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2019.4.14「パラダイスはどこにある」(ルカ23:32-49)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝では、役員就任式・CS教師任命式・子ども進級式(祝福式)を行いました。礼拝後は恒例の記念撮影です。
DSC01232.JPG
こういうのって、目線入れたりとかモザイクかけるべきなんでしょうか。ちょっとわかりません。
外部から来ている子どもは含まれていないので、いいのかわるいのか。
一脚だけ誰も座っていない椅子が気になりますが、人によってはイエス様が見えるかもしれません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32−49節



序.
 遠藤周作の『沈黙』という小説を原作として作られた「サイレンス」という映画の中に、印象深い場面が登場します。
主人公である外国人司祭が、幕府の役人に捕らえられて、みずぼらしい牢屋のようなところに入れられてしまいます。
するとすでにそこにはやはり同じように捕らえられた日本人の信徒たちがいました。そしてその中のひとりが主人公にこう尋ねてくるのです。
「司祭様、私たちが殉教したあとに行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」
「パライソ」とは、「天国」を意味するポルトガル語です。
そしてこの言葉は、新約聖書に三回だけ出てくる、「パラダイス」というギリシャ語から派生した言葉です。
「パライソは素晴らしいところなのですよね?」と聞かれたとき、この外国人司祭は、しばし何と答えて良いかわからず、沈黙します。
なぜ彼はしばらく言葉が出なかったのか。それは、彼らはパラダイスを死んだ後に行くところとは教えていなかったからです。
パラダイスは、信じた者にすぐに起こる新しい生き方です。死んだ後ではなく、信じたときに生まれる、新しいいのちそのものです。
しかし日本人の信者たちはパラダイスを浄土真宗で言う「極楽」と混同して受け止めていました。
遠藤周作がこのやりとりの中に含めたメッセージは、たいへん辛辣なものであると言えるでしょう。
いまも日本のクリスチャンは、彼らと変わらないのではないか。パラダイスを死んだ後に行く世界と考えているのではないか。
むしろ信じたときに確かに起こる、人が内側から変えられる奇跡そのもの、それが「きょう、パラダイスにいます」という言葉のまことの意味です。


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2019.4.7「見よ、善きかな、楽しきかな」(詩133、134篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』133、134篇



1.
 「あなたにとって、日曜日にはどうしても欠かせないものは何ですか」と聞かれたら、当然ここにおられる方々は「礼拝」と答えるでしょう。
しかし巷では、サザエさんと答える方も多いようです。あるいは平成生まれの世代は「ちびまる子ちゃん」と答えるのでしょうか。
「サザエさん症候群」という、ストレス症候群があるそうです。
日曜日にサザエさんを見終わると、心の中にむなしい風が吹き、ああ、日曜日終わっちゃう、明日から学校かあ、会社かあ、いやだなあ。
そう考えずにはいられないというもの。ドキッとした方もいるのではないでしょうか。
月曜日のことを考えると憂鬱でたまらない現実の人々に比べると、サザエさんの登場人物は気楽でいいよなあ、と思いませんか。
しかしサザエさんを長年にわたって研究している、あるグループによれば、むしろ彼らの方がよほど大変だ、というのです。
この研究グループは、サザエさんの原作本に出てくるすべての会話を調べて、登場人物の年齢を割り出しました。
それによると、一家の大黒柱である波平さんは54歳、お母さんのフネは48歳だそうです。ところが長男のカツオは、まだ小学生。
60歳定年の頃に書かれたサザエさんにおいて、波平さんは子どもを大学に行かせるために、
定年になってもまだまだ仕事を探し続けなければならない、厳しい老後が待っているのだということです。
彼らの生活レベルの鍵を握っているのは、同居するフグ田家の存在。彼らがどれくらい援助してくれるかという、生々しい話が続きます。
 それでも、家族がみな同じ家で生活している、サザエさん、あるいは、ちびまる子ちゃんの世界に、私たちは惹かれます。
家族全員が、同じテーブルに座り、同じ食事をつついている、何気ないけれども今となっては貴重な姿がそこには現れます。
来年、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックが開かれます。前のオリンピックの時、東京にやってきた外国人記者たちは、
わずか20坪ばかりの、同じような形の家がずらっと並んでいる、長屋のような日本の住宅街を見て、ウサギ小屋と揶揄しました。
しかしどんなにささやかであっても、人々が自分の家を持とうとした理由、それは家族団らんこそが人生のしあわせだと信じていたからです。
それから半世紀、日本人のライフスタイルは変わりました。家族のすべての世代が、一緒に暮らし、一緒に食事をする家庭は少数派です。
しかしたとえ平成生まれの若い人でも、サザエさんやちびまる子ちゃんのような家族団らんの風景を知っている人がほとんどです。
だから家族がひとつに集まることは、いまの時代では困難なことはあっても、本来は普通のことなのだという感覚は、日本人に共通しています。
しかし、この詩篇の背景である、イスラエルにおいては、家族が共に集まるということは普通どころか、奇跡そのものだったのです。

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posted by 近 at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.31「主を待ち望む」(詩130、131篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』130、131篇


1.
 星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
若い頃、小学校の教師でしたが、不慮の事故により首から下の自由を失いました。人生に絶望し、何度も死を考えたそうです。
しかし数年間の苦しみの果てに、イエス・キリストを信じた富弘さんは、口に絵筆をくわえて花の姿を描くようになりました。
富弘さんが1981年に出した、はじめての詩画集のタイトルが、今日の聖書のみことばにもある、「愛、深き淵より」というものです。
その本のまえがきで、富弘さんがこう書いています。
「今、もう一度振り返ってみると、深き淵には、澄んだ美しい水が湧き出ていたような気がします。この本は新しい私の出発点です。」
聖書の中には、「深き淵」という言葉が繰り返し出てきます。そのほとんどが、神との断絶を表す、絶望を指しています。
富弘さんもまた、この詩人と同じように、深い淵から神を呼び求めました。
その中で、神が叫びに耳を傾けてくださる愛の方であることに気づかされたのです。
130篇の1節、そして2節をもう一度お読みします。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
この深い淵の中に満たされている水の黒さは、じつのところ、自分自身の心の中にある闇の色です。
苦しみの中で、私たちは自分自身の本当の心と出会い、そこにうごめいている、自分自身の罪と向き合うことになります。
しかしその経験があって、はじめて、神の愛がいかに底のないもので、私たちの想像を超えているほどのものだということに気づくのです。
3節をお読みします。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と。
「不義」とは「罪」と言い換えることができます。ある人は、自分にも罪はあるかもしれないが、あの人に比べたら少ない、と言うでしょう。
自分はまったく罪を犯したことがない、と言い張る人さえいるかもしれません。
しかし聖書は、私たちは生まれながらに罪人である、と言います。ただ自分では気づかず、見えないだけなのです。
罪は、私たちが考えている以上に、心の中にうごめいています。
そして罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.24「主を恐れる者の幸い」(詩128:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教団から「異端警戒情報」ということで、某団体の集会チラシが送られてきました。(著作権の問題から、当初掲示していた画像を削除しました)
主催者は、韓国の異端である救援派(クウォンパ)の一派、喜びのニュース宣教会に属します。
ウィキペディアからそのまま引用ですが、以下のリンク先にて、その異端性が警告されています。
韓国新興異端がイベントに勧誘:クリスチャン新聞(2012.4.11)
韓国異端リーダーの大会案内に注意!:クリスチャン新聞(2013.9.11)
新興宗教の最高指導者だった韓国沈没船の実質的オーナー:やや日刊カルト新聞(2014.5.2)
韓国異端グループの勧誘活発化 集会案内に注意喚起!:クリスチャン新聞(2018.9.1)

開催地に新潟は含まれていませんが、また別の異端については新潟市内でも報告が入っております。
聖書的かそうでないか自己吟味できるようにするために、礼拝説教や聖書の学びが必要なのですが、
「本当のクリスチャン」という甘言につられて、成長に至るまでに絡め取られてしまう例も多くあります。
豊栄キリスト教会は正統的プロテスタント教会ですから安心ですよと言いたいところですが、
福音派もまた、時代の流れの中で急成長した群のひとつ。看板だけに頼っていたらいずれ堕落します。
あれ、また辛口だぞ。とりあえず、ウチが正統か異端かどうかは、ここに集めた三百あまりの説教から判断してください。
ちょっとアヤシイのもいくつか含まれていますけどね。それを探すのもまた一興。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』128篇1-6節 


1.
 以前、敬和学園のある先生が、「敬和学園は木を育てるように人を育てる」というタイトルで、次のように話されていました。
「人間にとって、生まれてから最初の5年間、どのように愛され受け入れるかということがたいへん重要である。
そしてその5年間は、「○○学校」ではなく、たとえば『乳児園』『保育園』『幼稚園』と、「園」という名前がついている。
それは、まさに木や草が園丁によって手塩にかけられて育っていくように、
人も人生の中で最も大事な時代、親を含めてまわりの大人たちから丹念に育てられ、養われていくことを意味しているのではないか。
敬和学園という名前の中に「園」が入っているのは、まさにここに導かれた子どもたちを私たちが丹念に育てるという教育者の決意である。
その意味で、敬和学園は、木を育てるように人を育てる。」

 この詩篇128篇は、神に祝福された人生を伝えています。その中では妻がぶどうの木に、子どもたちがオリーブの木にたとえられています。
どこか、先ほどの話と通じるものを感じませんか。神に祝福された生活とは何でしょうか。その中心にあるのは、家庭です。
じつは、家庭という言葉は日本だけのものです。英語のhomeやfamilyに、庭という意味の言葉は本来含まれていません。
home、あるいはfamilyを家庭と訳した最初の日本人は、もしかしたら聖書を読んでいた人だったのかもしれません。
日本語にも、家族を庭にたとえる考え方はなかったからです。しかし聖書には、家族を木々にたとえているところが多くあります。
いま、家族そして家庭が、その本来の意味を見失いかけています。
最近、「教会が子どもたちの居場所になるべきだ」という論調をよく聞きます。しかし彼らの本来の居場所は、家庭でなければなりません。
教会は、子どもたちにとって家庭が居場所として回復するためのお手伝いをするところです。
子どもたちだけでなく、親にとっても、祖父母にとってもそうでしょう。聖書は、家庭こそが祝福された人生の基であると教えています。

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posted by 近 at 17:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.17「主(しゅ)か主(あるじ)か」(詩127:1-5)

 こんばんは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週、わが同盟教団の第70回総会が東京・両国にある国際ファッションセンター(KFC)で開催されました。ケン○ッキーじゃないです。
私は、昨年をもって宣教区長から退きましたので不参加ですが、会場の名前からするとこんな感じでしょうか。
tiff-1003-01.jpg むう、楽しそう。さすが70回目の節目だけあるわ。

 冗談はさておき、今回の教団総会で個人的に気になっていたのは、第6号議案「教師試験規定変更の件」。
細かい文言はさておき、変更理由は「教会奉仕に差し障るほどの負担を軽減し、実践的なものとし、より適正な人物評価をすることを目指して、教師試験規定を変更する」とのこと。
教会奉仕に差し障るほどの負担」って、そんなことを訴えていた受験生がいたんでしょうか。福音派も優しくなりましたね。
「より適正な人物評価」のための変更点も、神学校で一緒に寮生活を二年以上過ごした人に推薦書を書いてもらう決まりの追加だそうです。
でも牧会の現場で?な人って、じつは独身寮よりは家族寮出身者に目立つというのが率直な感想です。
自分は社会で実績を挙げ、家族も養ってきた、それを捨てて献身したのだ、といつまでも自負していたら、教会員ともぶつかります。
社会人経験者にもコマッタ人はいるし、大卒からのストレート組でも、しっかりしている人はいるんですよ。牧師に限りませんが。
メールで送られてきた議事録によれば、この第6号議案も賛成多数で通過したようですが、改悪にならないか不安を感じます。 
備えの日なのに、ちょっと辛口ですね。教団批判ではなく、私自身への戒めとして受け止めてください。ね、理事長。ね、ね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』127篇1-5節 


序.
 昔、クリスチャンの方が家を新築するときに、工務店の社長さんにこの聖書のことばをお伝えしたら、妙に納得されたそうです。
社長さんいわく、「聖書というのはすごいね。あっしら家を建てる人間が、つねづね思っていたことをずばっと言っているんだから。
あるじが奥さんやお子さんの声ばかり聞いてふらふら間取りを変えちゃ、建つものも建たんのですよ。ご主人、いっしょにがんばりやしょう」
ただここで言われているのはあるじが家を建てるのではなく、主が家を建てる、ということです。主というのはいうまでもなく神さまのことです。
家を建てること、町を守ること、この二つのことが象徴しているのは、それぞれ家庭生活と社会生活と言えるでしょう。
人は、家庭で育まれ、社会に仕えます。朝、社会へと向かい、夕に家庭へと戻り、翌朝また社会へと向かっていきます。
この家と町という繰り返しを通して、私たちの人生は作り出されていきます。そして聖書は私たちにこう呼びかけるのです。
あなたの人生すべてにおいて、あなたは自分をあるじとするのではなく、神ご自身をあなたの主人として認めていますか。
生活の主導権を握っているのは人間ですか、神ですか。
 どんな人の心の中にも、その真ん中には心の王座というものがあります。
その王座に座っているのは、あなた自身ですか、それともイエス・キリストですか。
主を片隅に追いやって、自分があるじとして、ふんぞり返っているということはありませんか。
そんな問いかけを自分自身へのものとして発しているのが、今日のこのみことばです。一緒に、このみことばを味わっていきたいと願います。

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posted by 近 at 17:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.10「新しい日がはじまる」(ルカ5:27-39)

 こんばんは。豊栄キリスト教会の近 伸之です。
明日(日曜日まであと一時間!)、毎月うちの教会が行っている、地元のキリスト教系福祉施設への訪問を予定しています。
教会員に毎回プロジェクターを運んでもらって、ホワイトボードに映しながら、私がパワーポイントを使ってメッセージをします。
明日の内容はつい先ほど準備が終わったところです。16年前に夫婦で登別クマ牧場を訪れたときの経験を導入にしました。
日中、当時のアルバムをスキャンしていたら面白い写真がありましたので、アップしておきます。
PICT0139.JPG
タイトルは「祈り」。クマでさえお祈りするんだから、ゴハンの前にちゃんとお祈りしなさいよ!てな感じでどうでしょう、お母さん。
私が撮影したものなので著作権フリーですが、写真からのスキャンなので画質が悪いです。あとちょっと、目つきも悪いです。
Photoshopなどで美しく編集してくださる方、歓迎です。編集の許可はいりませんので、送ってください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章27-39節 


1.
 今日の聖書箇所の冒頭は、イエス様が「レビ」という取税人を弟子として招かれるところです。
取税人というのは、読んで字のごとく、税金の取り立てに従事していた者ですが、罪人、遊女と並べられて、世間から嫌われていました。
じつはこのレビは、私たちがよく知っている、「マタイの福音書」を書いたマタイその人です。
レビという名前はレビ部族に由来します。イスラエルの指導者モーセを先祖に持ち、唯一祭司の家系として認められたレビ族。
しかしその光栄な名前をつけられたレビ、いやマタイがやっていたことは、ローマ帝国の手先とみなされていた取税人。
親が見たら泣くぞ、というような仕事です。彼の中にある葛藤はどんなものだったでしょうか。
しかし彼の心の中にどんな葛藤があろうとも、イエスは彼を弟子として招くことをはじめから決めておられたのです。
私たちの救い、そして召しは、この世界が造られる前から、永遠の神のご計画の中に定められています。
その祝福を頂くために必要だったのは、それまでどんな人生を歩んでいたかは一切関係ありません。イエスの招きに、今従うかどうかです。
私たちがどんな自己嫌悪に陥っていたとしても、自分のようなものは救われるはずがない、と思いこんではなりません。
イエス・キリストの救いの御手は、確かに罪人に向かって差し伸ばされているのです。
 ローマの取税人は、もしこの職から一度離れたならば、決して再びこの職につくことはできないという決まりがありました。
私たちも、一度キリストを信じ、この方に従っていくと決断するならば、あとの道は最後まで神様が全うさせてくださいます。
レビは、イエスに出会ったことで新しい弟子としての道を歩み始めました。そして最後まで、キリストの弟子として生きていきました。
取税人としての半生は、後に彼がマタイの福音書を書くにあたって、その事務的な経験がすべて生かされました。
人生に無駄なことなどひとつもありません。問題は、そのひとつひとつを自分のために用いるか、神のために用いるかです。
イエス・キリストのまなざしが、このマタイに注がれたとき、彼の人生は新しく始まりました。私たちにもそれが用意されているのです。

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posted by 近 at 22:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.3「上を見よ、内を見よ」(ルカ5:17-26)

 「ライフ・ライン」という番組をご存じでしょうか。
現在、全国13地区で放送されていますが、その経費は地元の諸教会(協力会)の献金によって賄われています。
17年前に私が当教会に赴任したとき、新潟地区協力会の会計をしておられた先生が異動することになりました。
そして、同じ豊栄市にある教会だから引き継ぎがやりやすいという理由だけで、私が会計を引き継ぐことになりました。
それから約10年間、会計を担当しましたが、黒字で終わったのはたぶん一回くらい。
いつも赤字会計に胃がキリキリ痛みながら、ようやくY先生に引き継ぐことができました。それが6年前の話。
と思ったら今年Y先生が県外に異動することになり、またお鉢が回ってきました。約40万円の赤字と一緒に。
そんなわけで、どうやってこの赤字を解消していくか、知恵を絞っているところです。何も思い浮かびません。
正直言って、教会の問題だけで手いっぱいなのですが、しかしこういった超教派の奉仕もなおざりにはできません。
牧師という職業は、ややもすると「自教会病」に陥りやすいものです。
超教派の奉仕は、そんな私たちに神様が与えてくださっている処方箋なのかもしれません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章17-26節 


1.
 牧師になるために必要な学びをする学校を、神の学校と書いて「神学校」と言います。
必要な学びという割りには、神学校での学びは現場では役に立たない、と多くの牧師が口を揃えて言いますが、ま、それはいいとして、
私が卒業した神学校は、三年間の学びでしたが、大学卒業程度の学力が必要なので、社会人を数年経験している人が多いところでした。
で、先輩からこんな格言を頂きました。「神学生は一年目は後ろを見て、二年目は前を見て、三年目は下を見て、卒業間際に上を見る」。
どういうことかと言いますと、神学校に入って一年目、「これだったら会社勤めのほうがよかった」と後悔します。これ、後ろを見るの意。
これではいかんと、二年目は一念発起し、ひたすら前を見つめながら、学びと奉仕に励む。
しかし最高学年の三年目になると、こんなので現場に出てだいじょうぶなのかと意気消沈してしまい、下を見る。
赴任先もなかなか決まらず、焦ります。しかしそんなこんながあって、ようやく卒業間際、自分じゃない、神が導いてくださる、と上を見る。
 入学してすぐに上を見ること、つまり天を仰ぐことをおぼえればよいのかもしれません。それでこそ神を学んで生きる、まことの神学生でしょう。
しかし神様を学んで生きるとは、そんな簡単で安全な道ではありません。後ろを見て、前を見て、また下を見て、ようやく上に気づいて、
そこでようやく私たちは神のルールを知る。私たちとは神学生だけではなくて、神を求め、神を信じるすべての人のことを指します。

 この中風の人を担いできた男たち、おそらく友人であると思いますが、彼らとて、はじめから屋根の存在に気づいていたわけではない。
彼らは、何とかしてかけがえのない友人をイエス様のもとへと連れて行こうとしました。しかし家の中は満杯で、入ることができない。
どうにも運び込む方法が見つからずに途方に暮れて、彼らは天を仰ぎました。
そして天から再び地上へ目線を映したら、その途中にはっと気づかせられるものがありました。屋根と、そこに上る階段です。
ユダヤの家屋は石造りで、屋上に上れるようになっており、そして屋上の床部分、つまり屋根板もはがしやすい構造でした。
それでも屋根を外して人を吊り下ろすなど、常識と良識から外れています。イエス様が許しても家の主人が許さないでしょう。
しかし彼らは決断しました。
それは、たとえどのような批判を受けたとしても、中風の友を、何とかしてイエス様にいやしていただきたい、その一心でした。
20節をご覧ください。「彼らの信仰を見て」と。少なくともイエス様だけを、この行動を信仰とみなしてくださいました。
たとえ自分の心が自分を責めても、たとえ人の目にはどう映ろうとも、神に近づくこと、あるいは誰かを神に近づかせること、それが信仰です。

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2019.2.24「引き継がれしもの」(ヨシュア1:1-9)

 先週主日の午後、当教会の2019年度定期総会が開催されました。
毎年、総会当日の礼拝説教は、その年の教会目標に関連する聖句から語ることにしています。
今年度の教会目標は「次世代への継承」(申命記1:38)。ただ礼拝説教は、ヨシュア1:1-9から語らせていただきました。
この教会目標はすでに1月末に役員会へ提出したものでしたが、それから二週間後に前任牧師が天に召されました。
何か不思議な感じを思いながら、葬儀および教会総会に臨みました。つつがなく終わりました、と報告しておきます。
私はこれからも豊栄キリスト教会に仕えます。あと、ブログもとりあえず続けます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨシュア記』1章1-9節 


序.
 ちょうど十日前になりますが、豊栄教会の初代牧師であり、私の前任牧師にあたります、若月誠先生が天に召されました。
脳出血で倒れられて、一時回復したのですが、数日後に静かに息を引き取られたとのとこです。
85歳のご生涯でした。そのうちの約三分の一をこの豊栄教会の牧師として過ごされたことになります。
今から18年前に教会を辞されたあと、数年前から群馬県渋川市にあるキリスト教老人ホームにご夫婦で入所しておられました。
その施設長のお話では、二年前に奥様を亡くされてから、「私は千鶴がいなければ何もできない人間なんです」というのが口癖だったそうです。
その割には、最晩年の写真を見ると、真田丸のコスプレだとか、意外とお一人様生活を楽しく過ごしておられたようです。
 私は若月先生が教会を辞されてから約一年の後に、こちらに赴任してきました。
奥の牧師館は、二階が書斎になっていて、何の気なしに押し入れを開けましたら、びっくりしました。
神学生にはとても買えないような、貴重で高価な神学書の数々が、段ボールの中にあるわあるわ。
信徒の方に聞きましたら、若月先生が辞められるとき、次の牧師に使っていただきたいと言って、蔵書を全部置いていかれたとのことでした。
これは当分、説教の準備に困らないな。喜びながら、段ボールから本を取り出して、数日間かけて、本棚にきれいに並べていきました。
ところが数ヶ月後、若月先生から電話がありまして、時間がたくさんあって勉強したくなったから、本全部、マンションに送ってくれ、と。
本棚から一冊一冊を痛めないように取り出し、もとの段ボールに詰めて、宅急便で送りました。
その時に、私はパウロを連想しました。彼は人生最後の手紙の中で、「羊皮紙のもの」を送ってくれと弟子テモテに頼んでいます。
羊皮紙のものとは、旧約聖書、あるいはその注釈書と言われます。引退しても、聖書の学びはやめないという姿勢を見習いたいと思いました。

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2019.2.17「救いは真剣勝負」(ルカ5:12-16)

 2月14日(木)、まつい葬祭会館(群馬県渋川市)にて、故・若月誠引退牧師の葬儀・告別式が行われました。
司式は西山勝美牧師(ベテスダホーム白井城代表)、メッセージは高田泰男牧師(シオンの里代表)でした。
JECAの岩井キリスト教会結城福音キリスト教会の信徒の方々(先生ご夫妻が豊栄教会の前に開拓)。
また地元、渋川カベナント教会(日本聖契キリスト教団)の木暮達也先生(若月先生ご夫妻が礼拝出席。気さくな先生でした)。
その他、交わりをいただいていた方々が最後までお付き合いくださり、感謝にたえません。
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式場入口に、たくさんの写真とお花が飾られていました。スライドショー形式でまとめておきます。


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開式30分前の撮影です。式には、上記4教会やシオンの里の方々など、20名くらいの方々が列席くださいました。
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火葬後、遺品の引き取りのために、ベテスダホーム白井城の居室へお邪魔しました。
入口には、2年前に亡くなられた奥様、千鶴先生のお名前もそのまま残っていました。
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調度品にこだわりが感じられる一方で、死に備えておられたのか、きちんと整頓されていました。
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「いろはにほへと」と毎日復唱しておられたのでしょうか。豊栄には、写真入りの額と置き時計を遺品として受け取りました。

高田先生、西山先生、木暮先生、また岩井キリスト教会と結城福音キリスト教会の信徒の皆様、
生前たびたび訪問くださり、帰りも私を新潟まで送ってくださった渡辺兄姉ご夫妻、
皆様の愛に支えられて、豊栄を辞された後の若月先生は、幸せな18年間を過ごすことができたと思います。
私も明日(2/24)の礼拝説教で、若月先生の思い出を少し語らせて頂くことにしております。
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章12-16節 


1.
 今日の聖書箇所には、「ツァラアト」という言葉が出てきますが、一般にはなじみのない言葉でありましょう。
「ツァラアト」というのは、旧約聖書の言語であるヘブル語そのままの言葉です。かつては「らい病」と訳していました。
らい病、今はらい病という言い方はされず、ハンセン氏病と呼びますが、それは遺伝する病気ではないし、感染力も極めて弱いものです。
しかしハンセン氏病患者は、古来より一般社会から隔離されるという差別のなかに生きてきました。
聖書でいう「ツァラアト」は、らい病に似ていますが、家や革製品にもツァラアトという言葉が使われています。
ですから誤解を防ぐために、らい病という表現をやめて、ツァラアトという発音そのままの言葉とした、という経緯があります。
 ツァラアトがどのようなものであったのか、実態は正確にはわかりません。ただはっきりしているのは、
ツァラアトであると祭司から判断された者は、家族や社会から切り離されて、町や村の外で暮らさなければならなかったということです。
そればかりでなく、もっとひどい偏見も伴いました。この病気にかかったのはその人の罪のためであり、神からのろわれた者として見られたのです。
 12節前半をもう一度お読みします。「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」
まるでツァラアトの人がその町の中にもともと住んでいたか、何気なく入ってきたかのような印象を受けるかもしれません。
しかし彼らは、例外なく、町の外に追いやられ、人々の前に出ることも許されませんでした。
もし町に入ってきたら、石もて追い出されるか、石をぶつけられて大けがをしても決して文句は言えないのです。
 神のことばなのに、その背後には差別があったのか。それを論じることが今日の説教の目的ではありません。
今日、みなさんに問いたいのは、それでも必死に救いを求め、おそらく町の門でイエスに近づくチャンスをひたすら待っていた、彼の信仰です。
そこにあったのは、ただ信仰だけであり、それはこの言葉に集約されています。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」。

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2019.2.10「深みに漕ぎ出せ」(ルカ5:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
2月13日(水)午後0時49分頃、当教会の初代牧師(前任牧師)、若月 誠先生が召天されました。85歳でした。
葬儀は、以下の予定で執り行われます。私も、教会代表として列席させていただく予定です。
日時:2019年2月16日(土)午前10:00より
場所:まつい葬祭会館(〒377-0204 群馬県渋川市白井258 TEL 0279-22-1727)
司式者 西山勝美牧師(ベテスダホーム白井城代表)

報告は、次回の更新の際にさせていただきます。慰めのためにお祈りください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』5章1-11節 


1.
 今日の説教題は、イエス・キリストが、漁師シモンに語られたことばからとっています。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。しかし彼はまず何と答えたでしょうか。
彼は昨晩の失敗体験から学んだことを思い出して、ついこういう切り口から答えてしまうのです。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、 何一つとれませんでした」。
プロの漁師である我々でさえ魚一匹取れなかったのです。どうして元大工であるあなたに漁がわかるのですか。
そんな思いが必ずあったはずです。人は神のことばの前に、まず自分の経験則を持ち出して、やんわりと拒絶します。
私たちを神のことばに逆らわせるのは何でしょうか。それは悪魔でも環境でもありません。私たちの生半可な経験です。
成功体験は、同じことを繰り返せばよいと人にささやきます。失敗体験は、二度と同じことを繰り返してはならないと勧めます。
しかし自分が経験してきたことに頼るならば、神がまったく新しいことをこれからなしてくださるという信仰を心から締め出してしまいます。
 今日、神はあなたに命じられます。「深みにこぎ出せ」。
その「深み」が何を指すのかは人によって違います。しかしそこは、すでにかき回したが、何の結果も生み出さなかったところ。
あなたは言います。「私の経験から言えば、主よ、それは無理です」。シモンの心も最初はそうでした。
しかし経験則を出して神にもの申した彼の人生を変えたのは、その次の言葉です。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。
これは信仰というよりは半信半疑の響きがあります。しかしたとえどうあれ、彼は網をおろしたのです。必要なのは行動です。
 あなたの人生の決断は、今まで自分の成功体験、失敗体験、あるいはそのどちらでもない経験の繰り返しで成り立っています。
こうすればうまくいくはず。そんなやり方はうまくいくはずがない。前例がない。聞いたことがない。
しかしシモンがイエス様のおことばどおり網をおろしたとき、奇跡的な大漁が起こりました。
うれしい悲鳴をあげそうなものですが、彼はそうではありませんでした。いっしょの船にいたイエス様の前に彼は突っ伏します。
そしておそらくイエスと目を合わせることもできずに、ただこう叫びました。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」。

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posted by 近 at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ