みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
今日の皇室関係の報道では、何かとお兄ちゃんちばかりが賞賛され、秋篠宮家はこき下ろされるような風潮がありますが、ヤフーニュースにこんな記事が掲載されていました。
「悠仁さまがキリスト教の大学を選択することにナゼ違和感? ICUと皇族の意外な接点」
記事によると、「美智子様が皇室に入られたとき、キリスト教の話題になったときに昭和天皇が大激怒した」という噂が皇室にゆかりのある者を通して広められたが、昭和天皇自身がその噂を聞いて、逆に憤慨したということが掲載されています。そして毎度おなじみの無責任コメンテーターたち(いわゆるヤフコメ民)からは「皇室なんだから悠仁様はキリスト教系のICUではなくて学習院に進学すべき」といった意見が寄せられています。
昭和天皇とキリスト教との関係はわかりませんが、昭和天皇の末弟にあたる故・三笠宮寛仁(様)は私たち牧師(神学校)のあいだでは相当に有名です。というのは、旧約聖書を学ぶとき、カナン文化や古代エジプト文化に関するオリエント考古学の学びが必須ですが、三笠宮はまさにそのオリエント学の権威であり、学会創設に多大な貢献をなされた方でした。
じつはこのブログの中で一番アクセス数を稼いでいる記事は、私が神学校で(ほぼ一夜漬けで)書いた旧約聖書緒論のレポート「カナン宗教の実態〜現代まで続いているバアル信仰」なのですが、これもわざといかめしい言い方をすれば、三笠宮の学問的業績に依拠していると言っても過言ではありません。皇室の象徴でもある八咫烏(やたがらす)が三本足なのは、かつて景教という形で伝来した、キリスト教の最大奥義である三位一体を表しているというのはオカルト雑誌「ムー」の受け売りですが、そんなまゆつばを引かなくても、近代日本の国際親善を牽引してきた皇室が、欧米だけではなく中東や第三世界でも多大な影響がある、聖書に無知であるはずがないのです。
いま、少子化のなかで、日本の私立大学はたとえ首都圏やブランド校であっても、どこも定員割れの危険にさらされています。そんな中でやれICUはキリスト教系だ、学習院や国士舘は日本的だとかいう単純な発想ではなく、しっかりと来て、見て、理解しようと務める、そんな若者が一人でも現れるようにと願います。
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2024.4.7「すべての造られた者に福音を!」(マルコ16:9-20)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『マルコの福音書』16章9-20節
[9さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。9マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。9彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。12それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。13その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。14その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。15それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。16信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、18その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」19主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。みなさんはバンクシーという人の名前を聞いたことはあるでしょうか。取り壊し寸前の建物や、戦争のために廃墟となってしまった建物の壁に、悪く言えば落書きのようなものを残している人です。しかしただの落書きではない。例えばイスラエルがパレスチナ人居住区とのあいだに築いたコンクリートの壁に、その壁に大きな穴が開いて青空が広がっているような絵をスプレーで描いたり、今日の週報の表紙にも引用しましたが、戦車に対するバリケードとして放置された鉄骨を使って、子どもたちがシーソーを遊んでいる絵など、社会批判や反戦といったメッセージ性のあるものを世界中に残しています。そしてこのバンクシーとは何者なのか、誰も知りません。誰も知らないうちに一晩でそこに絵を残し、朝になると人々がそれに気づくという、まるで怪盗のような芸術家です。だからバンクシーとは個人ではなくて、彼の名を名乗る有志たちだとかいう噂もあるほどですが、少なくとも彼が、戦争中の国であっても危険を顧みずに、壁に残した絵を通して強烈なメッセージを放っているのは真実であり、確かなことです。
さて、じつは今日の聖書箇所は、マルコの福音書の最後になりますが、じつはマルコが書いたものではないということが、写本上の特徴から明らかになっています。ではだれが書いたのかというと、バンクシーではありませんが、書いた人の正体はわかりません。しかし写本上は、マルコ本人が書いたものではないことは明らかであっても、そこにはマルコが持っていたものと同じ視線が登場人物に注がれています。それは、弟子たちの不信仰を容赦なくえぐり出す、決して忖度しない、マルコの視線です。詳しく見てみましょう。
まず9節からは、マグダラのマリアが、よみがえりのイエスに出会った記録が描かれています。これは、ヨハネの福音書に同じできごとが詳しく述べられています。さらに12節からは、田舎に向かう途中の二人の弟子が、イエスと気づかずに出会ったという記録が描かれます。こちらについては、ルカの福音書に出てくるエマオへの途上という出来事がぴったりと合致します。しかし、ここに描かれているのは、ルカ・ヨハネそれぞれに書かれている出来事と帳尻を合わせるために覆面記者が書いたという単純なものではありません。ここにはルカやヨハネによる記録よりも鮮烈なメッセージが込められています。それは「ここまでイエスのよみがえりを聞いても、弟子たちは信じなかった」ということです。そしてそれは、14節で頂点に達します。「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった」。
翻訳では「お責めになった」という奇妙な言い回しにされていますが、この責めるというギリシャ語は、イエスが十字架につけられたときに、右と左につけられた強盗たちがイエスをののしった、その「ののしる」と同じ言葉が使われています。つまり、「お責めになった」とかいう、上品な言葉ではなくて、イエス様が弟子たちをののしった、まさか本当にののしりはしないでしょうが、それほどまでに強い言葉、激しい憤りがここで用いられています。想像できるでしょうか。よみがえったイエス・キリストが弟子たちの前に現れて、優しいまなざしを向けるかと思ったら、彼らの不信仰を激しい言葉でののしった、なんてことを。
しかしこれが、聖書の真実です。神は、人間の心がかたくななことを憎まれます。それがイエスの弟子であろうと、決して態度を変えることはありません。信じる者になりなさい。信じない者になってはいけません。イエス様も、父なる神も、御霊なる神も、三位一体の神は涙を流しながら私たちの心を叩き続けられるお方なのです。ですから私たちは、14節の後半の言葉を決して軽く受け止めてはいけません。「よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである」。今、私たちは聖書を通して、よみがえられたイエスを見た人たちの証言に出会うことができます。聖書が、二千年の時を経て今このような形で私たちの手にあることは、この証言に出会うためでもあります。その証言を受け入れて、信じる者となるか、それとも受け入れない者であり続けるか、それを私たちは自分の心に問わなければなりません。今、あなたの手には聖書が握られています。それは、間違いなく神のことばであり、この神のことば以外には、私たちにまことのいのちを与えることができるものはありません。
しかし同時に私たちは、次の言葉に大いに励まされるものです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」。なんとスケールの大きい命令でしょうか。家族に、友だちに、とかではないのです。「すべての造られた者に」福音を宣べ伝えなさい、というのです。イエス様は、弟子たちの心をよくご存じでした。彼らの不信仰もよくご存じでした。しかしにもかかわらず、この大宣教命令を、彼ら、いな、私たちクリスチャンにゆだねてくださいました。それは私たちの能力や可能性に期待したからではありません。私たちがゆだねられた、福音のことばの圧倒的な力のゆえに、私たちの不信仰にもかかわらず、私たちを用いてくださるのです。
教会が生まれて二千年、福音は全世界に広がり、今や何十億という人々がクリスチャンと呼ばれています。しかしそれは、福音を伝えた人々の能力によるのではありません。戦国時代のフランシスコ・ザビエル、明治時代にローマ字と共に福音も伝えたヘボン、あるいは戦後、この新潟に何十年も腰を据えて働かれた、アメリカやヨーロッパの宣教師たちなど、日本人に福音を伝えてくれた人々は確かにいます。しかし彼らが優れた力を持っていたがゆえに福音が宣べ伝えられたのではないのです。福音そのものが持っている、人の力を越えた神の力、どんな人間をも変えることのできる神の力、それが世界を駆け巡り、数え切れないくらいの人々を神のもとへと勝ち取ってきたのです。
私たちもそうです。私たちは、誰から福音を聞いて、イエス・キリストを信じたでしょうか。そこには多くのクリスチャンたちとの出会いがあり、関わりがあり、背後の祈りがあって、私たちは福音を受け入れました。しかしその間に関わったひとり一人のクリスチャンは、決して完璧な人間でも、きよい人間でもなく、弱い一人の人に過ぎません。しかしどんなクリスチャンであっても、その人の中には「福音」が生きているのです。福音によって生かされているその人から、飛び火するようにあなたへ福音が燃え移り、そしてあなたをも変えていく。そしてさらにあなたから他の人へと、そのようにして福音は伝えられてきたし、これからも伝えられていくのです。福音を運ぶ人の能力や優れた人格によるのではなく、福音そのもののもつ力のゆえに、福音はすべての造られた者へと広がっていくのです。
最後に、人々の誤解を生みやすい、17節の言葉に触れておきたいと思います。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます」。まるでスーパーマンです。しかしここで大切なのは、最初にある、「伴います」という言葉です。毒を飲んでも死なず、病人に手を置けばいやされ、悪霊に命ずれば尻尾を巻いて逃げ出す。そんな力に憧れる人もいるかもしれません。しかし「伴う」という言葉は、それがメインではなく、さらに優れたものがあることを意味します。悪霊を追い出し、病をいやし、毒にも動じない、しかしそれさえも、本体の影にすぎない、というのです。では、その本体とは何でしょうか。その答えは、最後の言葉の中に出て来ます。20節後半、「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」。
本体、それはみことばです。私たちに伝えられた聖書の言葉、今私たちが手にとり、そして心に受け入れようとしている聖書の言葉、それが本体であり、目に見える奇跡は影でしかありません。奇跡を強調する人々はかえって信仰を失っていきます。奇跡よりももっと大きな力、それが聖書66巻のみことばであり、私たちは、いま、それを手にしています。それを語ることができます。しかし語ろうとしなければ、神の力は働かないのです。だから私たちは、イエス様の命令をもう一度心にとめましょう。すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ。私たちは、その言葉によってこの世界へと遣わされ、そして神は私たちを通して栄光を表してくださいます。これからの一週間も、神さまに心から期待して、歩んでいきましょう。
2024.3.31「みことばを思い出そう」(ルカ24:1-12)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
これを書いているのは3/31当日ではなくその週末の4/6なのですが、昨日、新発田市民文化会館にて敬和学園大学の入学式があり、同窓会長(名ばかり)として出席してきました。1991年の最初の入学式の日、一期生の総代として入学の式辞を壇上で読み上げたことを思い出します。そのときは文化会館ではなく、大学の講堂でしたが、一期生が三百人以上おりましたので(定員は200人ですが、そういう時代だったのです)保護者は別室でモニターで鑑賞するといったこともありました。まだインターネットが普及していませんでしたので、今のようなオンライン配信ではなく、ビデオ映像を有線でつなぐという、まさにアナログでした。
そのときの式辞の中で、私は自分の教会の牧師から聞いた、敬和学園の創設者・太田俊夫先生の「開学の祈り」を引用しました。「もしこの学校から賛美歌の声が途絶えたなら、神がこの学校を潰してくださるように」というものでしたが、ずっと後になって調べてみると、「賛美歌の声が途絶えたなら」ではなくて「右や左にそれることがあれば」だったようです。しかし初代学長としてその式辞を受け取ってくださった北垣宗治学長は、そのときの私の式辞をその後もずっと覚えていてくださって、その後も回顧録などに記してくださいました。先日、大学事務局からメールがあり、その北垣先生が3月28日に94歳で帰天されたとのことでした。2002年に私がこの教会に赴任したとき、就任式にも駆けつけてくださり、翌年、二代目学長の新井明先生(故人)にバトンタッチされました。敬和学園大学のホームページで「カレッジレポート」という広報誌のバックナンバーがダウンロードできます。初期の頃のものを読むと、当時の空気感がよく伝わってきますので、一度ご覧ください。また北垣先生のご遺族に、神さまからの豊かな慰めがありますようにお祈りいたします。
能登地方および台湾地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
これを書いているのは3/31当日ではなくその週末の4/6なのですが、昨日、新発田市民文化会館にて敬和学園大学の入学式があり、同窓会長(名ばかり)として出席してきました。1991年の最初の入学式の日、一期生の総代として入学の式辞を壇上で読み上げたことを思い出します。そのときは文化会館ではなく、大学の講堂でしたが、一期生が三百人以上おりましたので(定員は200人ですが、そういう時代だったのです)保護者は別室でモニターで鑑賞するといったこともありました。まだインターネットが普及していませんでしたので、今のようなオンライン配信ではなく、ビデオ映像を有線でつなぐという、まさにアナログでした。
そのときの式辞の中で、私は自分の教会の牧師から聞いた、敬和学園の創設者・太田俊夫先生の「開学の祈り」を引用しました。「もしこの学校から賛美歌の声が途絶えたなら、神がこの学校を潰してくださるように」というものでしたが、ずっと後になって調べてみると、「賛美歌の声が途絶えたなら」ではなくて「右や左にそれることがあれば」だったようです。しかし初代学長としてその式辞を受け取ってくださった北垣宗治学長は、そのときの私の式辞をその後もずっと覚えていてくださって、その後も回顧録などに記してくださいました。先日、大学事務局からメールがあり、その北垣先生が3月28日に94歳で帰天されたとのことでした。2002年に私がこの教会に赴任したとき、就任式にも駆けつけてくださり、翌年、二代目学長の新井明先生(故人)にバトンタッチされました。敬和学園大学のホームページで「カレッジレポート」という広報誌のバックナンバーがダウンロードできます。初期の頃のものを読むと、当時の空気感がよく伝わってきますので、一度ご覧ください。また北垣先生のご遺族に、神さまからの豊かな慰めがありますようにお祈りいたします。
聖書箇所 『ルカの福音書』24章1-12節
1週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。2見ると、石が墓からわきに転がされていた。3そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。5彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。6ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」8彼女たちはイエスのことばを思い出した。9そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。10それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。12しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。2017 新日本聖書刊行会
イースターおめでとうございます。今日は3月31日の日曜日ですが、じつは私がこの教会に赴任した年、今から22年前、2002年のイースターも、3月31日でした。なんでそんな昔のこと覚えているんだと言われると、当時は私もその3年前まで務めていた市役所時代の同僚とのつながりを大事にしていて、その前の週にわざわざ市役所まで行って、イースター礼拝に誘ったことがありました。そしたら3月31日なんて決算で一番忙しいときじゃないか、行けるわけないだろうと言われてしまったのです。日曜日なんだから年度末とか決算とか関係ないだろうと思いましたが、すんませんでしたと言ってすごすご帰ってきた次第です。だから今でも覚えているのです。
今日はみなさんに一冊の本を紹介したいと思いますが、「礼拝を豊かに」という本です。すでに絶版となっておりますが、おそらくこの本だけは牧師をやめるときまで絶対に捨てないと思います。というのは、この本には最後のページに付録がついていまして、1900年から2099年までの二百年間分、その年のイースターの日付が全部わかります。1995年の発行なのですが、なんで1900年のイースターからわざわざ記しているのかは謎です。しかしこの本のおかげで、イースターがいつなのか、あと75年先までわかるという、たいへん便利な本です。これによると、3月31日にイースターを迎える年は、1991年、2002年、2013年、そして今日2024年と、11年ごとにありました。そしてここからが大事ですが、今日を逃すと、次に3月31日にイースターを迎えることができる日は、2086年、今から62年後になります。ですからここにおられる方々の半数以上にとって、今日は人生最後の3月31日のイースターということになります。縁起悪いように聞こえるかもしれませんが、むしろハレー彗星のように当分はやってこない3月31日のイースターを逃さなかったという意味で、たいへんラッキーなことであります。
かつての同僚の一人をイースター礼拝に誘ったとき、年度末だからという理由で断られたことは最初に述べましたが、帰り際に彼がこう言ったのです。「年度末じゃなかったら、ご祝儀代わりにおまえの教会に行ってみたいんだけどなあ〜残念だよ」。しかしそれから22年経ちますが、彼はいまだに礼拝に来てくれません。たぶんそのときの言葉も忘れているでしょう。しかし私自身、彼のことを思い出したのはつい最近のことで、この22年間、こちらから礼拝に誘うことも、連絡をとることもありませんでした。はっきり言えば、彼のことを忘れていたのです。
ですから、今日の聖書題は、忘れっぽい自分自身に対する戒めもこめて、「みことばを思いだそう」にしました。私たちが、忘れることは仕方がないこととも言えますが、決して忘れてはならないことがあります。それは、神のことばです。私たちの目が、見えない神さまのことよりも、見えている日常生活のほうにばかり向いているときは、神のことばを忘れます。神のことばを忘れるというのは、何か選択に迫られるようなとき、みことばに頼るよりも、自分の判断に頼るということでもあります。そして私たちがみことばを忘れてしまうとき、みことばによって生きる喜び、恵みが生活の中からそぎ落とされてしまい、むなしさがつきまとうようになります。
今日の聖書箇所では、イエスさまに葬りの油を塗るために墓へと向かう女性たちが登場します。このルカ福音書だけでなく、すべての福音書に描かれている光景です。しかしその中でルカがとくに強調しているのは、8節にある、「彼女たちはイエスのことばを思い出した」という一文です。彼女たちはイエス様への愛を忘れていませんでした。信仰によって、命の危険を顧みず、墓へと向かいました。しかし、その心のうちからは、みことばが抜けていたのです。彼女たちの関心は、ほかの福音書でも書かれているように、「主の墓の重い石の扉を、いったい誰が開けてくれるだろうか」ということだけでした。あらかじめ彼女たちにイエス様自身がこう語っておられたのに、です。わたしは十字架にかけられたあと、必ず三日目によみがえる。そしてあなたがたより先にガリラヤに行く、と。しかしその約束のことばが彼女たちの記憶の中からすっかり抜け落ちていました。
ここから教えられることは、私たちがどんなにイエス様に対する愛があり、身を投げ出す信仰があったとしても、みことばがなければ、本当の意味では問題を乗り越えていくことができない、ということです。神は私たちをどんな時でも忘れず、恵みを与えてくださる方です。ですからその恵みのゆえに、問題がにっちもさっちもいかずに破滅してしまう、なんてことはありません。それはみことばを忘れているクリスチャンでさえそうです。だから表向きは、みことばがなくても、問題をなんとか乗り越えた、と誤解することもしばしばあります。しかしみことばがなかったら、そこには信仰によって勝利した、というクリスチャンならではの爽快感がありません。むしろ「みことばに頼らなくても、なんとかなるもんだな」という間違った人生訓さえ持ってしまうのです。クリスチャンがどんな困難にも負けないのは、自分ではなく神が道を開いてくださるという圧倒的な信頼感があるからです。その信頼感は、神さまから自分にみことばが語られているという確信から生まれるものです。
前半部分に描かれている女性たちの姿を、反面教師として受け取りましょう。墓に近づいてみると、扉の石をだれが開けてくれるだろうか、という現実問題は片づいていました。神が道を開いてくださったからです。しかし墓の中に入ってみると、そこにはイエスの亡骸がありません。彼女たちは墓の中を一生懸命に探します。しかし見つかりません。墓のとびらの石を開けさえすれば、イエスと出会えると思っていたのに。扉の石という問題がクリアされているにも関わらず、彼女たちは途方にくれてしまいます。
みことばがないところでは、どんなに現実が好ましく変わっていったとしても、悲しみに引きずり込まれます。もし彼女たちがここでイエスが生前、ガリラヤで語られていたみことばを覚えていたら、このからの墓は彼女たちの喜びの舞台になったことでしょう。彼女たちの姿は、古い自分を映している鏡です。今日このみことばを聞いた私たちは、古い人のまま、現実を見ることは今日限りにしましょう。あなたはイエス・キリストの十字架と復活を信じ、まったく新しい人となりました。新しい人は、みことばを忘れません。そしてみことばが自分を通して、この世界に実現していく姿を体験できるのです。
神は恵みとあわれみに満ちたお方です。この女性たちを、みことばを忘れたままにしておくことはできませんでした。あらかじめ御使いを遣わし、イエス様のみことばを彼女たちが思い出させてくださいました。みことばを思い出したとき、彼女たちの中には、御使いを直接見てしまった恐れではなく、復活のすばらしい知らせをみなに伝えなければ、という喜びが生まれたのです。
今日のメッセージの結論を語ります。あなたは、目に見える現実にとらわれて、見えない神のことばを信じることができないかもしれません。しかしたとえ昨日までがそうであったとしても、今日、神とその約束のみことばを信じるならば、この世界のすべての色が変わっていきます。「復活」とは他ならぬ私たちがイエス・キリストとともに生まれ変わることです。現実がどうあろうと、ただ神のことば、つまりこれからあなたと共に、あなたを通して実現していく神の約束を信じるとき、まさに世の人々にとって私たちクリスチャンは、イエスさまのすばらしさを映し出す、証しびととなるのです。神のことばをいつも心に刻みましょう。よみがえられたイエス様は、いまも私たちの中に生きておられ、力を与えてくださいます。みことばによって歩んでいきましょう。
2024.3.24「彼らはイエスを十字架につけた」(マルコ16:16-32)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『マルコの福音書』16章16-32節
16兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。19また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。20彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。21兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。22彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。23彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。28【本節欠如】29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。2017 新日本聖書刊行会
「字のない本」というものをご存じでしょうか。最初にどなたが作ったのかはわかりませんが、色紙(いろがみ)を使って最初に金のページ、続いて黒、赤、白、そして緑のページと貼り合わせて本のかたちにしていくだけです。戦後の宣教師たちは、これを使って福音を教えました。まず金、神様は私たちすべてを尊いものとして造ってくださいました。(黒)、しかし最初の人アダムとエバが罪を犯したために、私たちは生まれながらにして罪をもって生まれてくるようになったのです。(赤)しかしイエス・キリストが私の身代わりとして十字架にかかり、血を流して死んでくださったことを信じるなら、(白)私の罪はすべてゆるされて、心をきよめられて神様の子どもとされるのです。(緑)信じる者たちは、みことばを通して成長を続け、そして天国へ行ったときにキリストと同じ姿に変えられるのです、と。たいへんシンプルなものですが、シンプルなだけに、短い時間で福音を伝えることができます。折り紙ではなくフエルトでアクセサリーのようにして、服や鞄につけておくと、向こうのほうから興味をもって、何それと聞いてくれることもあります。簡単に作れますので一度挑戦してみるとよいかもしれません。
さて、いよいよ今週、私たちはイエス・キリストの十字架について、みことばからいただきます。そして今日の箇所は、まさにこの「字のない本」の二ページ目、黒のページにふさわしいでしょう。決して灰色ではありません。あるいは所々にホワイトが飛び散っている、中途半端な黒でもありません。完全な漆黒、暗闇、黒一色です。他の福音書では、イエスと共に十字架につけられた二人のうち一人は悔い改めたという記事もありますが、マルコはそのようなささやかな光さえも描くことはありません。誰もが闇をさまよい、誰もが目を血走らせ、誰もがイエスをあざけります。
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」イエスはその狂った群衆の叫びの中、ゴルゴタの丘にまで連れてこられました。やがて兵士たちは十字架の長い縦木と短い横木を組み合わせ、その上にイエスを寝かせました。十字架、それはローマ帝国で考案された、史上最悪の極刑です。数年前に、「モリノアサガオ」というドラマがありました。あらすじを一言で言うと、死刑囚ばかりが収監されている刑務所で刑務官として務めている一人の青年の物語です。死刑囚たちは、刑務官が見回りのために廊下を歩いているコツコツという音を聞いただけで、今日とうとう自分が死刑にされるのだとおびえて生活しています。しかしこのドラマで描かれているのはそれだけではありませんでした。犯罪者のほうではなく、刑務官のほう、彼らに死刑宣告をし、絞首台の床を外すスイッチを共同で押す、彼らのほうが心を壊して、やめていくか、あるいは何も考えないように心を空っぽにしていくという姿が描かれていました。人が法の名において人を処刑するというのは、それが社会正義の実現であるとしても、まっとうな心さえも壊していくというものです。
しかしここには、そのような葛藤を持っている人々はまったくいません。誰もがイエスに歯をむき出し、あざ笑い、つばをはきかけ、せせら笑います。だからこそ、ここは黒いページです。本来、金のページ、つまり、神さまから尊いものとして作られた人間は、罪によって黒く塗り替えられてしまいました。その最たる姿が、この兵士たちであり、群衆であり、祭司長や律法学者であり、通りがかる人々です。しかも隣につけられた死刑囚でさえ、そうでした。
不思議に思うのは、聖書はこのように十字架の前後に繰り広げられる、嫌気を催すような嘲りや憎々しい人々の場面は饒舌に記しているのに、肝心のイエスが十字架につけられる、その瞬間の様子については、ほとんど語らないということです。たとえば、今日の聖書箇所の中で、イエスが十字架につけられる、その瞬間についてはこう語られています。24節、「それから、彼らはイエスを十字架につけた」。イエスを十字架に釘打ちにするために振り下ろされたハンマーの音。肉の裂ける音、血の飛び散る音。釘が打ちつけられる瞬間のイエスの叫び。食いしばる歯。固く結ばれた口から漏れる嗚咽。そのようなものは一切語られません。周りの人間たちの嘲りや不遜な態度は、ここまで記録が必要なのかと思うほどに詳しく描写しますが、イエスが十字架につけられるその瞬間については、どの福音書も、「彼らはイエスは十字架につけた」というただ、その一言だけです。
なぜでしょうか。じつは答えは単純です。すべての人間にとって、イエスの十字架は、最初、私とは関係のない、どうでもよい出来事として始まるからです。あらゆる人は、その罪によって目をふさがれています。まさに黒一色のページです。ですからイエスの十字架は、誰にとっても、人ごととしか映りません。「二千年前のことが、なぜ私に関係があるのか」「救いだの信仰だの、そんなものは私にはいらない」「宗教に関わると家庭がおかしくなるよ」そんな無慈悲な言葉が世にあふれ、誰もがイエスの十字架を見ようとしません。それは特別、腹黒い人々がそうだということではないのです。あらゆる人々、かつての私たちも含めて、あらゆる人々がそうでした。人は、自分からは決して神に近づくことも、自分の罪に気づくこともできないのです。
しかし神さまはご自分が救いに定めておられる人に対しては、定められた時にその目を開いて、十字架は自分のためだったと気づかせてくださるのです。そのとき、私たちは、ここに書かれている、忌まわしい人々の姿は、じつは自分とかけ離れていないのだということに気づきます。目に見えるものしか信じない人々。自分には救いなど必要ないとうそぶく人々。罪を犯してさばかれていながら、イエスをののしる犯罪人たち。それは私自身の姿なのだと気づかされるのです。もしキリストが私のために命を捨ててくださらなかったならば、今も私たちは自分の罪の中をさまよい、永遠の滅びという断崖絶壁に向かって霧の中を歩き続ける者でした。しかし神は私をあわれみ、救ってくださった。それがこの受難週において、一人一人が心に刻みつけるべきことです。
メッセージを閉じるにあたり、最初に紹介した、字のない本に戻ります。私たちはもし自分の心の中が黒のページだとすれば、次に何をすべきかは決まっています。ページをめくるのです。黒のページの先に赤のページがある。イエスの十字架を仰ぎ、イエスの血潮を頭からかぶるのです。ヨハネは言った。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます」と。その先には白のページがあります。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」。そしてその先には、最後の緑のページが待っています。神の牧場にいる子羊のように、決して取り去られることのない平安をいただいて、永遠の御国に生きるのです。それが私たちクリスチャンです。いよいよ来週、私たちは主の復活、イースターを迎えます。これからの一週間、神が私たちのために十字架にかかってくださったという事実を心からかみしめて、歩んでいきましょう。
2024.3.17「生きる手立ては御手の中に」(ルカ20:45-21:4)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
最近、「お祈りいたします」しか書いていないので、しょうもない小咄(こばなし)を一つ。
今日、結婚式場の前を車で通りかかったら、妻が「ロージンバードはどこにあるんだろうね」と一言。
老人バード?こんな鳥でしょうか?

もちろんバージンロードのことです。それにしてもこの鳥(ヨタカ)の顔、夢に見そうですね。ではグッナイ
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
最近、「お祈りいたします」しか書いていないので、しょうもない小咄(こばなし)を一つ。
今日、結婚式場の前を車で通りかかったら、妻が「ロージンバードはどこにあるんだろうね」と一言。
老人バード?こんな鳥でしょうか?

もちろんバージンロードのことです。それにしてもこの鳥(ヨタカ)の顔、夢に見そうですね。ではグッナイ
聖書箇所 『ルカの福音書』20章45-21章4節
45また、人々がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに言われた。46「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。47また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」
1イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、3こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。4あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」2017 新日本聖書刊行会
序.
私たちが手にしている聖書は、すべての箇所に何章何節とつけられているので、たいへん便利です。しかしもともと聖書には章や節はついていませんでした。今から六百年くらい前、グーテンベルクという人が、金属で活字を作って本を大量に印刷する技術、いわゆる「かっぱんいんさつ」を発明しました。それまでは聖書は、修道士が一文字一文字、手書きで写していたのですが、これによって聖書が庶民のもとに届けられるようになりました。それからしばらくして、ある印刷屋が聖書に章と節をつけるようになり、それが広まって、今日に至ります。
ですから私たちは20章から21章に変わったりすると、話が切り替わったかのように考えますが、じつはそんなことはなくて、全部つながっているのですね。先週の聖書箇所で言えば、ダビデの子についての質問は、その直後の、律法学者に用心しなさいという警告につながって、さらにその律法学者についての警告は、その直後の貧しいやもめが生活費のすべてをささげた話につながり、そしてこの貧しいやもめの物語は、イエス様が次に語られる、世の終わりが近づくと、神殿もすべて崩されるという警告へとつながっていきます。いま金太郎飴と言っても若い子には通じないかもしれませんが、章が変わると話が切り替わるのではなくて、金太郎飴のようにどこを切っても、全部同じようにつながっているのです。
ですから一番理想的な読み方は、たとえばルカの福音書を一章から読み始めたら、一気に最後まで読んでしまうことですが、それは忙しい現代人には不可能ですし、忙しくなくても途中で投げ出してしまいますのでやはり不可能ですが、せめて今読んでいる所は、章が変わってもその前と後ろにつながっているということを意識しながら読んでいただきたいと思います。
1.
さて、また前置きが長くなりましたが、この貧しいやもめがささげたレプタ銅貨2枚という金額は、当時の労働者の日給の64分の一にあたります。今日の金額に直せば、百円か百五十円といったところでしょう。それがこのやもめの生活費のすべてだとイエス様は言われます。なんで財布の中身まで知っているんだというのは置いといて、このようなやもめ、身よりのない未亡人たちは、経済的にも、社会的にもおとしめられていた人でした。彼女たちは、この直前にある、律法学者のような人々に、社会的にも精神的にも依存するしかありませんでした。しかし知識のなさや貧しさにつけこまれて、ただでさえ貧しい生活をさらに利用されていくことも少なくなかったのです。しかしこのやもめは、その信仰のゆえに、決して弱い人では終わらなかった。確かに持っている生活費は、このレプタ銅貨2枚だけ。その2枚の銅貨も、いまここで投げ入れてしまった。しかしこの世から見たら、貧しい弱者であっても、神の目から見たら、決して弱者ではない。むしろ圧倒的な勝利者であった。
ここにまず、私たち現代のクリスチャンに対する励ましがあります。この世の人々の目に映る私たちと、神の目に映っている私たちとは違うのです。この世から見れば、教会は弱い者かもしれません。クリスチャンひとり一人の生き様など、世に対して何の影響も与えられないと思うかもしれません。しかし神の目にはそうではありません。イエス様は、人々が献金を投げ入れる様子をじっと見ておられました。金持ちたちがいかに多くの金額をささげ、じゃらんという大きな音がしても、イエス様の心を動かすことはありません。しかし名もなく、誇るべきものも何もないひとりのやもめが、おそらくおずおずとささげたレプタ銅貨二枚、献金箱の底で響いたかすかな金属音は、地上のどんな讃美よりも激しく、イエス様の心を揺さぶったのです。
2.
人の心の中さえも見通すことのできる神の子イエスは、そのレプタ銅貨二枚が彼女の生活費のすべてであったことをよく知っておられました。それは金額で言えば、百円に毛が生えた程度です。献金一口というよりは振込手数料に近い金額です。ささげることさえためらわれるような、わずかな金額です。しかし神の子イエスは、「この貧しいやもめは、だれよりも多く投げ入れました」と宣言されました。人の目には銅貨二枚であったとしても、神の目には、言葉に言い尽くせないほどの価値があったのです。
赤字に苦しんでいた、ある教会で会計役員が赤字を埋めるために、特別献金のアピールをしたそうです。その方は、言葉がきつすぎたと感じたのか、「思いが与えられない方は、無理にささげなくても結構です」と付け加えました。しかしその後、牧師がこう言ったそうです。「思いが与えられない方は、決してささげてはいけません。信仰から出ていないことは罪です」。ちょっとかっこよすぎて、実話かどうか怪しいのですが、このレプタ銅貨二枚をイエス様が賞賛されたのは、全財産をささげたからではなく、喜びをもって全財産をささげたからです。なぜ喜びがあったと言えるのでしょうか。それが、この箇所が、律法学者たちに用心せよという言葉の後につながっている理由でもあります。
律法学者とこのやもめはあらゆる点で対照的でした。食いつぶす者と食いつぶされる者。社会的強者と社会的弱者。権利が認められていた男性と、認められていなかった女性。富める者と貧しい者。しかし一番大きな違いは、「人の目ばかり気にしている信仰」と「いつも神が見ておられることを自覚する信仰」です。人が見ているときだけぴんと背筋をはる信仰ではなく、人が見ていようがいまいが、いつも神は私の上に目を注ぎ、見つめておられるという信仰です。
3.
そこには自然に喜びが生まれます。喜びがあるからこそ、持っているすべてのものを容赦なくささげることができます。二レプタささげれば、二百レプタ、二千レプタ返ってくるだろうという、報いを求めての献金ではなく、幼子が、大好きなお父さんのために何かをしたいという、純粋なささげものです。私たちクリスチャンは、キリストの十字架の救いを信じ、神の子どもとされた者たちです。子どもというのは、思春期と反抗期は別として、父母が自分を見てくれているとき、喜びを感じます。何が起こっても、私を見離さず、見捨てることのないお父さんがおられる、いう平安が私たち、神の子どもに与えられています。神さまの前に、裏表を使い分ける生き方はまったく無意味、「私はこのままで愛されている、私のこのままの姿を神は見ておられる」と心から信じています。ですから私たちは隠しません。ありのままの心の中を、父なる神が見ておられたとしても、恐れがないどころか、感謝があります。将来に対する不安も、罪に対する弱さも覆い隠さず、主に明け渡して生きています。
イエス様は、彼女は「持っていた生きるすべての手立てを投げ入れた」と語られました。以前の翻訳では「生活費のすべてを投げ入れた」と訳されていました。しかしその「生活費」という言葉は、直訳すると「生活」です。イエス様はお金をささげたことを賞賛したのではなく、彼女が自分の生活そのものをささげたことを賞賛されたのです。家に帰っても食べるものがない、どうしよう。明日起きたら健康を崩していたらどうしよう。今週、生活していくための仕事が与えられなかったらどうしよう。お父さんが与えてくれる。必要でないものは何一つ与えられないが、必要なものはどんなものでも必ず備えられる。その信仰をもって、彼女は生活のすべてを神におゆだねしました。
結.
おそらくイエス様は、生活のすべてをささげたこの女性の姿をみつめながら、自分もまた、生活どころか命そのものを十字架に明け渡す時が近づいていることを思われたことでしょう。私たちすべての罪人のために、イエス様は生活ではなく生命そのものを与えてくださいました。ご自分の命を、私たちのために完全にささげてくださったイエス様。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるでしょうか」と、別のところでイエス様は語られました。まことのいのちを得た喜びを、私たちは、私たちのやり方で、神におささげします。献金だけではありません。礼拝を、証しを、祈りを、交わりを、隣人愛を、神に与えられた生活、そしていのちをささげていきたいと思います。
2024.3.10「神を閉じ込める愚かさ」(ルカ20:41-47)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章41-47節
41すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。42ダビデ自身が詩篇の中で、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。43わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』44ですから、ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」
45また、人々がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに言われた。46「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。47また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。まず41節をご覧ください。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」というこの言葉、じつはマルコの福音書では、「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか」となっています。ですからこの前半部分も、後半部分と同じように、律法学者に対する警告として見ることができます。
おそらく皆様は、律法学者というグループはここにあるように、いかにも偽善者だと、悪徳政治家のように言葉は立派だがじつは裏金作りに走り回っている人たちだ、というイメージを持っておられることでしょう。しかし実際には、律法学者たちは、当時のイスラエルの民衆の生活にとけこみ、尊敬されていたのです。彼らは、律法、つまり旧約聖書の専門家でした。この律法を行うことが救いの道なのだと説き、民衆の中で一定の支持を集めていました。
しかし福音書を見ると、この律法学者たちがイエスを絶え間なく攻撃している姿が描かれています。それは、イエスだけが、律法学者たちの、人には気づかれない、あるいは自分たちでさえ気づいていない、心の闇をはっきりと指摘し、告発したからでした。その心の闇とは何でしょうか。
それは、律法学者たちの生き方が、神ではなく人の目を気にするものになっていたために、信仰の喜びを失っていたということでした。人々からの尊敬を維持するために、いつも人が自分をどう見ているかということに執着していました。律法学者のしるしである着物のふさはより長くし、広場での祈りはより長くなり、人々からは先生、先生と呼ばれるけれども、神との交わりは希薄なために心は満たされない。それを満たそうと、彼らはより人々の尊敬を勝ち取ろうと、ますます人に見せるための信仰になっていったのです。
これは決して二千年前の律法学者だけのことではありません。信仰がいつのまにか形にこだわるようになり、もともと持っていた信仰の喜びを失うクリスチャンも決して少なくないのです。「律法を行うことで救われる」という、本来よきものを掲げていたはずの律法学者が、なぜいつのまにか人の目にこだわり、神が見えなくなっていたのか、それは私たちにとっても無関係ではありません。彼らが道を外れていったのは、律法を行うことにこだわるあまり、神の恵みである「救い」を、まるで自分自身の努力によるかのように勘違いしたところにあります。本来、行いというのは、心から生まれるはずです。しかし行いにこだわった彼らは、内側の心よりも、外側の行いというものばかりを飾るようになりました。その結果、彼らの信仰は、いつも行いを気にしなければならないものになり、喜びが消えていったのです。
今日のキリスト教会には、律法学者がしがみついていた「行い」の代わりとなっているものと、それにこだわってかえって救いの喜びを失っている人々がいるように思えます。異言やいやしのような特別な霊的体験によって救われる。熱心に神を求めることによって救われる。正しい神学を学ぶことによって救われる。悲しいことですが、それに固執した教師や信徒が結果的に分裂をもたらしていく姿をいくつも見てきました。しかし、行いだろうが、情熱だろうが、正しい教えだろうが、結局それらは突き詰めていったところで、人を傲慢にさせるだけです。なぜでしょうか。行いによって救われる者は、知らず知らず行いをひけらかします。霊的体験によって救われる者は、異言や預言を武勇伝のように見せびらかすようになります。正しい神学に救われる者は、聖書そのものよりも学歴のある教師をあがめます。そしてどの場合においても、持っていない人を見下すようになります。行いだろうが、霊的体験だろうが、正しい教えだろうが、それらはひとつの例外なく、本物の救いが心に入ってこられないようなバリケードを築いてしまいます。
それを踏まえたとき、私たちはイエスが投げかけた最初の問いの意味に近づくことができます。「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」。人々、つまり律法学者は、キリストはダビデの家系から生まれなければならないと主張していました。実際、イエスはダビデの子孫から生まれているのに、なぜこのような質問をしたのでしょうか。それは、律法学者たちがキリスト、つまり救い主を「ダビデの子」という目でしか見ることができなかったからでした。彼らはこう考えていたのです。救い主は、ダビデの子孫として生まれる。いや、生まれなければならないのだ。このイスラエルを解放する救い主は、ダビデの子としてふさわしい者でなければならない。将軍のように雄々しく、貴族のように気高く、王のように富にあふれた者でなければならない。あのイエスという男は、とてもダビデの子と呼ぶにはふさわしい者ではない。あんな貧しい大工出身の男が、誇り高きダビデの子孫であるはずがない。無学な弟子たちと貧しい群衆を引き連れているようなあんな男が、ダビデの子であるはずがない。
彼らはキリストがダビデの子、ということにこだわり、自分で作り上げた救い主のイメージに惑わされ、イエスを受け入れることができませんでした。しかし今、神の言葉である聖書に耳を傾けよ、とイエスはダビデの詩篇から語りました。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」。
ダビデは、「主」と「私の主」という二つの主を挙げました。一神教であるユダヤ教では理解の難しい言葉です。しかし神はダビデの前に、父なる神と、そのひとり子である救い主を示してくださいました。それは自分たちの律法解釈にこだわり、その理解からはみ出たものは拒絶する律法学者たちとはまるで異なる、自由な喜びを伴うダビデの信仰です。私もまた、一人の牧師として聖書を正しく語ることを目標としています。しかしその一方で、たとえ人間がどんなに聖書を勉強し、神を理解したと思っても、神は人間の理解を遙かに超えておられるということも忘れてはならないと思います。
律法学者たちは、キリストを「ダビデの子」という肉のつながりでしか見ていませんでした。だからこそ彼らはイエスを見た目で判断し、自分たちが想像している「ダビデの子」との違いのゆえに、イエスをキリストとして受け入れることができませんでした。しかしイエスは言われます。「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」。より厳しい罰を受ける理由は、やもめの家を食い尽くしたり、長い祈りをしたからという行いによるのではありません。その行いのもとである、心にあります。自分たちが正しいと考えて、自分自身の中身を振り返ろうとしない者ゆえにより厳しい罰を受けるとしたら、私たちはなおのこと、自分の心をみことばと御霊によって照らされて、神の御前に進みゆくべきでしょう。私たちは、神のひとり子であるイエス・キリストがこんな私のために死んでくださったという信仰にとどまりたいと思います。救いは私の行いによるのではなく、神がなさってくださったものなのだ、と。信仰生活が長くなるほどに、信仰にもこだわりが生まれ、小さなことに過ぎないことで自他を批判し、救われた喜びを見失うこともあります。だからこそ、イエス・キリストが私を救ってくださったという原点に戻り、歩んでいきましょう。
2024.3.3「あなたは復活の子、神の子」(ルカ20:27-40)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章27-40節
27復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。28「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。30次男も、31三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。32最後に、その妻も死にました。33では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
34イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、35次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。36彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。37モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」
39律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。40彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。四旬節第三週は、サドカイ人とイエス様とのやりとりから学びます。しかしこのサドカイ人たち、彼らは復活があることを否定していながら、復活の際、七人の兄弟と再婚を繰り返した女は誰の妻になるのか、と聞いています。彼らは答えが知りたいわけではありません。なにしろ復活をはじめから信じていないのですから。これはただイエスをやりこめるための、現実には決してあり得ない質問でした。「兄弟が七人いて、長男が妻をめとり、死に、残された妻がその弟にとつぎ、その弟も死に、さらにその弟にとつぎ、ああだこうだ、ああだこうだ」と、まずありそうもない話をぐだぐだと得意げに語り、イエスをやり込めようとするサドカイ人たち。彼らもまた、パリサイ人や律法学者たちと共に、このイスラエルの指導者たちでした。しかし指導者でありながら、民を導くことよりもイエスをやりこめるためにくだらない問答を繰り返す彼らの姿に、イエスはいったい何を思ったことでしょうか。
しかしイエスは、このようなくだらない問答に対しても、真っ正面から答えるのです。それは、イエスは彼らも見捨てず、あわれまれたということです。今日、キリスト教や聖書に対して、はじめから敵対的、あるいは馬鹿に仕切った態度で向かってくる人たちも少なくありません。しかし私たちはキリストがイスラエルをあきらめなかったように、私たちもこの日本をあきらめてはならないのでしょう。日本だけではありません。アメリカ、ロシア、中国、大国と呼ばれている国の指導者で、いま尊敬に値するような人はいるでしょうか。みなが自分の都合ばかりを考えているようなリーダーです。だからこそ私たちは上からこの世界を変えていくのではなく、下から変えていかなければなりません。人として無力ではあっても、神は人の無力の中にこそご自分の力を働かせるお方です。
もしかしたら今日のクリスチャンの姿こそ、このサドカイ人たちの姿にあまりにも似通っているかもしれません。サドカイ人たちは、復活のように人間の常識でははかり知ることのできないものを否定していました。今日の教会でも、世の人には受け入れがたい教えを切り捨て、人々に受け入れやすいキリスト教で終わってしまっています。神はあなたを愛していると語れても、あなたは罪人であると語れない。神がこの世界を造られたと語れても、神はやがてこの世界をさばくために来られると語れない。だとしたら、私たちはもう一度、今日の聖書箇所をもう一度見つめるべきでしょう。そこには、今日の教会をとりまく閉塞感を打ち破る道が隠されているように思います。
サドカイ人たちは、旧約聖書のうち、いわゆるモーセ五書しか聖書として認めない、という人々でした。モーセ五書とは、旧約聖書39巻のうち、モーセが著者であると信じられている創世記から申命記までを言います。サドカイ人たちは、復活についてはモーセ五書の中では語られていないと主張して、復活を否定していました。しかしイエス・キリストはそのモーセ五書の中からこう語られました。37節をお読みします。「モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」と。
地上の命は朽ち果てても、神を信じる者は永遠に生きる。その確かな約束が出エジプト記にはっきりと書かれている。なのにどうしてあなたがたは復活を信じないのか。これを読み、心に刻みつける者に確実に命を与えてくれる聖書をどうして知ろうとしないのか。それは、今実際に聖書を膝の上にのせて開いているひとり一人に対する警告であり、また励ましでもあります。
神の力は、私たちの常識を越えたところに働きます。私たちが生きている世界は、目に見える世界です。世の人々は、その目に見える世界の中でうごめきます。しかしもし私たちにとって目に見える世界がすべてであるとしたら、そこには絶望しかありません。死んだら終わり、それだけです。目に見える世界に、どれだけ愛があり、豊かさがあり、楽しみがあったとしても、死んだらすべてが終わりだとしたら、愛も、豊かさも、楽しみも、つまるところ麻薬のようなものでしかない。人は永遠の死の恐怖から逃れるために、つかの間の愛や豊かさや楽しみにふけるのです。しかしイエス様は、この見える世界がすべてでないということを次のように語られています。34節からしばらくお読みします。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」
サドカイ人は、目に見えるものしか信じようとしませんでした。だから、復活がもしあるとしたら、その女はだれの妻なのでしょうか、とあくまでもこの世の常識に基づいて考えようとします。しかしキリストの答え、「めとることも、とつぐこともなく、御使いたちのようである」。これは彼らの知らない世界でした。この世で、男女がひとつになる結婚ほど、晴れがましく祝福に満ちたひとときはないでしょう。しかし、その結婚すら、目に見えない本当の世界においては、かすんでしまいます。私たちは結婚生活の中で、愛する喜び、愛される喜び、赦す喜び、赦される喜び、育てる喜び、育てられる喜び、ありとあらゆる喜びを経験します。しかし神が用意されている永遠の御国においては、地上の喜びをはるかに越える喜びが待ち受けているのだと、イエスは約束しています。信仰とは、まさにこの目に見えないが、確かに私たち信じる者を待ち受けている永遠の希望を確信させるものです。私たちは、この地上では、力なき者たちです。しかしじつは、神の力を確かに持っているのです。私たちはすでに死のからだではなく、いのちのからだを持っています。滅びに向かってではなく、いのちに向かって歩んでいます。罪の奴隷ではなく、永遠に王なのです。その事実は、この世を見つめるだけの曇った目には映りません。しかし聖書はこう約束しています。信仰によって、私たちは見えないものに目を注ぐことができる、と。
キリストを救い主として信じた人たちよ、あなたはその神の力が自分に与えられていることを信じますか。自分がもう死のからだではなく、いのちに移っていることを信じますか。聖書を高く掲げ、この一つ一つのみことばのうちから、神の力があふれ出ていることを信じましょう。このみことばの中に、目に見える世界を変えることのできる、目に見えない世界が開かれていることを信じましょう。イエス・キリストが十字架に向かって進まれていった理由、それはこの目に見えない、いのちの光に輝く世界へと私たちを招き入れるためでした。どうかひとり一人が、イエス・キリストの十字架を仰ぎ、救い主として信じることができるように。
2024.2.25「あなた自身が神のもの」(ルカ20:20-26)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章20-26節
20さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった。21彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。22ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」23イエスは彼らの悪巧みを見抜いて言われた。24「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。25すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」26彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。四旬節の第二週に入りました。以前にもお話ししたように、四旬節というのは40日、つまり6週間ありまして、最後の6週目が受難週、そしてその翌週がイースターとなっています。ただアドベントですとキャンドルに毎週一本ずつ火をともしていったりしてわかりやすいのですが、四旬節の場合は、そういうものがありません。先に私は今年はイエス様の最後の一週間を六週かけて追いかけましょうと宣言しました。しかし実際に説教の準備をして思ったのですが、十字架の直前、最後の晩餐の時まで、イエス様はずっとパリサイ人とかサドカイ人とか律法学者とか、そういう人たちと論争ばかりしていて、今日の聖書箇所も、ローマ皇帝に税を収めるのは是か非かという、およそ十字架とは無関係に思えるやりとりをしております。今週は税金の話、来週は結婚の話、再来週はダビデの子という話、と、どうも私が考えていたような、十字架への決意を少しずつ高めていくような感じにはならないかもしれないと早くも不安になっています。しかし考えてみると、もし私たちが自分の人生があと一週間で終わるとわかっていた場合、何を優先するでしょうか。私たちであれば、家族と心置きなく話すとか、行ってみたかった場所に行ってみるとかかもしれませんが、イエス様の最後の一週間は、ひたすら神のことばを語るということばかりでした。じつは私たちにとっても本来そうであるはずです。つまり、私たちにとって地上での死というのは終わりではない。そこから本当の人生が始まるという、永遠の命に対する信仰を持っているのがクリスチャンです。もし明日自分の命が終わるとしても、それは地上での第一部が終わるだけで、しばしの休憩の後、第二部が始まるということではないでしょうか。だとしたら、イエス様の最後の一週間が特別なものではなく、それまでの繰り返しのようなものであったことも不思議ではないかもしれません。
さて、前置きが長くなりましたが、四旬節第二週の説教では、まず義人を装った回し者がイエス様のもとに遣わされてきた、というところから始まります。おそらくいかにも謙遜で信仰的な人々を装っていたのでしょう。イエス様以外の人たちには、さぞ善良な人々に見えていたことでしょう。顔には柔和な笑みを浮かべ、イエスに対する尊敬の思いを言葉の節々ににじませて、・・・・しかし、彼らはなめらかな蜜のようなその言葉の背後に、イエス・キリストに飛びかかるための鋭い牙と爪を隠し持っていました。彼らは表向きは律法、すなわち神のことばに忠実な者を装いつつ、こうイエスに質問するのです。「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」。
カエサルとは、当時イスラエルを支配していたローマの最高権力者、ローマ皇帝を指します。ローマ皇帝、すなわちローマ政府に税金を納めることは、神のことばに照らしてよいことなのか、悪いことなのか、と彼らは聞いてきました。じつはこの質問は、どちらに答えても罠になる、たいへんいやらしいものでした。もしイエス様が、税金を納めることはよい、と言えば、ローマに対して反感を持っている多くの民衆を敵に回すことになります。しかし逆に税金を納めるべきではない、と言えば、今度はイエスをローマ帝国に対する反逆者として訴える口実になりました。
私たちは、ここまで露骨な言葉狩りのようなことは経験することはないでしょう。しかし実際の信仰生活や人間関係の中で、あなたはどちらをとるのかという選択を迫られることはしばしば起こることです。しかしイエス・キリストの姿はいつ、いかなる場合でも、私たちクリスチャンの模範です。主はこう言われました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。
カエサルのもの、それはカエサルの像と銘が刻まれたデナリ銀貨のことでした。それをカエサルに返しなさい、とはどういうことか。文字通り、納税の義務を果たしなさい、ということです。しかしここでイエスはさらに「神のものは神に返しなさい」とも言われました。間違えないでいただきたいのは、ここでカエサルと神は、天秤のようにお互いに対立しているものではないということです。地上の絶対的権力者であるカエサルも、ほかのあらゆる人間と同じように、神の絶対的権威に服するものでしかありません。私たちはこの地上に、日本人として生きています。日本の国籍を持つ、日本国民である以上、納税の義務、教育の義務といった憲法に規定されているものを果たします。しかしそれをいやいやながら行うのではなく、喜んで自分がすべきことを果たすとき、それは神のものを神に返すことになるのです。
もう少し説明が必要でしょう。社会では勤め人として働く、家庭では家事や教育に責任を持つ、その他たくさん、私たちはやるべきことを持っています。それはいわば、カエサルのものはカエサルに、とあるように、この地上で生かされている中で、私たちが行わなければならないことです。しかし自分のために、家族のために、国のために、ということ以上に、私たちはそれらをすべて含めて、神のために、という視点の中で、喜んで行っていくときに、それは義務感や強制意識を生むものではなく、喜びと感謝を生み出すものになります。イエス様は「神のものを神に返しなさい」と言われました。「神のもの」、それはほかならぬ私たち自身のことです。カエサルの肖像が刻まれた銀貨がカイザルのものであるように、神のかたちとして造られた私たちひとり一人は神のものである。そして私たち自身を、神のもとに返しなさいとは、私たちが本来あるべき場所、いるべき場所に私たちを戻しなさいということです。
本来あるべき場所とは、罪人ではなく、神の子どもとして親しい交わりを持っていたもともとの人の姿ということです。それを取り戻すために、イエスは十字架へ向かっていたのです。神から離れ、神に逆らい、罪を犯し続けるすべての人間が、ふたたび神のものとなるために、イエスは十字架へ向かっていった。私たちの罪をすべてその身に引き受け、罪人として殺されることにより、生まれながらの罪人である私たちを救い出す。それが十字架です。
カエサルのものはカエサルに。それは、この世が与えてくれるものは、最後はすべてこの世に返すことになる、ということも表しています。この世が与えてくれるものは、それが豊かな富であれ、歴史に残る名声であれ、人間関係であれ、私たちはやがてすべてを置いていかなければなりません。しかしイエス様は、神のものは神に、と言われました。財産や人の評価、、栄光、地上限定の祝福より遙かに勝る、永遠の祝福が、十字架の先にあります。今日、それをもう一度受け取りましょう。私自身を、神のものとして告白することによって。心の中にイエス・キリストを受け入れるのです。そのとき、決して朽ち果てることも、取り去られることもない、永遠の救いの喜びが与えられます。
2024.2.18「扉を開くのはあなた」(ルカ19:9-19)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
「迷わず足切断 がんと戦った高校生」というヤフーの記事(元記事は「あなたの静岡新聞」)が目にとまりました。
この高校生、寺田歩生(あゆみ)さんが戦った『がん』は、約40年前に私がかかったのと同じ、若年性骨肉腫です。私の場合もある意味「迷わず足切断」でしたが、手術直後にすごく後悔しました。
※そのときの証しは、ブログ右側の「ブログ内検索」で「骨肉腫」とサーチすると、いくつか出てきます
私の場合は、命を生かすための切断でしたが、歩生さんの場合は痛みを和らげるためのものだったとのことです。そして彼女は勇敢に病魔と闘い続けた末、わずか18歳で亡くなりました。しかしその人生は決して無駄ではなく、残された人々も、これから生まれてくる者たちにも、生きる力を与える記録となるでしょう。
「あなたの静岡新聞」では発病以来の歩生さんの人生をシリーズで特集しています。中学生の体育祭の前後に痛みを感じたこと、両親は最初「成長痛」だと思ったこと、切断の前に人工関節を入れていたことなど、私と同じで、他人事とは思えませんでした。
私は左膝の骨を、当時新素材とうたわれていたニューセラミックで作った人工骨と入れ替えて、新しく転校した中学(山の下中学校)に数ヶ月だけ通いました。しかしある朝、まったく体が動かなくなり、大学病院に救急車で運ばれました。主治医が私の左足に注射針を差し込んだところ、まるでラードのような黄色い膿(うみ)が大量に注射器に流れ込んできたことをおぼえています。体がセラミックを受け入れず、内部で化膿し切っていたのです。それ以来、一度も学校には行けませんでしたが、校長先生が病室に来てくださって、私のためだけに卒業証書を読み上げてくださいました。お名前も覚えていないのですが、心から感謝しております。(そのときは生きることに精一杯で、とても感謝どころではありませんでしたが)
あれから40年が経ちましたが、骨肉腫は初診時に転移がない状態で四肢に発見された場合でも、5年生存率は70%程度とのことです。逆に言えば、発見が早くても3割の人は5年以上生きられない、恐ろしい病気であることは今も変わらないということです。自分がいまこうして生きていることも決して当然ではなく、一日一日が恵みであるということはこの病気にならなければわからなかったかもしれません。どうぞ歩生さんの記事を読んでほしいと思います。そして彼女の人生が一人でも多くの方に記憶されますように。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
「迷わず足切断 がんと戦った高校生」というヤフーの記事(元記事は「あなたの静岡新聞」)が目にとまりました。
この高校生、寺田歩生(あゆみ)さんが戦った『がん』は、約40年前に私がかかったのと同じ、若年性骨肉腫です。私の場合もある意味「迷わず足切断」でしたが、手術直後にすごく後悔しました。
※そのときの証しは、ブログ右側の「ブログ内検索」で「骨肉腫」とサーチすると、いくつか出てきます
私の場合は、命を生かすための切断でしたが、歩生さんの場合は痛みを和らげるためのものだったとのことです。そして彼女は勇敢に病魔と闘い続けた末、わずか18歳で亡くなりました。しかしその人生は決して無駄ではなく、残された人々も、これから生まれてくる者たちにも、生きる力を与える記録となるでしょう。
「あなたの静岡新聞」では発病以来の歩生さんの人生をシリーズで特集しています。中学生の体育祭の前後に痛みを感じたこと、両親は最初「成長痛」だと思ったこと、切断の前に人工関節を入れていたことなど、私と同じで、他人事とは思えませんでした。
私は左膝の骨を、当時新素材とうたわれていたニューセラミックで作った人工骨と入れ替えて、新しく転校した中学(山の下中学校)に数ヶ月だけ通いました。しかしある朝、まったく体が動かなくなり、大学病院に救急車で運ばれました。主治医が私の左足に注射針を差し込んだところ、まるでラードのような黄色い膿(うみ)が大量に注射器に流れ込んできたことをおぼえています。体がセラミックを受け入れず、内部で化膿し切っていたのです。それ以来、一度も学校には行けませんでしたが、校長先生が病室に来てくださって、私のためだけに卒業証書を読み上げてくださいました。お名前も覚えていないのですが、心から感謝しております。(そのときは生きることに精一杯で、とても感謝どころではありませんでしたが)
あれから40年が経ちましたが、骨肉腫は初診時に転移がない状態で四肢に発見された場合でも、5年生存率は70%程度とのことです。逆に言えば、発見が早くても3割の人は5年以上生きられない、恐ろしい病気であることは今も変わらないということです。自分がいまこうして生きていることも決して当然ではなく、一日一日が恵みであるということはこの病気にならなければわからなかったかもしれません。どうぞ歩生さんの記事を読んでほしいと思います。そして彼女の人生が一人でも多くの方に記憶されますように。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章9-19節
9また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。10収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。11そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。12彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。13ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』14ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。15そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。16主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。18だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」19律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。教会総会が近づいていますが、総会の中でたびたび牧師に質問されることがあって、「先生、健康診断は受けましたか」。教会の予算でちゃんと予算化しているのに、毎年実績がゼロになっていますので、ああ今年も先生受けなかったのね、と。そこで今年は一念発起して、先日、人間ドックに行って徹底的に調べてきました。もっとも教会の会計年度は12月で閉めるので、結局今回の総会資料でも実績ゼロになっているのですが。
新潟市の町中にある、比較的大きなセンターで一日人間ドックを受けてきたのですが、生まれて初めて、肺活量の検査をしました。マウスピースのようなものを口にくわえて、限界まで吸って吸って、吐いて吐いてという感じの検査なのですが、私はこういう人前で話す仕事をしていますので、声の大きさ、つまり肺活量には自信があったのです。ところが基準に足りないとその場で言われてしまいました。ただ担当の方が、「初めての検査だからコツがわからなかったんでしょう、もう一回やってみますか」と言ってくださったので、もう一回やり方をよく聞いて、やってみたら、基準以上を満たしてクリアとなりました。「がんばりましたね」なんて言われてうれしいより恥ずかしかったのですが、この経験を通して考えたことがありました。私たちはもともと十分な力を持っているのに、その使い方がよくわからないために、うまくできていないということがあるのではないか、と。信仰生活においても、聖書はよく知っている、しかしそれが、心の中の深みにまで届くことなく、現実の生活を変えていく力となっていない、それは自分も含めて、そういうことがあるのではないかと思いました。しかし神さまは私たちが本来の力を発揮できていないことを残念に思われているかもしれません。十分な恵みと力を与えられているのに、そのことに気づいていない、ということに。
そして祭司長や律法学者たちに対しても、じつは神さまのあわれみは向けられていたのではないかと思うのです。ご存じのように、これらの宗教指導者たちはイエスを批判、攻撃し、最後には十字架につけてしまいました。しかしイエス様自身は、彼らを敵として見ていたというよりも、彼らもまた救われるべき者、本来彼らに与えられていた恵みを取り戻すべき者として見ておられたのではないでしょうか。イエス様がもし彼らを敵と見ていたとすれば、彼らがわかるようにたとえ話を語るということはなかったでしょう。しかしイエス様にとって、彼らは神が収穫を期待して耕したぶどう園と、その管理を任せた農夫たちでした。権威にこだわるあまりに、彼らはイエスを殺すことしか見えていません。しかしイエス様は、彼らがそのような間違った道に気づき、悔い改めに至るように、みことばを語り続けたのです。ですから私たちもまた、世の人々にみことばを語り続けることをあきらめてはならないし、そのために自分自身もみことばに聞き続けることをやめてはならないのでしょう。そのような思いを持ちながら、今日の聖書箇所を読んでいきたいと思います。
このたとえ話に出てくる「ぶどう園」は、神の民イスラエルです。ぶどう園を造った「ある人」とは、イスラエルを神の民として選ばれた神、そしてよこしまな「農夫たち」は、長老、祭司長、律法学者・・・権威にしがみつくイスラエルの宗教指導者たちを指しています。農夫たちは、イスラエルを甘いぶどうとして養い育てるために、オーナーである神から「権威」を与えられました。しかし彼らは「権威」を「特権」と勘違いしました。民を支配し、搾取し、ぶどう園からは血のにおいと叫び声ばかりがあふれました。神は彼らに悔い改めを迫るため、イスラエルの指導者たちに向けてご自分のしもべである預言者たちを数え切れないほど遣わしました。次こそは、あの農夫たちが、悔い改めへの招きに耳を傾けてくれるだろうと信じて。そしてついには、神のひとり子であるイエス・キリストをぶどう園に送ってくださいました。しかし農夫たちはイエス様をぶどう園の外に放り出して、殺してしまったのです。これはゴルゴタの丘でイエス様が十字架にかけられて殺されることを意味します。
しかし神に感謝しましょう。今日のこのたとえ話ほど、私たちに対する神の愛と忍耐をはっきりと伝えてくれるものはありません。殺意に目を血走らせた農夫たちの姿は、誰でしょうか。それは当時の祭司長たちの姿であると同時に、今日生きている人々の姿です。ノンクリスチャンだけではありません。ときどき私たちクリスチャンも、神さまの前に心をかたくなにしてしまうこともあります。そんなとき、どんなに聖書を読んでも心に入ってこないと感じることもあるでしょう。しかしそのような無味乾燥さを感じるということ自体が、恵みかもしれません。そこには、気づきがあるからです。気づきのない人は、無味乾燥さを感じることもありません。しかしもし私たちが、聖書を開いているのに、それでもなおそれが自分の心に届いてこないような感覚があるとすれば、それは間違いなく神があなたに向けてみことばを語り続けている証です。それが心の中に届くようにするために必要なことは、私が自分の心のドアを内側から開けることです。権威や実績、人の評価、あらゆるもので私の心が分厚い壁や鎧で覆われてしまったとき、それを崩すのは外からではなく、内側からでなければなりません。じつは祭司長や律法学者たちが、このたとえ話が自分たちのことを指しているのに気づいた、というのは彼らにも変わるチャンスが与えられていた、ということです。しかしそのチャンスを生かさなければ、何も変わりません。
今週の週報の表紙には、イエス様が私たちの心のドアを叩いている絵を何枚か載せてみました。別々の作者によって書かれたものですが、ある共通点があることに気づくかと思います。
そうです、どの扉にも取っ手がありません。扉は内側からしか開けられないのです。今、イエス・キリストはツタと茨で覆われた扉、鉄よりも硬く、岩盤よりも分厚いかさぶたに覆われた私たちの心の扉の前に立たれ、ノックしています。あなたが内側から扉を開くならば、イエスは必ずあなたの心に入ってきてくださいます。神の恵みと忍耐は、いまもひとり一人に向けられています。心から感謝をもって、歩んでいきましょう。
2024.2.11「心の鎧を脱ぎ捨てて」(ルカ20:1-8)
みなさん、こんばんは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
1月1日の能登半島地震で被災されたすべての方々に、主の慰めと助けがありますようお祈りいたします。
聖書箇所 『ルカの福音書』20章1-8節
1ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て、2イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」3イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」5すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。6だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」7そこで、「どこから来たのか知りません」と答えた。8するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」2017 新日本聖書刊行会
教会の暦では、今週をもって降誕節が終わり、来週から四旬節が始まります。四旬というのは40日という意味ですが、聖書では40という数字は、苦しみを表す象徴にもなっています。40日は約7週間ですが、四旬節の第一週から第六週まではイエスが十字架にかかるまでの足取りを学び、7週目にちょうどイースター、復活を語るというのが伝統的に教会で行われてきた説教のスケジュールであります。今日はまだ四旬節ではないのですが、これからイースターまでの約二ヶ月間のあいだ、イエス・キリストが十字架にかかられるまでの最後の一週間の歩みから、メッセージをしていきたいと考えています。
今日の聖書箇所は、最後の一週間のはじめの日、イエスが神殿で人々を教えていたときの出来事です。祭司長、律法学者、長老たちといった、いわゆるエライ人たちがイエスに文句をつけにやってきました。彼らの言い分はこうです。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」。この翻訳では「教えてくれませんか」とソフトに訳していますが、直訳すると「言え」です。じつはこの前の日、神殿を訪れたイエスは、商売人たちがいけにえにする動物たちを売り買いしている姿を見て憤り、神殿から彼らを追い出すということをしました。「宮きよめ」と呼ばれる、有名な出来事です。祭司や長老たちは、商売人たちの売上の一部を受け取ることで自分たちも利益を得ていました。しかしそれはいわゆるわいろですから、表に出せません。そこで彼らはイエスに対して「権威」ということを言って非難したわけです。我々こそ、聖書を正しく語り、民を指導する権威を持っているのだ。おまえはいったい誰の権威を用いて、人々を教えているのか、と。
聖書の中に、「権威」という言葉は、旧約新約合わせて85回出てきます。それを全部調べたわけではありませんが、だいたいの場合、「権威」というのはだれかから与えられるものとして使われています。神から人に権威が与えられる場合もありますし、隊長から一兵士に与えられる場合もあります。いずれにしても、「権威」という言葉は自分から生まれるものではなく、自分よりも優れた存在から与えられるものです。つまり、権威という言葉は本来、人を高慢にするものではなく、人をへりくだらせるものであるはずです。人が自分に権威が与えられていると自覚するとき、それは自分は小さな者にすぎないが、この権威が与えられているとへりくだってその使命に生きていく、それが権威です。しかし祭司長や律法学者たちにとっては、「権威」とは、自分たちこそがイスラエルの宗教的権威であり、その権威をおびやかそうとするイエスは、ここから追い出されなければならない存在だ、というものでした。そして今日、考えてほしいことは、私たちは彼らのように権威を笠に着るものであってはならないということです。
じつは私たちが生きている生活の中には、そこかしこに「権威」がつきまとっています。夫婦の間では夫の権威。親子の間では親の権威。会社では上司の権威。学校では教師の権威。政治では議員の権威。そして教会では、牧師の権威。どんな権威も、もともとは神から発しているものですから、悪いものではありません。しかし私たち人間は弱いものですから、人に仕えるために与えられた権威をいつのまにか勘違いして、他人を支配するために権威を利用するようになるのです。
自分を守るために「権威」が叫ばれるようになると、その組織が病んでいることが明らかになります。会社で上司の権威が、学校で教師の権威が、教会で牧師の権威が、声高に叫ばれるとき、そこでは「権威」という言葉を持ち出さなければ人々がついてこないという病にかかっているからです。イスラエルという神の国は、まさに末期的状況にありました。その末期に神から差しのばされた最後の預言者が、バプテスマのヨハネだったのです。ヨハネはすべての者に叫びました。「悔い改めなさい、神の国が近づいたから」。ヨハネは幼子にも悔い改めを迫りました。長老にも、祭司長にも、律法学者にも、悔い改めを迫りました。人生経験、社会的立場、関わりなく、すべてのイスラエル人に悔い改めを迫りました。「斧はもう木の根元に置かれている。だから良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれるであろう」と。
しかし祭司長や律法学者は、その悔い改めへの呼びかけを、自分たちに対する攻撃であると考えました。我々には宗教指導者としての権威がある。決して悔い改めを必要としているような者ではない。心の中でそう言い張った彼らは、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられたとき、それが明らかに無実の罪であったのに、彼を見殺しにしました。イエス・キリストは、ここでもう一度、彼らの心に問いかけたのです。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか。それとも人から出たのですか。」しかし彼らはまたしても、自分自身の立場を守ることを考えました。神から出たと言えば批判される、人から出たと言えば民衆から攻撃される。彼らはひそひそと話し合い、出した答えは「知りません」でした。そういう人たちに、イエス様も言われました。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、言いません」と。
親の権威、上司の権威、教師の権威、世の中には権威という言葉であふれています。それらの権威は、もともとはこの世界の創造主である、まことの神から与えられたものです。しかし神は、権威よりももっと大きなものを私たちに与えようとしておられます。それは、イエス・キリストを信じる者に与えられる、永遠のいのちです。この永遠のいのちを受け取るためには、自分自身の心を裸にしなければなりません。権威が剥ぎ取られることを恐れて、イエスの言葉に正面から答えようとしなかった祭司長や律法学者に対して、イエスはいっさい答えようとしませんでした。
私たちは、まず自分の心を覆っている鎧を外さなければなりません。私たち一人一人は、確かに神の子どもとして愛され、救われている者たちです。しかし自分の中に、己を守ろうとする見えない鎧があって、神との関係が薄っぺらいものになっていないかどうかを点検しましょう。どんなにエライ肩書も、やり遂げてきた実績も、自分自身を誇るためであればむなしいものです。神が私たちに与えてくださった権威とは、自分を誇るためではなく、誰かの幸せのために生きるためのものです。そして私たちは、イエスがどんなときも人々のために命を使っておられたことを知っています。このイエスが私の中に生きておられることを感謝して、歩んでいきましょう。