよ具体的に進んでいく中、期待だけではなく不安もあります。しかし忘れないでください。私たちと共にいてくださる方は、何があっても私たちの手を離すことのない、そういうお方です。試練に押しつぶされそうなとき、キリストが私たちを握りしめる手の大きさを思いましょう。
私たちがなすべきことは、主をたたき起こすことではなく、主に信頼することです。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」。そんなわけがありません。私たちを救うために、十字架で死んでくださったほどの方が、私たちに無関心であるはずがありません。すべてを働かせて益としてくださり、私たちを導かれるのです。豊栄教会の歴史において、今までもそうでしたし、これからもそうです。いつも私たちを導いてくださる光であるイエス様から目を離さずに歩んでいきましょう。
2023.2.12「神の子どもとされた恵み」(ルカ7:24-35)
聖書箇所 ルカ7章24〜35節
24ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。25では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。26では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。27この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。28わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。29ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。30ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。31それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。32広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』33バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、34人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。35しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」2017 新日本聖書刊行会
今から約200年ほど前の時代、日本では江戸時代の終わりにあたりますが、当時のドイツにビスマルクという総理大臣がいました。彼は、当時三流国と呼ばれていたドイツを、瞬く間に一流の国家へ押し上げた、優れた政治家でしたが、目的のためならば手段を選ばない、鉄血宰相とも呼ばれました。彼がまだ若い頃のこんなエピソードがあります。ビスマルクが一人の友人と山に行って狩りを楽しんでいたとき、友人が足をすべらせて沼に落ちてしまいました。しかもその沼は深い泥沼で、友人はもがけばもがくほど深みにはまり、しかも刻一刻と沼の底に引きずり込まれていきます。友人が助けを呼ぶと、ビスマルクが声を聞いて、駆けつけてきました。しかしどうしても手が届きません。そこでビスマルクは友人にこう言いました。「すまん、どうしても助けたいのだが、助けられそうにない。君がこれ以上苦しむのを見るのは辛いから、いっそひと思いに打ち殺してやろう」と平気な顔で、溺れている友人に向けて猟銃の狙いをつけました。友人はびっくり仰天、それこそ死に物狂いで抵抗し、小さな柳の枝にすがりついて、沼から脱出しました。ビスマルクに怒りの目を向けると、ビスマルクは涼しい顔をして、「失礼失礼、もし本当に助からないようであれば、この銃をつかませて助けようと思っていたが、まああれだ、やっぱり自分の力で沼から上がるのが男らしいからね」。
少し荒っぽいやり方ではありますが、だれかが助けてくれると考えている限りは、人は死に物狂いにはならない、という教訓を、ビスマルクはすでに青年の頃から知っていた、ということかもしれません。もちろん私たちは、神の助けを信じる者ではありますが、神への信仰が、牧師や他の信徒への人間的依存へとすり替わってしまうことは決して珍しくはありません。イエスは、いま自分のメシア性に対するつまずきの中でもがいているヨハネに対して、あえて多くを語ることをしませんでした。ただ、イエスの周りで何が起きているかだけ、伝えました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」と。
イエス様は、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」と誰よりも評価をされていましたが、それをヨハネに伝えることはよしとしませんでした。人のほめる言葉が、どんな信仰者をも惑わせてしまう誘惑となることを知っておられたからでしょう。しかしそこで私たちは、イエス様の口から、じつに驚くべき言葉を聞くのです。「しかし、神の国で一番小さい者でさえ、バプテスマのヨハネより偉大である」と。ここに真理があります。ヨハネは、イエス様が世に出るための道を備えました。彼は、神が何百年も前から預言しておられた、荒野で叫ぶ者の声でした。彼の働きによって、その後にイエス・キリストによって訪れる神の国が、準備されていきました。私たちはその神の国の住人です。それは、イエス・キリストを信じ、神のこどもとされたことによって与えられた恵みです。そしてその特権、資格は、それ以前の人間で最も優れた者である、バプテスマのヨハネよりも勝っているのです。
こんな話を聞いたことがあるでしょうか。ある、子どものいないお金持ちが、自分のすべての仕事と財産を引き継ぐ者として、身寄りのない子どもたちから何人かを選び、自分の養子とすることにしました。彼はその子どもたちを探し出す仕事と、見つけたこどもたちを養い、ふさわしく教育する仕事を、自分が信頼する執事にゆだねました。そして彼のもとで過ごした子どもたちは、どうしてあらゆる点で自分たちよりも優れているこの執事さんが、お金持ちの養子になれないんだろうか、と不思議に思いました。しかしそれを執事に聞いてみると、彼は笑って、「私はみなさんをご主人様の跡継ぎにするための、ただのしもべです」と答えたといいます。
このたとえ話に出てくるお金持ちは父なる神を、神の子どもとされた者は私たちを、そして一人の執事は、バプテスマのヨハネを表しています。実際に私たちが神の子どもとされたのはイエス様の十字架によってですが、ヨハネはそのイエス様を私たちに伝えるために、その生涯をささげました。それは、神の前に永遠におぼえられている働きではありますが、それでも実際に、神の子どもとされた私たちに勝るものではありません。私たちは、自分では気づいていなくても、そこまで大きな特権、神の子どもとされて、永遠の御国を継ぐ者とされた、という恵みにあずかっているのです。
しかしそのヨハネが自分の生涯をかけて伝えようとした、イエス・キリストをパリサイ人たちは決して認めようとしませんでした。彼らは、ヨハネが与えていた水のバプテスマが、罪を悔い改めるバプテスマであることをまったく心に留めていなかったのです。自分は罪人ではない、自分は他の人間より正しいと言い張り、その心はまったく変わりませんでした。イエス様がここで語られている「弔いの歌」とは、ヨハネが語った、罪の悔い改めを迫る厳しいことば、そして「笛と踊り」とは、罪に囚われている者たちがイエス様を信じることによって、喜びへと解放されることを指しています。しかしパリサイ人は、イエス・キリストが救い主であることを受け入れず、悪霊のしもべ、あるいは大酒飲みの食いしん坊、と言ってあざ笑ったのです。
彼らの姿は、かつての私たちの姿です。そして今も、救いを受け入れない、この世の人々の姿です。イエス様は、最後にこう約束しておられます。「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します」。すべての知恵の子ら、それはイエスを信じて神の子どもとされた、私たちのことです。私たちが、神の子どもにふさわしく、喜びに満ちて生きていること、そして神の子どもにふさわしく、罪を悔い改め、きよさを求めて歩んでいること、それがまことの知恵です。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけました。イエス様が十字架にかからなければならないほど、私たちの罪は救いがたいものでした。しかし罪はすべて十字架によって取りのけられ、私たちはイエス様の死と復活によって、確かに神の子どもとされました。そのことを信じ、感謝したいと思います。そのとき、私たちは決して朽ちることのない喜びに溢れます。ヨハネが準備し、イエス様によって与えられた、この救いの恵みを一人ひとりがかみしめながら、今週も歩んでいきたいと思います。
2023.2.5「弟子の証しは自由と喜び」(ルカ7:18-23)
聖書箇所 ルカ7章18〜23節
18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」2017 新日本聖書刊行会
世間では、何かにひっかかって転ぶことをつまずくと言いますが、そこから転じて、キリスト教会では、何かが原因となって信仰に幻滅することを「つまずき」と呼んでいます。つまずく原因の圧倒的第一位は、「牧師につまずいた」というもの。これはもうごめんなさいと謝るしかありません。第二位は牧師夫人につまずいたというパターンですが、後がこわいのでとばします。第三位が「奉仕につまづいた」というパターンです。役員、礼拝司会、献金のお祈り、CS教師、トイレ掃除、確かに教会にはたくさんの奉仕が必要で、誰かがそれを担当しないといけないという面もあるのですが、それだけだとやらされている感ばかりが強くなって、奉仕の源である、救われた喜び、救ってくださった神への感謝が薄れ、奉仕につまずく、ということが起こってしまうようです。
今日の聖書箇所の最後でイエス様は、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言われています。それは、ほかならぬバプテスマのヨハネが、ご自分につまずきかけていることをあわれんでのことばでした。このとき、ヨハネは牢獄の中にいました。そして面会に来る弟子たちからイエス様のことを聞き、イエス様へのつまずきが起きていたのです。そしてつまずきは、この方は本当に救い主なのか、という疑いへと膨れ上がっていました。彼は弟子たちをイエスのもとに遣わし、こう尋ねさせます。「おいでになるはずの方」、つまりイスラエルが待ち望んだ救い主は、ほんとうにあなたなのですか。それとも別のお方を待つべきなのでしょうか、と。
ヨハネのつまずきの原因はどこにあったのでしょうか。それをルカは、ヨハネの弟子たちが、ヨハネの言葉を一言一句、そのまま繰り返している姿を通して浮かび上がらせています。18節後半から20節までを、もう一度読んでみます。「すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」
ここに、ヨハネがつまずいた原因が現れています。ヨハネは、自分の弟子を徹底的に厳しく訓練しました。それが、師匠の言葉を一言一句違えることなく繰り返す、弟子の姿に現れています。しかしそれは、イエス様が目指した弟子づくりの姿とは真逆のものでした。師匠の言葉を繰り返し、師匠と同じ考えの中で自分も考える、それに対する異論や反論は許さない。ヨハネがそのような弟子づくりを願ったということではないにしても、ヨハネの弟子たちは、そのように師匠のように考え、そこから逸脱した生き方を認めないという方向へと変わっていきました。福音書の中には、ヨハネの弟子たちが、パリサイ人や律法学者たちと一緒になって、イエスの弟子たちの奔放な生き方を批判する姿も描かれています。人間はその弱さのゆえ、決まり切ったレールの上にいることで安心する、そしてそれはこの世の組織だけではなく、キリスト教会の中でしばしば強調される、「弟子訓練」を徹底すれば教会は成長するという間違ったイメージにも現れています。
みなさんは、誰かから弟子訓練という言葉を聞いたことはないでしょうか。この言葉を強調する人々は、一人ひとりのクリスチャンが弟子訓練をしっかりなされることで、教会は成長すると主張します。では弟子訓練とは何ですか、と聞くと、個人伝道のやり方とか、一分で救いの証しをする方法だとか、あるいは異言で祈るとか、いった答えが返ってくることもあります。しかし伝道、つまりたましいを漁るというのは、訓練という、繰り返しによってだんだんこなれてくるものではありません。教えられて身につくものではなく、自分の中で働いておられる聖霊にゆだね、救いの喜びに溢れて生きるとき、私たちの中にイエス様を伝えずにはいられないという渇きが起こされていくのです。
イエス様は、宣教活動に入られてから十字架にかかられるまでの三年半、常に弟子たちと生活を共にされました。しかし聖書に記されているその三年半で、私たちは弟子たちがめきめきと訓練され成長していく姿を見ることができるでしょうか。むしろ、十字架というタイムリミットが近づく中で、だれが一番偉いかという議論に熱中し、師匠が血の汗を流して祈っているときに眠りこけ、よみがえったという知らせを聞いても信じないという姿です。そしていざイエス様が天に昇られるときには、「今こそイスラエルを再興してくださるのですか」と、相変わらず神の国を地上の王国のように誤解している姿をさらけ出しています。しかしその彼らが、聖霊を受けたときに新しく生まれ変わり、180度生き方が変わります。それが聖書が教えていることであって、弟子訓練が教会を成長させるのではありません。一人ひとりが御霊の与える喜びの中で24時間生きていますか。それがあれば、伝道の方法とかいったものはどんなに荒削りでも、私たちは誰かに福音を伝えたいという思いに動かされます。その思いこそが、教会を成長させるのであり、知識や方法ではないのです。
イエス様が目指した神の国は、自由の国でした。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている、と。イエスの説く神の国には、弱い者たちが集まるところでした。師匠に絶対忠実な強い者たちの集まる国ではなく、どんな弱い者もイエス様によって慰められ、居場所を与えられている国でした。取税人、罪人、遊女、そして幼子、ありとあらゆる人々をイエスは優しく抱きしめ、受け入れて下さる、自由の国でした。ヨハネが自分にも他人にも厳しかったのに対し、イエス様はご自分が十字架を負う代わりに、人々には底なしの自由を与えてくださったのです。
イエス様は、ヨハネのように厳しく、師の教えに忠実な弟子を育てるために三年半を過ごすこともできたでしょう。しかしそうされませんでした。イエス様は弟子たちを友と呼び、どれだけ年が離れていようと兄弟姉妹と呼びました。教会は、みなが一斉に右向け右をするようなところではありません。それぞれが、人生経験も、信仰生活の上にも、違いがあります。違いがあって当たり前で、違いがあるからこそ自由の国ということができます。そこに、イエス様は三年半留まられたし、今もこの中に生きておられます。与えられている違いを感謝して、歩んでいく者たちでありましょう。
2023.1.29「主の御前に進み出て」(マルコ5:25-34)
聖書箇所 マルコ5章25〜34節
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」2017 新日本聖書刊行会
現代は、二人に一人ががんにかかる時代と言われています。怖い病気だというイメージがありますが、あるお医者さんが面白いことを言っていました。じつはがんにかかるというのは、一部例外もありますが、それまで長生きできたというしるしである、と。二人に一人というと高い確率に思われるが、そのほとんどは70代、80代に集中している、だから癌にかかった人は自分が70、80まで長生きできたことをむしろ感謝すべきだ、というのです。とはいえ実際に癌にかかったら、そんな仙人みたいな考えではいられません。どうして自分なんだと悲しみ、目の前が真っ暗になり、周囲に怒りをぶつけながら、少しずつ、癌にかかった事実をあるがままに受け入れていく。そのために必要なのは、信頼できる医師や、援助者たちとの関係です。
今日の聖書箇所に出てくる、長血の女性の苦しみは、まるでこれが二千年前に書かれたものであることを忘れてしまうほどです。26節には、彼女が12年もの長い間、「多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた」と書かれています。長血とは、出血が止まらない、女性特有の病気でしたが、当時、律法では、長血の女性が触れるものは何であっても汚れる、とされていました。
彼女は12年のあいだ、幾度となく、こう心の中で繰り返したことでしょう。この病気になったのは、私のせいではない。それなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。なぜ世間や家族からさえも、汚れた者と見られなければならないのか。そして弱い者の味方であるはずの神が、なぜ私を汚れた者として断罪するのか。彼女の12年間は、ただの闘病生活ではありませんでした。怒りの中にもがき続ける12年間でした。
いったいどうしたら、その12年間から解放されることができるでしょうか。彼女の願いはたったひとつ、「この病気だ。この長血の病さえ治れば、私は普通の生活になれる」。そのために、彼女はイエス様に背後から近づき、その衣に触りました。律法では、長血の女に触れるものはすべて汚れるとされており、彼女が群衆の中に混じっていることがわかったら、最悪の場合、石で打たれて殺されることさえ覚悟しなければなりませんでした。しかしイエス様の衣にさえ触れば、きっと治る。そしてここから、聖書の中にも他に例がない、想像を超えた神のご計画による、救いの物語が始まっていくのです。
いま、私が「聖書の中にも他に例がない」と言ったのはなぜでしょうか。どの聖書を探しても、イエス様が自分でもわからないうちにだれかをいやしていた、という話はないからです。神のいやしは、100%神の主権によるものです。人間がどんなに一生懸命求めても、神のみこころでなければ、何も与えられません。ところがこの長血の女だけは、イエス様の意思と関係なく、力が出ていくということが起こります。今までも、そして、これからも、決してあり得ない、知らないうちに力が引き出されるということが起きたのはなぜか。イエス様は一瞬で悟りました。それは、この力を引き出していった者に、本当の救いを与えるために、父なる神がなされたことなのだ、と。
だからイエス様は、弟子たちが呆れるような大声と態度で、自分に触った者を探し出そうとしました。イエス様は、自分の力が出ていったことを知ったとき、それによってその人の病気がいやされたことはわかったでしょう。しかしそれだけでは、その人は救われたとは言えません。イエス様は、ご自分のもとへ信仰によって近づく者を救われます。だから、自分に触った人を探しました。病のいやしではなく、本当の救いを与えるために。
人は、イエス様の正面に出てこなかったら、本当の救いはありません。この女性について言えば、たとえ長血がいやされたとしても、それが救いではありません。病からの解放が救いではなく、病があってもいのちを感謝することのできる信仰こそが真の救いです。教会には、あらゆる人々が、あらゆる理由で求めを持ってきます。ある人は経済的困窮から脱出したいと願いました。ある人は傷ついた家族関係を回復したいと願いました。困窮していた人に、少なくない金銭的サポートをしたこともありました。家族関係が破綻していた人に、自分にできる援助をしたこともありました。しかし一時的には効果があっても、それでは本質的な解決は生み出さないということを悟りました。イエス・キリストの前に出てきて、自分という人間を胸から心から打ちたたいて、罪人であることを悲しんで、ただこの方しか私を救えないということがわからなければ、すべては一時しのぎで終わってしまいます。本当の救いは、ただイエス・キリスト、私たちのためにいのちを捨てられた方のために、一度は助かった私の命をもう一度あなたにささげますという決意の中でこそ、生み出されていくものです。
もし彼女が後ろからイエス様の着物に触ったあと、群衆にまぎれてそっと離れていったらどうなっていたでしょうか。その日から、長血に苦しまなくてすむ、バラ色の日々が始まったでしょうか。始まりません。なぜなら、過ぎ去った12年間の日々に意味を見いだすことができていないからです。救いは、どんな過去も、現在も、未来も、すべてに意味があるという感謝を生み出します。たとえ今日病が治り、明日は健康な日であったとしても、彼女の過去12年間は傷つけられたままです。それがいやされなければ、彼女の心には、これからも闇が離れず、圧倒的な救いの喜びは訪れません。
救いとは、過去は変わらずに現在と未来だけが変わっていくという中途半端なものではありません。傷、痛み、怒り、憎しみ、そのようなものにとらわれていた過去もまた光輝いていくのが本当の救いです。多くの人々が、過ぎ去った過去に囚われて生きています。過去を幸せな日々だったと懐かしむ人もいれば、今の自分がこんなに苦しんでいるのはあの過去の日々や経験のせいだと憎む者もいます。いずれにしても、過去を正しく扱うことができないという点では同じです。しかし私たちがイエス・キリストの正面に出てきて、この方のまなざしの中に頭を垂れるとき、この方と出会うために、自分の過去すべてがあることを悟ります。過去のすべてが意味あるものに変わり、何があっても恐れることのない人生が始まります。どんなにおぞましい過去であろうと、その一番暗い底にさえ神がいてくださったとすれば、これからの人生で、何を恐れる必要があるのか、と告白することができます。
イエス様は彼女に「娘よ」と呼びかけられました。まさに娘を捜し回っていた父のように、イエス様は優しい目を彼女に向けられました。その時、彼女は気がついたのです。この12年間、私はひとりではなかったのだ、と。神さえもうらんだ12年間、しかし神は私をこの間もずっと探し続けておられたのだと。そのとき彼女の過去も現在も未来もすべてが光の中に招き入れられました。これが救いです。病が治ることが人生の解決ではなく、イエス・キリストと顔と顔を合わせるところに人生の解決があります。イエス様の正面に出ましょう。顔と顔を合わせて語り合い、祝福のことばをいただきましょう。神は、それを彼女だけではなく、あなたにも与えたいと願っておられるのですから。
2023.1.22「神に大いなることを期待せよ」(マルコ5:21-24,35-43)
聖書箇所 マルコ5章21〜24、35〜43節
21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。2017 新日本聖書刊行会
数年前から、「一年間で聖書通読」というキャッチフレーズで、週報の片隅に聖書通読日課を掲載しています。言い出しっぺですので、一応、毎日そのスケジュールに従って読んではいますが、ふと気づくと、頭の中に何も入っていないまま、最後のページになってしまっていた、ということもよくあります。それでも自分を責めたりしない、というのが聖書通読を続けていくコツですね。頭に入るときもあるし、入らないときもあります。しかし読み続けることに意義がある。そして読み続けていくと、聖書の世界が少しずつ広がり、さらにみことばがわかる、といううれしいことも起こります。
たとえば、今日の聖書には、自分の娘のためにいやしを願った、ヤイロという人が登場します。聖書通読を続けていると、たとえばこのヤイロのように、病気で死にかけている自分の子どものためにイエス様にいやしを求めてきた父親たちの例が、イメージとして浮かんできます。そして彼らに共通していることは何だろう、というところから、このヤイロの物語を読み解くヒントも浮かんできます。たとえば、てんかんの症状をかかえた息子をいやしてください、と願った父親がいました。彼は「もしできるなら、息子からてんかんの霊を追い出してください」と言ってしまい、イエス様から「もしできるなら、ではない。信じる者にはどんなことでもできるのだ」と言われます。あるいは死にかけている息子のために、家に来て下さいと願った父親がいました。でもイエス様は行きません。「あなたがたは奇跡を見ない限り信じない」とにべもない。それでも食い下がる父親に、「家に帰りなさい。息子は治っています」と言います。半信半疑で、父親が家に帰ると、ちょうどイエス様がそれを語ったその時、息子は治っていたということがわかり、一家みながイエスを信じます。
このような例が教えていることは、子供が死にかけているので助けてほしいと願ってきた父親に対し、イエス様が必ずなされたことは、一度は親がくじけてしまうような言葉や方法で、その信仰を引き上げてくださる、ということです。では、このヤイロはどうでしょうか。22節を読んでみます。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は、いわば信仰の優等生です。イエス様はどんな病をもいやしてくださるという信仰があります。そして多くの会堂管理者がユダヤ当局の一員としてイエスを敵視していた中で、その立場を投げ出してでも、イエス様の前にひれ伏しました。すでに彼はこの時点で、欠けるところのない信仰を持っていたように思えます。しかしじつは、彼にはひとつだけ、欠けたところがありました。それは何でしょうか。彼は自分が考えたプランの中に、神の力を閉じ込めようとしています。彼は、イエスに助けを求めていますが、自分が考えるようなやり方で助けてください、と制限をつけています。もう一度、彼のことばを繰り返してみましょう。「私の小さな娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は自分でも気づかないまま、自分の考えたプランの中で神を動かそうとしています。神が、自分の想像を超えた御力によって娘をいやしてくださることを期待するのではなく、神に、私の言うとおりに動いてくだされば、娘は治りますと決めつけている。しかし信仰とはそうではない。受け入れられないものを受け入れる、信じられないものを信じる、常識を越えたものを事実として受けとめること、それが信仰なのです。
信仰とは何でしょうか。それは、神が私の想像を遥かに超えた方であると信じることです。目が塞がれている私に対して、すべてを見ておられる神に全権をゆだねることです。私が神の行動を指定して、そのとおりに動いてくれることではなく、神が私の想像を遥かに超えたみわざをなしてくださると信じること、それが信仰です。確かに私たちはイエス様に何でも求める事ができます。しかしそれは、私たちが想像したとおりに神よ、動いてください、という祈りではありません。私たちの想像を遥かに超えた形で、神よ、あなたのみわざをなしてください。そして私をそのために用いてください、と祈る。そのような信仰は、神を閉じ込める信仰ではなく、むしろ私たちを世間の常識の箱の中から、神の高さ、広さ、深さにまで解放する祈りとなります。
私たちは自分が考えているように神様が動いてくださるようにと願い、一生懸命祈ります。それが信仰だと信じて。でも、神様は私たちよりもはるかに大きく、私たちの想像もできない手段と過程を通して、みわざを現されるのです。もう一度言いましょう、私たちの想像もつかないことを神がしてくださると信じるのが信仰です。確かに具体的に祈ることは必要でしょう。しかしその「具体的」ということにばかり関心がいくあまり、神のみ力をあなたの常識の中に閉じ込めてはなりません。
ヤイロの願いは、一見、信仰的に見えます。しかしキリストは、彼の信仰がいわば「常識的な信仰」にとどまっていることを見抜かれました。娘が死ぬ前にあなたが来てくださって手を置いてくだされば、娘は助かります、それは常識にとどまっている信仰です。娘が死んだ後でも必ずイエス様がよみがえらせてくださる、常識を越えた信仰へと彼が突き抜けていくこと、それを教えるために、イエス様はヤイロと一緒に進んで行かれました。
今日、省略した聖書の箇所は、来週また取り扱いますが、そのあいだにヤイロの娘は死んだ、という知らせが届きました。35節、「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」この時、ヤイロが頭に浮かべていた娘のいやしのイメージ、「イエス様が娘の上に手を置き、祈り、そして娘が立ち上がる」はガラガラと崩れていきました。しかしここからが、本当の信仰の始まりです。人間の目には絶望的な状況です。しかしその時、神は優しくこう言われるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。神はあなたにも言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。今、試練のただ中にある人よ、あるいは弱さの中で苦しんでいる人よ、どうかみことばを心に留めてください。私たちが期待できない状況の中にあるときほど、想像を超えた神のみわざを期待してください。神様がああして、こうして、助けてくださると自分のイメージの中に神の力を閉じ込めているかぎり、私たちの信仰は成長しません。しかし私が想像もつかないような方法で、神が解決の道を与えてくださるということを信ずる、ただ信じ続けるとき、そこに神の力が働きます。
人生において、無計画、無鉄砲というのは避けなければならないでしょう。しかし、私たちのちっぽけな脳みそで、一切隙のない計画を立て、これでだいじょうぶ、と言うなら、神はそれを必ず砕かれます。それは神を信じる信仰ではなく、神を利用して自分の力と計画を信じている、ニセの信仰だからです。神に大いなることを期待するものだけが、その大いなることを体験することができます。私たちが家庭、教会、職場、至るところで困難にぶつかるとき、そこに自分の想像を超えた神のみわざを働かせてください、と祈りましょう。ただ永遠、そして無限であられる神だけに栄光がありますように、と。
2023.1.15「二千匹より重いもの」(マルコ5:6-7,10-20)
聖書箇所 マルコ5章6〜7、10〜20節
6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。2017 新日本聖書刊行会
中学生の頃、小説家になりたかったのです。小説のまねごとをノートに書きためて、いつかこれが世に出て、天才作家あらわる、と新聞に出てムヒョヒョヒョ。ところが世に出る前に、姉に見られてしまったのです。けちょんけちょんにけなされて、それ以来、私は筆を折りました。ただ神さまはよくしてくださったもので、その頃にたくさん本を読んだ経験というのは、牧師という毎週説教を作らなければならない仕事についた後に、たいへん役に立ちました。
聖書は、神のことばですが、同時に文学作品としても優れています。とくにこのマルコ福音書は、マルコがもともと持っていたのであろう文才が、聖霊によって用いられている姿をみることができます。どういうことでしょうか。
このマルコ福音書は、最初の書き出し、つまりマルコ1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉で始まります。つまり、この本は、イエスが神の子であることを伝えるために書くものですよ、と言っています。ところが、実際にこのマルコの福音書の中には、「神の子」という言葉は、四回しか出てきません。一つは、その1章1節、そして二つが、悪霊が告白している言葉、そして残りの一つが、イエスが十字架で息を引き取った後、その一部始終を見ていたローマ軍の隊長が残した言葉、「まことに、この人は神の子であった」。つまり、弟子たちのだれも、イエスを「神の子」と告白していないのです。むしろ、告白できない。神の子であることがわからない。人間には、イエスが神の子であることがわからないのです。悪霊でさえ、イエスを神の子と知って恐れているのに、人間の方は、弟子たちでさえ、神の子であるということがわからない。マルコは、小説家を目指していたのではないでしょうが、少なくとも、小説や映画でよく用いられるテクニックをこの福音書に取り入れています。
少し年配の方は、「幸せの黄色いハンカチ」という映画をご存じだと思います。刑務所から出てきた男が、奥さんに手紙を書いて、もし自分を受け入れてくれるようであれば、庭先に「黄色いハンカチ」をつるしておいてくれと頼みます。そして映画のラスト、男が恐る恐る、家を探すと、運動会の万国旗のようにたくさんの黄色いハンカチが吊されている、有名なシーンです。じつはこのラストシーンのために、監督は映画の中に次のような演出を入れていました。それは、この男が家に帰るまでの旅を描く約一時間半、できるだけ黄色いものが画面に現れないようにする、というものです。そうすることで、最後の黄色いハンカチが、目に焼き付けられる。マルコも同じことをしています。「神の子」イエスについて伝えるために、逆に「神の子」についてほとんど人間には語らせない。しかし最後の最後に、弟子ではなく、ユダヤ人でもない、ローマ人の千人隊長だけが唯一、「この方はまことに神の子であった」と告白するのです。
まさに十字架というのは、私たちの見えない目を開く出来事です。神の子が私たち罪人の身代わりになって死んでくださった。この命がけの愛を通して、目の見えなかった者が見えるようになった。神の愛がわからなかった者が、神の愛の中に生きる者となった。罪のさばきが待ち受けていたはずの者が、罪がゆるされて永遠のいのちの中に歩むようになった。
あらゆる人間は、この十字架の前に立たない限り、神の子がだれか、わからないのです。だからこそ、私たちは十字架を伝えなければなりません。そして私たちでしか、まことの十字架を伝えることができる者はいないのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。
マルコ福音書は、弟子たちの誰もが、イエスを神の子だとわからないという現実を描くと共に、このゲラサの地の人々もそうであったことを述べています。レギオンが二千匹の豚へと追いやられ、このとりつかれた人が正気に戻ったという喜びの場面であるはずが、16、17節にはこうあるからです。「見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」。人々は、悪霊につかれた人々の以前の状況を知っていました。身体を痛めつけながら、鎖をひきちぎるような姿を実際に見ていました。しかしその本人が、今や裸ではなく着物を着て、正気を取り戻しているのを認めながら、彼らはイエスに出て行ってもらうことを願ったのです。なぜでしょうか。家畜として飼っていた豚二千匹を失ってしまったからです。
これ以上イエスにここにいてもらっては、一体どんな損失が起こるかわからない。それが人々の心の現実でした。ここに、私たちは、悪霊レギオンどもが「私たちをこの地方から追い出さないでください」と願った理由がわかるのです。この地方は、悪霊にとって、まさに居心地のいい場所でした。一人の人が悪霊から救われるのと、豚二千頭が失われるのと、どちらが大切なのか。キリストにとっては、豚二千頭よりも、一人の人が救われることのほうが大切なことでした。悪霊たちも、イエスがそのような方であることを知っているからこそ、自分たちを豚の中に追いやって欲しいと願ったのです。しかしこのゲラサ地方の人々にとっては、人一人の救いよりは、二千頭の豚のほうが重かったのです。その意味で、彼らは悪霊よりも、さらに闇の深みの中に捕らえられていた者たちであったと言えるのではないでしょうか。
しかし私たちの中にも、そのような部分があるかもしれません。聖書は、私たち自身のありのままの姿を映し出す鏡です。そこから目をそむけてはなりません。今、自分の心に質問しましょう。一人のたましいが救われることよりも、犠牲となる何かを惜しんでいるということはないでしょうか。もしそれに気づいたならば、次のような生き方を参考にしてみてください。
救いを知らないために病や不幸を恐れる人のために何時間かを費やす。救いに興味のない友に、福音を語ることのできる機会を祈り求めながら、その友を訪れ、寄り添う。
そのような犠牲は、ムダに時間を過ごしているかのような徒労感しか生み出さないように思える時すらあります。しかし一人の人が救われるためという、その重みにまさるものはこの世にはありません。かつては墓場で叫んでいた人が、大胆な証し人へと変えられていく、そんな人生の劇的な変化、それは私たちが語る福音、私たちが伝えるイエス・キリストだけが与えることができるものです。
悪霊の求めを受け入れ、ゲラサ人の求めを受け入れたイエスさまは、弟子としてお供したいというこの人の懇願だけは首を縦に振りませんでした。それは、この人にしかできない証しがあったからです。この人が生きてきた家庭、地域、社会、そこでキリストが神の子であることを証しすることを、イエスは願っておられました。私たちもまたそのように求められています。家族・友人・同僚・教え子のために、彼らがイエスを知り、信じることを願いながら、一緒に祈りをささげましょう。
2023.1.8「この人に出会うために」(マルコ5:1-10)
聖書箇所 マルコ5章1〜10節
1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。2017 新日本聖書刊行会
「さあ、向こう岸へ渡ろう」。イエスの声に押し出されて、弟子たちが湖の向こう岸にたどり着いたところから今日の物語は始まります。これだけ大変な思いで湖を乗り越えてきたのだ、きっとすばらしいことが起こるに違いない、と弟子たちは考えていたかもしれません。
しかしそこに待っていたのは、レギオンという悪霊に取り憑かれた人間でした。彼は墓場に追いやられ、鎖さえも引きちぎるような、獣じみた人間に変わっていました。朝も夜も、墓場や山の中で大声で叫びながら、自分の身体を傷つけていた、ともあります。そして、レギオンが言わせているのか、それとも彼自身の言葉なのかわかりませんが、「私に関わらないでくれ、私を苦しめないでくれ」とイエスに懇願します。
ここには、悪霊にとりつかれて、人格も生活も破綻して、しかもそこから解放されることも拒んでいる、そのような人の姿を見ることができるでしょう。このような悪霊にとりつかれた人の姿、というのは、いくら聖書に書いてあると主張しても、この世の人々にとっては、カビの生えた迷信としか受け止められません。
ではこのレギオンを含め、悪霊というものは、人間の迷信が生み出したものにすぎないのでしょうか。決してそうではありません。悪霊は狡猾です。現代の日本人は、このレギオンの物語や描写を見て、昔の人はこういう風に悪霊なるものを信じていたんだな、だがこの科学万能時代、もう悪霊なんてものはいないよ、と考えるかもしれませんが、それこそが悪霊の思うつぼなのです。
悪霊は、どの時代においても、どの国においても、人々が常識と考えている事柄を通して、人々を惑わします。二千年前、人々が病や不幸は悪霊がもたらすと信じていた時代、悪霊はそのような人々の常識の中に身を潜めました。現代の日本では、病や不幸は悪霊が原因であるというのは常識ではなく非常識です。だからこの国では、悪霊は、常識の中に身を潜めています。
宗教に頼る人間は弱く、自立していない、という偏見の中に。自由という意味をはき違え、匿名で相手を批判し、否定することで自分のプライドを保つ人間関係の裏に。多様性を強調しながら、相手を受け入れるのではなく大勢に合わせることを求めている世間体の中に。それを守るために、人は救いに背を向け、自分の生き方に満足し、信仰を洗脳か何かのように批判する。
それは、人の罪が生み出すものであると同時に、この国においては悪霊が極めて狡猾に、自分の身を隠しながら人々を闇の中に閉じ込めているという現実があるのです。
しかし、次のことは、時代や国によっても決して変わることがない真実です。イエス様が嵐の海を弟子たちとともに渡ってきたのは、この人に出会うためだったのです。自我や生活が崩壊し、墓場で自分の身体を傷つけながら、死んでいるように生きている、この人を救い出すためでした。そしてイエス様の目には、この現代の日本人の姿もまた、嵐の海を乗り越えて助け出さなければならないものとして映っていることでしょう。
今日の週報の表紙は、佐渡島の有名な観光スポットである、二つ亀という場所です。国内だけでなく、海外からも観光客が訪れて、景色や海水浴を楽しみます。しかしこの二つ亀からわずか800m、徒歩10分くらいのところには、賽の河原という場所があります。生まれてすぐに死んだ子供や、流産や中絶で生まれることができなかった子供への供養として、自然洞穴の中に、数え切れないくらいの地蔵が並べられています。この賽の河原で、亡くなった子どもたちが石を積む、最後まで積み上がれば極楽へ行ける、しかし地獄の鬼たちが必ず邪魔をするので、どの子どもたちも最後まで石を積み上げることができない、という悲しい言い伝えがあるそうです。
この世界のあらゆる人々が、この賽の河原のようです。決して積み上がることのない石を積み続けます。だれもが神との正しい関係を失った結果、家庭も壊れ、自分を正当化しようとします。たくさんの人々に囲まれていても、自分が本当は孤独なのだと思わずにはいられません。墓場には住んでいなくても、まるで墓場のようなひとりぼっちの世界です。鎖をひきちぎろうとしながらも、結局は自分で自分のからだを傷つけている。すべての人がそうなのです。
しかしイエス・キリストは、そのような人々を救うために、嵐の湖を乗り越えて来られるお方です。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、自らを常識的と考えて、逆に神から遠く離れてしまっている人間たちをあざ笑っています。おまえたち人間がどれだけがんばろうが、俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。
しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。それは悪霊が叫んだのか、それとも悪霊に支配されていたはずのこの人が叫んだのかはわかりません。しかしいずれにしても、ここからこの人の回復の道が始まるのです。
今日、悪霊は、現代人が常識と考えているものの中に潜み、人々は自分でも気づかないなかで、悪霊の力に屈服しています。しかし二千年前のユダヤも、21世紀の日本でも、そこから助け出される方法はただひとつ、イエス・キリストの御名を呼び、この方を信じるということです。これからの教会は、福祉や地域活動を大事にしなければならない、という主張は確かにそのとおりですが、だからこそ、私たちはそのような地道な活動を通して、人々の目が福音に開かれて、イエスの御名を呼ぶことができるように、そのために祈り続けることを忘れてはなりません。悪霊さえ身震いして泣き叫ぶ、そのイエスの御名を私たちはいただいています。このイエス・キリストを人々に語り続けていく、そのような一週間として歩んでいきたいと願います。