能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『ヤコブの手紙』2章1-13節
1私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。2あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。3あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、4自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。5私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。6それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。あなたがたを虐げるのは富んでいる人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。7あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名を汚すのも、彼らではありませんか。8もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。9しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。10律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。11「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。 12自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。13あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日もヤコブの手紙を通して、神さまからのメッセージを受け取っていきたいと思います。まず、二千年前の教会にも、来会者に対するえこひいきがあったという、いささかショッキングな話から、今日のみことばは始まっています。
小さな群れであるほど、会計は厳しい。それは二千年前の教会も同じです。当時、富んでいる者というのは、社会的地位が高い者でありました。小さな群れが、経済的、社会的なメリットを期待して、富んでいる者を優遇し、貧しい者を二の次にする。それは十分にあり得ることでした。しかしヤコブは、彼らにこのように警告します。「あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」。ここで「えこひいき」と訳されているギリシャ語は、特別なことばで、新約聖書の中でも四回しか使われていません。そして面白いことに、ここ以外の三箇所は全部、「神にはえこひいきは決してない」という文脈のみで使われています。つまり、ヤコブがここで「えこひいき」と語っているのは、人としてえこひいきしてはならない、ということ以前に、神にえこひいきがあり得ないように、神から信仰をいただいているあなたがたにとっても、えこひいきはあり得ないことなのだ、と語っています。えこひいきしてはならない、という禁止を表しているのではなく、キリストの栄光をその身に宿している神の子どもである以上、えこひいきなどできるはずがない、と強く語っていることばなのです。
しかし実際には、ヤコブの時代から今日に至るまで、教会にはえこひいきが続いていることは、認めなければなりません。よその教会の信徒や先生とお話ししているとき、「若い方はどれくらいおられますか」ということを聞かれることがあります。そのときに、今、教会学校に来ている子どもたちの数を答えたりしますが、お年寄りの数は聞かれないが、若者たちの数はよく聞かれます。これは、私たち自身がすでに、内側でえこひいきをしていると言ってもよいのではないでしょうか。本来、救いはあらゆる人を対象にしていますから、とくに若い人は何人、とそこだけ注目する必要はないのですが、クリスチャンはとくに若い人の数に注目します。お年寄りが何人いても、「この教会は年寄りばかりだ」と自嘲めいたことを言うのですが、若い子が一人でもいると「これから期待ですね」とか言うわけです。神さまが一人一人を与えてくださって、老若男女、だれが有益で、だれがそうではない、といった差別などはないはずです。しかし実際には「ないはず」が現実になっている。目に見えない神とそのみことばにではなく、目に見えるものに依存しているからです。
これは余談ですが、「えこひいき(依怙贔屓)」の「えこ」とは何のことなのか、辞書で調べてみました。それは依存とか、頼るという意味だそうです。ただひいきするのではなく、自分に利益を与えてくれる存在として、頼っている、依存している、ということだとすれば、やはり私たちの信仰とは相容れないものでしょう。私たちが頼るのは神だけだからです。他の何であっても、それがどんなによいものに見えたとしても、神以外に依存するということはありません。
イエスご自身が、人々から卑下され、拒絶された方であり、えこひいきされる者の痛みを知っておられます。このイエスを救い主として信じた私たちにとって、えこひいきは断固として退けなければなりません。しかしだれもがそう思っていても、自然と目に見えるところからえこひいきしてしまうとしたら、それをとどめる方法は何でしょうか。それは、イエス・キリストの目を通して人々を見るということです。相手がクリスチャンであれば、その人の人格がどうであろうとも、日々、聖霊によって変えられ続けている人であることを認めます。また相手が未信者であれば、イエスはその人のためにも命を捨ててくださったのだ、ということを忘れない、ということです。
5節でヤコブはこう語っています。「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか」。「貧しい」とは経済的に貧しいという意味だけでなく、何も誇ることを持っていない者、ということも含みます。私たちは、恵みのゆえに救われたのですから、貧しいことを恥じる必要もなく、ましてや富をうらやむ必要もありません。ヤコブは人々に勧めます。富んでいるということは、その富に依存してしまう誘惑も強い。だから富める者は、自分が神によって貧しくされて、富に依存しなくなることを感謝しなさい。そして貧しい者は、この世の宝ではなく、天の宝によって自分がすでに豊かにされていることを感謝しなさい、と。たとえ地上では最後まで貧しくても、天では必ず富んだ者とされるからです。
ヤコブの時代、富んでいる者とは、力を持っている者ということを意味しました。彼らは権力者を味方につけ、貧しい者たちを搾取しました。裁判でも、貧しい者たちの証言は聞かれませんでした。しかしその社会的、絶対的な壁が破られていた所が教会でした。主人と奴隷が共に神の言葉を聞き、強い者と弱い者が教会では共に助け合いました。それは暴力と搾取が当たり前であった当時の社会において、人々を驚かせたことでしょう。この現代の日本においても、教会はいつもその存在意義を問われています。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えを、教会の内側でも外側でも実践していくことができたら、何とすばらしいことでしょうか。しかしどんなに軽いものに見えたとしても、えこひいきがそこにあったならば、それは神の前に罪を犯すことになるとも言われています。自分では、えこひいきしているかどうか、気づかないのです。だからそれを指摘し、正していける秘訣も、兄弟姉妹としての信頼関係にあります。神との信頼、人との信頼の中に生きていきましょう。
最後に12節をお読みします。「自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい」。ここでいう「さばき」とは罪のさばきのことではありません。罪のさばきは、すべてイエス様の十字架によって取り去られています。しかしあわれみをいただいた私たちクリスチャンが、救われた後も、他人にあわれみを与えない生き方を続けるならば、神は大いに悲しまれます。えこひいきとは、自分によって益をもたらす人には依存し、愛を注ぐが、それ以外の人のことは差別し、関わりを持とうとしないことです。そのような狭い人生から、イエス様は私たちを解放してくださいました。教会の内にいる人にも、外にいる人にも、同じようにあわれみをもって生きていくこと。そのやり方は一人一人異なりますが、みことばが私たちに求めていることを心に刻みつけて、この一週間も歩んでいきたいと願います。